北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【増毛町】信砂御料雪崩遭難者慰霊碑

増毛町】「殉難之碑」

事故発生年月日:昭和23年 3月 6日

建立年月日:  昭和23年 7月

建立場所:   増毛郡増毛町信砂御料

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(2014/10/7投稿)

  北海道では函館や小樽など一部の沿岸地域を除き、概ね明治時代の幕開けと共に本格的な開拓が始まっています。

 その”無尽蔵”とも目された豊富な天然資源により将来を有望視されるも当時ほぼ未開であったこの地には、まず開拓の礎を築くべく明治7年(1874年)に北方警備と開墾の任を兼務する「屯田兵」が置かれ、札幌周辺を皮切りにその後内陸各地へと展開されていきました。

 明治新政府軍と旧幕府軍の戦いである戊辰戦争明治元年~2年)に敗れ”賊軍”となったため職や生活の場を失った東北地方の旧藩士など、士族出身者を募って結成されたと言われる初期の屯田兵ですが、その後現在の空知・上川管内地域を中心に年々拡大した勢力は、補充を終える明治32年までの25年間において合わせて37箇所の「兵村」を開き、その人員は合計約7,300世帯・4万人(家族含む)にものぼったそうです。

 とりわけその後半において、北海道庁が誕生した明治19年から本格化する集治館囚徒の手による道路開削が開拓範囲の拡大に大きな貢献を果たしていく背景については、前に『中央道路開削』のエピソードでも触れた通りです。

 しかし広大な面積を持つ北海道にはまだまだ手つかずの土地が多く残っていたため、そこで道庁は対象を本州資本や一般国民にまで広げ、あまねく入植を促すべく一策を講じました。

 その一環として明治30年に公布された「北海道国有未開地処分法」においては「無償貸し付け・成功後無償付与」、つまり”資金がなくても広大な土地が借りられ、その開墾の成果次第では自らの所有地に出来る”という”特典”が人々の関心を引き、思惑通り全国から多くの移民を呼ぶきっかけとなります。

 その中には、潤沢な資金を持ちながらもこの新天地での更なる資産の拡充を目論む個人や団体から、一方貧困やいわゆる”村八分”などの理由により逃げるように”身体ひとつ”でやってきた者まで、様々な事情を持った人々が混在していました。

 この状況は、無償で借入した土地に自らは入植せず、”資金力に乏しい小作人”に住居や農具などを貸し与えて開墾させた上に、その借地料(小作料)によって収入を図る多くの”不在地主”を生み出します。

 後に金銭や労働条件を巡るいろいろな弊害を発生させるこの営農形態ですが、北海道庁としてはそんな”庶民間の些細な問題”などにいちいち考慮することなく、「開拓」という大義のもとにこの殖民政策の推進を加速させたのでした。

 さて、そんなそれぞれの未来を描いて入植した開拓農民たちを待ち受けていたのは、決して甘くない現実でした。

 と言うのも、実際に割り当てられた土地とは人手が加えられたことのない内陸部の林地がほとんどで、しかも先の法律には「限られた期間内において農地等として活用できるべく開墾を終え、なおかつ収穫などの一定の成果を残さないと没収」という条件が設けられていたため、とりわけその初期においては「自作農」「小作農」を問わずおそらく悪戦苦闘の毎日だったであろうことは想像に難くありません。

 それでも苦難の末、未開地を着実に耕地や牧場へと変貌させていった開拓民たちですが、彼らにとって「北海道の自然」という難敵とその後も闘い続けていくことになるのです。

 この地の厳しい気候は時にして、容赦なく大雪や冷害、そして大雨による河川の氾濫などをしばしば引き起こし、被害の度合いによっては年間の収入がまったくない時すらありました。

 それは特に元手や蓄えの少ない農民にとってはまさに死活問題であり、あてのない将来に悲観してやがて土地を放棄、離農した者も少なくないと聞きます。

 そんな”人間の力では抗うすべもない試練”は大正を経て昭和になっても彼らを苦しめ続けますが、その不屈の精神と、治水や農作物の品種改良など技術の進歩により徐々にそれらを克服していきました。

 かくしてもたらされた内陸部にある多くの集落のその後の繁栄は、そんな先人たちの”たゆまぬ努力と挑戦”の歴史の上に成り立っているといっても過言ではありませんが、しかし一方”自然との闘い”に敗れ去り、現在は無住地区となっている場所もまた数多くあるのです。

 まさに開拓期における「光と影」とも言える部分ですが、今回はその後者にあたる、とある集落の苦闘の歴史について触れてみたいと思います。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 留萌市の南西部に位置する増毛郡増毛町(ましけ)には、日本海と海岸まで迫る増毛山地にその両側を挟まれるという地形ゆえに市街地や属する集落が海岸線に沿って細長く点在しています。

 今では、”小ぢんまりとした港町”というイメージにある増毛ですが、その歴史は意外と古く、江戸中期の宝暦元年(1751年)に松前の商人が番屋を設け交易を始めたのが出発点だとされています。

 その後明治20~30年代には、ニシンを初めとするその豊富な水産資源は町の経済を飛躍的に発展させ、増毛は後年留萠にその座を譲るまで天塩国(現在の留萌管内)における行政・経済の中心地、そして管内随一の都会として繁栄を極めました。

 その面積の約9割が森林という地勢的な制約により、経済の主体を水産業に置かざるを得なかったものの、それでもこの地域では明治の中後期頃から従来の畑地に加えて、水源がある地区で果樹の栽培や水田の開発が始まっています。

 増毛市街から海岸沿いに7kmほど上る「信砂地区」(のぶしゃ)はその水田開発の中心地のひとつですが、明治33年の合併により増毛町編入されたこの地には近くを流れる「信砂川」とそれに沿って開削された石狩国雨竜村(現・空知管内雨竜郡北竜町)へと至る山越えの道路が既に通じていたため、沿線には地元資本による小作形態の大規模農場が設けられ明治30年代には着実に耕地の開拓が進んでいました。

 そして、樺戸集治館の囚徒の手により明治25年に完成を見たその「増毛道路」(現・道道94号線)を海岸線から15kmほど内陸奥地へ入った場所に今回のエピソードの舞台となる「御料地区」はあります。

 その名の通り、「御料地」(皇室直轄地)であったこの場所は前述「未開地処分法」の対象外でしたが、明治30年代には他の国有地同様に無償貸し付け(賃下げ)により入植者を募り開拓が”試みられ”ました。

 ”試みる”という表現を敢えて使ったのは、石狩国との境に近い山間部に位置するこの地域ではふもとの信砂とはまるで違う様々な環境が開拓を阻んでいたからです。

 御料地区には信砂川という水源こそありましたが、そもそも耕地には不向きとされる傾斜地であり、周辺を山で囲まれているため日照時間が少ない上、冬場の豪雪によって半年以上もの間土地が使えないという有様でした。

 つまり、せっかく開墾しても安定した収量を期待できる農作物などほとんどないというのが実情だったのです。

 それでも明治38年(1905年)には入植者による20戸の集落を形成していた御料地区では、伐採後の材木を利用した製炭業やわずかばかりの根菜類の収穫、そして小規模な牧畜などでかろうじて生計を立てていたと聞きますが、しかし今後の改善にまったく期待出来ない現状に見切りをつけた人々はやがて次々とこの地を離れていきました。

 その後、下流側の比較的平坦な地域での稲作の開発や酪農業の定着により幾分改善の兆しを見出したものの、その根本的な不安定要素は解消されず、大正時代を経てもこの地区が大きく発展することはなかったのです。

 そして時代は移り、昭和20年(1945年)の太平洋戦争終結後には農業界の革命とも言える「農地解放」という大きな転機が訪れることになります。

 連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の命令により施行されたこの法律は、いわゆる”地主制度”を撤廃、大部分の農地は実際に耕作していた小作人へほぼ無償で譲渡されるというものでした。

 この画期的な農地改革は実質「一握りの地主」が所有する農地を「多くの小作人」の手によって運営するという封建的図式であった従来の北海道の農業事情を大きく変えることとなります。

 加えて、折しも空襲などで焼け出された本州の世帯や大陸などからの引揚者にとって新しい生活基盤の地として期待された北海道には「集団帰農者」と呼ばれる人々が続々と移住することになり、その様はもはや「第2次入植ラッシュ」といっても差支えないほどだったそうです。

 それは既に御料地ではなくなったここでも状況は同じく、戦後まもなく主に大阪の戦災家族や南樺太からの引揚者が入植し20戸(70名)の集落が作られました。

 白紙からの出発を覚悟しながらも「働けばその分報われる」ことを信じてこの”新天地”への定住を決意した人たちですが、先人にさえもその開発をあきらめて放棄されたあまりにも荒れ果てた土地を目の当たりにした時は、さぞかし驚きあるいは落胆したかも知れません。

 当時の新聞における御料入植者に関する記事には、「馬小屋にも劣る住居に身を寄せる家族」への取材に対し、それでも来年へ向けての意気込みを気丈に語る若者の談話が切なくも紹介されています。

 しかし、もはや気合いだけではこの厳しい現実は変えられず、本業のみで生計が立たない住民は、春は「陸揚げニシンの加工」そして冬には「冬山造材」という副業に身を粉にして働きました。

 「造材」とは山林などで伐採した樹木の枝を払い「丸太状」に切り揃える作業のことで、木材は製紙における原材料となるため当時北海道内に多くあった「パルプ工場」などからの高い需要がありました。

 「山で伐採した木材を傷つけずに雪の斜面から滑り降ろし、現地で造材された丸太を馬そりで市街中継地まで運搬する」という一連の工程が効率良く低コストで済んだことから、北海道における「造材作業」はもっぱら冬季に行われていたそうです。

 そして、人手を多く必要とするこの作業には、使用する側そしてされる方としても農閑期の冬場が一番都合の良い時期だったのです。

 そのような状況下の昭和23年(1948年)3月、その年も豪雪に見舞われた御料地区では、集落の若者が信砂川の支流沿いに遡る山奥地「茶茶ノ沢」(茶々沢)での造材作業に精を出していました。

 ここは集落からの直線距離としてはそれほど離れていない場所でしたが、間を隔てる山をかわし信砂川を越えなければならないため、現地へ向かうには一度ふもと側にある川の本支流の合流地点まで下った後、橋を渡って大きく迂回する約10kmの道程をたどる必要があったと言います。

 そんな移動もままならない辺境の地ゆえ、現場には広さ百坪にも及ぶ大きな”飯場”(仮泊所)が造材会社の手で用意され、作業員は造材期間中そこで寝泊りすることになっていました。

 例年よりも増して積雪量が多い最大斜度50度の山のふもとに設営されたこの飯場では、軽微ながらこの年2月初めにも雪崩による被害を受けており、さらに3月に入ってからの連日の暖気がいつ大規模なものの発生を誘発するか懸念されていましたが、現場ではこれといった対策が講じられることはありませんでした。

 現代であればこれほどリスクが高い場所での作業続行はあり得ませんが、おそらく当時の感覚では「起こってもいない災害に怯えて作業を中止するなどもってのほか」であり、一方出稼ぎ労働者側としても苦しい生活状況の中で冬場における唯一の高収入源であるこの職場を放棄する者は一人も居なかったのです。

 然して、ついに恐れていた最悪の出来事は3月6日の未明に起こりました。

 皆が寝静まる午前2時20分頃、なんの前触れもなく山面の幅30m・長さ50mの広範囲において大雪崩が発生、積雪2m以上の雪塊は就寝中の20名の作業員とともに飯場の大部分をあっという間に押し潰してしまったのです。

 この夜半におけるあまりにも突然の大事に災禍を免れた数少ない人々にはなすすべがなく、僻地ゆえに通報を受けた救助隊の到着が遅れたことも災いして、直後救出あるいは自力で脱出した2名を除く18名が帰らぬ人となりました。

 この災害事故においてはその内半数以上である10名の御料地区住民が命を落としていますが、力作業が中心となる造材現場には主に若者が従事しており、御料の犠牲者中8名がまだ10代から20代の若さだったという事実にはとりわけ心が痛みます。

 樺太や大阪で家や財産などすべてを失い、唯一の心の支えであったであろう家族の絆でさえもここに至って絶たれてしまった残された人々の悲嘆の深さは私には計り知れません。

 将来の担い手を失った以上、もはやここでの生活の意義や目的をなくしてしまった一部の世帯はそれから間もなくこの地を去って行ったと聞きますが、他方その悲しみを乗り越えて御料での再出発をあらためて決意する人々が残りました。

 しかし、そんな”気概ある”人々に対してまでも、無慈悲な増毛の自然は更なる試練を課すのです。

 その後、昭和28年(1953年)に始まる冷害による連年の大凶作や、翌年の台風15号洞爺丸台風)がもたらした風害は現地に壊滅的ダメージを与えました。

 これ以上書き連ねるのは私も辛いほどですが、農閑期における環境は更に厳しく、昭和29年以降恒久的に続くニシンの不漁はすなわち副収入の消滅を意味し、そして冬場における唯一の生産物だった牛乳さえも毎年の豪雪によってその運搬手段を断たれてしまったそうです。

