北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【中川町】天塩川渡船遭難慰霊碑

【中川町】「遭難之碑」

事故発生年月日:昭和15年 5月 6日

建立年月日:  昭和35年 7月11日

建立場所:   中川郡中川町国府

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(2019/1/14投稿)

  前の逸話にて石狩川の氾濫災害に触れましたが、今回は道北地域を流れるもうひとつの大河「天塩川」にまつわるエピソードを取り上げてみたいと思います。

 北見山地の最高峰「天塩岳」に源を発する天塩川士別市名寄市など7市町村域を経て最終的に留萌管内天塩町日本海へたどり着くまで256kmもの距離を要する北海道第二の長大河川です。

 それまで最長だった「石狩川」が明治時代から段階的に施された治水工事(ショートカット)により合わせておよそ100km分の流路を”切り詰められた”結果、昭和の一時には道内一の延長を誇った事もあるこの長流ですが、石狩川が抱えていた問題と同様、特に音威子府村以北の下流域の平坦地に見られる著しい流れの蛇行状態は大雨時における増水による洪水をしばしば引き起こし、苦労の末に開拓された川沿いに広がる農地の作物を時に全滅させるなど入植間もない明治の時分から地域の生活に深刻な障害をもたらしてきました。

 この状況は一帯に住む農民にとって死活問題であるが故、打開へ向けての早急な対策が草創期より切望されたのはもちろん言うまでもありません、だが流域に点在する小規模な集落のために莫大な予算が優先的に充当されるはずもなく、結局本格的に天塩川の治水に着手される昭和初期まで地域住民は辛抱に辛抱を重ねるしかなかったのでした。

 そんな決して恵まれた環境とは言えなかったこの地区にまず歴史の転機が訪れたのは大正末期の事、それは念願の鉄道(天塩線)がいよいよ通じた時でした。

 時はそこから少し遡る大正元年(1912年)、旭川から本土最北端「稚内」を目指し明治30年代より着工されていた官設天塩線(のち宗谷線へ改称)の敷設工事は、日露戦争による中断時期を挟みつつもまずまず順調に進捗し、この年には現在の音威子府村の地点まで到達したものの、しかし路線はこのまま天塩川沿いに北上するという当初計画から途中大幅に変更され北東のオホーツク海方向へと遠ざかってしまう事になります。

 こうして北進ルートから”かわされ”取り残されてしまった「中川村」や「幌延村」など天塩川沿いにある内陸の村にとっては経済発展の機会が当面失われたかに見えましたが、それから5年後には状況が一転、稚内まで最短で行き着けるこの川沿い路線の評価が見直され天塩線としての延伸工事着工が決定されました。

 以降10年の工事期間を費やし、現在も「宗谷本線」として利用されている内陸ルートがついに全通するに至ったのは大正15年(1926年)、人の移動や物流などあらゆる面での利便性を飛躍的に向上させる鉄道開通はもちろん地元住民にとってこの上なく喜ばしい出来事だったでしょう…ただ一方で実はそのためにあらたな悩ましい問題が地域に生まれる事になるのです。

 その原因は鉄路の敷設位置にありました…というのも前述の通り当地が天塩川の氾濫により洪水が当たり前のように頻発する地域である事情に鑑み、より大きい被害が想定される低地の左岸側を避けた路線が山際の右岸に通されたためです。

 山と川に挟まれた狭い土地ゆえにこれまで利用価値があまり高くなかった「右岸地区」にはかくて、駅舎まわりを中心に住宅や官公署、あるいは商業施設などが順次建てられおのずと市街地が拡大・発展していきます。

 しかし、その”おかげ”で一面的にはむしろ以前より不自由さを強いられたのは川の左岸側に広がる農耕地に居を構える農家の人々でした。

 彼らが従前まで人員や物資の運搬手段として利用していた蒸気船による「川舟運送」が鉄道開通とともに廃れてしまった影響により、農作物の出荷や荷受けを初め、諸々の用足しなどで今や事あるごとに「川むこう」の駅前まで赴かなければならない機会が増えたにも拘らず、一帯には天塩川を渡る橋梁がほぼ皆無に等しい状態だったのです。

 天塩線が全通した大正15年当時、その距離100km近くに及ぶ音威子府(当時・常盤村)から天塩村の河口までの天塩川下流域における渡河橋は何せ中川村の「佐久橋」ただ1か所しかなかったと聞きます。

 いくら請願されたところで、鉄道や国道ならともかく対岸の集落を結ぶだけの”生活道路”に数百メートルものしっかりした長大橋を架ける費用などどこにもありませんでした、そこで流域の要所要所には官設の渡船場が設けられ両岸への行き来にはもっぱら「渡し舟」が活用される事となりました。

 言うなれば「甚だ”原始的で非効率”な手段を講じなければ新しい”文明の利器”の恩恵に授かる事も出来ない」という、この”ちぐはぐ”極まりない状況は地域によっては昭和40年代の初め頃まで見られたそうです。

