北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【雄武町】雄武町所在慰霊碑

雄武町雄武町所在慰霊碑

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(2016/4/13投稿)

  紋別郡雄武町(おうむ)は宗谷管内と境を接するオホーツク管内北端の町です。

 町の経済を支える産業としてはサケ・マス・ホタテを代表とする漁業・水産業を中心に、加えて林業・酪農業も盛んですが、人口は現在5千人足らずと年々減少傾向にある流れには逆らえず、やはり他の町村と同様、高齢化や伴う諸産業の後継者不足は地域が抱える悩ましい問題だそうです。

 多分に漏れず、今後の過疎化対策に課題を残すオホーツク海沿いの静かなこの町ですが、しかしかつては大勢の人々が集い「ゴールドラッシュ」で栄えたという華やかな歴史を近隣町村とともに持っています。

 時は今から遡る事約120年の明治30年頃、かねてから「金」(きん)を求めて道内の山々を渡り歩いていた”冒険者”の手によって、北に隣接する「枝幸郡枝幸村」(現・宗谷管内枝幸町)域内の複数の河川域で大量の「砂金」が発見されました。

 「金本位制」の下、重量0.75グラムの金が当時のレートで「1円」の価値があった時代、その噂は即時にあまねく拡散され、話を聞きつけた延べ数万人とも言われる”一攫千金”を夢見る人々が当地へ殺到、その”乱獲”により近辺のそれらはあっという間に採り尽くされてしまったそうです。

 ただ、砂金が採れるという事は周辺における金鉱脈の存在の可能性を裏付けており、大正初期頃からいわゆる「山師」と呼ばれる人々によって一帯の山々の地質調査が行われていますが、もちろんそうそう簡単に見つかるものでもなく、探鉱作業は難航を余儀なくされていました。

 そんな中の大正10年(1921年)5月、雄武村内陸部の山林で山火事が不意に発生、折からの強風にあおられ拡がった猛火に村民にはなすすべもなく、見る間に38平方kmもの広大な森林が焼き尽くされてしまいます。

 こうして、貴重な木材資源を多く失い大打撃を受けた雄武村でしたが、実はその災いが転じて村には新たな”福”がもたらされる事になるのです。

 この災害により一見資産価値がまったくなくなってしまった見るも無残な一帯、しかしその後山に入ったとある山師が焼け跡の山面に露出していた岩石からなんと金を発見、詳しい調査により近辺に有望な金や銀鉱床がある事が確実視されました。

 まるで”おとぎ話”のような成り行きの末、遂にその位置を”人間に突き止められてしまった”金山には潤沢な資金に飽かして採掘権を得た本州の大資本により早速鉱業プラントが置かれ、現地では昭和3年(1928年)頃から採掘作業が始まっています。

 初めこそ小規模な人員と設備にていわば”半信半疑”で着手された作業でしたが、掘り進む内に間違いなく一帯が良質な鉱脈であるとの確証を得た会社は、いよいよ大々的な設備投資展開を決定、ここ雄武村に「北隆鉱山」の金銀採掘という一大産業が誕生した瞬間でした。

 この流れは当然ながら、これまで寂れた漁村だった当地の人口を飛躍的に伸ばし、雇用の増加と伴う消費活動が経済の活性化を促す事になります。

 多い時には500人ほど居たと言われる従業員の住宅や子女のための学校などが鉱区の近くに急遽”造成”された地に次々と設けられ、当時「山中の不夜城」と呼ばれたほどに界隈は活況を見たそうです。

 さて、開鉱当初における北隆鉱山の業務内容は、坑内から採掘の後現場で破砕・粉砕処理された金や銀が含まれる粗鉱をふもとの「元稲府港」(もといねっぷ)まで運び、そこから大分県にある親会社の製錬所へ向けて船で積出しするというものでした。

 その当時北海道内に多くあったこの会社が所有する金鉱の中でも群を抜く産出量を誇ったこの鉱山とは言えども、漫画やアニメのように地中から輝く金銀が”ざくざく”と採れる訳ではありません、鉱石中にわずかに含まれる成分を特殊な工法(製練)で抽出するのですが、比較的”歩留まり”が良かったここですら、重量1トンの粗鉱から採取出来た金は平均5.7グラム(銀は26グラム)に過ぎなかったと言われています。

