北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【根室市】5・10災害海上遭難者慰霊碑

根室市】「海上遭難者之碑」

事故発生年月日:昭和29年 5月10日

建立年月日:  昭和30年 5月10日

建立場所:   根室市琴平町1

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(2016/4/23投稿)

  昭和29年(1954年)、北海道地方は未曽有の”暴風災害”に見舞われています…と言えば、歴史に造詣の深い人なら誰しもがその年9月の「洞爺丸台風」をまず思い起こすことでしょう。

 9月26日未明に九州に上陸後、発達しながら日本列島に沿って日本海を急速に北上した台風15号はその日の内に北海道に接近、秒速40mを超える猛烈な風は、世界の海難史にその名を残す程の犠牲者(1,139名)を生んだ青函連絡船洞爺丸転覆事故」を、そして市街地の家屋の約8割を焼き尽くしたと言われる「岩内大火」を引き起こしました。

 北海道の歴史上まさに空前の人的被害を呼んだこの台風災害ですが、しかしそれから遡る事4ヶ月半、同年5月9日から10日にかけて北海道を通り抜けた低気圧によって道東地域を中心に壊滅的被害がもたらされた事実については意外とあまり知られていません。

 気圧の中心示度が「952ミリバール」と、実は台風15号(956同)よりも低かったとされるこの今で言うところの”爆弾”低気圧は北海道上陸後に急激に発達、猛り狂った風雨は進路上にあった森林や集落の家屋をことごとくなぎ倒し、最後には道東の海域において操業中の漁船に”牙”を剥いたのです…そしてその多くが突然に襲いかかった風と波から逃れる事が出来ませんでした。

 道東地区の漁業関係者にとっての「昭和29年の悲劇」とは、洞爺丸台風ではなくこのいわゆる「5・10災害」の事を指すのです。

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 北海道内では釧路と並んでトップレベル、そして全国でも屈指の水揚量を誇る「根室港」において組織的な漁業が始まったのは漁業協同組合が設立された明治45年(1912年)だと言われています。

 対馬海流(暖流)と千島海流(寒流)が行き交う近辺の海域はいにしえより豊富な水産資源に恵まれ、沿岸で獲れるサケ・マス、ニシン、タラ等の海産物は町の経済を潤しましたが、草創期の漁獲高は所詮北海道全体のそれの1割程度に過ぎませんでした。

 まだ物流手段が発達していない時代、消費地から遠く離れる当地においてはそれも致し方ない事でしょう、しかし水産物の長期保存を可能にする「缶詰技術」が地元に導入されてから情勢は一変します。

 この革新的技術は従来の海産物に加えて、これまで”捨て置かれていた”カニの市場を発掘、またとりわけ人気が高かった”サーモン”の缶詰は海外へも輸出され、”グローバル的需要”もが高まった業界は加速度的に活況を呈する事になりました。

 それに伴って魚価も安定的に上昇、かくて”儲け頭”となったサケ・マス漁は、沿岸でその遡上を待つ従来の「定置網漁」だけでは需要を満たす事が出来ず、沖合を回遊するものを”一網打尽”にする「流し網漁」へとその漁法も変化していきます。

 そしてこの流れは必然的に漁場の拡張にもつながり、地元の漁師たちはより多くの”獲物”を求めて千島列島沿岸を北上、昭和初期にはその範囲はカムチャツカ半島付近の北千島にまで及んだのでした。

 もっとも、排水量10トンにも満たない当時の古い小型船での遠征はまさに命がけであり、その行程においてはやはり多くの不慮の事故が発生したと聞きますが、それでも”海の猛者たちの飽くなき開拓”はひるむ事なく展開されていきました。

 かくして、かつてない繁栄に沸く根室のサケ・マス漁でしたが、しかし昭和16年(1941年)から始まった太平洋戦争がその後地元に大打撃を加える事になります。

 戦争末期の昭和20年(1945年)7月14日から15日にかけて、太平洋上の空母から飛び立った百機あまりの米軍機による突然の空襲において根室町(当時)は約2,400戸を焼失、そして住民400名弱の生命が奪われるという道内最大規模の戦禍に見舞われ、当然のごとく船舶や港湾施設も手ひどく損害を被りました…この惨状を前に愕然として色を失う漁業関係者でしたがむしろ、彼らにとっての本当の悲劇が始まるのはこの後だったのです。

