北海道のほぼ中央に位置する「旭川市」は、近年徐々に減少傾向にありながらもまだ30万人台の人口を維持しており、トップの札幌市からは大きく水を開けられているものの”まず”は道内第2の規模を有する「中核市」になります。
本地域の特色として、行政側では動物園やスキー場など観光面に焦点を当てて対外的にPRしているようですが、産業全体で見ると水稲を初めとする農業、製紙や家具製造等の工業と、また各種卸売・小売企業の出先や飲食店が多い点で商業的にもかなり盛んであり、突出して目立つものはないもののある意味非常にバランスが取れているエリアと言えるでしょう。
歴史的に界隈で様々な業種が比較的偏りなく育まれた要因のひとつとして、かつてここが「陸路交通と物流の要衝」にあたる土地柄だったことが挙げられます。
明治期における陸軍師団の配置に起因して旭川起点の鉄道網が各々整備された歴史については本ブログの過去記事でも触れたところですが、その後の人口増加により当地自体がそこそこの消費地になったことに加え、高速道路などまだ整備されていなかった一昔前までは当市から鉄路を通じてより大都市である札幌圏、さらには函館を経由し連絡船にて本州へと貨物が運ばれるという物流モデルが出来上がっていたため、北部日本海やオホーツク海で水揚げされた海産物を含め北海道の”北半分”で産出された多くの物品が一旦内陸のこの地に集められる”仕組み”になっていたのです。
そして、製品によっては道内需要を満たすにあたり原材料生産地と大型消費地のどちらにもさほど遠くない中間点で製造した方が輸送コスト的に有利に働くことを理由に、古い時代から製造拠点を旭川に置くケースも少なからずあったと聞きます。
本エピソードで取り上げる「植物性食用油脂」(サラダ油等)もその内のひとつであり、昭和14年(1939年)に相次いで設立された2つの製油会社が道北各地で収穫された「菜種」(なたね)や「大豆」を集積、工場でそれら原料を圧搾・抽出し出来た「食用油」は都市圏へ、また残る「搾り粕」は加工食品原料のほか肥・飼料として農協を通じて地方の酪農家などへと供給されていました。
ちなみに同市場に関しては、「さして複雑でもない製法ゆえ最小限の設備投資額での起業が可能な事業モデル」としてもしや安易に考えられたのか、その後太平洋戦争終結を機に多くの企業が参入したものの、昭和25年(1950年)頃には大小取り交ぜ約250社もあったと言われる道内の事業所数は、熾烈な過当競争の末に大半があっという間に淘汰され、昭和30年を前にして日産10トン以上の処理能力を持つ企業はわずか7社へまで減少したそうです。
当時すでに道内総生産量のおよそ7割を担う屈指の存在となっていた前出旭川の2社が無論その7社の内に含まれていたのは言うまでもありませんが、会社のポジションに”あぐら”をかくことなく採油量の歩留まりを飛躍的に高める新しい製法(抽出法)をその間に確立、設備を増強させるなど生産性向上の企業努力を怠らなかった”老舗”がこの”戦国時代”を経て更なる強みを得た結果になりました。
かくして、今後の需要増にも期待できる中で競合先が減り、原料入手も容易な土地でこれからもっと大きく事業を発展させる環境は整いました…だが”落とし穴”は思わぬところにあったのです。
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昭和29年(1954年)9月、旭川市内中心部のやや東寄りにある油脂工場では今年の”かき入れ時”を迎えていました。
というのも、原料の菜種が採れる初夏から始まり収穫大豆が引き続き入荷する秋口過ぎまでが毎年工場操業的にピークとなるためで、その時本工場においても総量200トンにも達する在庫菜種を速やかに処理すべく三交代体制の下、昼夜を問わず稼働していたと言います。
折しも世の中は「高度経済成長」の幕開け時期にあたり、外食産業等の業務用途の他に一般家庭向け需要も”右肩上がり”になるなど、業界として”前途洋々”な時勢だったと言えるでしょう、ただしこの工場の場合は問題を幾つか抱えていました。
そのひとつは立地の関係で、創業当時は鉄道駅近くの「街はずれ」に過ぎなかった場所が、15年も経つと地域の発展に伴いもはや「市街地の真ん中」へと変わってしまっていたがため、これまではそれほど問題視されなかった油分の地下浸透による井戸水汚染や煤煙の発生が近隣住民との間の深刻なトラブルと化しており、さらに前述製法変更によって大量の使用が必須となった「溶剤」の存在が”揉め事”を拡大させることになります。
プレスやスクリューなどを用いて物理的・機械的に原料を圧搾し油分を搾り出す旧来工程の後、一時的に溶剤へ浸漬・反応させることで残留分までもれなく抽出するという化学的プロセスを加える点がこの新しい「抽出法」の特徴なのですが、その際最適な溶剤として使われていたのが一般に「石油ベンジン」と呼ばれる工業用ガソリンの一種でした。