 つまり、その内のほんの一部を抜き取るために、ほぼすべてが不要となる”砂利や石ころ”が北海道からわざわざ九州まで搬送されているという現状であり、誰の目から見ても明らかなこの輸送コスト面での非効率性を改善するため、会社側では現地で製錬処理すべく施設の新設を計画、昭和10年には山中に新しい青化製錬所が完成しました。

 それに先立ち実施された採掘方法の改善(手堀り→削岩機使用)や専用軌道の敷設なども含め、こうして着実に機械化・自動化が推進され規模の拡大を見る鉱山設備でしたが、ここにきて「電力不足」という不安要素が生まれてきます。

 これまで近代産業とはほぼ無縁であったこの地域では都市部と比較すると当然のように電化が遅れており、一帯における発送電事業の構想が持ち上がったのは大正7年(1918年)だと言われています。

 その後、利権が絡む代議士同士の発電方法を巡る対立などがありつつ、最終的に「雄武川」水系における水力発電所の新設が決定、昭和3年(1928年)には札幌の企業などからの資本を集めた電力会社が地元に設立されました。

 奇しくも北隆鉱山の採掘開始年と一致しますが、もちろん鉱山への供給をも構想に入れていたと思われる発送電設備建設工事は2年間の工期を経て完工、やっと雄武市街に電気の灯がともったのは昭和7年(1932年)になってからの事です。

 しかし、青写真では最高容量「200キロワット」を誇るこの発電設備はいざ稼働に至って河川水の流量不足により設計通りの能力を発揮する事がほとんど出来ず、市街地の一般家庭への送電レベルならともかく近代化が進む鉱山設備に電力供給するにはまったく”期待外れ”な代物だったのです。

 一方、増えるばかりの従業員住宅への供給などを含めて、今後予想されるさらなる電力需要増に際して現行の自家発電設備だけでは心許ない事情にある鉱業所側からしても、その対策として新しく建設される発電所からの供給が当て込まれていたかも知れません。

 その思惑が外れて困った鉱山会社から何らかの要望を受けた可能性もありますが、高需要と伴う利益が見込まれる”大口得意先”を前にしながら満足に送電も出来ないという”大誤算”に見舞われた電力会社が最終的に決断した善後策は雄武川と比較して遥かに水量が多い村の北端を流れる「幌内川」水系に「ダム式発電設備」を新たに建設する事でした。

 そして完成から3年も経たない内に”見限られた”従来の発電設備は、新発電所建設資金を捻出するため、昭和10年(1935年)にはその一切合切が他の電力会社へ20万円(当時)で売却されています。

 かくて、電力需給の立場から見て双方に利益をもたらすものと期待が込められた「幌内ダム」の建設は昭和14年1月に起工され、急ピッチに工事が進められていったのです。

 さて、前置きがかなり長くなってしまいましたが、そんな歴史を持つ現在の雄武町内にはこの微妙に相関する「北隆鉱山」と「幌内ダム」にまつわる2基の慰霊碑が建立されています。

 ひとつは元稲府市街から西方内陸へ十数km入った鉱山跡地の山腹に、そしてもう一方は雄武町域最北端の幌内川河口地点と、まったく離れた場所にある碑ですが、同じ時代に華々しく登場し、そして実はその終焉時期も似通うこれら二つの「事業所」において起こった慰霊碑建立の由縁となる悲しい出来事を各々紹介したいと思います。


雄武町】「北隆鉱山慰霊之碑」

事故発生年月日:昭和14年 2月 7日

建立年月日:  平成 6年10月

建立場所:   紋別郡雄武町上雄武

 大正初期に発見・採鉱が始められたとされる当時北海道で随一の”大金鉱”であった「鴻之舞(こうのまい)鉱山」(紋別市)をも凌ぐ高品位の金を産出する「北隆鉱山」が雄武に誕生したいきさつについては先に触れた通りです。

