北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【釧路市】寿小学校交通事故慰霊像

釧路市】「なかよし」像

事故発生年月日:昭和31年 6月29日

建立年月日:  昭和32年 6月29日

建立場所:   釧路市寿1

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(2014/9/21投稿)

  JR釧路駅からほど近い市街地に「釧路市立中央小学校」はあります。

 この小学校は、進む少子化を背景に策定された「小中学校適正配置計画」に基づき、それぞれ100年前後の歴史を持つ「旭小学校」と「寿小学校」が統合のうえ平成19年に新しく誕生しました。

 そして開校後は教室棟・体育館などが順次新築され、平成25年度には旧寿小学校跡地に耐震構造や太陽光発電など最新設備が備わった立派な新校舎が全面完成しています。

 こうしてすべてにおいて新しい環境が整えられた新生中央小学校ですが、ふと見るとその校庭の一角には古びたブロンズ像が建っていました。

 失礼ながら、最新の学校にはやや不釣合いな風情のそのオブジェ、八角形の台座の上には手を繋ぎ楽しそうに輪になって回る3人の子供たちの姿が表現されています。

 そういえば、昔の小学校には「友愛」や「創造」などの校訓をモチーフとしたそのような芸術作品がよく設置されていた記憶がありますが、しかし「なかよし」と銘打たれたこの像の持つ意味合いは他のそれとは少し異っていました。

 実は今から約60年前、学校が面する国道で児童ら合わせて19名が死傷するという前代未聞の交通事故がありました。

 そして悲しくもその被害者の多くがここ寿小学校(当時)の生徒及び関係者だった事から、事故の一年後には犠牲者の慰霊と今後の安全祈願の想いが込められたこのモニュメントが校庭に建立され、周囲の環境がいろいろと変わった現在に至ってもこの一角だけはそのままに置かれているのです。

 それにしても、これほど大勢の人を巻き込んだ事故とは一体どのようなものだったのでしょうか、この悲劇により7名もの幼い生命を一瞬に奪ってしまったのは、まさかにも人命を救うためにあるはずの「消防自動車」だったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 ”高度経済成長時代”の序盤にあたる昭和30年(1955年)頃から、国内では諸産業の事業拡大や多様化に伴いトラックなどの商用車を中心とした自動車の保有台数が急増しています。

 それが自家用車へと波及するのはまだ先の話ですが、このいわば「産業界における車社会化」は、より多くのそしてより早い物流を可能にし国や地域の経済発展に大きく寄与するも、しかしそれは同時に交通事故の多発という弊害を生む事になりました。

 後に”交通戦争の幕開け”と称されるこの時期においては北海道の主要各都市でも同様の問題に直面しており、昭和31年には道内の交通事故による死亡者数がついに400人を突破、全国ワースト3位に初めて名を連ねるという不名誉な記録が残されています。

 そしてそれは、主要港を持つ物流拠点であり、製紙・炭鉱など重工業が盛んな釧路市でももちろん状況は同じでしたが、しかしここには他の都市とは少し異なる事情がありました。

 札幌や旭川のような”道路と共に街並が作られた”内陸部の都市に対して、街が古くから開かれた釧路には”後付け”で設けられた狭く曲がりくねった複雑な道路が多くあり、それらが事故を招く大きな要因のひとつとなっていました。

 この頃は、急激に発展する交通事情にインフラ整備がまったく追い付いておらず、加えて運転者や歩行者にも交通法規の認識がまだまだ定着していないという、いわゆるハード面・ソフト面ともに現代とはまったく比較出来ない未熟な環境にあったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和31年(1956年)6月29日、釧路市街中心部のやや東側に位置する「釧路消防本部」に緊急火災通報が入ったのは午後4時過ぎの事でした。

 市内「鳥取町」の市営住宅にて火災発生とのその通報に際し、規模は不明だったものの出火元がアパートだけに延焼による複数世帯への被害拡大の可能性が想定されたため、消防としては保有する「タンク車」(水槽付ポンプ消防車)4台の出動を決定、直ちに現場へ向かうべく手配されます。

