北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【留萌管内】三船殉難事件慰霊碑

留萌管内】三船殉難事件慰霊碑

事件発生年月日:昭和20年 8月22日

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(2014/8/15投稿)

 今年もまた太平洋戦争の終戦記念日を迎えました。

 太平洋戦争といえばとりわけアメリカ軍との戦いのイメージが強いと思われますが、殊に北海道民としては旧ソビエト連邦(以下ソ連)の存在を忘れる事は出来ません。

 一般的には昭和20年(1945年)8月15日が終戦の日として認識されているこの戦争、しかし実際にはその日以降も北海道近辺の樺太や千島列島では不法侵犯者であるソ連軍との戦闘が続きました。

 その結果、歴史上一度もソ連(ロシア)の領土になった事がない北方四島を含む全千島列島や南樺太が武力により占領され、返還されないまま現在に至っているのです。

 そして同じく終戦後の8月22日には、留萌沖の日本海において樺太からの引揚者で満載の船舶3隻がソ連軍潜水艦からの攻撃を受けて相次いで沈没あるいは大破し、おびただしい数の民間人が犠牲になるという悲劇が起きました。

 今にしても怒りと涙がこみ上げてくるこの事件ですが、時代背景を含めて極力冷静に振り返ってみたいと思います。(多分無理ですが)

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 戦争も末期、2日前には広島に原爆を投下されもはや日本の敗色が濃厚となった昭和20年8月8日、これまで太平洋・アジア戦線においては中立的立場だと思われたソ連が突如として連合国側に参加のうえ日本に対し宣戦布告、直後には満州国や当時日本領であった千島列島・南樺太への侵攻を開始しました。

 折しも両国間においては昭和16年4月に調印された「日ソ中立条約」(相互不可侵条約)が発効中であり、それを一方的に破棄し相手国に侵略する事など言語道断たる条約違反ですが、ソ連はそれを完全に無視します。

 思わぬソ連の参戦に対し既に青息吐息だった日本軍は抗戦も空しく後退を余儀なくされ、8月9日には米軍により再び原爆が長崎にも落とされた事で、ついには連合国側から突き付けられていたポツダム宣言を8月14日に受諾し無条件降伏をするに至りました。

 その後、日本軍の降伏により連合国側にも順次交戦中止命令が発せられましたが、しかしソ連だけは攻撃の手を緩める事はありませんでした。

 連合国陣営であるはずのソ連に何故そんな勝手な独自行動が許されたのでしょうか、実はこの卑劣極まる軍事作戦の背景にはアメリカとの密約が関係していたのです。

 遡ること昭和20年2月にソ連の指導者スターリンアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの間で交わされた「ヤルタ協定」においては、この戦争の早期終結を図ったルーズベルトソ連に求めた対日参戦の見返りとして、日露戦争によって失った「南樺太の領土復帰」や「満州・朝鮮における権益復活」、「千島列島の領有権獲得」などソ連側の要求を容認する旨が非公式ながら合意されておりました。

 ところが、その直後の4月にはルーズベルトが急死、後任のトルーマン大統領が一転強固な反共産主義方針であったので、密約を反故にされる可能性を恐れたスターリンとしては何としても日本が降伏する前に参戦し、既成事実を作るためにこれらの地域を早急に実効支配する必要がありました。

 片や、連合国側を主導するアメリカとしても今やソ連を敵対勢力と見なしていたものの、そもそも自国の前大統領がスターリンに要請したのが事の発端であり、この段階では名目上味方であるソ連を強制的に阻止するまでの理由がないため、ヤルタ協定対象地域内においてはこの暴挙を事実上黙認したのです。

