北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【オホーツク管内】中央道路開削工事慰霊碑

オホーツク管内】中央道路開削工事慰霊碑

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(2014/6/22投稿)

 久々にオホーツク方面まで車で遠乗りに行ってきました。

 目的地までの経路は以下の通りです。

 網走市二見ヶ岡→北見市端野町緋牛内→北見市豊田→北見市留辺蘂町丸山→遠軽町瀬戸瀬→遠軽町奥白滝(北見峠)

 北海道の歴史に造詣が深い方なら既にお分かりかと思いますが、これは明治24年(1891年)に開削された「中央道路」(北見側)のルートなのです。

 (厳密には当時のルートには合致していない部分も含まれますが)

 北海道開拓の草創期、当時ほぼ未開の地であった距離にして160km余りのこの区間にわずか7ヶ月間で道路を通すという、まさに奇跡的とも言える工事を成し遂げた人達がいました。

 その”功労者”とは釧路集治監網走分監(後に北海道集治監網走分監→網走監獄)の囚徒、現在で言う網走刑務所の受刑者たちです。

 しかし、完成を急かされていたこの工事は、あまりにも過酷な労働条件ゆえ多くの使役囚徒を死に至らしめ、後に北海道開拓の暗黒の歴史としても名を残す事となりました。

 実は最初に書いた沿線6箇所の地には、この通称「囚人道路」にまつわる慰霊碑が建立されているのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 明治14年から18年にかけて、北海道には3箇所(樺戸・空知・釧路)の集治館(監獄)が相次いで設置され、日本全国から送られた凶悪犯やいわゆる国事犯が収監されました。

 明治政府としては、治安維持のために重罪人や思想犯など社会を不安に陥れる”厄介者”たちを遠く離れたこの地に隔離したい思惑だったのでしょう。

 さてその頃の北海道(三県一局時代)では、内陸部の殖産を促進するため、あるいは覇権主義に基づき領土拡大を展開する大国ロシア帝国の脅威に備えるためにも交通網の早期整備が急務とされていたものの、財政難や人口の偏りによる労働力不足などの理由で一向に進捗していませんでした。

 そんな中の明治18年、視察目的で北海道へ訪れた太政官大書記官(言うなれば最高行政機関の上級官僚)は遅々として進まぬ開拓状況を見て、「道路建設工事には囚人を本格的に使うべき」という打開策を政府に進言しました。

 「彼らは極悪人につき懲罰として酷使しても何ら問題ないし、もし死んでも監獄の経費が浮くから一挙両得」という、現代では考えられないこの提案ですが、それ以前から既に幌内炭鉱の採炭作業や空知⇔樺戸集治館の道路開削などに囚徒が動員されていたため、異論なくこの考えは取り入れられます。

 そして、翌明治19年4月に着工された「上川仮道路」の建設に樺戸集治館の囚徒が使役されたのを皮切りに、彼らは道内各地の道路建設に携わっていく事になるのです。

 三県一局時代が終わりを告げ、北海道事業管理局に代わり明治19年に設置された新生北海道庁が描いていた道路整備構想の中の最優先事業として、札幌から道東方面へ至る「中央道路」の建設が挙げられていましたが、当初計画の「旭川~十勝経由」ルートはかかる時間や経費的に問題ありと判断され、明治22年には「旭川~北見~網走経由」へのルート変更が最終決定されます。

 この変更に伴い、「忠別太(現・旭川)⇔上越(現・北見峠)」の工事を空知集治館が、そして「上越⇔網走」を釧路集治館がそれぞれ受け持つ事となりました。

 札幌⇔忠別太(ちゅうべつぶと)の道路は以前の工事により既に完成していたため、忠別太側の工事はすぐに着手、一部の区間を民間業者が請負った事もあり明治23年末には概ね完成しています。

 しかし大変だったのは網走側で、釧路の囚徒を網走に派遣するためには、まず釧路(アトサヌプリ)⇔網走の道路建設、網走分監の舎屋建設などの事前準備をしなければならず、実際に中央道路の工事に着手出来たのは明治24年4月の事でした。

 前述した「完成を急かされていた」というのは、このような背景があったからなのです。

 こうしてようやく始まったこの工事ですが、進捗速度を高めるため、10~15kmに区切られた工事区間を2組に分かれた作業員が両サイドから同時に開削し、先に目標点に達した組を次の区間では優遇するといった措置が取られました。

 これは労務者よりもむしろ組の責任者である看守同士の熾烈な競争心をエスカレートさせ、そのとばっちりを受けた囚徒が夜半過ぎまで酷使される羽目となりました。
 このような過酷な労働環境ですので、やがて囚徒の中には体調不良を訴える者が増えていきます。