 昭和3年に採鉱が開始されてから安定的に増え続けた産金量はその後の更なる設備投資を促し、軌道敷設(昭和9年)、製錬所建設(同10年)など鉱業所設備も拡充されていきました。

 また、坑内設備や掘削工具などが順次改善された採掘作業場でも災害や重大事故の発生が年々減っており、事業後半におけるその労働環境はそれほど悪くなかったとも聞きます。

 こうして、当初従業員28人で発足した北隆鉱山は昭和12年(1937年)にはその数500人と、地元の雇用安定と経済発展に大きく寄与する産業となったのでした。

 しかし一方、急激に規模が拡大された事業は鉱毒事故という弊害を生み出してもいます。

 昭和10年から始まった製錬処理の工程で使用される猛毒の「シアン化ナトリウム」(青酸ソーダ)が、処理後の残滓置場の土中から浸出し近くを流れる「音稲府川」(おといねっぷ)へ混入、川はおろか河口域のオホーツク海沿岸の魚介類までをも死滅させるという大事件が発生しました。

 深刻な被害を受けた地元漁協などからの賠償や改善要請に対して、当初鉱業所側はその因果関係を認めなかったため事態は紛糾、数年にも及んだ紛争は後に2万円余り(当時)の賠償という形で一応の解決を見ましたが、とりわけ漁業関係者との間に大きな禍根を残す事になったのでした。

 さて、この良くも悪くも発展を遂げる鉱業所に勤める従業員やその家族の生活はその頃どのようなものだったのでしょうか。

 鉱区においては急増する従業員に向けたインフラ整備のために沿線の山腹のあちらこちらが開削され、住宅や小学校(分校)、病院などの施設が短期間に用意されています。

 更には、娯楽施設や運動場などの福利厚生関係、あるいはいわゆるライフラインも比較的充実しており、日用品の調達についても会社側から手配された施設によって滞りなく各戸へ供給されていたと言います。

 この環境整備に際して相当な費用が投じられたのはもちろん言うまでもありませんが、別の目線から見ればその提供を惜しむ理由がない程に、この事業がいかに多くの利益を会社へもたらしていたかを理解する事が出来るでしょう。

 このように、当時の一般庶民よりおそらく恵まれた人々が”快適”な生活を送っていたであろう、人口2千人あまりの”山中の街”を突然の悲劇が襲ったのは昭和14年(1939年)の冬の事でした。

 その年、北海道地方は各地に渡り未曽有の大雪に見舞われ、例えば札幌市では現在に至るも観測史上最高値である最深積雪量(169cm)を2月に記録していますが、しかし中でもその影響をもっとも受けたのが雄武村が属する「網走支庁管内」だったのです。

 当時の積雪の記録によれば、網走管内各地域の最深積雪量の平均値は道内最高の206cm(2月23日に記録)に達し、これは気象庁に残る過去データと比較しても最大級のものでいかにその時の大雪が記録的だったのかを物語っています。

 そしてこの時実際、雄武村そして北隆鉱山近辺の積雪がどれ程であったのかは定かでありませんが、もともと網走管内の中では降雪量が少なくなく、ましてや山奥地である鉱山界隈が相当の豪雪の中にあったのは想像に難くありません。

 そんな状況の2月7日午前11時30分頃、鉱夫住宅エリア裏手の山面で前触れなく大規模な雪崩が発生し、8世帯集合の長屋形態の住宅1棟が巻き込まれて倒壊、この災害事故で未成年者9名を含む14名が命を落とす大惨事となってしまいました。

 憶測の域を出ませんが、前述の通り増加する従業員対策として住宅を拡充するに当たり、用地が手狭になる中で、もしかすると当初は置く予定のなかった山面の直下にまでも建てざるを得なくなっていたのかも知れません。

 その犠牲者の中には幼児が多く含まれており、父親や兄姉が職場・学校から帰って来るのを家で今か今かと心待ちにしていたであろう光景を想像すると胸が痛みます。

 かくて、業務中の事故による死亡者数が過去に1人(昭和10年10月14日)という、他の鉱区と比して労働災害面ではかなり”優秀”であった北隆鉱山は、思いもよらぬ気象災害によってその歴史に悲しい1ページを残したのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 まさに”北の大地で隆盛を誇った”北隆鉱山も昭和14年をピークに産金量が減少傾向にあり、明らかにその勢いには翳りが見えていました。