 このあまりにも”救いのない”状況に、これまで耐え忍んできた住民としてももはやその限界を超え、昭和38年(1963年)にはついに集団離農を決意するに至ります。

 そして、僅かに残った稲作農家なども、昭和45年から始まる国の「減反政策」(生産調整)の影響により次々とこの地を離れ、昭和50年代には御料地区は完全に無住地帯となりました。

 かくして、幕開けそしてその終焉も国の政策によって翻弄される形になった「信砂御料」の開拓は80年もの長い間続いた苦悩と悲哀の歴史だけが遺されましたが、最後までその苦労が報われることがなかった先人たちに対してはせめてもの労いの言葉を捧げずにはいられません。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この雪崩による遭難者の慰霊碑は道道94号線沿いの小高い丘の上から集落跡を見下ろすように建っています。
 現在では御料地区にある唯一の現役建築物となった町営の「一般廃棄物最終処分場」によって、かつて自分たちが苦労して切り拓いた土地にゴミが埋め立てられている現状を見て彼らは一体何を想うのでしょうか。
 縁故者の減少に伴い、今では訪れる人もほとんどなくなったと言われるこの寂れつつある碑は心なしか悲しそうに佇んでいるようにも見えました。

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碑面

【釧路市】寿小学校交通事故慰霊像

釧路市】「なかよし」像

事故発生年月日:昭和31年 6月29日

建立年月日:  昭和32年 6月29日

建立場所:   釧路市寿1

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(2014/9/21投稿)

  JR釧路駅からほど近い市街地に「釧路市立中央小学校」はあります。

 この小学校は、進む少子化を背景に策定された「小中学校適正配置計画」に基づき、それぞれ100年前後の歴史を持つ「旭小学校」と「寿小学校」が統合のうえ平成19年に新しく誕生しました。

 そして開校後は教室棟・体育館などが順次新築され、平成25年度には旧寿小学校跡地に耐震構造や太陽光発電など最新設備が備わった立派な新校舎が全面完成しています。

 こうしてすべてにおいて新しい環境が整えられた新生中央小学校ですが、ふと見るとその校庭の一角には古びたブロンズ像が建っていました。

 失礼ながら、最新の学校にはやや不釣合いな風情のそのオブジェ、八角形の台座の上には手を繋ぎ楽しそうに輪になって回る3人の子供たちの姿が表現されています。

 そういえば、昔の小学校には「友愛」や「創造」などの校訓をモチーフとしたそのような芸術作品がよく設置されていた記憶がありますが、しかし「なかよし」と銘打たれたこの像の持つ意味合いは他のそれとは少し異っていました。

 実は今から約60年前、学校が面する国道で児童ら合わせて19名が死傷するという前代未聞の交通事故がありました。

 そして悲しくもその被害者の多くがここ寿小学校(当時)の生徒及び関係者だったことから、事故の一年後には犠牲者の慰霊と今後の安全祈願の想いが込められたこのモニュメントが校庭に建立され、周囲の環境がいろいろと変わった現在に至ってもこの一角だけはそのままに置かれているのです。

 それにしても、これほど大勢の人を巻き込んだ事故とは一体どのようなものだったのでしょうか、この悲劇により7名もの幼い生命を一瞬に奪ってしまったのは、まさかにも人命を救うためにあるはずの「消防自動車」だったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 ”高度経済成長時代”の序盤にあたる昭和30年(1955年)頃から、国内では諸産業の事業拡大や多様化に伴いトラックなどの商用車を中心とした自動車の保有台数が急増しています。

 それが自家用車へと波及するのはまだ先の話ですが、このいわば「産業界における車社会化」は、より多くのそしてより早い物流を可能にし国や地域の経済発展に大きく寄与するも、しかしそれは同時に交通事故の多発という弊害を生むことになりました。

 後に”交通戦争の幕開け”と称されるこの時期においては北海道の主要各都市でも同様の問題に直面しており、昭和31年には道内の交通事故による死亡者数がついに400人を突破、全国ワースト3位に初めて名を連ねるという不名誉な記録が残されています。

 そしてそれは、主要港を持つ物流拠点であり、製紙・炭鉱など重工業が盛んな釧路市でももちろん状況は同じでしたが、しかしここには他の都市とは少し異なる事情がありました。

 札幌や旭川のような”道路と共に街並が作られた”内陸部の都市に対して、街が古くから開かれた釧路には”後付け”で設けられた狭く曲がりくねった複雑な道路が多くあり、それらが事故を招く大きな要因のひとつとなっていました。

 この頃は、急激に発展する交通事情にインフラ整備がまったく追い付いておらず、加えて運転者や歩行者にも交通法規の認識がまだまだ定着していないという、いわゆるハード面・ソフト面ともに現代とはまったく比較出来ない未熟な環境にあったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和31年(1956年)6月29日、釧路市街中心部のやや東側に位置する「釧路消防本部」に緊急火災通報が入ったのは午後4時過ぎのことでした。

 市内「鳥取町」の市営住宅にて火災発生とのその通報に際し、規模は不明だったものの出火元がアパートだけに延焼による複数世帯への被害拡大の可能性が想定されたため、消防としては保有する「タンク車」(水槽付ポンプ消防車)4台の出動を決定、直ちに現場へ向かうべく手配されます。

 釧路市街の西側隣接地である鳥取町へ行き着くには、間を隔てる「新釧路川」を渡らなければならないため進行ルートは限定され、緊急出動した車両は市街中心部を縦断する幹線道路「国道38号線」を走行していました。

 釧路から滝川市へと至る延長約300kmの長大路線であるこの一級国道(当時)は道東と道央を結ぶ大動脈たる主要道路でしたが、港湾地域などからの大型輸送車の通行が増えていたにも拘らずその整備は立ち遅れており、市街地における路幅は決して広いとは言い難いものでした。

 そして先を急ぐ4台の消防タンク車はやがて、新釧路川河口に架かる「新川橋」へと向けて左に大きく曲がる「浪花町12丁目三叉路」に差し掛かかっていきます。

 さてその頃、この三叉路のすぐ傍らにある「稲荷神社」には、いつものように紙芝居の続きを楽しみに近所から集まったたくさんの子供たちの姿がありました。

 まるでノスタルジックな映画の一コマのようですが、現代とは違いこの時テレビの放送局がまだひとつもなかった釧路では、このひとときが学校から帰宅し”夕ごはん”までの間における彼らの”お楽しみの時間”だったのでしょう。

 中には、夕食の準備で忙しい母親の代わりに健気にも”近所の乳呑み児”をおぶってあやす子守り中の女児の姿も見られましたが、それも今では目にすることのなくなったその時代ならではの光景と言えます。

 こうして、普段と変わらない日常を過ごしていた子供たちでしたが、やがてその耳に入ってきた遠くから近づいて来る”勇ましい”サイレンの音は、彼らにとって紙芝居の物語の行方よりもっと興味を引くものでした。

 そして、幼い時分の私がそうであったように、この時代でも憧れの存在だった消防車の”勇姿”を一目見ようと三叉路の沿道にはいつの間にか子供たちの人垣が出来たのです。

 それから間もなく、路傍の子供たちがその小さな手を振る中、さながら”凱旋パレード”のごとく消防車は三叉路を”凛々”と駆け抜けて行きました。

 ところが3台までが通り過ぎ、最後尾の車両がカーブに差し掛かった時、思いもよらぬアクシデントが起こったのです。

 消防車の左側前方の路肩を並走していた中学生とおぼしき男児二人乗りの自転車が、ふらつきながら不意に車の直前へ飛び出してきました。

 おそらく、前をろくに見もせず夢中で車を追いかけていた自転車は、未舗装である路肩の悪路にハンドルを取られたか、あるいはいきなり目の前に現れた人だかりをかわす際に運転を誤ったのでしょう、この予期せぬ危険行為に驚いた消防車の運転手はそれを回避すべく咄嗟にハンドルを右に切ります。

 もしこれが直線道路での出来事だったらその後何とか態勢の立て直しが出来たかも知れません、しかしここは左カーブの真ん中、運転手が気付いた時には右方の路傍に並ぶ子供たちが既に目前に迫っており消防車にはもはや避ける術がなかったのです。

 最悪なことに、それでも運転手のハンドル操作によりその向きを進行方向へ戻しつつあった車体は側面方向から路外へ逸脱、思いのほか高かった段差のせいで本線への復帰に失敗した車両は逃げまどう人波を次々となぎ倒しながらそのまま路肩に沿って走り続け、結局その先にあった沿道の店舗に突入するまでその暴走が止まることはありませんでした。

 かくして、不可抗力的な要素はあるものの”人命救助の主役”たる消防自動車が引き起こしたこのあまりにも痛ましい事故においては死亡者7名・重軽傷者12名というまるで悪夢のような惨禍がもたらされるに至ったのです。

 とりわけ悲しむべくは、その犠牲者には幼気な子供ばかりが並び、無情にもその中には背中の乳児とともに事故に巻き込まれることになる実はまだ小学校2年生に過ぎなかったあの”心優しき子守りの少女”の名前もありました。

 然して事故後の現場には、大破した店舗と樹皮を削り取られ真っ白な幹を晒す立木、そして履き主をなくしたたくさんの”小さな靴”が寂しげに残されていました。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この「単独車両によるものとしては当時道内における戦後史上最悪の死傷者を生んだ輪禍事故」の発生要因は、事故後”姿をくらました”二人乗り自転車による危険運転にあることは言うまでもありません。

 しかし序文にて記したように、加えて道路インフラの整備遅れや交通リスクに関する啓蒙の未徹底など、背景にあった未熟な環境が遠因として事故の発生に影響を及ぼした可能性も少なからずあろうかと思います。

 その後、以前より計画はあったものの着工が遅れていた国道38号線の道路拡幅及び周辺整備工事については、この悲劇を受け前倒しで着手されたと聞きます。

 また、昭和24年の釧路市との合併後、住民人口の伸びに伴う火災発生の増加が想定されたにも拘らず消防署がなかった鳥取町には事故から1ヶ月後に「第8分団鳥取出張所」が新設され、市街地の消防本部からその都度車両が出動することはなくなりました。

 そして事故とは直接関連しませんが、幸いボヤで済んだため結果論的には「4台もの消防車の出動は必要なかった」という皮肉な結末を残した今回の市営住宅火災の原因としては、業者の手抜きと指摘されてもおかしくないレベルの”集合煙筒工事”の不備が挙げられ、その後は市による検査基準が厳しくなったと言われています。

 このように、遅きに失した感はあるものの、この悲しい出来事はその後の行政に直接的・間接的を問わず様々な改善を促しました。

 現在の安全で便利な環境の多くは”以前における誰かの犠牲”の上にあるものだとあらためて痛感させられます。

 ただし、道内における交通事故自体は昭和40年代のマイカーブームなどの影響もあって残念ながらその後も年々増え続け、昭和46年には死亡者889人(全国ワースト1位)というピークを迎えました。

 その後は減少に転じ現在は184人(平成25年)までになった交通事故死亡者数ですが、考え方によってはその家族だけではなく、決して癒えることのない悲しみを背負い続ける過去の関係者を含めると事故により不幸に見舞われた人々が減るどころかむしろ年々累積されているとも言えます。

 特異な例外的ケースを除けば基本的に悪意を持って交通事故を起こす人などいないはずで、この事故に関しても、後に業務上過失致死傷罪で送検・起訴された消防車の運転手はもちろん、ついに名乗り出ることのなかった自転車の二人組ですら、小さな子供らを望まぬ死に至らしめる原因を作った自らの行為をおそらく悔やみ猛省したことでしょう。

 しかし、慢心や不注意・技能不足などの本人要因については当然ながら、相手側の突発的動向に対しても注視・即応するスキルが求められ、そしてその責任の所在がどちらにあるとしても、一度起こしてしまうと当人だけではなく関わるすべての人が不幸になることを覚悟しなければならないのが交通事故なのです。

 平成4年(1992年)から始まった一般道でのシートベルトの着用義務に対する意識の定着化やエアバッグなど安全装置の進化により死亡者数こそその減少ぶりが顕著ですが、依然として道内では年間1万5千件近くの事故が発生し、1万6千人余りが負傷している現実が意味するものは、人間側の自覚・心得にまだ改善しなければならない点が多々あるということに他なりません。

 仕事や趣味で長距離移動をする機会が多い私も含めて、自動車や自転車を運転する方、そして歩行者の方も決して自らが当事者になることのないよう共に心がけていきたいものです。

 交通事故で悲しむ人がいなくなる世の中を願う人々の想いを受け、中央小学校の「なかよし像」はこれからも元気に登下校する児童たちをこの場所から見守り続けていくことでしょう。 

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慰霊像

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碑文

【湧別町】機雷事故慰霊碑

湧別町】機雷事故慰霊碑

事故発生年月日:昭和17年 5月26日

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(2014/8/31投稿)

 今回も太平洋戦争時におけるエピソードが続きます。

 この戦争では、多くの軍人・軍属に加えて、約80万人にものぼる民間人が犠牲になったと言われていますが、とりわけその末期においては、米軍による本土空襲や沖縄上陸作戦、原爆投下などに際し莫大な数の一般人が国内で巻き添えとなりました。