当然ながら、極めて高い揮発性と引火性を有し燃焼時は爆発的に炎上するこの危険物の取扱いにはとりわけの慎重さが求められていました…にも拘らず溶剤導入後2年足らずで原料倉庫を焼失させるレベルの火災(昭和27年4月)が発生、それをきっかけに不安を募らせた住民から工場移転の要望書が出される等、新たな”火種”が増えた恰好になっていましたが、市役所や消防署あるいは保健所らの指導の下、「排水溝や防火壁の新設」「煙突の嵩上げ」また「溶剤貯蔵タンクの地下埋設」等の公害・防災対策を順次施した結果、ひと時の騒動は昭和28年の段階でひとまずの沈静化を見せていたそうです。
ところが、役所筋の仲介・助言を受けての工場側の善処や住民側の冷静的譲歩など大勢の人々の努力を以ってようやく落ち着いた状況はこの日におけるただひとつの些細なミスによってすべて”消し飛んで”しまったのです。
9月1日の午前6時40分頃、三番方(夜勤担当)の従業員が職務に勤しむ「抽出工場」では1基のタンク(5㎥抽出缶)へボイラー蒸気(圧力0.75MPa)を吹き込む作業を始めていました。
本措置は缶内に残る1kℓ程度の含油溶剤成分を加熱により蒸発させ、次の蒸留工程へ送るために施されるもので、抽出作業の後は毎度必ず実施するプロセスではあるものの、この時いつもと違う状態がひとつだけ、それは担当方の手で開放されていなければならない蒸気排出バルブが何故か閉じられたままになっていたことでした。
おそらく徹夜勤務の終了を前に注意力が散漫となっていたとしか考えられません、出口を塞がれた”密閉”タンクに”どんどん”蒸気が注入され続けている危険極まりない状態の中、やっと内圧の異常値に気が付いた係員が正しくバルブを操作すべく慌てて走り寄ったその瞬間…遂に持ち応えられなかった抽出缶のマンホール蓋が熱せられた蒸気とともに吹き飛び、このアクシデントに巻き込まれた作業員が気の毒にも”最初”の被害者となってしまいました…だがしかしこれはあくまでも悪夢の始まりに過ぎなかったのです。
こともあろうに、この後工場建屋から漏れ出し大気中に拡散された気化ベンジンが抽出工場に隣接する事務所内にあった火鉢の火気によって引火、辺りに充満していた目に見えぬミストが連鎖的に反応し、先刻のものとは”桁違い”の大爆発と火災が工場敷地内の広い範囲で引き起こされることになります。
この事故で当該の2棟はもちろん、爆風を受けた乾燥室や荷造室など合わせて総床面積660㎡もの木造あるいはレンガ造りの建築物が倒壊、下敷きにされた作業員や警備員ら計7名が最終的に命を落とすという目を覆わんばかりの大惨事に至ってしまったのでした。
こうなることを危惧していた近隣住民を恐怖のどん底へ実際に突き落したこの出来事を受け、もはや元の場所に工場を再建することなど法律や道義的にも不可能な現実を自ら招いた会社側はここでの操業を断念、翌昭和30年には本社機能を残して、主力工場は遠く隣村(東旭川村)の農地の一角へと”引っ越して”いきました。
ちなみにこの年(昭和29年)は、序文で記した旭川所在のもう1社の工場でも本件の3か月後に同様の爆発・火災事故が起こっており(12月17日・重軽傷者3名)、いずれのケースも普段はしっかり出来ている作業がその時に限って”うっかり”忘れてしまったという「ケアレスミス」が原因なだけにまるで”魔が差した”としか言いようがなく、一体何の因果なのか業界にとってはまさに”呪われた年”になってしまったのです。
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この事故がその後の業績に直接影響を及ぼした訳ではありませんが、それからの会社経営は順風満帆とはいかなかったようで、特に日本政府が米国からの圧力に屈して受け容れた「大豆の輸入自由化」措置(昭和36年=1961年)は国内の製油業界全体を揺るがす大事件となりました。
安価な海外産大豆の大量流入によって大打撃を受けた道内農家が次々と他の作物への転作を余儀なくされたため、今まで原料産地に近い点が強みだった地元油脂工場がその存在意義を失うことになった上に、さらには国内大手メーカーが挙って過剰気味の設備をフル稼働させた結果、巷に溢れ出した商品はいたずらに「価格下落」状態を呼び、需要がありながらも収益が確保できないような体力に乏しい企業は相次いで市場から撤退せざるを得ない憂き目に遭ったそうです。
然して、本エピソードの舞台となった会社も対策に行き詰った挙句、とうとう菜種までもが自由化された昭和40年代には本州の大企業の実質子会社化、また別の1社に至ってはなす術もなく同時期に会社清算の決断をするに至ったと聞きます…かつて終戦直後の過当競争時では”勝ち組”であった旭川の製油メーカーもこの時は既にもう一方の側に立たされていたのです。
以降も苦しい業況に置かれる中、OEM生産や健康ブームにあやかった商品展開などで何とか操業を継いでいたこの事業所でしたが、平成14年(2002年)に親会社の経営方針転換を受け遂に解散が決定、敷地を処分する段階において、新工場内に建てられていた慰霊碑(昭和35年建立)については高野山の管長(最高位住職)によって碑銘が揮毫されたつながりで、東神楽町にある真言宗の寺院へ移設されたようです。
今年(2025年)に開基135年を迎える旭川市の歴史上、単独事象に因るものとしてはおそらくもっとも多くの犠牲者を生んだ出来事の一つだと思われるこの史実、しかしそれを後世に伝えるべく遺された証しは意外にも隣町のお寺で大切に管理されていたのでした。


