北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【複合管内】北海道警察官殉職碑

【複合管内】北海道警察官殉職碑

 北海道で公務員としての警察官が初めて誕生したのは開拓使施政下にあった明治5年(1872年)のこと、函館と札幌に配置された彼らは「邏卒」(らそつ)と呼ばれ、人口の著しい増加に伴って乱れ気味だった都市部の治安維持や取り締まり任務に従事しました。

 早くも2年後の明治7年には現代でも馴染みのある「巡査」という名称に改められ、以来150年余にわたり道内各地域の平和と安全を最前線で守ってくれている訳ですが、職務柄一旦事が起きた際には何かと矢面に立つケースが多く、常に一定の危険が伴う大変な職業であるのは誰もが認めるところです。

 しかも時と場合においてはそれが直接身に及ぶことも間々あって、この長い歴史の中では様々な事由によって公務中の巡査らが命を落とすという深刻な事例が少なからずあった事実が関連資料の中でも確認出来ます。

 例えば警察官殉職の全国事例をまとめた戦前刊行の書籍では、獣害による最初の事案や風雪等の自然災害、あるいは無頼漢が起こした直情型刃傷沙汰など、道内での該当案件を「実に”大まか”な植民地らしい事件」と評して紹介していますが、その表現が適切かはともかく、確かに他の地域では起こり得ないような「新天地」特有の事象も多く含まれていることは否定できません。

 また、3冊にわたって編纂された「北海道警察史」には明治初旬の発足時から平成9年までに殉職された道内対象者全165名の芳名が記されており、その内訳をひとつひとつ見ていくと、明治10年代にあった『坂口尚政巡査』の遭難・殉職事例を初め『手宮火薬爆発事故』『函館大火』あるいは『湧別機雷事故』など当ブログで取り上げた歴史的出来事においてもそれぞれ警察官が犠牲になっている事実が分かります。

 かように、きっかけや要因は多種多様であっても、いずれも責務を全うせんと職に殉じたこれらの方々の功績の顕彰と追悼のため「殉難警察官之碑」が明治44年の札幌市内に建てられ、移設先の北海道警察学校では合祀者へ向けての慰霊式が現在も定期的に執り行われているそうですが、本記事ではこの他に碑類が現存する個別の8件(及び類する1件)をも併せて、そのあらましを紹介したく思います。

【札幌市】「殉難警察官之碑」

建立年月日:明治44年 5月

建立場所: 札幌市南区真駒内南町5丁目

碑面

※北海道警察学校の許可を得て撮影・掲載しています。本画像の複写・転載はご遠慮ください。


【岩内町】「三等巡査庄司己吉之墓」

殉職年月日:明治13年11月26日

建立年月日:明治26年11月26日

建立場所: 岩内郡岩内町高台131

 序文でも触れていますが、北海道警察機構における初めての殉職事例は賊の凶刃によるものでも、また大災害がもたらした出来事でもありません、それを生み出したのは意外にも1頭のエゾヒグマで、その退治に立ち上がった巡査が激闘の末に命を落としてしまったというある意味”北海道ならでは”のエピソードでした。

 開拓使時代の明治13年(1880年)にあったというその事件、現在においても熊による深刻な被害に関する報道は頻繁に耳にしますが、約150年前の北海道は今とは比較にならないほど獣害が多かったと聞きます、もっとも海沿い地域の一部を除きほぼ”未開の地”だった当時の情勢からすればそれは至極当たり前の話だと言えるでしょう。

 舞台は現在の後志管内共和町にあたる「岩内郡発足村」(あるいは前田村とも)、同一個体と思われるヒグマによる人命さえ脅かす度重なる被害に困り果てた村からの陳情を受け、所轄の札幌警察署岩内分署は村民有志を募って同署所属巡査を「長」とした討伐隊を編成、合わせて4組から成る部隊が各々担当する区域へ山狩りに向かったのが11月10日のことでした。

 その内、水松沢(おんこのさわ)地区を担当した「三等巡査庄司己吉氏」率いる第1組は、道中で発見した足跡を辿ったところいきなり件のヒグマに遭遇してしまい不意をつかれた隊は散り散り、気が付けばその場に踏み留まっていたのはまさか巡査のみという有様だったのです。

 想定もしなかった孤立無援の状況の中で果敢にも庄司巡査は持っていた槍と刀剣をもって立ち合いに挑むも、体長2mを超える巨熊を相手とするにはいかにも頼りない武具での太刀打ちは困難で、遂には暴れ狂う猛獣の一撃を受けその場に伏してしまいます。

 ただ独りで無謀にも近い戦いに臨むその様を遠巻きに”恐る恐る”眺めていた村民たちもここでようやく奮起、鳴り物と銃撃で敵を一旦追い払ったのち、彼を何とか運び出したものの負った傷は相当に深く、生死の予断をまったく許さない状況でした。

 この壮絶かつ悲痛な顛末を受けて一様に思うところがあったのだろう大勢の村人が俄然気勢を上げて集結、さながら”弔い合戦”のごとく大規模な山狩りを連日敢行した結果、11月20日までかかりながらもとうとう巡査の”仇討ち”を果たすことになります。

 然して、重体の身ながら討ち取ったヒグマの検分に立ち会った氏は自らの恨みを晴らしてくれた住民の手柄に快哉を叫びつつ、ここで気力の糸が切れてしまったのかそのまま人事不省に陥り再び目を覚ますことはなかったと伝えられています。

 命をも惜しまない勇猛な戦いぶりで名を馳せる「庄内藩士」の血統を受ける庄司氏もまさか自分が熊と闘って命を落とすことになるとは思いもよらなかったでしょう、彼にとって決して本懐ではなかったとは言え、氏の功績を讃える石碑とともに「北海道初の殉職警察官」としてのその名はこれからも語り継がれていくのです。