 また一説ではこれが、戦後における日本とソ連の接近を防ぐため、「領土問題」という禍根が残るようアメリカ側が謀った一策とまで言われています。

 このような大国間の欲得的思惑により、戦争が終わってもなお侵攻を続けるソ連軍に際して各日本人居留地は大混乱を極め、避難民が奇禍に見舞われる事となります。

 それは日露戦争後のポーツマス条約(明治38年調印)によって、賠償金代わりにロシア(当時)から正式に日本へ割譲された「南樺太」でも状況はまったく同じでした。

 石炭・石油などその天然資源の豊富さゆえ有望な新天地として期待されていた南樺太は、大企業によって炭鉱・製紙工場などが建設されてから急激に発展が進み、昭和20年には40万人以上の民間人が居住していたと言われています。

 もちろんソ連側から見て奪回すべき最優先地域のひとつであったこの地でも、8月11日には北樺太との国境線において本格的な戦闘が始まっていますが、駐屯していた国境警察隊や陸軍守備隊の応戦により、かろうじて敵の進撃を水際で食い止めていました。

 しかし多勢に無勢、防衛線を破られるのも時間の問題だと思われ、沿岸地域からの敵上陸も予想される事から居留民の即時避難が急務と悟った樺太庁長官の命により民間・軍用を問わず脱出用の船舶が対岸の北海道稚内などからも緊急召集されます。

 かくして出発口である大泊港(おおどまり)には避難を求めて樺太各地から殺到した数万の人々がごった返していましたが、時節の折、避難用に準備出来た船舶数が大小合わせて十隻余りとそれほど多くなかったため、ひとまず女性・子供・老人を優先して乗船させる事になりました。

 距離にして160km弱、地図上では近くに見える稚内港ですが、実際の航行には片道8~9時間かかっており、船上の人々にとってはその時間は更に長く感じた事でしょう。

 所要時間的に各船一日一往復しか出来なかったため決して捗々しいとは言えなかったものの、地道なピストン輸送により、それでも最終的には避難が始まった8月13日から守備隊降伏後の「島外移動禁止令」が出される8月23日までの11日間で島民8万人弱が樺太から命からがら脱出しています。

 しかしその頃、避難民が続々と到着する稚内では彼らをそこから陸路移動させる手段に頭を悩ませておりました。

 当時稚内には鉄道(宗谷本線)こそ通じていたとは言え、そのかかる時間や便数の少なさから考えても、数万レベルの人々の速やかなる移動を実施する事など現実的に無理だったのです。

 そこで一部の引揚船については受入先を小樽へ変更させる事が考慮されました。

 幸いにして、もっとも危険が想定された大泊⇔稚内間の航行において敵からの攻撃を受けておらず、この先は本土近海を南下するのみだったのでもはや安全だと思ったのでしょう、多くの人々が小樽行きを希望したと聞きます。

 だが、本当の危険水域は違う場所にあったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

【小笠原丸殉難】

 逓信省所有の「小笠原丸」(1,404トン)は国産初の電纜(でんらん)敷設船として、戦争末期は稚内樺太間などの海底ケーブル敷設作業に従事、稚内港で終戦の日を迎えましたが、直後豊原逓信局長からの要請を受け樺太在住の逓信省関係者及び家族の避難を支援すべく8月17日には稚内を出港、対象引揚者約1,500名の本土輸送に一役買っています。

 当初の任務はひとまずこれで完了したのですが、樺太の窮状に際し引き続き一般引揚者の輸送を引き受けた小笠原丸は折り返し再び大泊港へ向かう事になりました。

 そして到着した8月20日には女性・子供を中心とした1,500名ほどの避難民を乗せ大泊を出港、翌日稚内で約900名を下船させた後、一路小樽を目指します。

 危険水域を無事に抜けた事で緊張感から解放された乗員や引揚者には、いよいよ小樽が近づくにつれ、おそらく安堵の表情が浮かんでいた事でしょう。

 ところが、航路の2/3を過ぎたあたりの増毛沖合約10kmの近海において、その希望が絶望に一変する事件が不意に発生しました。

 8月22日午前4時20分頃、小笠原丸は突然出現したソ連軍潜水艦の狙い撃ちに遭い、魚雷の被弾によりあっという間に沈没してしまったのです。

 就寝中の時間帯で起こったこの事件、攻撃を受けてから沈没まで数分の時間しかなかったため、ほとんどの乗船者は脱出する事も出来ずに船と運命を共にしてしまいましたが、かろうじて海上の漂流物につかまっていた数少ない生存者たちも浮上してきた敵艦の機銃掃射を受け次々と散っていったと聞きます。