 そして、本州・九州や沖縄のそれとは規模こそ比較にならないものの、北海道でも昭和20年(1945年)7月14日~15日両日において道内70以上の市町村が艦砲射撃や艦載機による空襲を受け、合わせて3千名ほどの民間人が命を落としています。(人数には諸説あり)

 この敵襲によって、室蘭市(民間人死亡者数500名余り)・根室町(同400名弱)・釧路市(同200名余り)など、主要攻撃目標とされた太平洋沿岸の都市では軒並甚大な人的被害がもたらされましたが、戦時中北海道内の陸域においてそれに次ぐ規模の”戦没者”を生んだのが実はオホーツク海に面するサロマ湖畔の寒村「下湧別村」(現・紋別郡湧別町)なのです。

 ただし、軍需工場や軍港もなく戦略上の重要拠点ではなかったため米軍の標的にならなかった下湧別には、目前まで敵機が飛来するも幸い空襲の被害からは免れています。

 ではこの何もない閑静な農山漁村で一体何が起こったのでしょうか、それは”見えざる敵”によって送り込まれた謎の爆発物が一瞬にして100名以上の村民を死に至らしめた極めて異質な事故でした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和17年(1942年)5月、日本軍の攻勢により推移していた太平洋戦争は、後に戦局の変わり目として位置づけられることになる「ミッドウェイ海戦」を目前に控え、重要な局面を迎えていました。

 しかし、戦時中とは言え普段とほとんど変わらない生活を送っていたここ下湧別村の漁民にとっては、そんな国家の重大事など知る由もなく、折しもオホーツク海沖合に現れたニシンの大群の行方が目下の関心事でした。

 ニシンの豊・不漁はその年の村民の生活水準にそのまま直結するため、その群の到来に村はにわかに活気づきます。

 そんな5月17日、その日も沿岸では村の漁師たちが総出で網を仕掛けていましたが、その作業中に一人が波間に浮遊する金属製の樽状の物体を発見します。

 そして、素人目から見ても異様な雰囲気を醸し出すその”水に浮く不思議な鉄の塊”がおそらく「機雷」であろうことに彼らが気付くまでにはそれほど時間はかかりませんでした。

 思わぬ危険物の漂着に漁場は騒然となりましたが、「これが機雷であればなおさら放置しておく訳にもいかぬ」との”勇気ある”漁労長指示により網に掛けながらひとまず浜まで引き揚げることにします。

 数十分後、幸い移送途中で爆発することもなく「ポント浜」の砂上に”恐る恐る”陸揚げされた直径約1.2m・長さ約1.5mの機雷と対峙した一同は、まず警察への通報が先決との判断により代表者が市街地にある派出所へと向かいました。

 ところが、その時派出所では村の東側に隣接する「サロマ湖」内で時を同じくして発見された”もうひとつの機雷”を巡って既に大騒動となっていたのです。

 ”国籍不明”の危険物が二つ同時に漂着したこの”大事件”については、一帯を所轄していた「遠軽警察署」を経て直ちに「北海道庁警察部」へ連絡が取られましたが、意外にも警察部からの回答は「所轄署責任において爆破処理せよ」というまことに素気ないものでした。

 実は北海道の特に日本海沿岸地域における浮遊機雷の漂着は当時それほど珍しくはなく、これまでの事例では当該所轄警察署の手によって難なく処理されていたという事実が、先の無関心とも思える本部指示につながる訳ですが、オホーツク側の当地では前例がなく、ましてや爆発物処理の専門知識もない遠軽警察署としてはその対処方法に頭を悩ますことになります。

 その後即刻開かれた署内幹部会議上では「軍の協力を仰ぐ」という策も提案されたものの、遠軽警察署長としては「他の署が自力で処理しているレベルの事案について他所の助けを乞う」などその自尊心が許しませんでした。

 こうして、意地でも地元の手によって行わざるを得なくなった作業は約1週間後の5月26日午後1時に決行すべく、二つの機雷を「ポント浜」一箇所に集め、遠軽警察署の監督の下、その運搬・管理を地元警防団(警察や消防業務を補助する民間組織)に、そして爆破処理を管内にある「生田原銅山」の”発破技師”に依頼することが正式決定されました。

 しかし、この時署長の頭の中ではこれを機にもうひとつの”とんでもない”計画が進行中だったのです。

 ここ下湧別村をはじめとする遠軽警察署所轄管内では普段大事件が発生することもなく、平穏であるがゆえ警察署長の立場としては至って”退屈”な日々を過ごしていました。

 また、生活のため日頃と変わらず農・漁業に勤しんでいる人々が、署長の目には「戦時中にも拘わらず危機意識がない不心得者」のように映ってもいました。

 そこで、この機雷爆破処理作業を一般に公開、爆発の威力を見せることで庶民の「戦意」と「国防意識」を高めると同時に、警察の威信を確固たるものにするべく画策していたのです。

 かくして、村役場などを介し回覧や口コミで村内はおろか近隣地域にまであまねく周知されたこの”一大イベント”は、物珍しさも手伝っていたずらに人々の興味をそそり、更には当日わざわざそのために臨時列車が手配されたこともあって、その日は爆破時刻の午後1時に向けて老若男女合わせて一千人規模の見学者が各地から現場へ向かっていたと聞きます。

 さて、決行2時間前の5月26日午前11時頃、現場のポント浜では遠軽警察署長以下警察官9名と、署長命令によってなかば強制的にもれなく召集された下湧別市街及び近隣集落の警防団員約150名が事前集結していました。

 二つ並べられた機雷を前に、あとは生田原から火薬の専門家が到着するのを待つばかりでしたが、しかしここに至って爆破方法を巡り現場が混乱することになります。

 通常、機雷の爆破処理というのは水中において一つずつ行われるのが定石であり、その日もそれに従って実行される予定でしたが、当日になってその事実を知ることになった漁業本職の警防団からの猛反対を受けます。

 というのも、海中での爆破は一帯の魚介類を死滅させる恐れがあり、それは漁民にとっては明日からの生きる糧を失うことを意味しました。

 彼らにしてみれば死活問題だけに警察側からの再三の説得や恫喝に対してさえ一歩も退くことは出来ず、しばらくの”攻防”の末、漁師たちのあまりの頑強さについに根負けした署長は陸上処理への変更をやむなく了承します。

 粘った甲斐あって勝ち取った結果に安堵した警防団員たちでしたがその代わり、陸上で爆破するには現在近過ぎる二つの機雷を、誘爆させない距離として設定された約50mの間隔まで引き離す作業が待っていました。

 こうして気乗りしないまま予定外の力仕事をする羽目となった彼らの心中には、これらが「既に機能を失った不発弾に違いない」という思いが一様にあったようです。

 発見されてから1週間まったくの変化も見せなかったこの”錆びた鉄塊”に対して徐々に警戒心が薄れていっただろう上に、ことサロマ湖から運ばれてきた方には、実は数日前に”命知らず”な村の鍛冶屋によってあろうことか持ち寄ったハンマーで叩くという危険極まりない試みがなされていますが、結果その衝撃にもびくともしなかったという事実も、「もはや危険ではない」と彼らを暗に確信させる要因になっていたのでしょう。

 それぞれ多忙な仕事が待つ警防団員たちにとって、本業もままならない毎日を無理強いするこの”いまいましい敵”への扱いは、そんな思いもあってか最初と最後では大きく異なっていました。

 初めこそその取扱いには慎重を期され、移動も衝撃を与えないように砂上をゆっくり”引きずる”方法がとられていましたが、この段階では労力を惜しんでか本体にロープが巻きつけられ無造作に”転がされて”いたと言います。

 しかしやがて、鍛冶屋の”無謀な挑戦”を受けていない方、つまりオホーツク海で発見された機雷が、軟らかい砂から馬車道の硬い轍(わだち)の上に転がり出た瞬間…それは既に浜に到着していた気の早い数百名の”観衆”が見守る中で起こりました。

 今まであれほどいかなる反応も示さなかった機雷が、まるでこの時を待っていたかのように火花一閃、大爆発を起こしたのです。

 そもそも軍艦をも爆沈させるほどのその破壊力は当初の想像をはるかに超えるもので、破片は爆風に乗って障害物がない砂浜の中を数百メートルに渡り飛散、傍らにいた警防団員や警察官は言うまでもなく、一応安全を考慮して遠巻きに置かれた一般見学者の多くも無事ではいられませんでした。

 爆発による黒煙が消えた後には、直径10m・深さ3mの穴と共に、周辺に斃れたおびただしい数の人々が残され、そのほとんどは瞬時にしてその命が失われたであろう様子が一目で判るほど現場は凄惨を極めたそうです。

 現場から4kmほど離れた下湧別市街地でさえもその轟音と震動に激しく揺れたと言われるこの前代未聞の機雷爆発事故においては、死亡者112名・重軽傷者112名という未曽有の惨禍を見ることになりました。

 そして、この”公開爆破”を企画した遠軽警察署長や、直前において爆破地点を変更させた警防団の代表者も、その過ちを悔やむ時間すら与えられないままこの日帰らぬ人となっています。

 この大惨事により現場に居合わせた警防団員のほとんどが死傷し、下湧別村は多くの”働き手”を、そして家族にとっては一家の”大黒柱”を一瞬にして失いました。

 「一体誰のせいでこんなことになってしまったのか」…機雷を放った知らざる敵か、現場に丸投げした道庁警察部か、それとも無謀な計画を立案した警察署長あるいは陸上処理を主張した警防団員か…もはやそれをぶつける相手もいない中、人々の行き場をなくした怒りと悲しみだけがポント浜には残されました。

 事故から数日後、浜に残るもう一つの機雷の処理がひっそりと行われましたが、際して警防団が召集されることはなく、そしてもう誰一人としてそれを見に行く者はいませんでした。

 然して、今回遅まきながら札幌から赴いた道庁警察部の専門係官らの手により沖合にて慎重に処理された機雷こそ”本当の不発弾”だったため、それは誰を傷つけることもなく静かに海底へ沈んでいったそうです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この惨劇の顛末を知っている側としては、関わる人物の思惑が絡むにつれ事態がどんどん最悪の局面へ向かっていくその過程には言い知れぬ恐怖感を覚えます。

 前述の通り、その時大勢の人々が現場に向かっていた状況を踏まえると、もし事故発生がもう少し遅かったら、もっと悲惨な結果が待っていたであろうことは想像に難くありません。

 ところで、人災的要因を多く含みながらも、村にとっては不運な出来事としか言いようがないこの悲劇の元凶たる浮遊機雷は一体どこから漂流してきたのでしょうか。

 村内で写真館を経営していた警防団員のひとりがこの日事故で亡くなる前に機雷の姿をカメラに収めており、後日の専門家の鑑定では、その形状・構造などから「旧ソビエト連邦軍の機雷」の可能性が高いとの判断がなされています。

 思えば、事故の前年、昭和16年(1941年)6月に始まったドイツとの開戦に伴い、ソ連は敵潜水艦の襲撃に備えて日本海に面するウラジオストクなど主要港に機雷原を敷設しましたが、その後何かしらの理由によってその内多くが流出、同年11月5日には敦賀⇔朝鮮航路の定期客船である「気比丸」が日本海を航行中、それらの一つに接触し乗員乗客156名の犠牲と共に沈没するという痛ましい事故が発生しています。

 それ以降も日本海朝鮮半島沿岸など広範囲に渡り合わせて50個以上のソ連製機雷が発見されている事実から、流出した中のいくつかが対馬海流に乗り歳月をかけてオホーツク沿岸の下湧別に漂着したと考えられてもまったく不自然なことではありません。

 例に漏れずソ連側はその事実を認めていないので、未だに「”国籍不明”の機雷による爆発事故」という扱いになっていますが、先の「気比丸事故」を含めて相当数の民間人が犠牲になっている現実を想うと、ソ連のずさんな管理体制や事後の無責任な対応には怒りを禁じ得ません。

 さて、その後残された村民には悲しみに暮れることさえ許されない過酷な現実が待っていました。

 事故当時、北海道では初めて適用された「戦時災害救助法」に基づき、わずかばかりの見舞金や葬儀代などの一時給与金が国から犠牲者遺族へ支払われましたが、元々貧村だった上にこの事故やその後の徴兵・戦死により生産年齢人口が激減したため諸産業が軒並み壊滅状態となったこの地域では、戦時中はもちろん戦後に至ってもなお食うや食わずの不遇の生活を強いられることになります。

 しかし歳月が過ぎ、戦後の町制施行により改称された「湧別町」においては、昭和38年に就任した町長が提唱する「酪農近代化計画」や「ホタテ養殖の本格事業化」など”計画生産への移行による産業基盤の安定化”政策が精力的に推進され、それらが定着した昭和40年代から各産業が大きく発展した町は慢性的な財政難からの脱却を遂げるに至っています。

 そして町長は「”空襲等”により亡くなった警防団員」の遺族への補償金である「特別支出金」の支給対象から当時除外されていたこの事故犠牲者の遺族救済のため関係各所を奔走、昭和51年には「戦没者遺族援護法」の一部改正に伴い、給与金(年金)支給をついに実現させています。