碑面

【浜中町】「坂口尚政巡査殉難慰霊碑」

殉職年月日:明治16年 2月15日

建立年月日:昭和57年 9月

建立場所: 厚岸郡浜中町琵琶瀬

 『過去記事』をご覧ください。

碑面

【八雲町(旧熊石町)】「巡査中原君紀功碑」

殉職年月日:明治19年 9月 5日

建立年月日:明治19年10月22日

建立場所: 二海郡八雲町熊石畳岩町553

 現在(2026年)から見ると既に過去の出来事になってしまいそうなあの「コロナ禍」、しかし蔓延が拡がりはじめた頃のことを思い出すと自らが住む地域での罹患者数が日々増えていく様をメディアで確認しながら、先が見えない状況に底知れぬ恐怖感を覚えていたのはもちろん私だけではないでしょう。

 この未知のウイルスへ対しては、医療技術が飛躍的に進歩したはずの現代社会においてでも一時期は人間の手には負えないようにさえ感じた訳ですが、往時を振り返ればこれと同じような危機に幾度も脅かされながらも、人々の知恵や献身的な働きによってその都度何とか克服してきた歴史が北海道にもありました。

 時は明治19年(1886年)、道南の熊石村(現・八雲町熊石地区)は目に見えぬ疫病によって地域全体が恐怖の渦に巻き込まれていました。

 罹患者の症状から、この流行病の正体が前年より日本全国で蔓延の兆しを見せていた感染症「コレラ」であることが判明、商用のためか郡役所のある江差市街へ赴いた一村民がどうやら菌を”持ち帰ってしまった”のが発端だと推測されています。

 明治時代になってからは外国船の来航も増えた影響で我が国にも度々上陸・流行していたので、この”あれよという間に死に至る”恐ろしい病気の存在自体は北海道でも知られていましたが、まさか自分の村で発生するとは誰もが考えていなかったのでしょう、あまりにも突然の事に定住の医者も居ない田舎の村落ではなす術もなかったのは想像に難くありません。

 そんな皆が平静を失った状態の中で対応に追われたのは江差警察署熊石分署の分署長である「中原宗三郎警部補代理」でした、ひとまず優先させる対処法として患者を現代の感染症指定医療機関に当たる「避病院」へ直ちに移動させ感染拡大の防止に務めることを推進した氏、ところがもし今なら至極当然な措置に対して意外にも当時はこれを素直に受け容れる人が多くありませんでした。

 なぜなら、この病院とは名ばかりの”隔離施設”は押し並べて衛生環境的に劣悪であったようで、有効な治療法も確立されていない中で人家から遠く離れたここへ収容されることは、すなわちやがて確実に訪れる”孤独な死”を意味したからです。

 「”終の住処”を自宅に求める」患者の心情と、また避病院の存在意義のいずれも理解していただろう中原氏にとってもつらい決断だったと思いますが、そんな彼をさらに厳しい状況に追い込んだのは言うなれば”人手不足”の問題でした。

 というのも、コレラに対する認識が十分に備わっていないながらも強い感染力の怖さだけは村民間でも必要以上に伝わっていたようで、いくら懇願をしたところで罹患者へ対する看護や搬送を手助けしてくれる者は残念ながらひとりも居らず、”待ったなし”の状況で結局それらの作業をすべておこなったのは中原分署長自身と彼の指示を受けたその部下たちだったのです。

 もはや警察官としての本分を超える献身的な行動をもって事態の収拾を図った彼ら、しかし非情にもそれ故とうとう中原氏自身が病魔に冒されるという最悪の結末が待っていました。

 警察分署長と言えば当時としてはかなり身分の高い位置付けのはずで、その特権を用いれば最終的な結果はともかく、ここより大きな隣町で少しはましな医療処置を受けることも可能だったでしょう、だが遠くない死期を悟っていた彼が選んだ”最期の場所”は庶民と同じ避病院でした…「住民に苦労を強いているのに自分だけが特別扱いを受けては申し訳が立たない」というのがその理由だったそうです。

 私が勝手に持っていたイメージの上では、士族上がりでプライドが高く一般庶民などに決して目線を合わせることもなさそうな明治時代の警察官ですが、本件について報じた新聞記事で「実にかかる労役をも憚らず、之に任じたる同氏の尽力は感服のほかはなし」との絶賛を受けるほど「徳の備わった」人物も確かにいたのです。

碑面

【三笠市】「故北海道廳巡査能勢初治君之墓」

殉職年月日:明治34年 4月28日

建立年月日:明治36年 4月28日

建立場所: 三笠市幌内町2丁目

 三笠市幌内地区(旧・幌内村)は今でこそ道内のあちらこちらでよく見かける”過疎化が著しい”山間の地域のひとつに過ぎませんが、北海道の近代史を語る時には決して外すことの出来ない重要な場所です。

 実質道内初の本格的な採炭事業所となる「官営幌内炭砿」(明治12年=1879年開坑)や石炭運搬のために敷設された「官営幌内鉄道」(明治15年=1882年開通)など、明治期の北海道における近代産業の目覚ましい発展にこの地が関わっている事柄が多くあります。

 一方で、炭山での採炭作業には主に「空知集治館」から送られた囚徒が安全・衛生環境の悪い中で酷使されるなど、決して喜ばしいことばかりではない歴史も併せ持つこの炭鉱、しかし明治も20年代に入ると払下げによる民営化(明治22年)や囚徒の外役禁止(明治27年)等、取り巻く環境が劇的に変化、完全に「官」の手を離れ生まれ変わった事業はこれから新しく健全な道を進み始める…はずでした。

 だが、実際のところ囚徒の代替要員として急募された「良民鉱夫」は思うように揃わず、結局怪しげな「斡旋人」らを通じて手段を選ばず集められた人員の中には気性が荒い程度ならまだしも”素行不良なならず者”など他の地域から追い出されたような社会不適合者も一定数含まれていたと言います、かくして”清濁”区別なく来る者を受け入れた幌内がやがて”表裏の面を持つ街”へと変わっていくのに数年もかかりませんでした。