 そして、戦時体制という情況も業界に暗い影を落とします。

 軍需における重要品目であるため鉱工業に対しては既に様々な法整備、つまり”国家統制”が敷かれていましたが、昭和15年には「重要鉱物増産法」に基づく「不合理鉱区の整理促進」策が推進されていきます。

 これは要するに「全国に散在する生産効率の悪い小規模鉱山を整理して産出量の多い鉱区に労働力を集中させる」という戦時下の国策であり、それは鉱種の選定にまで波及しました。

 その内「金・銀」などの希少金属類は、序文で記したように人手を多く使う割には非常に歩留まりが悪いという非効率生産鉱物の代表格的存在である上に、国際世論の悪化により世界各国から日本への経済制裁が強まり始めたこの頃に至っては海外からの資源調達における”軍資金”としての利用価値をも失いつつある状況の中、かつてあれほどもてはやされたこれらの鉱物はもはや「不要・不急品」に成り下がってしまったのです。

 こうした流れを受け、鉱山監督局からの命令によって最終的に北隆鉱山が閉山に追い込まれたのは太平洋戦争勃発後の昭和18年(1943年)の事でしたが、その3年前において事実上”山の運命”は既に決まっていたと言えるでしょう。

 この措置により鉱山労務者は別の鉱区への転出を余儀なくされ、昭和15年の最盛期には7,723人(1,634戸)であった雄武村の人口は閉山後の昭和19年には5,344人(980戸)にまで激減しています。

 明治時代の「ゴールドラッシュ」に始まり「北隆鉱山」の終焉までの約半世紀にわたって「金」に振り回され続けた雄武村はこうしてある意味”狂騒の時代”に一区切りをつけたのでした。

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碑面

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碑文

雄武町】「辛巳遭難慰霊碑」

事故発生年月日:昭和16年 6月 7日

建立年月日:  昭和16年10月

建立場所:   紋別郡雄武町幌内

 辛巳遭難慰霊碑は雄武町の北端、幌内地区(ほろない)の神社地先にある「史蹟公園」内に建っています。

 ちなみに「辛巳」(かのとみ/しんし)とは60年に1度巡って来る干支の組み合わせのひとつであり、この場合は昭和16年(1941年)の事を指すのですが、碑にはその年の6月、この地で起きた前代未聞の災害事故によって犠牲となった多数の住民の御霊が祀られています。

 太平洋戦争開戦直前の折、新聞紙上ではあまり大きく取り上げられませんでしたが、その悲劇とは地域一帯に恩恵をもたらすために造られた「巨大建造物」が逆に地元集落を壊滅へと導く結果を招いた、いわば”天災の力を借りた人災”と言えるものだったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 遡る事9年前の昭和7年(1932年)、地元電力会社の手により雄武川流域に建設された発電設備は雄武市街に初めて本格的に電気を供給するという”快挙”を成し遂げました。

 しかし計画に反してのその余りにも”非力”な性能は、折しも村内に誕生・発展中だった「北隆鉱山」などの大口需要を満たす事が出来ず、その解決が事実上不可能だった電力会社は早々にその施設と権利を売り払い、ここ幌内に活路を見出す決断をします。

 この地には豊富な水量を誇る「幌内川」があり、その他の立地条件も整っていた事から、ここに大規模な「ダム式発電設備」を新設、先の鉱山や地元地域、さらには北に隣接する「枝幸村」の需要をも視野に入れ、広域における新規発送電事業を起ち上げるつもりだったのです。

 かくして、「幌内ダム」と名付けられた重力式コンクリートダムの建設工事は幌内川河口から4~5km遡る山間の谷に長さ約160m・高さ約13mにわたり築かれるべく昭和14年(1939年)より起工されたというくだりまで序文にて記しました。

 さて、この工事はとにかく完成を急ぐ必要に迫られていました…その大きな理由のひとつはこの電力会社が主に札幌の企業などからの出資金を募って設立された営利目的の「株式会社」だったところにあります。