 何故交戦地域でもない日本海、それも近海に敵がいたのでしょうか、ソ連南樺太や千島列島だけでは飽き足らず、実は留萌と釧路間のラインを境にした北海道北東部へ侵攻・占領する計画を着々と進めていたのです。

 そして8月24日に予定された作戦決行日を前に上陸地点である留萌近辺の沖合には前哨部隊たる潜水艦が偵察目的で展開されていました。

 つまり、小笠原丸は知る由のない敵の作戦水域内に入ってしまったため、謂れのない攻撃を受けるという悲運に見舞われたのです。

 その後、敵の執拗な攻撃から何とか難を逃れたほんの一握りの生存者は救命艇で増毛町別苅(べつかり)の浜に上陸、通報を受けた町役場職員は住民と協力のうえ沖合での救助活動を行いましたが新たな吉報が届く事はありませんでした。

 やがて、増毛の海岸には物言わぬ亡骸が次々と漂着し、そのほとんどが女性や幼気な子供たちだった事から、周辺はやりきれない悲しみと怒りに包まれたと言います。

 この事件では、大半の避難民を助ける事が出来なかった責任を取り、増毛上陸前に自ら命を絶ったとも言われる船長を含む乗員57名・避難民約580名が犠牲となり、生存者はわずか62名に過ぎませんでした。

 かくして、かつて長崎沖で難破したロシア客船を救助し多くの人命を救った「小笠原丸」は、あろうことかその後継国ソ連の手にかかり日本海の露と消えていったのです。

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【第二(号)新興丸殉難】

 「第二(号)新興丸」(2,577トン)はもともと民間会社所有の貨物船でしたが、戦時に際して海軍に徴発され、単装砲や爆雷などの武装が施された「特設砲艦敷設艦」として主に北方における船団護衛や哨戒任務に従事しました。

 そして千島得撫島(ウルップ)への食糧輸送任務の途中で終戦を迎え、稚内へ帰港後、他の船と同様に樺太引揚の支援に回る事になったのです。

 不休のピストン輸送を繰り返し、本土帰還に際しては既に三度の貢献を果たしていた新興丸でしたが、8月19日晩には4回目となる輸送を敢行すべく大泊港に到着、その後船体のトラブルにより一日遅れとなったものの、約3,500名の引揚者を乗せ8月21日に大泊を離れた船は、混雑を極め受入が困難な稚内を避けて小樽港を目指す事になりました。

 当時としては新型エンジンを搭載していた船は途中難もなく順調な航行を続け、8月22日午前5時頃には今や”認識なきも最高危険水域”となった留萌沖にさしかかります。

 その時、装備されていた電波探信儀(レーダー)には正体不明の船舶が捉えられていましたが、小一時間前に起こった小笠原丸の悲劇など知る由もない新興丸は、それらが今まさにこちらへ向けて雷撃せんとするソ連の潜水艦であるとは思いもよりませんでした。

 かくして、発射された魚雷に気付き回避行動を取るも時既に遅く、新興丸は右舷側面の船倉付近に被弾、更に浮上した2隻の敵潜水艦が砲撃・銃撃を加えてきたため、艦長命令により必死の応戦を開始しました。

 引揚船からのまさかの反撃にひるんだのか、あるいは新興丸の砲撃によりダメージを受けたのか、ほどなく敵艦は再び深く潜航したため最悪の事態は免れ、そして深手を負ったものの機関室の無事により自力航行が可能だった新興丸は、通報により駆け付けた水上偵察機の護衛を受け、最寄りの留萌港に何とかたどり着く事が出来たのです。