 集治館が炭鉱運営に携わっていた頃にはそれほど多くなかった市街地における違法な「賭場」や「俗悪な飲食店」は、民営化を受けて需要とともにその数が一挙に増えました、そしてそれらの”元締め”である反社会的な組織も明治30年頃を境に広域化、また活動の資金源を確保する手段も様々巧妙化していき、善良な住民にとって迷惑極まりない存在は一帯の風紀を取り締まるべき警察をも大いに悩ませていたそうです。

 かような混沌とした時代を迎えた明治34年(1901年)4月末の出来事、幌内村派出所に赴任してから日もまだ浅い「能勢初治巡査」のもとへ隣村である幾春別の飲食店経営者よりの捜索願が届けられました。

 いわく「幌内の”札付き”の口車に乗せられた自店の女性従業員が他所へ拘引されたので何とか探して取り戻して欲しい」との意味合いの内容、その手口から察しがついた氏は早速割り出した2名の”被疑者”を派出所へ出頭させ直ちに善処するよう命じています。

 近衛歩兵として従軍した後は警視庁そして北海道庁巡査と厳格な組織の中で長年にわたり勤勉実直に務めてきた彼にとっては、20歳そこそこの若者が定職にも就かず”意気がって”他人に迷惑をかけている様がどうにも許し難かったのかも知れません、無論良かれと思いながらおのずと厳しい口ぶりになったという今回の説諭対応、しかし返ってそれが良い結果を生まなかったのはその直後起こる出来事によって明らかになるのです。

 当日の晩遅く、市街地の飲食店で”たむろ”する件の連中を見つけた夜回り中の能勢巡査は再びそれを咎めんと近寄ったところ、昼間の一件がよほど腹に据えかねていたのか暴漢たちはやにわに逆上し所持していた刃物をもっていきなり巡査を襲撃、私服巡回につき「丸腰」だったにも拘らずそれでも賊を捕縛せんと奮闘するもやはり多勢に無勢であり、深刻なダメージを受けその場に倒れた氏は遂にこのまま帰らぬ人になってしまったのでした。

 本事案は北海道警察官殉職事例内で「凶刃によるもの」としては初めてのケースに当たり、これまでは悪党の間でもいわば”御法度”だった「警官殺し」を何のためらいもなく実行できる”無思慮”な輩による犯行は、少数精鋭たる巡査個々人の手腕・才覚に頼る旧来の防犯・取締手法がもはや通用せず、すでに”時代遅れ”である現実を浮き彫りにしたとも言えます。

 その正義感に溢れる実直な精神ゆえに凶漢たちとも真正面から対峙し最後は毒刃に斃れた能勢巡査、「警察官の鑑」として最大級の賛辞を贈った上部組織の関係者はともかく、常に危険と隣り合わせの緊迫感の中で職に臨む現場の巡査たちがこの事件の報に触れ果たして何を思ったのか…それを知る術はありません。

碑面

【豊頃町】「故巡査大友陽之助碑」

殉職年月日:明治43年11月20日

建立年月日:明治45年 7月

建立場所: 中川郡豊頃町大津幸町14

 道東は豊頃町の太平洋岸に位置する「大津地区」、その”小ぢんまり”とした港町の海岸ふちには「十勝発祥之地」なる碑が”ぽつん”と建っています。

 果てしなく広大な平野に畑や牧場がどこまでも続く十勝地方のイメージとは一見あまり結びつかないものの、よくよく考えるとなるほど当地は大河「十勝川」の河口に接する地域であり、拓殖が本格的に始まる明治初期から入植者や彼らのための物資がここを起点として川の上流側、つまり帯広など現在栄える内陸の土地へと運ばれていた様子が想像できます。

 そして、函館などから必要物資を載せた貨物船が大津へ到着し荷下ろしを終えた後は当地で多く水揚げされる「鮭・鱒」を積んで帰るという効率の良い「ビジネスモデル」が次第に確立されていきました。

 ところが、こうした儲け話を聞きつけると早速寄ってくる一定数の”不届者”が禁じられている河口域での「密漁」により得た獲物を転売するといった犯罪行為がやがて横行、監視員を置くも効果が薄い状況に困窮した水産組合や自治体側がとった最終手段が、かかる経費負担を覚悟してまでの「請願巡査」の配置であり、かくて明治43年(1910年)9月より鮭の遡上が終わる12月上旬までの期間限定措置として「大友陽之助巡査」が帯広警察署大津分署から派出される流れになったのでした。

 初めは戸惑ったかも知れない「魚を人間から守る」という不慣れな任務も何とか無難にこなしつついよいよ終盤を迎えた11月20日の夜10時頃、定例の夜間巡回のため「丸木舟」に乗り河口近辺をパトロールする大友巡査は闇夜の中で”うごめく”怪しい気配を察知、果たしてその正体である「密漁犯」は巡査の存在に気付くや否や仕掛けた網もそのままに一目散に逃走しています…が、不法を未然に防いだところまでは首尾よく運んだ事態はこの後最悪の方向へ向かってしまうのです。

 実は、最も干満差の大きい「大潮」のタイミングがちょうどこの日に当たり、それ自体はおそらく事前に認識されていたと思われるものの、状況柄こまめに時刻をチェック出来ない中で、犯人の遺留品たる漁具の検証作業に思いのほか手間を要したがために、もしや岸へ戻るべき時間を読み違えた可能性が考えられます、然して折悪しくその時発生した猛烈な引き潮になすすべもなく舟ごと外海へさらわれたまま行方不明となってしまった大友巡査…村を挙げての捜索にも拘らず安否が分からなかった彼が無念にも変わり果てた姿で発見されたのは事故から2週間が過ぎた12月4日のことだったそうです。

 見方によっては氏が守ってきた「自然」に”裏切られた”とも言えるこの理不尽な悲劇に際し、村葬として執り行われた葬儀には警察関係者や村民ら約一千名が、また2年後の大正元年に三回忌を記念して建立された慰霊碑の除幕式にも大勢の臨席・参列者があった旨記録に残されています。