 更に、昭和55年には犠牲となった警防団員らに対して「勲記」が授与され、彼らは名実ともに「国の為に戦った戦没者」としての位置づけになりました。

 ただし、”軍事教練の一環”として見学を”義務付けられ”事故の巻き添えになった青年学校生徒など一般人の犠牲者についてはこの戦後補償の対象外とされ、その扱いに明暗が分かれた点では極めて残念な結果になっています。

 それにしても、この町長はもう数十年も経った事故の犠牲者やその遺族のためにどうしてここまで献身的とも言える行動を起こしたのでしょうか…実は彼こそ事故当日、現場へ向かう途中自動車の故障によって集合時刻に遅れたがためにこの災禍から免れた警防団の班長だったのです。

 事故直後に現場へ到着し、多くの同僚・部下の無残な最期の姿を目の当たりにすることになった彼の心中は、衝撃や悲嘆とともにあたかも”自分の身代わり”となって散った仲間たちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか。

 それ故、町の代表者として遺族への手厚い補償の具現化や警防団の名誉回復を果たし、そして事故の尾を引き貧困にあえぐこの町を再興させること、それこそが彼にとっての”使命”であり、あるいは”贖罪”だったのかも知れません。

 氏はそれらをやり遂げた後の昭和58年、急病に倒れ72年の生涯を閉じておりますが、今は心晴れてかつての仲間と再会しているであろうことを願ってやみません。

 

※参考文献「汝はサロマ湖にて戦死せり」(宇治芳雄氏著)


湧別町】「殉難者慰霊碑」

建立年月日:昭和18年 5月26日

建立場所: 紋別郡湧別町緑町

 昭和17年6月5日、現地において合同慰霊祭が執り行われ、そして事故からちょうど一年後には現場のポント浜にこの碑が建立されました。

 その後、経年や波風による碑の傷みが著しくなったため昭和26年には湧別神社地先へ移設され現在に至っています。

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碑面(表)

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碑面(裏)

湧別町】「機雷殉難の塔」

建立年月日:平成 3年 5月26日

建立場所: 紋別郡湧別町ポント浜

 前出「慰霊碑」が移設された後、しばらく浜には事跡を残すものはありませんでしたが、海岸の護岸工事が終わった平成3年には新しく慰霊塔が建てられました。

 ただ、かつて海岸一面に広がっていたハマナスの群生地は町営牧場の牧草地となり、波打際をコンクリートで固められた現在のポント浜からは、当時の名残を見つけることは出来ません。

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碑面

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碑文

湧別町】「機雷殉難諸霊之塔」

建立年月日:昭和35年 5月26日

建立場所: 紋別郡湧別町上芭露

 町内の上芭露(かみばろう)地区では、青年学校生徒や警防団員など計22名の地区内犠牲者を弔うため、昭和29年に地元の寺境内に木碑を建立、その後石碑に建て替えられた昭和35年には「芭露」などテイネイ地区以東地域の御霊も合祀されています。

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碑面(表)

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碑面(裏)

【留萌管内】三船殉難事件慰霊碑

留萌管内】三船殉難事件慰霊碑

事件発生年月日:昭和20年 8月22日

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(2014/8/15投稿)

 今年もまた太平洋戦争の終戦記念日を迎えました。

 太平洋戦争といえばとりわけアメリカ軍との戦いのイメージが強いと思われますが、殊に北海道民としては旧ソビエト連邦(以下ソ連)の存在を忘れることは出来ません。

 一般的には昭和20年(1945年)8月15日が終戦の日として認識されているこの戦争、しかし実際にはその日以降も北海道近辺の樺太や千島列島では不法侵犯者であるソ連軍との戦闘が続きました。

 その結果、歴史上一度もソ連(ロシア)の領土になったことのない北方四島を含む全千島列島や南樺太が武力により占領され、返還されないまま現在に至っているのです。

 そして同じく終戦後の8月22日には、留萌沖の日本海において樺太からの引揚者で満載の船舶3隻がソ連軍潜水艦からの攻撃を受けて相次いで沈没あるいは大破し、おびただしい数の民間人が犠牲になるという悲劇が起きました。

 今にしても怒りと涙がこみ上げてくるこの事件ですが、時代背景を含めて極力冷静に振り返ってみたいと思います。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 戦争も末期、2日前には広島に原爆を投下されもはや日本の敗色が濃厚となった昭和20年8月8日、これまで太平洋・アジア戦線においては中立的立場だと思われたソ連が突如として連合国側に参加のうえ日本に対し宣戦布告、直後には満州国や当時日本領であった千島列島・南樺太への侵攻を開始しました。

 折しも両国間においては昭和16年4月に調印された「日ソ中立条約」(相互不可侵条約)が発効中であり、それを一方的に破棄し相手国に侵略することなど言語道断たる条約違反ですが、ソ連はそれを完全に無視します。

 思わぬソ連の参戦に対し既に青息吐息だった日本軍は抗戦も空しく後退を余儀なくされ、8月9日には米軍により再び原爆が長崎にも落とされたことで、ついには連合国側から突き付けられていたポツダム宣言を8月14日に受諾し無条件降伏をするに至りました。

 その後、日本軍の降伏により連合国側にも順次交戦中止命令が発せられましたが、しかしソ連だけは攻撃の手を緩めることはありませんでした。

 連合国陣営であるはずのソ連に何故そんな勝手な独自行動が許されたのでしょうか、実はこの卑劣極まる軍事作戦の背景にはアメリカとの密約が関係していたのです。

 遡ること昭和20年2月にソ連の指導者スターリンアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの間で交わされた「ヤルタ協定」においては、この戦争の早期終結を図ったルーズベルトソ連に求めた対日参戦の見返りとして、日露戦争によって失った「南樺太の領土復帰」や「満州・朝鮮における権益復活」、「千島列島の領有権獲得」などソ連側の要求を容認する旨が非公式ながら合意されておりました。

 ところが、その直後の4月にはルーズベルトが急死、後任のトルーマン大統領が一転強固な反共産主義方針であったので、密約を反故にされる可能性を恐れたスターリンとしては何としても日本が降伏する前に参戦し、既成事実を作るためにこれらの地域を早急に実効支配する必要がありました。

 片や、連合国側を主導するアメリカとしても今やソ連を敵対勢力と見なしていたものの、そもそも自国の前大統領がスターリンに要請したのが事の発端であり、この段階では名目上味方であるソ連を強制的に阻止するまでの理由がないため、ヤルタ協定対象地域内においてはこの暴挙を事実上黙認したのです。

 また一説ではこれが、戦後における日本とソ連の接近を防ぐため、「領土問題」という禍根が残るようアメリカ側が謀った一策とまで言われています。

 このような大国間の欲得的思惑により、戦争が終わってもなお侵攻を続けるソ連軍に際して各日本人居留地は大混乱を極め、避難民が奇禍に見舞われこととなります。

 それは日露戦争後のポーツマス条約(明治38年調印)によって、賠償金代わりにロシア(当時)から正式に日本へ割譲された「南樺太」でも状況はまったく同じでした。

 石炭・石油などその天然資源の豊富さゆえ有望な新天地として期待されていた南樺太は、大企業によって炭鉱・製紙工場などが建設されてから急激に発展が進み、昭和20年には40万人以上の民間人が居住していたと言われています。

 もちろんソ連側から見て奪回すべき最優先地域のひとつであったこの地でも、8月11日には北樺太との国境線において本格的な戦闘が始まっていますが、駐屯していた国境警察隊や陸軍守備隊の応戦により、かろうじて敵の進撃を水際で食い止めていました。

 しかし多勢に無勢、防衛線を破られるのも時間の問題だと思われ、沿岸地域からの敵上陸も予想されることから居留民の即時避難が急務と悟った樺太庁長官の命により民間・軍用を問わず脱出用の船舶が対岸の北海道稚内などからも緊急召集されます。

 かくして出発口である大泊港(おおどまり)には避難を求めて樺太各地から殺到した数万の人々がごった返していましたが、時節の折、避難用に準備出来た船舶数が大小合わせて十隻余りとそれほど多くなかったため、ひとまず女性・子供・老人を優先して乗船させることになりました。

 距離にして160km弱、地図上では近くに見える稚内港ですが、実際の航行には片道8~9時間かかっており、船上の人々にとってはその時間は更に長く感じたことでしょう。

 所要時間的に各船一日一往復しか出来なかったため決して捗々しいとは言えなかったものの、地道なピストン輸送により、それでも最終的には避難が始まった8月13日から守備隊降伏後の「島外移動禁止令」が出される8月23日までの11日間で島民8万人弱が樺太から命からがら脱出しています。

 しかしその頃、避難民が続々と到着する稚内では彼らをそこから陸路移動させる手段に頭を悩ませておりました。

 当時稚内には鉄道(宗谷本線)こそ通じていたとは言え、そのかかる時間や便数の少なさから考えても、数万レベルの人々の速やかなる移動を実施することなど現実的に無理だったのです。

 そこで一部の引揚船については受入先を小樽へ変更させる方法が考慮されました。

 幸いにして、もっとも危険が想定された大泊⇔稚内間の航行において敵からの攻撃を受けておらず、この先は本土近海を南下するのみだったのでもはや安全だと思ったのでしょう、多くの人々が小樽行きを希望したと聞きます。

 だが、本当の危険水域は違う場所にあったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

【小笠原丸殉難】

 逓信省所有の「小笠原丸」(1,404トン)は国産初の電纜(でんらん)敷設船として、戦争末期は稚内樺太間などの海底ケーブル敷設作業に従事、稚内港で終戦の日を迎えましたが、直後豊原逓信局長からの要請を受け樺太在住の逓信省関係者及び家族の避難を支援すべく8月17日には稚内を出港、対象引揚者約1,500名の本土輸送に一役買っています。

 当初の任務はひとまずこれで完了したのですが、樺太の窮状に際し引き続き一般引揚者の輸送を引き受けた小笠原丸は折り返し再び大泊港へ向かうことになりました。

 そして到着した8月20日には女性・子供を中心とした1,500名ほどの避難民を乗せ大泊を出港、翌日稚内で約900名を下船させた後、一路小樽を目指します。

 危険水域を無事に抜けたことで緊張感から解放された乗員や引揚者には、いよいよ小樽が近づくにつれ、おそらく安堵の表情が浮かんでいたことでしょう。

 ところが、航路の2/3を過ぎたあたりの増毛沖合約10kmの近海において、その希望が絶望に一変する事件が不意に発生しました。

 8月22日午前4時20分頃、小笠原丸は突然出現したソ連軍潜水艦の狙い撃ちに遭い、魚雷の被弾によりあっという間に沈没してしまったのです。

 就寝中の時間帯で起こったこの事件、攻撃を受けてから沈没まで数分の時間しかなかったため、ほとんどの乗船者は脱出することも出来ずに船と運命を共にしてしまいましたが、かろうじて海上の漂流物につかまっていた数少ない生存者たちも浮上してきた敵艦の機銃掃射を受け次々と散っていったと聞きます。

 何故交戦地域でもない日本海、それも近海に敵がいたのでしょうか、ソ連南樺太や千島列島だけでは飽き足らず、実は留萌と釧路間のラインを境にした北海道北東部へ侵攻・占領する計画をその時着々と進めていたのです。

 そして8月24日に予定された作戦決行日を前に上陸地点である留萌近辺の沖合には前哨部隊たる潜水艦が偵察目的で展開されていました。

 つまり、小笠原丸は知る由のない敵の作戦水域内に入ってしまったため、謂れのない攻撃を受けるという悲運に見舞われたのです。

 その後、敵の執拗な攻撃から何とか難を逃れたほんの一握りの生存者は救命艇で増毛町別苅(べつかり)の浜に上陸、通報を受けた町役場職員は住民と協力のうえ沖合での救助活動を行いましたが新たな吉報が届くことはありませんでした。

 やがて、増毛の海岸には物言わぬ亡骸が次々と漂着し、そのほとんどが女性や幼気な子供たちだったことから、周辺はやりきれない悲しみと怒りに包まれたと言います。

 この事件では、大半の避難民を助けることが出来なかった責任を取り、増毛上陸前に自ら命を絶ったとも言われる船長を含む乗員57名・避難民約580名が犠牲となり、生存者はわずか62名に過ぎませんでした。

 かくして、かつて長崎沖で難破したロシア客船を救助し多くの人命を救った「小笠原丸」は、あろうことかその後継国ソ連の手にかかり日本海の露と消えていったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

【第二(号)新興丸殉難】

 「第二(号)新興丸」(2,577トン)はもともと民間会社所有の貨物船でしたが、戦時に際して海軍に徴発され、単装砲や爆雷などの武装が施された「特設砲艦敷設艦」として主に北方における船団護衛や哨戒任務に従事しました。