 『三船殉難事件』のエピソードでも少し触れていますが、その空襲の傷も癒えぬまま迎えた同年8月15日の戦争終結直後において、今度は”火事場泥棒”さながらに不法侵攻してきたソビエト連邦軍により千島列島のすべてが武力占領されてしまいます、そしてそれは今まで確保してきたサケ・マス漁場の内の実に9割を失う事を意味しました。

 この1~2ヶ月の間に立て続けに起こった思いもよらぬ敵襲によって完膚無きまでの壊滅状態に陥った根室の漁業、今後の対策にも窮する状況にまったく途方に暮れる他ありませんでしたが、生きていくためにはいつまでも意気消沈している訳にもいきません、その後彼らは新しい漁場を求めて太平洋という”新天地”へ挑んでいったのです。

 さて、そんな過去を経つつ、時は昭和29年を迎えます。

 5月9日の朝、朝鮮半島沖の日本海上に弱い低気圧が発生、確認した札幌管区気象台ではその気圧の配置状態からして北海道到達時にはせいぜい「980ミリバール」程度の発達に収まるものと当初は予想していました。

 ところが、それは北上するに連れて過去の事例からは考えられない”異常な成長”を見せ、伴い気象台からの発令も「強風注意報」から「風雨注意報」、そしてその日の深夜には「暴風雨警報」とその内容が慌ただしく変わっていきます。

 気象台の予想が追い付かないほどの”変貌”を遂げつつ道南の江差町付近から北海道へ上陸した低気圧は尚も発達しながら東北東の方向へ進路をとり、その過程において秒速35mにも達した暴風は、十勝地方に4千戸の家屋の全半壊や列車の脱線事故などの深刻な被害をもたらした後、更に東へと向かっていきました。

 その頃、根室の南東沖の太平洋上では花咲港などから出港したサケ・マス漁船200隻余りが操業していました。

 先の終戦後の苦難を経て、太平洋の沖合において新たに有望な漁場を発掘した事で活気を取り戻しつつあったサケ・マス漁は、これまで足かせだった「マッカーサーライン」(漁業制限領域)が昭和27年に撤廃された背景もあってその操業範囲を更に拡張・展開中だったと聞きます。

 豊漁が予想されたその年、いよいよシーズンを迎えた漁師たちの意気込みも相当なものだったでしょう、しかしその時目前に迫っていた嵐によってそれが悪夢に変わる瞬間を彼らは体験する事になるのです。

 しばらくして、徐々に強まる風と波に漁船は翻弄され始めます…これが更に悪化するであろう事は雲行きとその長年の勘で予想がつきました、だがここは港から遠く離れた太平洋の大海原、逃げ場もない状況で突如荒れ出した海に彼らにはなすすべがありませんでした。

 然して、暴風の影響でたちまち波高15mという大時化(しけ)となった海域は”修羅場”と化していくのです。

 それにしても、昨晩の内に暴風雨警報が気象台や海上保安部からも発令され”警鐘”が鳴らされていたにも拘らず、何故それが彼らには届かなかったのでしょうか。

 函館港などを基点とする大型の母船(指令船)と多くの中型船が緊密な連絡を取り合い大船団を形成する「北洋サケ・マス漁業」に対し、一方根室界隈では排水量10トンレベルの小型漁船が各々独自に出漁するという旧態依然の漁業形態であった上に、それら旧式船の内の実に6割以上には無線はおろかラジオすら備わっておらず、つまり出港後の彼らには警報を耳にする事も、ましてや仲間に状況を伝えたり救助を求める手段さえなかったのです。

 そしてもしかするとそれ以上に、先に記したような昭和初期からの様々な”土壇場”をくぐり抜けてきた勇猛な漁師たちにとって、少々の時化など乗り切れるという自信(あるいは慢心)があったのかも知れません…だが今回の”大嵐”はその想像を遥かに超えるものでした。

 無線装備船からもたらされた第一報により、一帯が大時化に襲われ甚大な被害が生まれている事は確実視されたものの、前述の通り漁場が拡大する中に点在し遠くは200マイル(約320km)の沖合にまで達していた船もある状況で、その各々の足取りや安否を確認するのは極めて困難でした。