 釧路市街の西側隣接地である鳥取町へ行き着くには、間を隔てる「新釧路川」を渡らなければならないため進行ルートは限定され、緊急出動した車両は市街中心部を縦断する幹線道路「国道38号線」を走行していました。

 釧路から滝川市へと至る延長約300kmの長大路線であるこの一級国道(当時)は道東と道央を結ぶ大動脈たる主要道路でしたが、港湾地域などからの大型輸送車の通行が増えていたにも拘らずその整備は立ち遅れており、市街地における路幅は決して広いとは言い難いものでした。

 そして先を急ぐ4台の消防タンク車はやがて、新釧路川河口に架かる「新川橋」へと向けて左に大きく曲がる「浪花町12丁目三叉路」に差し掛かかっていきます。

 さてその頃、この三叉路のすぐ傍らにある「稲荷神社」には、いつものように紙芝居の続きを楽しみに近所から集まったたくさんの子供たちの姿がありました。

 まるでノスタルジックな映画の一コマのようですが、現代とは違いこの時テレビの放送局がまだひとつもなかった釧路では、このひとときが学校から帰宅し”夕ごはん”までの間における彼らの”お楽しみの時間”だったのでしょう。

 中には、夕食の準備で忙しい母親の代わりに健気にも”近所の乳呑み児”をおぶってあやす子守り中の女児の姿も見られましたが、それも今では目にする事のなくなったその時代ならではの光景と言えます。

 こうして、普段と変わらない日常を過ごしていた子供たちでしたが、やがてその耳に入ってきた遠くから近づいて来る”勇ましい”サイレンの音は、彼らにとって紙芝居の物語の行方よりもっと興味を引くものでした。

 そして、幼い時分の私がそうであったように、この時代でも憧れの存在だった消防車の”勇姿”を一目見ようと三叉路の沿道にはいつの間にか子供たちの人垣が出来たのです。

 それから間もなく、路傍の子供たちがその小さな手を振る中、さながら”凱旋パレード”のごとく消防車は三叉路を”凛々”と駆け抜けて行きました。

 ところが3台までが通り過ぎ、最後尾の車両がカーブに差し掛かった時、思いもよらぬアクシデントが起こったのです。

 消防車の左側前方の路肩を並走していた中学生とおぼしき男児二人乗りの自転車が、ふらつきながら不意に車の直前へ飛び出してきました。

 おそらく、前をろくに見もせず夢中で車を追いかけていた自転車は、未舗装である路肩の悪路にハンドルを取られたか、あるいはいきなり目の前に現れた人だかりをかわす際に運転を誤ったのでしょう、この予期せぬ危険行為に驚いた消防車の運転手はそれを回避すべく咄嗟にハンドルを右に切ります。

 もしこれが直線道路での出来事だったらその後何とか体勢の立て直しが出来たかも知れません、しかしここは左カーブの真ん中、運転手が気付いた時には右方の路傍に並ぶ子供たちが既に目前に迫っており消防車にはもはや避ける術がなかったのです。

 最悪な事に、それでも運転手のハンドル操作によりその向きを進行方向へ戻しつつあった車体は側面方向から路外へ逸脱、思いのほか高かった段差のせいで本線への復帰に失敗した車両は逃げまどう人波を次々となぎ倒しながらそのまま路肩に沿って走り続け、結局その先にあった沿道の店舗に突入するまでその暴走が止まる事はありませんでした。

 かくして、不可抗力的な要素はあるものの”人命救助の主役”たる消防自動車が引き起こしたこのあまりにも痛ましい事故においては死亡者7名・重軽傷者12名というまるで悪夢のような惨禍がもたらされるに至ったのです。