 ただ私感としては、誠に失礼ながら”事の程度”からすると多少の”仰々しさ”を否めないこの一連の催事、もちろん重要な村の財産を無法者から守るため職に殉じた大友巡査を純粋に悼んでのことだろうとは思うものの、何となく明治35年2月にここであった北海道警察機構の歴史上最大級の不祥事である「大津(中山)事件」の所為で”ことごとく”失った地域住民の信頼を取り戻すべく計らいに躍起となる当局の思惑を邪推してしまうのはひねくれ過ぎでしょうか。

 もっとも、その後の大津村は程なく時局の急変に翻弄される形となり、物資や人員の移動手段の主役が内陸寄りに新設された鉄道「十勝・釧路線」(明治40年全通)へと移ってからはそれに応ずるように船便が激減、おのずと関連する川舟・艀運送業者や海運会社が廃業・撤退に追い込まれる状況は更に人口減少の加速という悪循環を生み出しますが、連鎖する負の勢いを食い止める力はもはや地元にはありませんでした。

 最終的には昭和時代において3つに”切り分け”られた村域がそれぞれ隣接する他の町村へ編入され、自治体ごとが消滅という何とも哀しい顛末を迎えた大津村、かつての「十勝の表玄関」はその面影を残すことなく今に至っていますが、現地を歩くと寺院の境内にあってひと際大きく目立つ慰霊碑が当時の何事かを物語っているような気がします。

碑面

【中川町】「故巡査部長齋藤高範殉難之碑」

殉職年月日:大正  7年10月10日

建立年月日:大正13年10月

建立場所: 中川郡中川町中川415

 明治中後期に開かれたという現在の上川管内中川町、道北を流れる大河「天塩川」沿いの内陸部に集落が点在するその場所柄、開村当時はとりわけ陸路の交通アクセスが極端に悪く入植民が苦労を強いられたと伝えられますが、大正時代に入り話が二転三転しながらも念願の鉄道が通されることが決定し地域に明るいニュースがもたらされた経緯については前に『天塩線関連碑』のエピソードでも触れたところです。

 ところがそんな”前途有望”な村全体を揺るがす恐ろしい出来事が起こったのが大正7年(1918年)10月のこと、発端は一組の若い夫婦の離婚・復縁騒動に過ぎませんでしたが、一見他愛のない揉め事が最終的には他人の生命が失われる程の大事件へ発展してしまったのです。

 新聞報道によれば、件の夫婦は縁あって大正3年に入籍、常盤村音威子府で所帯を構え子宝にも恵まれたものの、もともと素行に難があった夫が同7年に至り窃盗事件を起こしたところから転落が始まり、結果懲役8か月の罪で監獄へ収監中に夫を見限った妻が子供を連れて帰郷してしまったそうです。

 その上、すっかり”夢から醒めた”妻側よりの再三の離婚申し入れや終いには裁判所への申し立てを一方的に起こされた獄中の夫はかなり憤慨していたと聞きます、もちろん詳しい事情は知り得ませんが、報じられているそれまでの数々の問題行動に鑑みるとすべては”身から出た錆”なのでしょう。

 さて、生まれ故郷の中川村へ帰って来た妻は、いずれ必ず追ってくるだろう夫の目から逃れるべく実家ではなく実姉の嫁ぎ先に身を寄せていましたが、何せ狭い村の中のこと居場所を突き止められるのは時間の問題でした。

 一方、刑期を終え出所したばかりの夫は案の定、頭を下げるためではなく”力づく”でも妻を連れ戻すべく早速行動を開始、情けないことに酒の力と実弟ら”ごろつき”仲間3人の”後ろ盾”を得ながら、やってきた中川村で彼女と相対した男は持っていた凶器を振り上げつつ復縁を迫りました、しかしエスカレートする脅迫に手ひどい傷を負いながらも頑なにそれを拒絶し続ける妻へ対し「ならば」とばかりとうとう最悪の局面にならんとしたその時…この”修羅場”に介入したのが隣家の住民からの通報を受けて駆けつけた旭川警察署名寄分署誉平巡査派出所勤務の「齋藤高範巡査」だったのです。

 まったく予断を許さない状況に際し、なかば錯乱状態である相手の正気をまずは戻すべく自らの身分を名乗りながら夫を”一喝”した氏、だがよりにもよってこの悪漢は先の窃盗事件でのいきさつでよほど警察を恨んでいたのか、”ひるむ”どころかむしろ激昂しながら怒りの矛先を変えて切りかかってきたそうです。

 更には傍らのならず者たちも夫に加担するといった圧倒的不利な状況の中、それにも臆せず決死の組み打ちに臨んだ齋藤氏でしたが、無念にも形勢は戻らず最後は賊に奪われた自身のサーベルによる攻撃を受け、ついに壮烈な殉職を遂げるに至ったのでした。

 その後自分のしでかした事の重大さにおののき逃亡を図るも一週間後には潜伏先の中頓別村で捕縛されたというこの”救いようのない”殺人犯を、ちょうどその時期に発表された有島武郎の小説「カインの末裔」に登場する粗暴極まりない主人公になぞらえている当時の文献も目にしましたが、物語ではそれでも最後まで夫に連れ添った”人生の伴侶”からも早々に”三行半”を突きつけられるようなみじめな男に無惨にも命を奪われた齋藤巡査はまったく浮かばれず本当に気の毒としか言いようがありません。

 聞けば、齋藤氏の妻は腎臓疾患の加療のためしばらく入院中だった札幌の病院にてこの訃報に触れたとのことですが、その事実から想像を膨らましてみると「一度警察を退官したのち約10年間務めた森林監守の仕事を辞めてまで再び巡査の職へ戻った」と紹介される氏の経歴の背景には、もしや長く病床にある奥方の高額な治療費の捻出目的も含まれていたかも知れず、だとすると本件に係る二つの家族における「所帯を守る」という意味のあまりにも大きい違いには唯々絶句するのみです。