 しかし、魚雷の直撃を受けた第2船倉や、直後の敵の銃撃により甲板上にいた多くの人々が命を落とし、その数は行方不明者と合わせて約400名とも言われています。

 ほとんどの人が助からなかった小笠原丸事件と比較すると被害が少なかったようにも思えますが、逆に親子が死に別れてしまうケースが多く、留萌の小学校の校庭にひとまず安置された母親あるいは子供の亡骸の傍から決して離れようとしない残された人々の姿はとても見るに忍びない光景だったと言います。

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【泰東丸殉難】

 「泰東丸」(887トン)は民間会社所有の貨物船ですが、終戦前後には樺太から食糧を積出しするよう軍からの要請を受け小樽を出港、8月17日には大泊に到着しています。

 ところが、入港した泰東丸には思いもよらない任務が待っていました。

 というのも、その任務とは米など本来の積荷の他に「引揚者を可能な限り乗船させて小樽へ向かう」という彼らにとっては”寝耳に水”の内容だったからです。

 冒頭に記したように、この頃は避難民を脱出させるためになりふり構わず船を招集していたので、中には軍の要請によりなかば強制的に引揚支援に従事させられた例があったのかも知れません。

 この要請を当初は拒否した泰東丸船長でしたが、樺太の逼迫した状況を受け、あるいは軍からの”強い説得”に抗えず、最終的には引き受ける事になりました。

 こうして、”予定外の船荷”を満載した貨物船泰東丸は8月21日に大泊を離れたのでした。

 その後、敵襲にも遭う事もなく航海は平穏無事に進みましたが、鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)沖を航行中の翌22日朝、海上に漂う大量の木片や乗船者の携帯品などを発見した甲板上は騒然となります。

 これらは他船(実際は第二新興丸)における明らかに尋常でない事態の発生を示していましたが、前の2船と同様ここに至り「敵の攻撃」を想定していなかった泰東丸は、「浮遊機雷接触事故の遺留品」であろうと判断、航路を幾分本土寄りに変更した上で慎重に先へ進む事にしました。

 しかし、その時船は”魔の海域”の真っただ中にあったのです。

 そしてしばらく経った午前9時50分頃、突然右舷前方に潜水艦が浮上、泰東丸に向かって砲撃を始めました。

 対して、これをアメリカ軍の臨検に際する威嚇射撃だと思い直ちに停船した泰東丸は、戦時国際法に則り「白旗」を掲げ、”抵抗の意志がない”旨を相手に伝えます。

 ところが、その潜水艦はそれを無視、無抵抗の船に狙いをすまして更に激しい砲撃を加えてきました。

 それは米軍ではなく、先行の2隻の引揚船に対しても残忍な攻撃を行い壊滅的損害を与えたソ連軍の潜水艦だったのです。

 容赦ない砲撃や機銃掃射により、甲板上の人々は次々と斃れ、船体に大きなダメージを受けた泰東丸はやがて二つに折れるようにして、667名の生命と共に沈んでいきました。

 この事件の生存者は113名、海上を漂流しているところを、稚内から大湊へ向かうため付近を航行中であった海軍海防艦に発見・救助されています。

 他船と同じく、泰東丸の乗船者も女性・子供が中心であり、銃撃から難を逃れたものの漂流途中で力尽きた者も少なくなかったそうです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この事件については現ロシア政府もその関与を認めていないため、公式には未だに「国籍不明」の艦による所業とされますが、旧ソビエト崩壊後に公開された公文書記載内容によってソ連太平洋艦隊第1潜水艦艦隊所属の「L-12」と「L-19」の2隻がその実行犯である事が現在明らかになっています。

 事件海域においては、8月22日午後0時、つまり三船最後の泰東丸事件の約2時間後に発令された北海道占領作戦の中止命令に伴い、近辺でのソ連軍の軍事行動が凍結されたと言われています。

 実はこの作戦中止の背景にもソ連アメリカの激しい駆け引きがあり、簡単に言えば「ソ連が北海道北東部の占領を断念する見返りに千島全島の領有を黙認するが、さもなければ中千島の得撫島に米軍基地を置く」とのトルーマン大統領の通告を最後はスターリンがやむなく呑んだ形となりました。