 そして千島得撫島(ウルップ)への食糧輸送任務の途中で終戦を迎え、稚内へ帰港後、他の船と同様に樺太引揚の支援に回ることになったのです。

 不休のピストン輸送を繰り返し、本土帰還に際しては既に三度の貢献を果たしていた新興丸でしたが、8月19日晩には4回目となる輸送を敢行すべく大泊港に到着、その後船体のトラブルにより一日遅れとなったものの、約3,500名の引揚者を乗せ8月21日に大泊を離れた船は、混雑を極め受入が困難な稚内を避けて小樽港を目指すことになりました。

 当時としては新型エンジンを搭載していた船は途中難もなく順調な航行を続け、8月22日午前5時頃には今や”認識なきも最高危険水域”となった留萌沖にさしかかります。

 その時、装備されていた電波探信儀(レーダー)には正体不明の船舶が捉えられていましたが、小一時間前に起こった小笠原丸の悲劇など知る由もない新興丸は、それらが今まさにこちらへ向けて雷撃せんとするソ連の潜水艦であるとは思いもよりませんでした。

 かくして、発射された魚雷に気付き回避行動を取るも時既に遅く、新興丸は右舷側面の船倉付近に被弾、更に浮上した2隻の敵潜水艦が砲撃・銃撃を加えてきたため、艦長命令により必死の応戦を開始しました。

 引揚船からのまさかの反撃にひるんだのか、あるいは新興丸の砲撃によりダメージを受けたのか、ほどなく敵艦は再び深く潜航したため最悪の事態は免れ、そして深手を負ったものの機関室の無事により自力航行が可能だった新興丸は、通報により駆け付けた水上偵察機の護衛を受け、最寄りの留萠港に何とかたどり着くことが出来たのです。

 しかし、魚雷の直撃を受けた第2船倉や、直後の敵の銃撃により甲板上にいた多くの人々が命を落とし、その数は行方不明者と合わせて約400名とも言われています。

 ほとんどの人が助からなかった小笠原丸事件と比較すると被害が少なかったようにも思えますが、逆に親子が死に別れてしまうケースが多く、留萠の小学校(国民学校)の校庭にひとまず安置された母親あるいは子供の亡骸の傍から決して離れようとしない残された人々の姿はとても見るに忍びない光景だったと言います。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

【泰東丸殉難】

 「泰東丸」(887トン)は民間会社所有の貨物船ですが、終戦前後には樺太から食糧を積出しするよう軍からの要請を受け小樽を出港、8月17日には大泊に到着しています。

 ところが、入港した泰東丸には思いもよらない任務が待っていました。

 というのも、その任務とは米など本来の積荷の他に「引揚者を可能な限り乗船させて小樽へ向かう」という彼らにとっては”寝耳に水”の内容だったからです。

 冒頭に記したように、この頃は避難民を脱出させるためになりふり構わず船を招集していたので、中には軍の要請によりなかば強制的に引揚支援に従事させられた例があったのかも知れません。

 この要請を当初は拒否した泰東丸船長でしたが、樺太の逼迫した状況を受け、あるいは軍からの”強い説得”に抗えず、最終的には引き受けることになりました。

 こうして、”予定外の船荷”を満載した貨物船泰東丸は8月21日に大泊を離れたのでした。

 その後、敵襲にも遭うこともなく航海は平穏無事に進みましたが、鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)沖を航行中の翌22日朝、海上に漂う大量の木片や乗船者の携帯品などを発見した甲板上は騒然となります。

 これらは他船(実際は第二新興丸)における明らかに尋常でない事態の発生を示していましたが、前の2船と同様ここに至り「敵の攻撃」を想定していなかった泰東丸は、「浮遊機雷接触事故の遺留品」であろうと判断、航路を幾分本土寄りに変更した上で慎重に先へ進むことにしました。

 しかし、その時船は”魔の海域”の真っただ中にあったのです。

 そしてしばらく経った午前9時50分頃、突然右舷前方に潜水艦が浮上、泰東丸に向かって砲撃を始めました。

 対して、これをアメリカ軍の臨検に際する威嚇射撃だと思い直ちに停船した泰東丸は、戦時国際法に則り「白旗」を掲げ、”抵抗の意志がない”旨を相手に伝えます。

 ところが、その潜水艦はそれを無視、無抵抗の船に狙いをすまして更に激しい砲撃を加えてきました。

 それは米軍ではなく、先行の2隻の引揚船に対しても残忍な攻撃を行い壊滅的損害を与えたソ連軍の潜水艦だったのです。

 容赦ない砲撃や機銃掃射により、甲板上の人々は次々と斃れ、船体に大きなダメージを受けた泰東丸はやがて二つに折れるようにして、667名の生命と共に沈んでいきました。

 この事件の生存者は113名、海上を漂流しているところを、稚内から大湊へ向かうため付近を航行中であった海軍海防艦に発見・救助されています。

 他船と同じく、泰東丸の乗船者も女性・子供が中心であり、銃撃から難を逃れたものの漂流途中で力尽きた者も少なくなかったそうです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この事件については現ロシア政府もその関与を認めていないため、公式には未だに「国籍不明」の艦による所業とされますが、旧ソビエト崩壊後に公開された公文書記載内容によってソ連太平洋艦隊第1潜水艦艦隊所属の「L-12」と「L-19」の2隻がその実行犯であることが現在明らかになっています。

 事件海域においては、8月22日午後0時、つまり三船最後の泰東丸事件の約2時間後に発令された北海道占領作戦の中止命令に伴い、近辺でのソ連軍の軍事行動が凍結されたと言われています。

 実はこの作戦中止の背景にもソ連アメリカの激しい駆け引きがあり、簡単に言えば「ソ連が北海道北東部の占領を断念する見返りに千島全島の領有を黙認するが、さもなければ中千島の得撫島に米軍基地を置く」とのトルーマン大統領の通告を最後はスターリンがやむなく呑んだ形となりました。

 ソ連としては北海道占領の既成事実を盾にして、領有権に関する戦後処理方法についてアメリカ側から最大限の譲歩を引き出すことが当初の目的だったと思われますが、初動(参戦)の遅れにより北海道上陸が果たせず、結局ヤルタ協定合意内容以上の成果を残せなかったことをスターリンは相当に悔やんでいたと聞きます。

 そのような事実背景から察する個人的な考えとしては、この三船殉難事件の裏側には北海道占領作戦をアメリカの介入により断念させられた形となったソ連側の”腹いせ”的要素が働いたとしか思えません。

 事件発生時は中止命令発令前につき当初作戦の遂行中だと思われておりますが、これから敵国本土侵攻の奇襲をかけようとする国が、その決行前においてわざわざ上陸地点付近の偵察部隊に航行中の船舶を片っ端から攻撃させるなどという作戦を果たして立てるでしょうか。

 そもそも「白旗」を掲げた民間船に攻撃を加えるなど論外の上、漂流者へ向けた執拗な追い打ちや、小型船に対しては魚雷を使用せず砲撃・銃撃によって時間をかけて葬り去るなど、それはもはや本来の作戦に基づく軍事行動ではなく、撤収することを知っている者がその前にまるで置土産のごとく、面白半分に無抵抗の人々をいたぶっているような印象しか感じられません。

 であれば、第二新興丸からの反撃を受けた時に意外なほどあっけなくその場から離脱した理由もうなずけようというものです。

 もし憶測通り、鬱憤晴らし的に事が実行され、落とさずに済んだ生命が奪われたとしたらこれほど許せない話はないでしょう。

 しかし現実にソ連占領後の各地においては、実質アメリカが立案・制定した「ポツダム宣言」第9条(在外邦人や武装解除兵士の即時帰還の保証)をまるで無視した日本兵ら捕虜に対するシベリア連行・強制労働従事や居留民への鬼畜な所業など数々の蛮行がソ連軍によって平然と行われており、これらの条項違反行為には「我が国抜きで勝手に発せられた宣言など一切考慮する必要なし」とのソ連アメリカへ対する”当てつけ”あるいは挑発という側面があったことは否めません…かくてその矛先がすべて日本人へと向けられたのです。

 それにしても、たとえ戦時の命令であれ目の前の無抵抗の女性・子供に対して躊躇なく手をかけるまでに人間はかくも残酷になれるものなのでしょうか。

 ただそれも現代から見た日本人としての感覚の話であり、大陸系の多くの国々はいにしえから隣国間における血塗られた歴史を経て今に至っています。

 地続きであるだけに「相手を滅ぼさないといずれ自分たちが滅ぼされる」とばかりに一族郎党や民族そのものが情け容赦なく根絶やしにされ、その目的の達成のために”狡猾”かつ”残虐”なあらゆる手段が長い間、当たり前のようにそして徹底的に行使されてきました。

 ましてや、旧体制のロマノフ朝を血に染まった革命で倒した後、「反革命政権」との熾烈な内戦、そして1930年代における共産党内の対抗勢力数十万人の大粛清などと、誕生から30年も経たない国内の歴史だけを見ても絶えず自国民を殺戮してきたソビエト連邦にとっては、日露戦争やシベリア出兵の仇である日本人の生命など、ほんの少しも気にかける訳がありません。

 そのような国が、”国際条約を破り”、”突然他国に侵略し”、”弱者を平気で虐殺し”、そして”その事実を認めない”のも当然のことだと残念ながら認識するべきなのです。

 結果を知る者が遡って過去の施策を批判するのは”禁じ手”ながら、後の被害が極めて甚大・悲惨なことから敢えて申せば、「この時既に欧州の周辺各国とのあらゆる不可侵条約を一方的に破棄し侵攻していたソ連を最後の最後まで信頼し、講和に依存するあまり降伏時期に関する情報を察知された挙句、事もあろうに対日参戦のタイミングまで与えてしまった」という戦争末期における日本の外交方針についてはあまりにも愚かであったと言わざるを得ません。

 その結果が「大陸居留民の厄難」や「シベリア抑留」、そして「三船殉難事件」を招いたのです。

 それから時代は移り、現在ロシアとの関係改善が取り沙汰されていますが、最近のウクライナ情勢を見ても”根本部分”は何ら変わっていない印象を受けました。

 もちろん友好関係を持つことがいけないとは言いませんが、それならなおさら相手国の思惑の本質を見誤ってはなりません。

 相手が求めることを与えるだけの関係が”友好”ではないのです。

 少なくとも「本当の敵を知らず利を与えた上に裏切り行為を自ら促してしまった」あの時のような浅はかな外交だけは絶対に繰り返して欲しくないものです。

 それが、この事件で無念にも日本海に散っていった1,700余名の御霊にせめてもの報いる途(みち)だと個人的には思っています。


増毛町】「小笠原丸遭難者殉難之碑」

建立年月日:昭和27年11月22日

建立場所: 増毛郡増毛町暑寒沢104(暑寒沢墓地)

 この碑は増毛市街地から少し山側にある町営墓地に建立されました。

 碑の裏には北海道庁増毛町の他、建立年に設立された「日本電信電話公社」(旧逓信省)の名前も見えます。

 この事件では現在に至るも多くの御霊が海に残されたままですが、一方回収されながらも身元不明である20柱の遺骨がここに眠っています。

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碑面(表)

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碑面(裏)

増毛町】「小笠原丸殉難之碑」

建立年月日:昭和25年11月22日

建立場所: 増毛郡増毛町暑寒沢104(暑寒沢墓地)

 前出「遭難者殉難之碑」の隣に建つ「小笠原丸」の乗員を祀る慰霊碑です。

 小笠原丸と同様、電纜敷設艦であった「釣島丸」(昭和16年竣工)と「千代田丸」(昭和23年竣工)の乗員の手によって昭和25年に建立されました。

 ちなみに当時電気通信省所属だった両船は同年に勃発した朝鮮戦争時には米軍から日韓海底ケーブル修理の命を受け、韓国釜山において北朝鮮軍の攻撃を受けながらも命がけの任務を遂行しています。

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碑面(表)

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碑面(裏)

留萌市】「樺太引揚三船殉難平和の碑」

建立年月日:平成 7年11月15日

建立場所: 留萌市大町2

 この碑は留萌の観光スポット「黄金岬」そばの大変見晴らしの良い高台にあります。

 もともとは昭和37年、留萌市内と日本海が一望出来る「千望台」に「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」が建立されたのが始まりですが、経年による損傷が激しいため平成7年にはあらたに「樺太引揚三船殉難平和の碑」として生まれ変わったこのモニュメントが同地に建てられました。

 その後、高齢となった関係者が供養に赴くには不便という声もあり、平成22年に現在の場所へ移設されています。

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碑面

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碑文

留萌市】「三船殉難之墓」/「殉難碑」(第二新興丸)

建立年月日:昭和49年 8月18日/昭和27年 8月22日

建立場所: 留萌市沖見町6(市営墓地)

 前出「千望台」へ向かう途中にある市営墓地内に建立されています。

 三船の中でも特に留萌市に縁の深かった「第二新興丸」の犠牲者を祀った碑です。

 ここでも毎年8月22日には慰霊祭が執り行われているそうです。

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三船殉難之墓

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殉難碑

小平町】「三船遭難慰霊之碑」

建立年月日:昭和50年 8月22日

建立場所: 留萌郡小平町字鬼鹿広富

 この碑は「泰東丸」が沈没した地点に近い小平町鬼鹿の海岸ふちに建立されています。

 ここは道の駅のパーキングエリアに隣接しているため、多くの観光客がこの碑を目にしていると思います。

 こうしてより多くの人にこの史実を知って頂きたいものです。

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碑面

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碑文

【釧路市】共栄小学校炊事遠足事故慰霊碑

釧路市】「炊事遠足被災児童慰霊之碑」

事故発生年月日:昭和40年10月 5日

建立年月日:  昭和52年10月 5日

建立場所:   釧路市西港1

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(2014/7/19投稿)