 明治中期の札幌から始まったとされる北海道の電力事業の歴史ですが、その後需要は地方へ拡がり昭和初期に至ると地場における発送電あるいは配電権の独占を目論む電力会社が道内各地に乱立しました。

 もちろん、事業を起ち上げるためには発送電設備の建設などにかかる莫大な費用を初期段階で準備する必要があり、元手の少ない起業家は”外部株主”からの出資金に頼らざるを得ませんでしたが、もはや「電力の需要は急増しても減る事はない」と目されていたので、その利益配当を当て込んだ資産家や企業からの資金は割と順調に集まったとも聞きます。

 構想的には「地域住民や企業が生活水準・業務能率向上のために電気を”どんどん”買い、そして電力会社やその投資家たちが”益々増えゆく利益”を享受する」という構図が描かれていた訳ですが、ただそれもこれも需要と供給のバランスが取れていてこその話であり、ここ雄武の場合はその面で完全に失敗した事例と言えるものでした。

 設計通りの発電能力に至らないがため小口需要のみに電力供給している現状では株主配当どころか、初期投資分の回収や自社の利益確保すらままならず、「話が違う」とばかりにおそらく相当の”突き上げ”と”債務返済”に迫られていた会社はこの幌内ダム発電事業での起死回生を図っていたと思われます。

 こうした背景もあり、急ピッチに進められた工事は昭和14年1月~昭和15年12月という2年足らずの工期にて完工しました。

 この規模のダムを建設するにしては相当なスピード工事と言えますが、前述の北隆鉱山のエピソードでも触れたように昭和13年から14年にかかる冬季において界隈はかつてない記録的な大雪に見舞われており、当時の記録では網走地方の根雪が消えたのは4月末とされていますので、まさかにも大雪の中での工事が”強行”されない限り実際の建設に携わった期間はもっと短かったのではないかと推察されます。

 とにもかくにも、”外観上”立派なダム発電所がここに完成し、発送電許可を得るべく当局による現地検査実施の手配が直ちになされます…ところがこの”急ごしらえ”の設備は早くも”ほころび”を晒す事になるのです。

 検査直前のある日、試運転中だった発電施設で突然火災が発生、人的被害はなかったものの設備が損傷した事から当然検査は見送られ事業はしばらく”足留め”を余儀なくされる羽目となりました。

 その出火原因は記録に残っていませんが、再検査申請まで半年間を要している事から見ても、発電装置本体に不備・欠陥があった可能性は否定出来ません。

 急げば急ぐほど問題が巻き起こり、まさに”踏んだり蹴ったり”の状態でしたが、ダム建設のため当時の金額であらたに30万円の投資を受けていた会社は、本業での”実入り”がない以上、再開の目処がつくまでの当面の間、他に収入を求めるしかありませんでした。

 そのため幌内川上流で切り出した原木を水路にてふもとへと運ぶ「木材流送」という”畑違い”の仕事にまで携わっていたと聞きます…だが会社存続のための止むなき対応だったこの”副業”が後々の大惨事を招く”引き金”となってしまうのです。

 こうして半年が経った昭和16年5月末、不慮の事故によりダメージを受けた発電設備は懸命の修復作業の末復旧され、ようやく再開の見通しが立った事業所からは、あらためて検査願いが北海道庁へ提出されるに至ります。

 今度こそ何事も起こらないよう誰もが願った事でしょう、しかし不運を通り越してもはや”呪われた”この事業所はまたしても、そして”最後”のトラブルに見舞われる事になります…ただし今回ばかりは自らの不幸だけに留まるレベルでは済みませんでした。

 昭和16年(1941年)6月6日、折からの悪天がその日の夜半より突然豪雨となり、それは翌朝まで勢いが衰える事がありませんでした。

 当時の新聞には「北見・網走地方で河川の氾濫などにより合わせて5平方kmもの田畑が浸水被害を受けた」との記事があり、また現代から遡って当該地における過去6月の月間降水量データを見比べてもその年の数値が突出して高いところから、「治水」が行き届いていない時代であった要素を差し引いても、その時の「暴雨」がいかに凄まじいレベルであっただろう事が窺えます。