 ソ連としては北海道占領の既成事実を盾にして、領有権に関する戦後処理方法についてアメリカ側から最大限の譲歩を引き出す事が当初の目的だったと思われますが、初動(参戦)の遅れにより北海道上陸が果たせず、結局ヤルタ協定合意内容以上の成果を残せなかった事をスターリンは相当に悔やんでいたと聞きます。

 そのような事実背景から察する個人的な考えとしては、この三船殉難事件の裏側には北海道占領作戦をアメリカの介入により断念させられた形となったソ連側の”腹いせ”的要素が働いたとしか思えません。

 事件発生時は中止命令発令前につき当初作戦の遂行中だと思われておりますが、これから敵国本土侵攻の奇襲をかけようとする国が、その決行前においてわざわざ上陸地点付近の偵察部隊に航行中の船舶を片っ端から攻撃させるなどという作戦を果たして立てるでしょうか。

 そもそも「白旗」を掲げた民間船に攻撃を加えるなど論外の上、漂流者へ向けた執拗な追い打ちや、小型船に対しては魚雷を使用せず砲撃・銃撃によって時間をかけて葬り去るなど、それはもはや本来の作戦に基づく軍事行動ではなく、撤収する事を知っている者がその前にまるで置土産のごとく、面白半分に無抵抗の人々をいたぶっているような印象しか感じられません。

 であれば、第二新興丸からの反撃を受けた時に意外なほどあっけなくその場から離脱した理由もうなずけようというものです。

 もし憶測通り、鬱憤晴らし的に事が実行され、落とさずに済んだ生命が奪われたとしたらこれほど許せない話はないでしょう。

 しかし現実にソ連占領後の各地においては、実質アメリカが立案・制定した「ポツダム宣言」第9条(在外邦人や武装解除兵士の即時帰還の保証)をまるで無視した日本兵ら捕虜に対するシベリア連行・強制労働従事や居留民への鬼畜な所業など数々の蛮行がソ連軍によって平然と行われており、これらの条項違反行為には「我が国抜きで勝手に発せられた宣言など一切考慮する必要なし」とのソ連アメリカへ対する”当てつけ”あるいは挑発という側面があった事は否めません…かくてその矛先がすべて日本人へと向けられたのです。

 それにしても、たとえ戦時の命令であれ目の前の無抵抗の女性・子供に対して躊躇なく手をかけるまでに人間はかくも残酷になれるものなのでしょうか。

 ただそれも現代から見た日本人としての感覚の話であり、大陸系の多くの国々はいにしえから隣国間における血塗られた歴史を経て今に至っています。

 地続きであるだけに「相手を滅ぼさないといずれ自分たちが滅ぼされる」とばかりに一族郎党や民族そのものが情け容赦なく根絶やしにされ、その目的の達成のために”狡猾”かつ”残虐”なあらゆる手段が長い間、当たり前のようにそして徹底的に行使されてきました。

 ましてや、旧体制のロマノフ朝を血に染まった革命で倒した後、「反革命政権」との熾烈な内戦、そして1930年代における共産党内の対抗勢力数十万人の大粛清などと、誕生から30年も経たない国内の歴史だけを見ても絶えず自国民を殺戮してきたソビエト連邦にとっては、日露戦争やシベリア出兵の仇である日本人の生命など、ほんの少しも気にかける訳がありません。

 そのような国が、”国際条約を破り”、”突然他国に侵略し”、”弱者を平気で虐殺し”、そして”その事実を認めない”のも当然の事だと残念ながら認識するべきなのです。

 結果を知る者が遡って過去の施策を批判するのは”禁じ手”ながら、後の被害が極めて甚大・悲惨な事から敢えて申せば、「この時既に欧州の周辺各国とのあらゆる不可侵条約を一方的に破棄し侵攻していたソ連を最後の最後まで信頼し、講和に依存するあまり降伏時期に関する情報を察知された挙句、事もあろうに対日参戦のタイミングまで与えてしまった」という戦争末期における日本の外交方針についてはあまりにも愚かであったと言わざるを得ません。