 「炊事遠足」…私にとっては懐かしい遠足と調理実習を兼ねたこの学校行事は、聞けばなんでも北海道(及び東北の一部)以外では行われていないそうです。

 クラスを班分けした上で、遠足先においてそれぞれに決めた献立を自分たちの手で作って皆で一緒に食べるという、言うなれば楽しい中にも自主性と協調性を培う教育の一環として実施されるこの催しであるはずも、ただ実際には段取りや調理方法を巡って班内の女子と男子が揉めるのが”お決まり”だった思い出があります。

 ちなみに私が生まれ育った内陸部の旭川市では近くに川が流れる森林公園などでよく行われたものでしたが、太平洋岸の釧路市の場合はもっぱら湖のほとりや海辺の砂浜がその会場になっていたと聞きます。

 今回のエピソードの舞台となる「新富士海岸」もうってつけの場所のひとつとして、かつては釧路市内の小中学校に多く利用されておりました。

 野外における普段は経験出来ないイベントに浮かれて不注意からの小さなケガなどはあっても、およそ大事故に発展するイメージにないこの炊事遠足、だが約50年前の釧路ではその最中に考えられない悲劇が起こったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和40年(1965年)、時は高度経済成長の真っ只中で、釧路市の経済を支える漁業・炭鉱・製紙などの各産業もまだ活況を呈していました。

 「もはや戦後ではない」と言われてから既に10年ほど経ち、戦時中の暗く辛かった記憶も確かに薄れつつあった時代の話、市街地から程近い共栄小学校では6年生を対象とする秋の炊事遠足が今年も催される運びになりました。

 新富士海岸への遠足は共栄小学校としては昭和33年から続く恒例行事であり、おそらく学童たちにとってももっとも楽しみなイベントのひとつになっていたことでしょう。

 そして、いよいよ待ちに待った遠足当日の10月5日午前、学校から4kmほど歩き海岸に到着した計357名の6年生たちは班ごとに分かれ、めいめい持ち寄った食材を用いた昼食作りの準備に入ります。

 そんな中、6年1組のとある班では女子が真面目に料理の下ごしらえをしていた一方、男子たちはと言えば協調性はどこへやら海岸に沿って散策に出かけました。

 どの時代も男子の考えることは同じようなもので、私もじっと座って調理をするなんて性分ではないため、ほったらかしで友人と悪ふざけをしていてよく教師に怒られたものです。

 さて、”探検開始”からほどなくして少年の一人が波打ち際に打ち寄せられていた見慣れない物体を発見、それは直径36cm・長さ65cm位の鉄製の円筒で、ちょうど小さめのドラム缶のような形をしていました。

 その錆びた物体の側面には大きな裂け目があり、そこから中を覗き込んだ少年の目には内部に突き出た細い棒の他は何も映りませんでした。

 それが何か知る由もなかったものの「椅子におあつらえ向き」と思った好奇心旺盛の彼はその缶を回収して一度調理場所に持ち帰りますが、やがてそれにもすぐに飽きてしまいます。

 ところが、その置き去りにされた缶を他の目的で使用することを思いついた別の少年がいました。

 10月ともなると海風も肌寒くなっており、調理用に用意された七輪では暖を取るには物足りなかったため、近くで釣り人が灯油の一斗缶を用いていたのと同様にその缶をストーブ代わりにしようと考えたのです。

 かくして、その物体の裂け目からは炭や枯れ枝、焚き付けの紙くずなどが詰め込まれ点火されましたが、その10分後には想像を絶する恐ろしい結果が待っていました。

 その得体の知れない物とは、実は太平洋戦争中に旧日本軍が敵潜水艦攻撃用として使用していたカーリット爆雷の不発弾のなれの果てだったのです。

 側面に穴が開いていたため中身はほとんど空だったものの、一部残っていた炸薬あるいは「ただの棒に見えた」信管部の起爆薬が反応したのかも知れません、熱せられた爆雷は突然大音響とともに破裂し、その破片は10m四方に飛び散りました。

 その爆発の威力たるや凄まじく、近辺にいた数十名が一瞬にして倒れ込み、たちまち辺りはうめき声と悲鳴が響く凄惨な現場と変わったのです。

 教師たちや傍らにいた釣り人によりすぐさま救助活動が開始され、負傷者は救急車で市内の病院へ緊急搬送されましたが、最終的には至近から破片の直撃を受けた児童4名が命を落とし、31名が重軽傷を負うという大惨事となってしまいました。

 時刻は午前10時30分を過ぎていました。

 朝には笑顔で子供を送り出してから数時間も経たない内に思いもよらない連絡を受けた親たちは、病室で対面した変わり果てた我が子の姿に言葉を失い呆然とする他なかったと聞きます。

 しかし、そんな20年前の忌まわしき爆発物が何故その時海岸にあったのでしょうか。

 当初はまだそれが何か判別出来ていなかったので、昭和20年7月14~15日の釧路空襲時に落とされた米軍の焼夷弾という説や、翌10月6日には現場から約1km離れた海岸で更に一回り大きな同様の物体が見つかったことから「何者かの手によってそれらが意図的に置かれたのでは?」との憶測が飛び交い、周辺地域はしばらく混乱を極めました。

 その後、地元警察や陸上自衛隊第5師団(帯広)、更には警察庁科学警察研究所の調べでこれらが旧日本軍所有の爆雷の類であることが判明しています。

 時代を遡れば、終戦直後の昭和20年11月には、釧路に進駐してきた米占領軍の命令により、接収された弾薬・爆弾など8,000トンが沖合28kmの海中に投棄されている事実がありました。

 あるいは『日連丸・白雲遭難』のエピソードでも触れているように、戦争末期にはこの海域においても駆逐艦と敵潜水艦との間で熾烈な攻防戦が繰り広げられていたので、もしかするとその時の遺物が20年の時を経てここに流れ着いたのでしょうか。

 直前に通過した台風27号の影響で高さを増したうねりが、海流や地形の関係でもともと漂着物が多かった新富士海岸にこの”招かれざるもの”を運んできた可能性も否定出来ません。

 その原因については結局明らかにされていませんが、いずれにせよこの悲惨な事故によって失ったものは戻りません。

 当時、事故報道を受けて全国から多くの義捐金や見舞金が寄せられたものの、しかし釧路市長や市議会が時の政府に求めた「国としての補償」は戦後20年の歳月が障壁となりついに実現を見ることはありませんでした。

 亡くなった方やその遺族、そして命こそ助かったものの重い障害が残った罪なき子供たちはこの悲しみや怒りを一体誰にぶつければ良いのでしょうか。

 事が起きた時には、責任を負うべき者はもう誰もいなくなっていたのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 事故から4年後の昭和44年(1969年)、釧路西港の開発計画に伴い新富士海岸一帯が埋め立てられることになりました。

 現在、周辺に工場や油槽所が建ち並ぶもう海岸ではなくなったこの事故現場には臨海公園が作られ、その一角に建立された慰霊碑が公園で遊ぶ子供たちを見守っています。

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碑面

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碑文

【釧路管内】公務員殉職慰霊碑

釧路管内】公務員殉職慰霊碑

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(2014/7/12投稿)

 北海道で生活するためには長く厳しい冬を避けて通ることは出来ません。

 ただし、「日本海側」「太平洋側」「オホーツク海側」に大別される道内それぞれの地域における冬の気候には大きな違いがあります。

 今回のエピソードはその内の「太平洋側」に関するものですが、当地の年間降雪量は実はそれほど多くなく、雪が多い「日本海側」と比べると、最大(最深)積雪量・累積降雪量ともに平均約3割程度に過ぎません。

 しかし、概して12月~2月に連続して雪が深々と降り積もる”豪雪地域”に対して、太平洋側はいきなり短期間にまとまった降雪をもたらすいわゆる”ドカ雪”に見舞われるケースが多いのです。

 それは時として強風を伴った猛烈な吹雪となり、数年に一度には人的被害が出るほどに深刻な災害が発生しています。

 記憶に新しいところでは、平成25年(2013年)3月に爆弾低気圧がもたらした暴風雪の影響で、根室管内中標津町他では車内に閉じ込められた母子など計9名が亡くなるという痛ましい悲劇が起きました。

 普段雪が少ない地域における突然の大雪には、現代でも対応に苦慮している訳ですから、事前情報の乏しい昔は今よりはるかに難儀したであろうことが容易に想像出来ます。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 釧路管内の旧道脇には公務員(属する人も含む)の殉職慰霊碑が3基建立されています。

 時代や場所、職種はそれぞれ違いますが、共通点はそのいずれもが”昔々”に起こった大雪を原因とする公務中の死亡事故にまつわる碑であるということです。

 釧路市厚岸町根室市など道東の太平洋岸地域は、その海路が早く開かれたこともあり古くは江戸時代から漁業を中心に栄えましたが、一方で陸路の開発は遅れ、釧路⇔根室間の鉄道開通は大正10年まで待たなければなりませんでした。

 それ以前の陸路移動はもっぱら整備の行き届いていない劣悪な道路を馬車あるいは徒歩で進むしか方法がなかったのですから、不便なことこの上なく当時の人々の苦労が偲ばれます。

 各々の慰霊碑に祀られている3名の公務員は、このような状況で冬道を徒歩移動中に猛吹雪に遭い殉職している訳ですが、不穏当な表現ながら「気象の状況判断を誤った結果の単なる遭難事故」とも思えるかも知れません。

 しかし、当時の時代背景などと照らし合わせてみると、遭難・殉職に至るまでの間接的理由の一端がぼんやりながら見えて来るのです。

 これらの碑にはいずれにも「自らの命を捧げて職責を全うした”公務員の鑑”」へ対する各所属の上部組織からの賛辞が並べられています。

 もちろん彼らの功績を否定するつもりは毛頭ありませんし、あらましを知った人が心動かされ自らを顧みる機会になればそれに越したことはないでしょう。

 ただ、中には犠牲的精神の尊さのみを取り上げて”美談化”、あるいは後に明らかに話が”独り歩き”している例もあって、時代の行政などによる”何かしらの意図”が見え隠れしていることにはちょっとした違和感を覚えます。

 何故殉職せざるを得なかったのか…この御三方は今祀られている自分を見て、果たして”誇らしく”思っているのでしょうか、それとも…。


浜中町】「坂口尚政巡査殉難慰霊碑」

事故発生年月日:明治16年 2月15日

建立年月日:  昭和57年 9月

建立場所:   厚岸郡浜中町琵琶瀬

 道道123号線(通称:北太平洋シーサイドライン)沿いにある浜中町琵琶瀬(びわせ)パーキングエリアの展望台から臨む景色はとても風光明媚なもので、南側は太平洋を、そして北側は霧多布湿原を一望というまさに360度のパノラマを楽しむことが出来ます。

 その敷地内の一角には”立派”な慰霊碑が建っており、背面に刻まれた碑文には今から約130年前にこの地で起きた警察官の殉職事故についてのあらましが記されておりました。

 私としては、三県一局時代唯一の警察官殉職事例らしいこの出来事に関する詳細を知りたく各所で調べてみましたが、まだ地元新聞も発刊されていない時代のこと、あいにく記録されている資料はほとんど見つかりませんでした。

 そこで、碑文及びこの事にわずかに触れている「浜中町史」の記載内容と、当時の時代背景から参照し、憶測交じりの文章に起こしてみたいと思います。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 時は明治16年(1883年)2月15日、猛吹雪の中、うら寂しい山道を歩く二人連れがありました。

 一人は囚人”某”、そしてもう一人はその護送の命を受けた厚岸警察署の坂口尚政巡査その人です。

 一行はこの囚人の裁判が行われる根室を目指し、悪天候の中をついてその朝厚岸を発ったのでした。

 当時、厚岸には民事や軽微な刑事事件のみが扱われる「治安裁判所」(現在の簡易裁判所に概ね相当)しか設置されておらず、重犯罪事件の処理のためには「始審裁判所」(現・地方裁判所)がある根室まで都度赴かなければなりませんでした。

 厚岸⇔根室間といえば道程にして約120km、徒歩なら晴天時でも2泊を要する行程となりますが、区間内の駅逓は「浜中」「初田牛」「落石」の3箇所しかなく、その内最も厚岸寄りの「浜中駅逓」までの距離が約40kmであったことを考えると、日の短い真冬、それも悪天の中を移動するなどまるで無謀としか言いようがありません。

 だが、折からの大雪と時化により馬や船を使うことは不可能、そしてこの地域はまだ電信の扱いがなかったため根室との連絡も取れずという状況にあっては、予定日時まで確実に囚人を送り届けるためには、この日誰かが徒歩で向かうしか手段がなかったのです。