 この事件で検挙・訴追された凶漢たちが以後どうなったのかは公判内容を後追いしていないためその顛末は分かりませんが、おそらく各々が厳罰に処される形で結審したのだと思います、ただ先のエピソードに引き続き「複数の凶悪犯に巡査が単身で臨み凶刃に斃れる」といった深刻な事例が残した問題に対しては、今後の改善へ向けて警察機構が何らかの対策を求められたのは間違いないでしょう。

 しかしながらその後においても、道庁巡査の募集に際しまったく芳しくない応募結果を受け対象範囲を東北・北陸地方へまで拡げる旨の内容や、その土地の実力者に”おもねる”傾向にある派出所巡査の実態などの新聞記事を見るにつけて人員配置や増員、あるいは地方の対策が決して順調に進んでいない苦しい事情が読み取れます、かくしてとりわけ”後進”地域の警察官が”正しく”職務を果たそうとすればするほど、本来無用な危険に晒される”不具合”は、まだしばらく彼らを脅かし続けるのです。

碑面

【上川町】「故巡査部長渡邊喜作之碑」

殉職年月日:大正12年 6月 8日

建立年月日:大正13年 6月 8日

建立場所: 上川郡上川町共進

 序文で記した書籍の中で殉職事例の一覧をいわゆる「凶刃要因」に絞って見ると、大正時代に至ってからはそれまであまり見られない「一般人」が加害対象者になっているケースが目に付きます、つまり犯罪が最初のきっかけではなく住居などでの身内のトラブルの処理中、”成り行き”で不幸な結果を招いてしまった事案がいくつか起こっているのです。

 広義の意味では先の中川村の事件(大正7年)もこれに該当しますが、大正11年3月に札幌警察署丘珠派出所の管轄内で正常な思考力を失った一人の農民が引き起こした事案や翌12年の本件など、大正末期に目立つこれらの事象の発生が時節柄深刻な不況が続いていた当時の世情とまったく無関係ではないような気がするものの、もちろんそれも単なる想像に過ぎません。

 大正12年(1923年)5月11日午後11時頃、札幌警察署山鼻町派出所へ配属されて間もない「渡邊喜作巡査」は、町内の自宅で泥酔の上大暴れしている男の取り鎮めを求める家人からの通報を受け早速現場へ急行しました。

 北海道の花見シーズンにあたるこの時期は程度の違いこそあれ毎年似たような騒ぎが近辺で起こっており大抵は警察沙汰になった時点で治まるのですが、しかし今回に限っては”一筋縄”にはいかなく、一体何に対して怒りを覚えているのか家の中で刃物を振り回す玩具職人の男へ対し説諭を試みるも、まるで聞く耳を持たない状況にやむを得ず署への同行措置を執行しようとするや益々激昂、巡査ばかりか同居の妻や弟へ向けての殺意まで感じられたため、これを取り押さえんと組み合いとなります。

 だが人並大きい体格で一説では過去に警察官への剣術指導をしていた経験を持つというこの男を組み伏せるのは容易なことではなく、しばらくの格闘の中で巡査は凶器による複数箇所の傷を負いながらも遂には捕縛に成功、気丈にも本署までの連行・引き渡し任務を終えた後、昏倒し病院へ運び込まれたと言います。

 心配された身体の具合は幸いにも「重傷であるものの生命には別条ない」レベルであり、この時は「”天晴れ”な逮捕劇」の主役として世間に知れ渡った渡邊巡査でした…が、新聞紙上にその名前が再び載ったのは約1か月後、但し今度の内容はまさかにも彼自身の「訃報」だったのです。

 記事いわく「入院加療中『丹毒』を併発し6月8日に急逝した」とのこと、おそらく現在で言う「敗血症」が命取りとなったのだと思います…とすれば今なら病院側の術後の処置方にも疑義が生じるところですが何せ大正時代の医療レベルであれば致し方ない面も多分にあるのでしょう。

 自らが農家出身であったからかとりわけ庶民へ向けての温和な対応が際立つ模範巡査だったという渡邊氏、きっと早期の職場復帰を目指して療養に専念していただろうだけに、快方へ向かっていながらこの期に及んでの急変は本当に残念でなりません。

 そんな渡邊巡査を悼む碑が建てられたのは、事件のあった札幌から遠く、彼が幼少の頃を過ごした上川村(現・上川郡上川町)の地でした…明治後期に富山県より入植してから黙々と農地開拓に励んでいた実父が自身の所有地の一角に建立した立派な碑、喜作氏が家督ではない次男であるがゆえ時代柄表面上は放任的に接していたかも知れませんが、実は父にとって誰に劣らず自慢の息子のひとりに変わらなかった証しではないでしょうか。

 それから100年余が過ぎ、自身が携わることはなくも渡邊家が代々守り続けてきた上川の土地には”苔むした”姿で今も彼の碑が遺されているのです。

碑面

【根室市】「故坂野隆義警部殉難慰霊之碑」

殉職年月日:昭和54年 6月21日

建立年月日:昭和55年 6月21日

建立場所: 根室市川口

 道東地域のいずれも主要都市である釧路市と根室市、なんとなく近い”隣町”の印象にある両都市間の距離が地図で見ると意外にも離れていることに驚いた記憶があります。

 もし検証のため、その間を結ぶ「国道44号線」を実際に車で走行してみれば、なるほど到着まで相当の時間がかかり「総延長137.7km」の公称数値が偽りでない事実をきっと実感できるでしょう。

 その道中には厚岸湾や別寒辺牛湿原(べかんべうし)など所々に眺望の良いエリアもあるものの、基本的には山林や草地といった自然の単調な景色が延々と続きドライバーの”眠気”を誘う、そんな本国道を釧路から向かうと根室市域に入って間もない川口地区の道路わきに一人の警察官の殉職碑が建っているのが目に入ります。

 これは昭和54年(1979年)6月にここで起こった交通事故によって亡くなった根室警察署厚床派出所勤務の巡査部長(当時)の慰霊と交通安全祈願のために建立されたものですが、一見何の変哲もない片側1車線の直線道路であるこの事故現場、実は以前から事故が多発している要注意エリアでした。