 かくして、こと左岸域の住民にとって生活を営むにはなくてはならない存在となった渡し舟ですが、但し季節や天候状態によりまるで違う”表情”を見せる大河が、その渡河をいつもすんなり迎え入れてくれるとは限りませんでした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 中川郡中川町の歌内地区(うたない)は宗谷(幌延町)や留萌地方(天塩町)とも境を接する上川総合振興局管内最北端に位置する集落です。

 現在ではすっかり過疎地になってしまいましたが、約100年前の大正12年(1923年)に天塩線の鉄道駅(当時・宇戸内駅【うとない】)が新設された時分には、他の天塩川右岸地域と同様、周辺に「新市街」が形成され今からは想像出来ないほどの賑わいを見せていたそうです。

 そして、商店が並ぶ駅前通りを数百メートル西へ向かった先で交差する天塩川の川べりには、当時中川村内に設けられていた11箇所の中のひとつである「宇戸内渡船場」が配置されていました。

 ここは、宇戸内(歌内)と対岸側の「上国根府(かみこくねっぷ)集落」(現・国府)を結ぶ唯一の交通路であり、馬鈴薯や菜種(なたね)、薄荷(はっか)など上国根府にて収穫された農作物の出荷・積出のためには欠かせない存在でしたが、実は当地ならではのもう一つの重要な役割を担っていました。

 それは学童たちの通学手段としての活用でした…というのもそれなりに世帯数や児童数が増えつつあったもののまだ地元に学校がなかった上国根府の子供らは都度渡し舟に乗って川向こうの「宇戸内尋常小学校」へと通わなければならなかったからです。

 遠い所では片道ゆうに5~6kmはあるだろう学校までの道のりを夏も冬も毎日のように歩いて通った児童もいたかと思うと、その健気さにいたたまれない気持ちになります…だが、その通学途中に避けて通れない「渡河中」には季節を問わず思わぬ危険が潜んでいました。

 まず冬場の厳寒期には天塩川が完全に結氷する事により、毎年12月~3月頃は凍りついた川面の上に塗り固めた雪や木材などの補強材を敷いて作られたいわゆる「氷橋」を歩いて渡る必要がありましたが、河道を通り抜ける強烈な吹雪に飛ばされる等不慮の事故に巻き込まれる子供も少なからずいたと聞きます。

 また、渡し舟が稼働する季節に至っても春先は融雪、そして夏から秋にかけては台風や大雨による増水が頻繁に見られたため、下流域の流れの様子は日や時刻によっても前触れなく変化し、時には荒天時の渡河中に激しく揺れる舟から転落する死亡事例もあったそうです。

 この憂慮すべき事態を受け、昭和6年(1931年)頃には両岸集落の住民からの横断橋の必要性を訴える声が上がり始めます、折しも中川村では前出「佐久橋」の他、「遠富内橋」が既に完成し、また「瀬尾橋」も架設工事中であるなど、宇戸内と同様の問題を抱えていた他集落において天塩川を渡るあらたな橋梁が着々と整備されつつあったという事情も背景にあるのですが、地方道上の架橋である以上すべての経費を北海道庁が負担してくれる訳もなく、その実現には寄付金等地元からの多額の出費を覚悟しなければなりませんでした。

 しかし、村内において「誉平」や「佐久」などの大きな集落と比べて経済発展的にはやや遅れを取っていた当地にとっては膨大となる財源を捻出するのが困難だったのかも知れません、この計画は遅々として進まず結局は事実上”先送り”状態となってしまいました。

 こうして有効な対策が施されないままに続けられた渡船でしたが、その後恐れていた大惨事がとうとう起こってしまう事になるのです。

 昭和15年(1940年)5月6日の朝、上国根府側渡船場には普段より多くの人々の姿が見られました。

 この年の渡船運航自体は解氷後の4月中旬には既に始まっていましたが、如何せん融雪期における天塩川の増水によって度々の欠航を余儀なくされており、4日ぶりに営業が再開された当日は通学児童の他に、「薪割り奉仕」という学校での催しに参加する父兄など大人も含めて出航を待ち望んでいた利用者が列をなしていたのです。

 ここ数日の大荒れの状態から比べると川の様子は幾分落ち着いていたものの、それでも川幅は約220mと平時の2倍近くあり、その水嵩は増水分だけでも3m以上あったとされていますので本来であればその日も出航を見合わせるべきレベルだったのかも知れません、しかし久しぶりの登校を楽しみにせっかくここまで通ってきた学童らを前にまたも”無慈悲”な欠航を言い渡すのは忍びなかったのか、可否判断を一任されている「船頭」の決断により最終的に舟が出される事になったようです。

 だが、乗客の気持ちを慮ったのであろうこの判断が誤りだったのは、悲しくも直後に起こる出来事によって証明される結果となってしまいます。

 両岸の間に張り渡されたロープには舟が下流側へ流されないよう滑車付きのワイヤーが取り付けられ、かくて船頭と大人1人、そして17名の小学生が乗り合わせた幅1mあまり長さおよそ9mの小さな渡し舟は宇戸内側へ向かってそろそろと出航していきました。