 それにしても、この任務がいかなる状況であれ数日の遅れすら許容されないまでに厳粛なものだったのでしょうか、もちろん裁判の手続き等その後の流れを滞らせることのないよう期日厳守が基本でしょうが、それ以上に現代からは理解しがたいその時代ならではの所以が裏側にあったと個人的には思います。

 例えば、折しも警察を管轄する「内務省」と裁判所が属する「司法省」は警察権力拡大(軽犯罪裁判権の裁判所から警察への移管)の是非を巡って当時激しく対立しており、そのあおりで警察と裁判所の関係は決して良好とは言えませんでした。

 気象状況に鑑みることなく、このような自殺にも等しい行為を強行した背景には、もしや「裁判所へは決して借りを作ってはならぬ」との警察上層部からの下命により、所轄署においては護送の遅延など断じて許されないという止むに止まれぬ事情があったのではないでしょうか。

 このタイミングで万一”失態”を演じれば、既得権を死守したい司法省側により「”多少”の悪天候レベルで職務遂行に遅れが生じるような覚悟の足りない組織に重要な権限を委譲することなど到底出来ない」との攻撃の口実に事例が利用されかねませんが、しかし逆にもし「履行が極めて困難な状況の中、警察官の犠牲を払ってまでも任務を果たすべく最善を尽くした」ケースが生まれた場合には交渉時における攻守の立場が逆転するかも知れません。

 現代の感覚からすると「完遂の可能性が低いのを知りながら任務を強行した結果、裁判進行における”最重要人物”たる囚人を失うばかりか部下にまで犠牲を強いた」とあればその責任を厳しく問われるのは必至であり、上司としても判断には当然慎重にならざるを得ないことでしょう。

 しかし、今とはまったく比較にならないほど安全や人の生命自体が軽んじられていたであろうこの時代においては結局、「護送などとても出来る状況にはなかった」ことを「その敢行」で立証するという極めて不条理で理不尽な決断が下されたのです。

 かくして誰かが決死の覚悟をしなければならない状況で、10名ほど居たと言われる所属巡査の中から若くて体力のある坂口巡査が志願もしくは抜擢され、警察組織としての威信(あるいは体面)がかかった困難な任務についた様子が想像されます。

 さて、他の誰よりも天候の回復を心底祈ったであろう、戻る道もなく出発した二人には厳しい現実が待ち受けていました。

 風雪はますます強くなる一方で、厚岸から30kmほど道なき道を進み琵琶瀬の山道にさしかかった頃には既に陽は暮れていました。

 目標の浜中駅逓までにはまだ相当の距離を残す中、もはや向かうべき方角さえも判然としなくなっていた坂口巡査はついに前進を断念、傍らに立つ大木の陰に雪洞を作りその中で状況が好転するのをひたすら待つこと以外もはや取れる手段はなかったのです。

 だがその願いも空しく、その夜荒れ狂う嵐が治まることはありませんでした。

 そして、ここにたどり着くまでにすっかり疲れ果てていた二人はやがて二度と目を覚ますことのない深い眠りへ落ちていったのです。

 その後、二人が根室に到着していない事実を知った警察は近辺住民の力を借りて道中を捜索、雪に埋もれた彼らが見つかったのは出発から6日後の2月21日でした。

 発見時の坂口巡査は「死んでも離さぬ」とばかりに自分と囚人とを繋いだ腰縄の一端をその腕に幾重にも巻きつけ固く握りしめていた一方で、自分が着ていた外套を囚人に羽織らせていたそうです。

 「命尽きるまで”職責を忘れず”任務を果たした責任感の強さと”慈愛”に満ちあふれた精神」に同僚たちは大いに涙したと伝えられていますが、おそらく実際には確実に近づく「死」を意識せざるを得ない状況の中、もはや身分など何の意味を持たない哀れな境遇に同じく置かれた者同士として、むしろ最後は”凶悪犯”と巡査という立場を超え”同類相憐れんでいた”のかも知れないと思うのは少々穿り過ぎた想像でしょうか。

 厚岸と浜中の境に新しく「璃瑠瀾駅逓」(リルラン)が開設されたのはそれから一年後の明治17年2月、そして厚岸・根室間で電信が通じたのは明治18年のことでした。

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碑面(表)

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碑面(裏)

厚岸町】「税務属井上耕介君殉難碑」

事故発生年月日:明治41年 3月 6日

建立年月日:  大正 2年 4月

建立場所:   厚岸郡厚岸町片無去

 ここに明治41年(1908年)3月発行の「釧路新聞」があります。

 その紙面には同年3月6日から数日間にかけて釧路管内だけでも50名以上の死傷者を出したとされる”未曽有の暴風雪被害”に関する一連の出来事が報じられています。

 極めて悲惨な災害事故のルポルタージュながら、時折ユーモラスな要素をも織り交ぜたその一風変わった記事は、もしかするとこの年1月末から3月末までの実質2ヶ月間、釧路新聞社の記者として勤務していた「石川啄木」の手によるものかも知れません。

 彼自身もこの大災害関係の取材をきっかけに「つくづく釧路が嫌になった」と日記に書き残しています。

 さて、そんな記事の中のひとつに、現・厚岸町片無去(カタムサリ)と標茶町阿歴内(アレキナイ)間の旧国道上における、若き釧路税務署職員の殉職に関する一報がありました。

 ”空前の被害状況”の中における一件として扱われているこの遭難事故ですが、彼の殉難にも時代背景と無関係ではない要因が実はあったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 日露戦争明治37年~38年)の勝利で大いに沸き返った日本国内ですが、講和の結果ロシアから賠償金を得ることが出来ないと知るや世論は一変、戦時中二度に渡り実施された増税(非常特別税)により疲弊していた国民の不満が爆発し、東京では民衆による焼き打ち暴動が起きています。

 というのもこの非常特別税は地租(固定資産税)の他、日々の営みに直接影響する酒税や織物・砂糖消費税などの間接税を標的に増徴を実施、庶民生活を相当に圧迫するものだったからです。

 しかし、当時の金額で17億円とも言われる巨額な戦費を捻出するため外国からの借款に大きく依存していた日本政府として、いよいよ賠償金も確保出来ない現状にあっては、その償還にあてる財源をこの際国内にもあまねく求めるしか方法がなかったのです。

 時の政府は先の増税に加え、たばこや塩、樟脳(しょうのう)などの専売制度を改定あるいは新設して国の即時増収を図るも満足な補填に至らず、明治41年1月末にはあらたな増税案を議会へ提出しました。

 それは暫定措置だったはずの非常特別税を据え置きした上に、さらに麦酒や酒精飲料・石油類・たばこなども増徴追加品目とする、もはや一般庶民の消費財すべてが増税対象といっても過言ではない内容でしたが、この法案は議会であっさり承認可決され、1ヶ月半後には公布・即日施行という現代ではおよそ考えられないペースで推進されることになります。

 しかし、そのためにまずつらい局面に立たされたのは現場の税務署、特に間接税を扱う間税係の職員でした。

 とりわけ地方においては特別税や専売制度変更による混乱もまだ収まっていない状況の中、この歓迎されるはずもない新税法についての担当地域内関係各所への通達・指導など、事前準備を今後1ヶ月程度で完了させなければいけないという過酷な職務が待っていました。

 ましてや、その東側へはまだ鉄道も通じておらず、移動だけで数日間を要するような広大な地域を担当する真冬の釧路でそれを遂行するのは極めて困難だと言わざるを得ませんが、あくまでも国の決定事項であるため特例は許されなかったのでしょう。

 そのような状況下の明治41年3月初旬、釧路税務署間税係所属の井上耕介税務属は、自分と同様に忙殺を極める釧路専売局の職員二人と連れ立って、厚岸へ出張に赴いています。

 改定対象品目が多岐に渡り処理に難儀したものの厚岸における業務にひとまずの区切りをつけた彼らでしたが、井上税務属はおそらく翌日以降の予定消化あるいは残務整理のためか一旦釧路へ戻ることとなり、単身徒歩で帰途につきます。

 3月6日の朝、折からの悪天候により既に相当降り積もっていた雪の中、出発点である厚岸郡太田村で出会った小間物商及び郵便配達夫と道中を共にすることにした氏でしたが、前述の通りその日から猛威を振るい空前の被害を呼んだ”大風雪”がその時目前に迫っていたのです。

 こうして太田を発つも間もなく吹雪に見舞われ前途多難な移動を始めた一行は、かなりの時間を費やしながらもなんとか最初の駅逓「片無去」にたどり着きました。

 ここ連日の激務で体調を崩していたのか、あるいは札幌からの転勤者にとっては過酷すぎる気象条件だったためか、この時既に目に見えて体力を消耗していた井上税務属でしたが、税法改正の日が迫る中もはや一日たりとも無駄に出来ない切羽詰まった状況に気力を振りしぼり、次の駅逓「阿歴内」へ向かう決断をします。

 しかし無情にも、歩き出した三人にはますます強くなった風雪が容赦なく襲いかかり、やがて歩を進めることがまったく出来なくなってしまった疲労困憊の税務属を前にして、一同は今後取るべき行動の選択に迫られることになりました。

 他の二人はそれぞれ商売道具の荷を抱えている身なので天候及び道路状況を考えると更に他人を負って移動する余裕はなく、また井上税務属にしても道すがら出会っただけの二人の”足手まとい”になるのはもちろん本意ではなかったことでしょう。

 官吏たる自尊心がそれを許さなかったのかも知れませんが、敬虔なクリスチャンでもあったという彼の「人となり」からするとむしろ、自らのせいによる”共倒れ”を案じて二人だけで先に行くよう強く申し入れた可能性が高いものと想像されます。

 かくして業者たちは苦渋の決断の末、所持していた毛布と食糧を託した後、氏を残して阿歴内へ向かったのでした。

 もっとも、今から思うに位置的には阿歴内より確実に近い片無去駅逓へ戻って救助を求めるという手段を何故選ばなかったのか疑問に残るところではありますが、ここではその点の事情をも含めて皆納得した上での結論であったと推察することにします。

 その後、やっとのことで阿歴内に到着した二人からの通報に基づき人夫の手を借りた救助隊が出動したものの、もはやなすすべもない程猛り狂う暴風雪を前にして捜索断念の決断が下されるまでにそれほど時間はかかりませんでした。

 そして1週間後の3月13日、嵐が去った現場付近では、新聞の伝えるところ「2.4mを超える積雪上」にわずかに確認出来た”目印”の下から無言の井上税務属が見つかっています。

 発見の決め手となったその目印とは、木の枝の先にくくり付けられた紺色の脚絆でした。

 おそらくそれは、自らはもう助からないと覚悟の上で、持っていた重要書類が後任へと早く託されるべく、彼に残された最後の力をもってなされたのでしょう。

 3月11日には33回目の誕生日を迎えるはずだった井上税務属、その日までには無事に帰って来ることを信じ待ち続けたまだうら若き妻の祈りは届きませんでした。

 氏の遭難についての詳細を伝える3月18日付釧路新聞の記事の隣りには、奇しくも彼が命を落とす遠因となった「新税法発表、即日施行す」との見出しがありました。

 

※慰霊碑建立地にある説明文と内容に異なる部分がありますが、当時の新聞記事に個人的憶測を加えたものとして御理解ください。

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碑面(表)

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碑面(裏)

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案内板

釧路町】「故吉良逓送人殉職紀念碑」

事故発生年月日:大正11年 1月20日

建立年月日:  大正11年10月20日

建立場所:   釧路郡釧路町宿徳内

 先の2件の殉職例は、言わば”目まぐるしく変化する時代”に翻弄された結果での犠牲という見方も出来ますが、このエピソードに関してはむしろ逆で、事後において世間を動かすことになります。

 気象の状況判断の誤りと実直な気質が災いとなった職務中の事故が、その時代に都合の良い解釈をもって「責任・使命感の発露」、そして「滅私奉公の象徴」となりました。

 おそらく本人も面食らったであろうほど完全に”独り歩き”を始めたこの出来事、これもある意味”時代に翻弄された”という言い方が出来るかも知れません。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 大正11年(1922年)、この年の釧路はいつにも増して寒い冬を迎えていました。

 1月28日には釧路の観測史上最低気温である氷点下28.3℃を記録しています。

 そんな凍える雪の夜のこと、吉良平治郎逓送人は日常業務である郵便逓送のため、その日も約16km先の昆布森村(現・釧路郡釧路町昆布森)へ向けて釧路郵便局を発ちました。

 「逓送人」とはいわゆる郵便配達人と違い、郵便局間における郵便物輸送を請け負う人のことを指します。

 吉良逓送人は、友人の知り合いである郵便局の請負人にその日頃からの勤勉実直さを買われ、臨時逓送人として一昨日にこの仕事に就いたばかりでした。

 若い頃から左手足が少し不自由だった氏としては、身体のせいで重要な業務を滞らせるおそれを心配して最初はこの依頼を固辞したものの、ちょうど仕事に困っていた折、友人や家族からの後押しもあり引き受けることにしたのです。