 というのも、夏場を迎え頻発する霧により見通しが悪くなりがちな道路状況の中、根室港や花咲港から水揚げされた海産物を満載し荷下ろし先へと急ぐ大型トラックの通行量が増える上に、「追い越し禁止」の交通規制がこの近辺で解除されるに伴い、ここまでの先詰まり状態に苛立っていた高速車が一斉に追い越しを試みるなど、この時期の界隈は潜在的に事故を招く要素がいくつも重なる極めて危険な地帯だったのです。

 本事故についても、濃霧に包まれた薄暮時での走行中、先行車を追い越し中の4トン貨物トラックとたまたま対向車線を走っていた小型パトカーが正面衝突を起こしたという言わばこの地ならではのもので、先導する別のトラックに引き続き当の車両が無理な追い越しをかけていたため、対するパトカー側としては目視確認出来た1台目はともかくまさかの後続車を回避する術がなかったようです。

 パトカーを運転していて殉職された「坂野巡査部長」(38)は道警本部高速機動隊など主に交通関係部署での職務を歴任、運転技術はもちろんリスク管理や危険予知力にも優れていたと聞きます、この日も濃霧発生の気象状況を受け、不穏な交通の流れを律するべく出動した矢先での悲劇でした。

 現在国道44号線の当該地区を走行すると、2車線の「ゆずりゾーン」が比較的多く設置されている一方で、1車線の区域はコンクリートの中央分離帯で車線が仕切られており直線路にも拘らず物理的に追い越しが不可能な構造になっている様を確認できます、事情を知らなければ不便を感じるドライバーもいるかも知れませんが、過去に幾度かあったこのような悲しい事故を受けての安全措置であることに理解が必要です。

碑面

【夕張市】「故北海道廳巡査池田真清記念碑」

建立年月日:大正14年 8月

建立場所: 夕張市住初6

 他の事例と違って本件については「殉職」に当たらず、従い前出書籍の芳名録にその名を見ることも出来ませんが、本碑に祀られる「池田真清巡査」は空知管内の夕張(当時登川村)に初めて配置された警察官であり、明治時代中期において炭山の開坑により目覚ましくも同時に不安定極まりない発展を見せる炭鉱街の治安維持に尽力されました。

 碑面には職務中の負傷によりやむなく退官した後、そのまま留まったこの地で非業の死を遂げた旨のあらましが刻まれているものの、ただ実際に氏がどのような足跡を残したかを示す資料はほとんどなく、その最期の真相も正確なところは分かっていません。

 彼が「請願巡査」として夕張に赴任したのは明治23年(1890年)5月のこと、当年に最初の坑口を開いた「北海道炭鉱鉄道会社」からの依頼に応じて北海道庁より派遣された訳ですが、当時の夕張には先に稼働していた前出「幌内炭山」からの補充者の他にも、有望な”働き口”を求めて遠方よりはるばる訪れる者、あるいは当地をあらたな商売の場として着目した人々などが”にわか”に集まり、街がどんどん活気づく様はある意味”前途洋々”とも言える勢いがありました。

 だが一方で、その中には上のエピソードでも記したように他所から流れてきた”荒くれ者”や”前科者”など社会のルールから著しく逸脱した人種が相当数含まれていたため、炭鉱と村の安全を守るべき巡査にとっては”前途多難”な行く末が確実に待ち受けていたのです。

 実際、「労働賃金切り下げ」に係る採炭所方針を発端として明治26年の年明け早々に起こった騒動では、会社側との交渉決裂を機に扇動された約300名の採炭従事者が無秩序に大暴れし、岩見沢や札幌から駆けつけた警察の応援部隊により暴徒が鎮圧されるまでの数日間に飲食店など市街地のあちらこちらで破壊・略奪行為が発生、その際に襲撃を受けた巡査派出所も手ひどく損害を被った記録が残っています。

 これは極端な事例としても、普段よりかように荒んだ環境の中、職場や盛り場で頻々と起こる”揉め事”に当初はただ独りで対処していた訳ですから、身体と命がいくつあっても足りなく、職務遂行の意欲を維持するのはとても大変なことだったでしょう。

 そんな池田氏が前述の通り何らかの要因により”深手を負って第一線から退いた”のが果たしていつの話なのか明確ではありませんが、その後不慮の死を遂げた彼が夕張川で発見されたのが明治34年(1901年)の事だと言われています。

 思えば、前年の明治33年当時の夕張は、職務待遇の改善を求める鉱夫による再びの大規模騒乱や反社会勢力同士の”血みどろ”の抗争が市街地で展開されるなど、かつてないほど地域の治安が悪化していたので、あくまで推察の域を出ないものの、もしやそれらの事象が彼の身の回りに起こった事に何かしら関係しているのかも知れません。

 また氏の最期の経緯に関して、昭和45年の新聞コラムには「夕張川上流で大量に発見された砂金の利権争いに介入したため命を奪われたらしい」との一説が掲載されていました…何かと物騒な時勢柄、面倒事に巻き込まれた可能性は十分にあるでしょうが、なにしろ彼に係る一連の事柄についてその事実を裏付ける記事や資料が一切ないのでもちろん断定は出来ません。

 ただいずれにしても、その時代の界隈が非常に殺伐とした状況下にあったのは確かであり、炭鉱会社から請願された巡査という元々の立場上、法に背くような不届者はもちろんのこと、時に一般の労働者からも謂われなく”敵視”されるケースさえあり、長年にわたり真に心休まる時は少なかっただろう氏の心情を慮るとあまりにも気の毒に思ってしまいます。

 大正14年(1925年)8月、没後25年を機会として町の有志の手により前出記念碑が現在の夕張神社地先に建てられました、時の夕張町長を初め警察署長や炭鉱会社の幹部などの歴々が臨席した除幕式典の様子を報じた当時の新聞記事の内容からも、氏が残した功績について少なくとも行政・企業の側からは大いに感謝されている様子が窺えます。