 港では誤報や憶測紛いの情報が錯綜し、それは報道内容が二転三転する当時の新聞を見てもその混乱ぶりが窺えます。

 正しい情報が伝わらず家族が不安と苛立ちを募らせる中、命からがらにやっとたどり着いた”満身創痍”の漁船がやがて続々と花咲港へ帰港、その通報内容により被害規模が徐々に明らかになっていきますが、九死に一生を得たベテラン船長が「その人生において経験した中でも最大の時化」について生々しく語った新聞記事の内容からは、この嵐から生還出来た事がいかに”神がかり的”であったのかが伝わり、そしてそれは同時に消息不明船の運命がもはや絶望的状況にある厳しい現実を裏付けるものでした。

 この前例なき大規模遭難に際し、海上保安庁の巡視船や米軍機、後には横須賀基地から招聘されたフリゲート艦10隻までをも駆使しての懸命の救助活動が災害発生のあくる日から2週間にわたり休みなく行われています。

 依然大荒れの海域において自らも遭難しかねない状況下での捜索は難航を極めたそうですが、それでもこの間には、絶望視されていた船が10日間もの漂流の後、花咲沖150マイル地点にて奇跡的に発見され無事保護されたり、航行不能の状態で国後島沿岸まで流され実はソ連軍に拿捕・連行されていた3隻が2週間後に解放・帰還するといった思わぬ明るいニュースも報じられました。

 しかしその他の多くの船については吉報が届く事はなく、そして5月25日、未帰還船を多数海に残したまま無念にもその捜索が打ち切られたのです。

 ”記録破り”の低気圧がもたらしたこの海難事故による最終的な被害は、太平洋上のサケ・マス漁船だけでも沈没・消息不明合わせて38隻、死亡・行方不明者323名にのぼり、その他知床沖などで遭難したものを加えると約400名がこの時命を落としたと言われています。

 ”死と隣り合わせ”の危険な仕事と日頃から覚悟していたはずもいざ”大黒柱”を亡くした家族や、大枚を叩いてやっと手に入れた船ばかりか大切な従業員までをも失ってしまった船主が悲嘆・落胆の極みにあったのはもちろん言うまでもありません。

 この災厄が心の傷となり二度と海に戻る事のなかった漁師や、すっかり気力を失い廃業した船主もあったそうです、しかし他方「海での借りは海で返す」とばかりに再起を決意する”生まれながらの海の男”たちがいました。

 そしてその後、国からの「漁業災害復旧金」や銀行の「特別融資」、あるいは地元漁協が資金難の組合員のためには自ら保険料を立て替えてまでも加入を推進していた「労働災害保険」の還付金などを元手に、30トンレベルに大型化された漁船が次々と新造され、根室の漁業はこの悲劇を”ばね”にして一気に近代化が図られていったのです。

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 このような苦難の歴史を重ね来て、今や全国でも有数の漁業の一大拠点となった根室ですが、しかし現在思わぬ”苦境”に立たされています。

 平成27年(2015年)、ロシア政府が同国沿岸から200海里内でのサケ・マス流し網漁を翌年より無期限全面禁止する旨を突然発表、それは戦後における日ソあるいは日露政府間の交渉によって一部操業が再開されていた同海域からの日本漁船の閉め出しを意味しました。

 「海洋資源の保護」という名目ながらも、その実「ウクライナ問題に端を発した経済制裁へ対する報復」であろうこの一方的措置によって根室の経済が受けるダメージはもちろん小さくありません。

 ロシアの常套手段であるこの”揺さぶり外交”が今後の政治の動きによってどう変わるのか見極めなくてはなりませんが、当面回復の見込みが立たない以上、地元では減船措置や関連事業の大幅な縮小を余儀なくされています。

 素人が軽々しく口を挟んではいけない領域ながらも、思うに根室には「外国に依存するがために外交問題が起こるたびそれに振り回される状況」から早く脱却し、養殖技術の確立・事業拡大など将来を見据えた経済モデルへと移行していかなければならない時期が訪れているのかも知れません。

 その100年以上の歴史の中で、終戦直後の漁場喪失やこの「5・10災害」、そして昭和52年のいわゆる「200海里問題」と、幾度叩きのめされながらもその都度立ち上がってきた道東のサケ・マス漁はここに来てまた”正念場”を迎えているのです。

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碑面

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碑文