 その日、1月19日はあいにくの大雪で、当日の逓送業務を見送るよう勧める郵便局側からの助言に対し、生来生真面目な気質の吉良逓送人は「まだ3日目にあって、この程度の天候で仕事を断念するのは不本意」とばかりに、吹雪にも拘わらず平時通り真夜中の業務を遂行したのでした。

 彼は先住民族出身ということもあって道東特有の”気まぐれな”気候についての知見があり、経験上おそらくこの天候も治まるはずと予測していたのかも知れません、だがその夜の大雪は地元民の読みを狂わすほど”性悪”なものだったのです。

 さて、出発から6km付近で靴が破れてしまい左足が裸足同然となる不測の事態が発生するも、逓送人は痛む足をかばいつつ宿徳内(シュクトクナイ)まで何とかたどり着きます。

 しかし、折からの風雪は治まるどころか苛烈を極める一方で、昆布森まであと4kmを残すこの地点でいよいよ立ち往生、もはやこのまま前進することは不可能と判断した彼は、背中から降ろした郵便物入りの行嚢(こうのう)を自らの外套でくるみ、更には携行していた木杖に手ぬぐいを結び付けた”目印”を立てた後、枝道を下った先にある宿徳内の集落まで救助を求めるべく歩き出しました。

 露出した左足は既に凍傷がひどく、そのうえ足代わりの杖を失った状態ではろくに歩けるはずもありません、既に腰の高さまで達していた”雪の壁”が行く手を阻む絶望的な状況の中、それから100mほど進んだ地点で彼はついに力尽きてしまったのです。

 日付は変わり1月20日になっていました。

 その後、「吉良逓送人いまだ到着せず」の報を受けた郵便局関係者は地元青年団や役場職員の力を借りて経路沿線を捜索、1月25日には2m近い積雪の中、立ち尽くしたままの姿で事切れた氏が発見されたそうです。

 然して、”傷だらけ”の彼が残したその目印のおかげで本人より先に見つかった行嚢と中の郵便物はしっかり守られまったく”無傷”のままだったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 地元新聞報道から端を発したこの壮絶な殉職劇はたちまち全国に知られることになり、大きな反響を呼びました。

 折しも「満州鉄道アヘン問題」や「東京市疑獄事件」など公僕による汚職・腐敗に関する事件が世相に暗い影を落としていたため、一方この”命を失ってまでも公務を全うした崇高なる精神”に対しては全国各地から当時の金額で四千円以上という多額の義捐金が寄せられています。

 この慈善行為を貶めるつもりはまったくありませんが、明治時代から比べると国民の暮らし向きはずいぶんと改善され、都市部には第一次世界大戦による特需の恩恵を受けた富裕層が増えていたので、この頃には他人の美挙に感動・共感する精神的、そして金銭的余裕も少しは生まれていたのでしょう。

 早くもこの1ヶ月後には逓信省”全面協力”の下、東京の「活動写真」会社がこのドラマを題材にした映画製作のため現地入りして撮影を開始、「逓送人の亡骸にすがりついて号泣する郵便局長の姿」や「涙の義捐金伝達式」の場面を挿入するなど”多少の脚色”をもって完成した作品「吹雪の夜」はその年の内に封切されたのでした。

 その後、昭和5年(1930年)発行の高等小学校向け第3期国定修身教科書には「責任」の項目でこのエピソードが取り上げられていますが、満州事変直前の折、国が全体主義体制に傾きつつある時代背景においては、我々国民が「責任」を果たすべき対象はまず「国家」である旨の刷り込み教育がなされていたそうです。

 また太平洋戦争が始まった昭和16年に作られた逓信省推薦の紙芝居「責任」では、なんと昭和天皇がこの功績を大いに偲んだ”英霊”として描写されました。

 基本的に描かれている内容はどれにも大差はなく、事実から大きくかけ離れている訳ではないのですが、ちょっとした”色付け”や表現の違い、あるいは発信する側の意図によって、印象や結論付けがずいぶん変わってしまうことには驚かされます。

 こうして、吉良逓送人が遺したものはその時代の思惑により様々な形となって人々の記憶に残りました。

 ただ思うに、個人が権利のみを主張し、企業や政治家などが”表面的”な責任を取り繕っている現代こそ、今は忘れ去られつつあるこの出来事が持つ意味を顧みる必要があるような気もします。

 もっとも、そんなものを氏が望んでいる訳もなく、これも”感動的な史実”を都合よく”利用”していることに何ら変わりありませんが…。

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碑面(表)

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碑面(裏)

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案内板

【苫前町】三毛別羆事件犠牲者慰霊碑

苫前町】「熊害慰霊碑」

事件発生年月日:大正 4年12月 9日~10日

建立年月日:  昭和52年 7月 5日

建立場所:   苫前郡苫前町三渓

(2014/7/2投稿)

 今回紹介するエピソードは、大正初期に発生した苫前村(現・留萌管内苫前郡苫前町)で10名もの住民が殺傷された悲惨な事件ですが、その凶行に及んだのは人間ではありません。

 それは国内最大の陸上動物エゾヒグマが真冬の北の大地で引き起こした他に類を見ない最悪の獣害事件でした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 大正の時分、苫前村の市街地から30kmほど内陸奥地に入った三毛別六線沢(さんけべつ ろくせんさわ)には、近くを流れる三毛別川に沿って15~16戸が点在する縦長の集落がありました。

 付近一帯は開拓促進のため賃下げされた御料地(皇室直轄地)であり、東北地方などから来た”将来に夢見る人々”が入植して農業を営んでおりました。

 おそらくは入植前に想い描いたであろう”豊かな生活”とは程遠い現実ながらも、開拓農民が平穏な毎日を過ごしていたおよそ大事件とは無縁のこの集落を、大正4年(1915年)の冬、突如としてとんでもない悲劇が襲ったのです。

 12月9日の午前10時30分頃、集落上流側の一軒で最初の惨事は起こりました。

 朝から仕事で出払っていた家主が昼食をとるため帰宅した際、留守番をしていた男児が何者かに惨殺されているのを発見、更には一緒にいたはずの内縁の妻が行方不明になっていたのです。

 殺害現場の状況や屋外の雪上には山林まで続く引き擦り跡があったことから、犯行は人間の手によるものではなくヒグマの仕業であり、妻は”獲物”として連れ去られたものと推察されました。

 実はこの事件より10日ほど前には、集落内の別の民家の近くに巨大なヒグマが再三現れ、銃で反撃するも取り逃がすという出来事が起こっています。

 この時期のエゾヒグマは通常”穴ごもり”に入りますが、たまに冬眠し損ねる個体もおり、そんな通称”穴持たず”の熊は空腹のあまり、普段は襲わない人間にさえ手を出すほど凶暴であると当時は恐れられておりました。

 翌12月10日朝の集落では、ふもとの村役場や駐在所に事を知らせるために選ばれた住民代表が徒歩で出発、一方で行方不明女性の安否確認のため約30名の捜索隊が結成され、残された手がかりを基に山林に入りますが、いきなり件のヒグマに遭遇、銃で応戦したものの整備不良による不発などの不手際もあり、またも逃げられてしまいます。

 その後、近辺の捜索によって既に変わり果てた姿になった女性を発見、一行はその亡骸を回収してひとまず集落に戻ることにしました。

 しかし、結果的にはこの行為が第2の惨劇を誘発する要因になってしまいます。

 その夜、最初の事件が起きた家では亡くなった2名の通夜がしめやかに行われていましたが、その最中になんと再び同じヒグマの襲撃に遭っています。

 ヒグマには自分の所有物に異常なまでに執着を持つ習性があり、この場合は”一度得た獲物”である女性を奪回すべく本能のままにとった行動だと言えます。

 余談ですが、この習性については後年昭和45年に起こったいわゆる『福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件』でも裏付けられることになり、所持品のリュックサックの奪還を巡って執拗にヒグマに追われた大学生3名が犠牲となっています。

 さて、いきなりの襲撃にパニック状態になった通夜会場でしたが、万一のために銃を携行していた参列者の反撃により、幸いにもケガ人を出さずこの場から追い払ったことに一同はひとまず安堵します…がしかし、実は熊は逃げ帰ったのではなく、その足で約500m下流側にある別の一軒を襲い、今度はその住民を”牙にかけた”のです。

 その民家には、連絡のためふもとへ赴いた前出住民の妻子3名も含め、女性・子供を中心に10名が避難していました。

 当然ながら集落の男たちがここの警護にも当たるはずでしたが、先の通夜での騒動により全員が上流側の現場に駆け付けたため、まるで無防備となった中での不意の出来事でした。

 熊除けのかがり火にも臆することなく家に突入した熊は情け容赦なく中に居た住民に襲いかかり、暗闇の室内は一瞬にして阿鼻叫喚の修羅場と化します。

 今度は下流側での尋常ではない様子を察した男たちは慌てて戻ったものの、時既に遅く、幼児3名・女性1名(及び胎児1名)が死亡、他3名重傷という想像を絶する惨禍を目の当たりにすることになりました。

 そして、ふもとでの通報を終え翌日(12月11日)帰途についていた連絡係の住民は、安全な場所に避難させたはずの妻子全員に関わるまさかの悲報を帰還直前で知るところとなり、その場に泣き崩れたと言います。

 もはや完全に人間を”獲物”として認識し、火をも恐れない巨大ヒグマに対して、集落にある貧弱な武器では到底太刀打ち出来ないと悟った住民は、役場経由で隣村羽幌の警察署(増毛警察署羽幌分署)に応援を要請、さっそく苫前・羽幌両村の有志が集結して大がかりな討伐隊が組織されました。

 こうして早期解決を期して12月12日から本格的に開始された討伐作戦でしたが、ヒグマをおびき寄せるために打ち出された諸策はことごとく空振りに終わり、討伐隊本部は状況打開に頭を悩まされることになります。

 翌13日には苫前から遠く離れた旭川の陸軍第7師団に異例の出動要請をしているところからも、その焦燥感が感じ取れます。

 その頃、討伐隊の目の届かぬ場所では、そんな彼らをあざ笑うかのように件のヒグマが住民退避後の無人民家を次々に荒らし、飼育されていた鶏を食い殺すなどやりたい放題に暴れ回っていました。

 しかし、悪運も尽きたのか”傍若無人な振る舞いの度を越えた人喰熊”はその晩の移動中、ついに討伐隊に発見され一斉射撃を受けます。

 闇夜の中の銃撃ゆえ命中精度が高くなかったこともあり、致命傷を負わせるまでには至らなかったものの、雪上に残る血痕は確かな手応えを裏付けていました。

 そして世が明けた12月14日早朝、いよいよ最終決戦に臨むべく10名の選抜討伐隊は残された痕跡をたどり山林へ向かいます。

 果たして手負いの熊は山林の中腹で傷の養生をしていましたが、風上である山麓方向から接近する討伐隊の存在には既に気が付いている様子でした。

 然して臨戦態勢に入ろうとしたその時、立て続けに2発の銃声が響き、あれほどしぶとかった巨熊は心臓と頭部を貫かれあっけなく絶命します。

 それは途中から討伐隊に加わった”誰よりもヒグマの習性を知り尽くした熊撃ちの名人”が風下方向への単身迂回の末、背後の至近距離から放った”会心の一撃”でした。

 ようやく仕留められたエゾヒグマの個体は体長約2.7m・体重約340kgのオス(推定年齢7~8歳)で、目近に見るその規格外の大きさに一同はあらためて戦慄を覚えたそうです。

 こうして、合わせて死亡7名・重傷3名の被害者を出し、12月12日からの3日間で延べ600人の討伐隊を動員したこの最大の獣害事件は、ただひとりの男の2発の銃弾によってその幕引きを見たのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 一頭のヒグマによって未曽有の災難に見舞われたこの集落のその後は平和と安寧を取り戻した…という訳にはいかず、大切な家族や生活の目標を失った人々は深い悲しみを背負い、相次いでこの地を捨て他所へ去っていきました。

 それから長く経たず、開拓当初の六線沢集落は三毛別川最下流側のただ1戸を残し無人地区になったそうです。

 また、事件終結最大の功労者である”孤高の熊撃ち名人”は、その後も”マタギ”(猟師)として第一線での活躍を続け、昭和25年に92歳で亡くなるまでの生涯において仕留めた熊は300頭を下らなかったという伝説を残しています。

 そして、この惨劇の生き証人となった当時7歳の少年は、後に犠牲者の仇討ちと追悼のため”羆撃ち”になることを決意、実質猟師となった昭和5年から足かけ48年の歳月を費やし宣誓通りに100頭のヒグマを”退治”しています。

 この目標が達成された昭和52年には、自らが施主となり”犠牲者との約束を果たすため”三毛別(現・三渓)の神社境内に慰霊碑を建立しました。

 事件発生から実に62年後、当時の少年は68歳になっていました。

 それから8年後の昭和60年、彼は事件70周年の記念式典での講演中に突然倒れ、波乱に満ちた77年の生涯を終えています。

 この獣害事件によって大きく運命を変えられた少年は、その人生の最後の瞬間まで事件と縁を切ることが出来なかったのです。

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碑面(表)

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碑面(裏)