 書き出しに記した通り、退官後の出来事であるがゆえに本件は「殉職」事例として公式には扱われません、しかしはるばる伊予国(愛媛県)から大志を持って北海道の巡査になった池田真清氏の数奇な生き様は「警察史」の名簿に記載されることはなくても、碑を通じて後世へ伝えられていくのでしょう。

碑面

【新冠町】新冠町所在航空機事故慰霊碑

【新冠町】新冠町所在航空機事故慰霊碑

 日高管内の新冠町(にいかっぷ)を全国的に有名にした要素は何と言っても日本有数の「競走馬の産地」としての存在でしょうか。

 実際、サラブレッドなどが含まれる「軽種馬」カテゴリーに関する直近の統計を見ると、国内における生産頭数実績では全国4位に位置する同町を含め隣接する日高地方の自治体でおよそ80%の構成比を占めるほどの主要産業となっています。

 もちろん”一朝一夕”で現在のレベルまで成長した訳ではない当地の「馬匹の生産・育成拠点」としての歴史を遡るとなんと明治時代初期へまで達することになります。

 今後における北海道開拓の際に必要不可欠な存在になる馬の安定生産や品種改良を図るにあたり、比較的温暖な気候である上に清涼な河川や豊富な草木にも恵まれている丘陵が放牧に最適な土地として認められた新冠には「開拓使」の手によって明治5年(1872年)に官設牧場が設置され、それ以降実に150年以上にわたり時代に則した形で農耕馬や軍馬、そして競走馬と様々な馬が産み育てられてきたのでした。

 かくも歴史深い町につき、往時より悲喜こもごも様々な出来事が当然あったと思います、但し地域の生い立ちや「いしぶみ」についてまとめられた書籍によると、町内に建つ慰霊碑にまつわるものに限れば、意外にもさほど”いにしえ”の話でもない昭和の中後期にあたる頃に重大事が集中していたことが分かります。

 その中には、台風がもたらした大水害(昭和30年)やダム工事中の雪崩事故(昭和36年)など大勢の人が一度に犠牲となってしまった未曽有の大災害もありましたが、私としては昭和30年代と同50年代にあった航空機事故に係る二つの碑の存在がとりわけ気になりました。

 というのも、本来旅客便の航行路でもない上に、地図を見れば分かる通り航空機など”瞬時”に横断出来てしまうほどの”細長い”町域において、そう滅多にないはずの空の事故がよりによって二度も起こっているからであり、もしや何らかの因果を疑わせる程ですが無論両事案に関連性はありません。

 ただこれらの悲劇の間に共通する点がひとつ、それは事故で命を落としたのがいずれも職務中の国家公務員だったことです。


【新冠町】「殉職之碑」(営林局チャーターヘリ墜落事故慰霊碑)

事故発生年月日:昭和33年10月26日

建立年月日:  昭和40年  5月

建立場所:   新冠郡新冠町若園

 知る人ぞ知る新冠町の「サラブレッド銀座」(道道209号線)、太平洋側から内陸部へと向かう沿線には多くの軽種馬がのんびりと放牧されている牧場エリアが延々と続き見る者の目を楽しませてくれます。

 その中には数々の重賞レースで活躍したような往年の駿馬を輩出している有名な「ファーム」もあるそうで、一部の競馬ファンにとっては「聖地」とも言える街道ですが、そんな通りも奥へ進むに連れ目に入る風景もだいぶ変わり、10kmも過ぎるとまばらになった牧場に代わって山林地が目立つようになってきます。

 そうこうして着いた人口50人ほどの小さな集落「若園」で枝分かれした山道脇の雑木林の中にそっとその碑は建っていました。

 碑面にある「殉職之碑」の文字だけでは分からなかった建立の事由は背面に詳しいいきさつが刻まれており、昭和33年(1958年)にこの地であったヘリコプターの墜落事故により、搭乗していた2名の営林署職員が命を落としてしまった悲しい歴史を読み取ることができます。

 広大な国有林の管理を担う北海道の営林局においては、昭和29年(1954年)の台風15号によって被害を受けた風倒木の調査や後処理時に使用されたのを皮切りに、この頃は業務の際本格的にチャーターヘリを駆使する機会が増えつつあったようで、その辺りの背景については『全日空職員殉職碑』の逸話内でも取り上げていますが、今回事故を起こしてしまったのも実は同社の所有機でした。

 ヘリコプターの死亡事故としては北海道内、そして全日空にとっても共に初めてのケースである本件、その原因と影響やまた係る後日談についてここでは少し触れてみたいと思います。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 当年(昭和33年)の9月に日本列島を襲った台風22号(狩野川台風)は当時最低気圧の世界記録(877ミリバール)を作ったほどの強烈な勢力を有しており、上陸時において伊豆半島を中心に甚大な被害をもたらしたこの台風の今後の予想進行ルートが本道の太平洋岸に沿う形で描かれていたため、広範囲の山林地が壊滅的損害を被った4年前の悪夢の再来を危惧する所轄の営林署が事の成り行きを殊更に注視していたのは言うまでもありません。

 結果的には北海道到達直前に弱体化、温帯低気圧へと変わったことにより幸いにも被害は想定レベルより少なく抑えられ最悪のケースは回避出来ましたが、規模に拘らず国有財産たる立木の異動状況を把握してその処理法を策定するのが役所の務めであり、営林署には事後において倒木等の実態調査のため現地を視察する仕事が待っていました。

 但し、昔と違って当時はすでに上空からの空撮で位置や規模等大方の確認を済ませる方法が普及しており、更には滞空機能を活かしながらより的確な情報収集が可能なヘリコプターの使い勝手が良かったことから、太平洋岸地域では東胆振から日高地方全体へかけての国有林を管轄する「札幌営林局」としては10月22日から31日までの予定で操縦士込みでの機材チャーターを、この業界ではもっとも豊富な実績を誇る全日空の札幌出張所へ早速依頼したのでした。

 さて、日替わりで当該所轄営林署の担当係官が同乗し各地で順次始まった調査飛行でしたが、思いのほか被害範囲が広くなかったためか作業は大幅に捗り、多くの予備日を残した10月26日には今回の最終工程となる厚賀営林署担当エリアへ向かうこととなります。