 とりわけ悲しむべくは、その犠牲者には幼気な子供ばかりが並び、無情にもその中には背中の乳児とともに事故に巻き込まれる事になる実はまだ小学校2年生に過ぎなかったあの”心優しき子守りの少女”の名前もありました。

 然して事故後の現場には、大破した店舗と樹皮を削り取られ真っ白な幹を晒す立木、そして履き主をなくしたたくさんの”小さな靴”が寂しげに残されていました。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この「単独車両によるものとしては当時道内における戦後史上最悪の死傷者を生んだ輪禍事故」の発生要因は、事故後”姿をくらました”二人乗り自転車による危険運転にある事は言うまでもありません。

 しかし序文にて記したように、加えて道路インフラの整備遅れや交通リスクに関する啓蒙の未徹底など、背景にあった未熟な環境が遠因として事故の発生に影響を及ぼした可能性も少なからずあろうかと思います。

 その後、以前より計画はあったものの着工が遅れていた国道38号線の道路拡幅及び周辺整備工事については、この悲劇を受け前倒しで着手されたと聞きます。

 また、昭和24年の釧路市との合併後、住民人口の伸びに伴う火災発生の増加が想定されたにも拘らず消防署がなかった鳥取町には事故から1ヶ月後に「第8分団鳥取出張所」が新設され、市街地の消防本部からその都度車両が出動する事はなくなりました。

 そして事故とは直接関連しませんが、幸いボヤで済んだため結果論的には「4台もの消防車の出動は必要なかった」という皮肉な結末を残した今回の市営住宅火災の原因としては、業者の手抜きと指摘されてもおかしくないレベルの”集合煙筒工事”の不備が挙げられ、その後は市による検査基準が厳しくなったと言われています。

 このように、遅きに失した感はあるものの、この悲しい出来事はその後の行政に直接的・間接的を問わず様々な改善を促しました。

 現在の安全で便利な環境の多くは”以前における誰かの犠牲”の上にあるものだとあらためて痛感させられます。

 ただし、道内における交通事故自体は昭和40年代のマイカーブームなどの影響もあって残念ながらその後も年々増え続け、昭和46年には死亡者889人(全国ワースト1位)というピークを迎えました。

 その後は減少に転じ現在は184人(平成25年)までになった交通事故死亡者数ですが、考え方によってはその家族だけではなく、決して癒える事のない悲しみを背負い続ける過去の関係者を含めると事故により不幸に見舞われた人々が減るどころかむしろ年々累積されているとも言えます。

 特異な例外的ケースを除けば基本的に悪意を持って交通事故を起こす人などいないはずで、この事故に関しても、後に業務上過失致死傷罪で送検・起訴された消防車の運転手はもちろん、ついに名乗り出る事のなかった自転車の二人組ですら、小さな子供らを望まぬ死に至らしめる原因を作った自らの行為をおそらく悔やみ猛省した事でしょう。

 しかし、慢心や不注意・技能不足などの本人要因については当然ながら、相手側の突発的動向に対しても注視・即応するスキルが求められ、そしてその責任の所在がどちらにあるとしても、一度起こしてしまうと当人だけではなく関わるすべての人が不幸になる事を覚悟しなければならないのが交通事故なのです。

 平成4年(1992年)から始まった一般道でのシートベルトの着用義務に対する意識の定着化やエアバッグなど安全装置の進化により死亡者数こそその減少ぶりが顕著ですが、依然として道内では年間1万5千件近くの事故が発生し、1万6千人余りが負傷している現実が意味するものは、人間側の自覚・心得にまだ改善しなければならない点が多々あるという事に他なりません。

 仕事や趣味で長距離移動をする機会が多い私も含めて、自動車や自転車を運転する方、そして歩行者の方も決して自らが当事者になる事のないよう共に心がけていきたいものです。

 交通事故で悲しむ人がいなくなる世の中を願う人々の想いを受け、中央小学校の「なかよし像」はこれからも元気に登下校する児童たちをこの場所から見守り続けていく事でしょう。 

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慰霊像

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碑文