 その結果が「大陸居留民の厄難」や「シベリア抑留」、そして「三船殉難事件」を招いたのです。

 それから時代は移り、現在ロシアとの関係改善が取り沙汰されていますが、最近のウクライナ情勢を見ても”根本部分”は何ら変わっていない印象を受けました。

 もちろん友好関係を持つ事がいけないとは言いませんが、それならなおさら相手国の思惑の本質を見誤ってはなりません。

 相手が求める事を与えるだけの関係が”友好”ではないのです。

 少なくとも「本当の敵を知らず利を与えた上に裏切り行為を自ら促してしまった」あの時のような浅はかな外交だけは絶対に繰り返して欲しくないものです。

 それが、この事件で無念にも日本海に散っていった1,700余名の御霊にせめてもの報いる途(みち)だと個人的には思っています。


増毛町】「小笠原丸遭難者殉難之碑」

建立年月日:昭和27年11月22日

建立場所: 増毛郡増毛町暑寒沢104(暑寒沢墓地)

 この碑は増毛市街地から少し山側にある町営墓地に建立されました。

 碑の裏には北海道庁増毛町の他、建立年に設立された「日本電信電話公社」(旧逓信省)の名前も見えます。

 この事件では現在に至るも多くの御霊が海に残されたままですが、一方回収されながらも身元不明である20柱の遺骨がここに眠っています。

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碑面(表)

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碑面(裏)

増毛町】「小笠原丸殉難之碑」

建立年月日:昭和25年11月22日

建立場所: 増毛郡増毛町暑寒沢104(暑寒沢墓地)

 前出「遭難者殉難之碑」の隣に建つ「小笠原丸」の乗員を祀る慰霊碑です。

 小笠原丸と同様、電纜敷設艦であった「釣島丸」(昭和16年竣工)と「千代田丸」(昭和23年竣工)の乗員の手によって昭和25年に建立されました。

 ちなみに当時電気通信省所属だった両船は同年に勃発した朝鮮戦争時には米軍から日韓海底ケーブル修理の命を受け、韓国釜山において北朝鮮軍の攻撃を受けながらも命がけの任務を遂行しています。

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碑面(表)

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碑面(裏)

留萌市】「樺太引揚三船殉難平和の碑」

建立年月日:平成 7年11月15日

建立場所: 留萌市大町2

 この碑は留萌の観光スポット「黄金岬」そばの大変見晴らしの良い高台にあります。

 もともとは昭和37年、留萌市内と日本海が一望出来る「千望台」に「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」が建立されたのが始まりですが、経年による損傷が激しいため平成7年にはあらたに「樺太引揚三船殉難平和の碑」として生まれ変わったこのモニュメントが同地に建てられました。

 その後、高齢となった関係者が供養に赴くには不便という声もあり、平成22年には現在の場所に移設されています。

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碑面

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碑文

留萌市】「三船殉難之墓」/「殉難碑」(第二新興丸)

建立年月日:昭和49年 8月18日/昭和27年 8月22日

建立場所: 留萌市沖見町6(市営墓地)

 前出「千望台」へ向かう途中にある市営墓地内に建立されています。

 三船の中でも特に留萌市に縁の深かった「第二新興丸」の犠牲者を祀った碑です。

 ここでも毎年8月22日には慰霊祭が執り行われているそうです。

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三船殉難之墓

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殉難碑

小平町】「三船遭難慰霊之碑」

建立年月日:昭和50年 8月22日

建立場所: 留萌郡小平町字鬼鹿広富

 この碑は「泰東丸」が沈没した地点に近い小平町鬼鹿の海岸ふちに建立されています。

 ここは道の駅のパーキングエリアに隣接しているため、多くの観光客がこの碑を目にしていると思います。

 こうしてより多くの人にこの史実を知って頂きたいものです。

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碑面

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碑文