 ちなみに、このワイヤーロープと滑車を用いた「岡田式」と呼ばれる渡船方法は明治時代に考案された”優れもの”で、川の流れを利用して横断の推進力へと変換させるというその原理は、比較的急流の渡河を動力なしでも可能とし、そしてさほど難しい操船技術も必要としなかった事から瞬く間に普及、当時全国の渡船場で多く採用されていたと聞きます。

 但し、スムースに横移動するためには上流方向へ対し船体の向きを常時斜め前方の状態に保持して右舷(または左舷)側が受ける水力を全体的に均等化する必要があったため、限度以上に流れが速い場合、あるいは箇所により流速が極端に変化するなどの条件下では船体のバランスを取るべく船頭の”舵さばき”が非常に重要な要素となったのです。

 さて、順調な”滑り出し”を見せた舟がやがて川の真ん中部分へ達しようとしていたその時…それは川岸で待つ人々の目の前で不意に起こりました。

 それまで問題なく進んでいた船体が激しい流れにあおられて挙動がおかしくなったと見るや否や、あろう事か突然横倒しに転覆してしまったのです。

 一体何事が起こったのか…状況を察するに当日は著しい増水状態につき流水量の多さに比例してそもそも流速が非常に高かったのはもちろんの事、その上川底の深い中央部へ差し掛かった途端に流れの様相が一変し、船首と船尾に受ける力のバランスが極端に崩れたため船体が流れに対して横向きになったのではないかと考えられます。

 細長い木舟が真横から絶えず加わる巨大な力に耐え続ける事はもはや不可能に近く、定員をはるかに超える19人乗りという重量超過状態では舟の体勢を船頭ひとりの力で立て直すのもままならなかったのでしょう、また激しい横揺れにより舟の重心が崩れ、あるいは船べりからの水の流入もあって転覆を促進した可能性も否定出来ません。

 もっとも、このような流れの変容は特段当年だけに見られた特異な現象ではないはずですが、文献によると船頭の役目は本業と”掛け持ち”の地元農民が”持ち回り”で担っており、何故かしらその交代頻度がやたらと高かったと言われる宇戸内の場合は、練度不足により判断や対処に不慣れな状態で操船されるケースがもしかすると多かったのかも知れません。

 然して、乗船していた19名はなす術もなく激流に呑み込まれていきました…こと助けを求める幼い子らが一人また一人と流され下流へ消えていく中も岸から唯々叫び続ける事しか出来なかった大人たち、これほど悲しく非情な光景があるでしょうか…。

 それからしばらくして通報を受けた両岸の村民たちがあわてて救出に駆け付けた時には、もう誰ひとり乗っていない空舟が繋がれたワイヤーの先で空しく漂っているだけでした。

 ただ一人の生存すら叶わなかったこのあまりにも救いのない悲劇を受け、高まった請願の末に国府昭和16年に上国根府から改称)の集落に学校(歌内国民学校国府分校)が誕生したのは事故から5年後の昭和20年(1945年)1月の事でした。

 そして、かねてからの悲願であった渡河橋(歌内橋)がついに完成した昭和35年(1960年)7月、橋の竣功日に合わせて中川村に最後まで残された歌内渡船場は悲喜こもごもの想い出とともにその歴史を終えたのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和44年(1969年)、天塩川の蛇行部のショートカットのため工事が進められていた「歌内捷水路」に通水が施され、一帯における治水工事は概ね完成を見るに至りました。

 またその三年後には、一部木造につき安全性に難が残っていた歌内橋が鋼製の”永久橋”として架け替えられています。

 こうした治水や交通インフラが整備された環境はいにしえより先人たちが心から願っていたものでした、しかしそれがやっと実現した頃には地域自体の状況が激変していたのです。

 昭和32年(1957年)の7,337人をピークに現在も右肩下がりに減り続けている中川町全体の人口推移ですが、とりわけ昭和40年代の10年間においては実に2千人以上の人口が一挙に減少しています。

 その理由はもちろん様々ながらも、中には将来へ向けた明るい展望をこの地に見出せず離農・転出を決意した世帯も少なくないと思われます、そしてこの状況は歌内・国府地区も決して例外ではありませんでした。

 新しい歌内橋がせっかく完成した翌年の昭和48年には、著しい児童数減少を理由とした中央小学校との統合措置により歌内小学校が閉校、その2日後には後を追うように国府小学校も同じ運命をたどる事になったのでした。

 「かつてどれほど切望しても叶わなかったものが、いざ整った時にはもはやその必要性がなくなっていた」とは少し言い過ぎでしょうが、このなんとも皮肉めいた現実からは哀しいほどの「虚しさと儚さ」を感じずにはいられません。

 現在、広大な耕地や牧場の中に今や数えるほどしか残されていない農家が所々に点在するこの地区には両岸を結ぶ三代目の「歌内橋」が架けられています。

 そして、これを機に傍らの堤防脇へ移設された渡船事故の慰霊碑は、利用者がめっきり減った”立派”な橋と、すっかり”角の取れた”天塩川の流れを目にしながら、今なお過疎化が止まらない地域の現状を憂えているのかも知れません。

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碑面

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碑文

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遠景