 ろくな食事も与えられずに早朝から深夜までこき使われるのですから無理もありません、栄養失調により水腫病(脚気)を発症する者が続出、当時の文献には「工事に携わった1152名中914名が罹患」という驚愕の数字が記されています。

 かくして重病者が次々と斃れていく中、それでもこの工事が止まる事は決してありませんでした。

 そして着工から実質7ヶ月余り、明治24年12月の道路開通をもってこの地獄の突貫工事は終わったのです。

 この工事における死亡者数は200名以上とも言われていますが、特に8月以降に急増している事から工事後半の状況がいかに壮絶であったかは想像に難くありません。
 途中で力尽きた者は沿線に建てられた仮監(仮泊所)や道路の脇に無造作に埋葬されたと聞きます。

 その後昭和になってから、地元関係者らの手で数十体の遺骨が発掘・供養されましたが、大部分の所在はいまだに不明のままです。

 その酷使ぶりが問題視され、囚徒の外役労働が廃止されたのはそれから3年後、明治27年(1894年)の事でした。


網走市】「国道創設殉難慰霊の碑」

建立年月日:昭和43年11月 9日

建立場所: 網走市二見ヶ岡

  中央道路の網走側起点に程近い地(国道238号線道道104号線の交差点)に建っています。

 北海道開拓100年(明治100年)記念の年に地元期成会の手によって建立されました。

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碑面

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碑文

北見市(旧・端野町)】「鎖塚供養碑」

建立年月日:昭和51年10月17日

建立場所: 北見市端野町緋牛内

 犠牲者の埋葬地には、墓標代わりとして生前本人を拘束していた鎖が一緒に埋められていた事から、後年「鎖塚」と呼ばれるようになりました。

 現在では北見市の指定文化財として、この地に残っていた「鎖塚」が3基保存されています。

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碑面

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碑文

北見市】「中央道路開削犠牲者慰霊碑」

建立年月日:平成 8年 8月15日

建立場所: 北見市豊田

 中央道路開通のおかげで繁栄した北見市では開基100年に合わせて国道39号線沿いにこの慰霊碑が建立されました。

 平成4年には、第5仮監があったとされるこの地の近くの畑で1体の遺骨が見つかっています。

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碑面(表)

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碑面(裏)

北見市(旧・留辺蘂町)】「中央道路開削犠牲者慰霊之碑」

建立年月日:昭和60年11月15日

建立場所: 北見市留辺蘂町丸山(丸山峠)

 道道103号線が走るこの峠を佐呂間町側に下った先に今も残る旧5号佐路間駅逓(明治25年開設)付近では昭和59年に2体の遺骨が発掘されました。

 埋葬地点にはかつて目印の石と2本の卒塔婆が建っていたそうですが、現在は私有地内にあるため確認する事は出来ません。

 ここからの旧中央道路は現在の道道から大きくルートを変え、5号峠越えの難所に突入する事になります。(現在は共立峠林道)

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碑面(表)

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碑面(裏)

遠軽町】「山神」の碑

建立年月日:明治38年

建立場所: 紋別郡遠軽町瀬戸瀬

 中央道路開通の2年後、明治26年に開設された7号滝ノ下駅逓(現・遠軽町丸瀬布)を運営するため札幌から赴いた取扱人は、翌年その職を離れ瀬戸瀬に入植します。

 その際住居にあてた旧仮監で数多くの墓標を見つけ、前にここで大きな犠牲があった事を知った元取扱人が鎮魂のためこの石碑を建立したと言われています。

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碑面

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案内板

遠軽町】「国道開削殉難慰霊之碑」

建立年月日:昭和51年 9月

建立場所: 紋別郡遠軽町瀬戸瀬

 前出「山神」由来の墓標の話を基に昭和33年には大々的な発掘作業が行われ、現在慰霊碑が建つこの地から計67体の遺骨が発見されました。(内、46体を発掘・改葬)

 この第9仮監跡地には数多くの囚徒がまとめて埋葬されていた事から、ここが「病監」(病人を収容する仮監)だったと言われています。

 瀬戸瀬に達する前の「佐呂間⇔生田原」の山越えが難工事だったため、ここに至って既に相当数の重篤患者が溢れていただろう事が窺えます。

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碑面(表)

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碑面(裏)

遠軽町(旧・白滝村)】「中央道路開削殉難者慰霊の碑」

建立年月日:昭和49年 8月

建立場所: 紋別郡遠軽町奥白滝(北見峠)

 ここが中央道路(北見側)の終点です。

 特に瀬戸瀬⇔北見峠の工事では、もはや気力・体力の限界を超えていた囚徒たちが相次いで斃れていったと聞きます。(この区間では計12体の遺骨が見つかっています)

 やっとここまで生きてたどり着いた囚徒たちは標高857mのこの地で一体何を想った事でしょうか。

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碑面

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碑文