 この集中豪雨の影響で、他の河川と同様に幌内川は瞬く間に増水、その流れが河口から4~5kmという比較的下流域に設けられた幌内ダムへ至るまでには既に濁流と化していた事は言うまでもありません。

 だが、ダムを襲ったのは激流だけではありませんでした、事もあろうに前述”副業”によって上流側で切り出し留め置かれていた大量の原木が流出し一気に押し寄せてきたのです。

 まるで”巨大貯木場”となったダム湖では、この原木や山から流されてきた大小の倒木など無数の樹木によってことごとく取水口や放水路が隙間なく閉塞され、かくて放水機能を喪失したダムはとてつもない水圧を一身に受ける事になります。

 しかしやがて、湖が”満杯”となったその時…遂に持ちこたえられなかった幌内ダムは中央部分から大きく決壊、一気に解放された”湖水”はふもとへ向け”怒涛”の勢いで下っていきました。

 思うに、いくら満水状態だったとしてもコンクリートダムがこれほど簡単に決壊するなど余程の設計か施工のミスがない限り本来起こり得ない事です。

 幌内ダムは重力式、つまり自重のみで水圧を支えるという構造上、他方式と比べてもちろん堅固な造りでなければならなく、コンクリートの使用量も当然多い訳ですが、戦時体制の折、その資材調達に際し果たして設計通りの品質と量を十分に確保出来たのか甚だ疑問に残ります。

 加えて、前述の通りこの工事は完成を急ぐあまり、補強の不備やコンクリートの養生期間の不足などの要因でそもそも設計強度に足りていなかった可能性を指摘されており、「欠陥工事」と当時の新聞紙上で断じられるだけの理由がそれなりにもあったのだろうと言わざるを得ません。

 さて、濁流が向かったその先、「下幌内原野」一帯には牧場や畑地を営む30戸(113名)の集落がありました、先人たちによって森深い未開地が苦闘の末耕地にされた歴史を持つこの場所でしたが、まさに今、そのすべてを無に帰す程の危機がここに迫っている事など彼らには知る由もなかったでしょう。

 決壊から数分も経たずに到達した逆巻く奔流は一説には「高さ5メートル以上」にも達していたと言われています、その水勢のみならず一緒に率いてきた原木により”破壊力”を増した濁流に飲み込まれた集落はひとたまりもありませんでした。

 そして非情にも、逃げる間もなかった大勢の人々もろとも、流域一帯にあったすべての家屋が見る間にオホーツク海へと押し流されていったのです。

 地元新聞の第一報で「集落住民全滅」とまで報じられたこの悲劇においては60名が帰らぬ人となりました、ただ”唯一の救い”は集落の学童たちのほぼ全員が高台にあった国民学校へ登校していたためこの災禍から逃れた事でしょうか。

 その日は土曜日だったものの今とは違い当時は当たり前に午前中の授業・教練があった時代でした、それにしてもダム決壊時刻が午前9時過ぎだった事実から思えば、もしそれがもう少し早い時間帯あるいは午後から発生していたとしたら、それは形容しがたいもっと恐ろしい結果になったであろう事は容易に想像出来ます。

 しかし一方、この災害により両親や身寄りをすべて失った18名の「孤児」が生まれました…後日全員に「里親」が見つかったとの話も耳にしますが、彼らのその後の人生においても、「家や親たちが濁流にのまれ海へと消えてゆく様を高台の上から唯々見ているしかなかった」というこの辛い記憶と傷跡がもちろん消える訳もなく、先程”唯一の救い”などと軽々しく記した事を反省しなければなりません。

 かくして、幌内における発送電事業の夢は多くの人命とともにここに潰えましたが、その後被害者に何らかの補償がなされたのか、それとも”天災の結果”として扱われてしまったのか、その事故処理方法については記録がなく杳(よう)として知れません。

 そして、決壊後そのまま放置された幌内ダムは戦後改修され一時期は発送電が行われたものの、現在はその役目を終え”人目に触れない”場所でひっそりと「砂防ダム」としての余生を送っています。

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碑面

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碑文