 その日の発着基地として設定された新冠村若園の営林署管理敷地を朝方に飛び立った全日空の3人乗り小型ヘリ(ベル社製47D-1型7012号機)はここでも順調に対象林地での職務を終わらせ、早くも午前11時前には帰還の途についていました…かつてはそれなりの人手と時間をかけて調べたのであろう作業が省力化・効率化へ向け劇的に進歩している現状を、同機に乗り込んでいた厚賀営林署経営課所属の2名の実務担当者もおそらく一様に実感していたことでしょう、だが先端的な機器と技術を用いたこの業務には最後に及んで”昔ながらの罠”が待ち受けていたのです。

 ヘリは丘陵の谷間に牧草地が広がる通称「スネナイ沢」に沿って進んでいたそうです、然して着陸地点である造林用苗圃場がいよいよ近づき飛行高度を下げたその時…パイロットの視界に入ったものは目前を横切る一条の「送電線」でした。

 フライトの際にもっとも注意しなければならない要素のひとつとして初期の頃から取り上げられていながら、現在に至るもいまだ墜落事故を引き起こす一因になっているこの細くも危険なケーブル線、当日があいにくの曇天のため非常に目視確認がしにくい条件であった上に、左右の高い地点に”そびえ立つ”存在が同時に電線の”ありか”をも示すはずの「送電塔」も、当地の場合は集落界隈の需要を賄うだけの低電圧仕様に合わせた”背の低い”簡易タイプだったと聞きます。

 ただいくら目につかないほどの小規模設備とはいえ飛行体にとってはそれらがこの上なく怖ろしい障壁に他ならず、とうとう避けきれなかった線に触れた後「とんぼ返り」をうって眼下60mの雑木林へ墜落した機体は間もなく炎上、全身に打撲と火傷を負いながらも命からがら這い出した操縦士の他は残念ながら職に殉じる結末になってしまいました。

 事故で亡くなった両名はいずれも年齢が30歳前後の前途ある若者であり、片や2歳と4歳の幼子を残して、そしてもうひと方に至っては新婚1か月という本来もっとも幸福感に満ち溢れているタイミングでの災難だけに遺された家族の悲しみの深さには計り知れないものがあったでしょう。

 そして、一人助かった操縦士が病室で誰に言うでもなくうわごとのようにずっと謝罪の言葉を繰り返していたという何ともやりきれない後味を残した本事故、いつからか巷で言われていた「ヘリの安全神話」らしきものもこれで崩れてしまった訳ですが、職員を失った札幌営林局としてはさすがに今後のヘリ使用計画に関する見直し談話を発表していたものの、ある意味原因と対策法が明確な事例だけに、これまでヘリコプターを重用あるいは今後活用を検討する業界が方針を改めるきっかけまでにはなり得ず、彼らが以前の手法へ回帰することはありませんでした。

 かくして世の中の流れは『全日空職員殉職碑』のエピソードで描かれた時代へと繋がっていくのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 本件の当事者である全日空の操縦士は前身の「日本ヘリコプター輸送」を立ち上げた時期(昭和27年=1952年)と時を同じくして入社した最初期メンバーであり、年齢はすでに47歳を目前にした明治生まれのベテランパイロットでした。

 戦前期からの生粋なる「飛行機乗り」だった彼は、昭和天皇を前にしての曲芸飛行の披露や敵爆撃機B29との交戦など陸軍時代における数々の武勇伝を綴った「一代記」が刊行されるほどの人物だったのですが、終戦を経て復員後郷里に籠っていたところを旧軍の知人からの誘いを受け再び大空の世界へ”舞い戻った”という経歴を持ちます。

 天性の資質なのか、勝手が違うはずの回転翼機の扱いについても極めて短い講習時間での習得から免許取得を果たし、無論操縦技術も確かなものを持っていた氏、ただ一方でその”特攻隊あがり”の「豪胆」な性格が災いとなったことも過去にはあったようで、昭和28年8月には送電線設置ルート策定のため北海道電力の社員を乗せて夕張郡栗山町の山林上空を飛行中、ちょっとした思い込みからの判断ミスにより人的被害は軽微だったものの購入したばかりのヘリ機材を喪失するほどの墜落事故を起こしています。

 会社設立以来、航空機部門の赤字をヘリコプター事業の収益で”穴埋め”すべく”東奔西走”していた功労者へ向けるには少し酷な表現となりますが、今回の事例においても事前情報の把握と適宜判断によっては避けられたアクシデントだっただけに、やはりオペレーターとして落ち度があったと言わざるを得ないでしょう。

 クライアントの死亡という深刻な結果を受け会社側でも事態を重く見たのか、職場復帰後は運航管理セクションで内勤業務に従事することになった彼にはもう第一線へ戻る道は残されていなかったと思われます。

 然して迎えた昭和35年(1960年)は全日空のヘリ部門にとってとりわけ受難の年になったことは過去記事に記したところですが、直属長の運航課長を初め、本件を含む道内での様々な受注案件を取りまとめてきた札幌出張所主任や、また彼をこの世界へ引き込んだ関係者の一人である専務といった、氏にゆかりのある人たちがいずれも殉職により相次いで旅立っていきました。

 これらの出来事が氏に与えた影響はもちろん小さくなかったことでしょう、翌同36年には自身に区切りをつけるようにそして彼もまた会社を去っています…同年は図らずも初代社長が勇退を決断した年でもありますが、今から振り返ってみると前身会社を含めて設立10年の節目となるこの時が全日空にとっていろいろな意味での”時代が変わった”タイミングだったのかも知れません。

 

※参考文献「パイロット一代」(岩崎嘉秋氏著)

碑面

碑文

【新冠町】「LR-1.02号機殉職者慰霊碑」

事故発生年月日:昭和52年 6月14日

建立年月日:  平成元年 6月

建立場所:   新冠郡新冠町節婦町

 新冠市街から北西方向へやや離れた太平洋沿いに位置する「節婦町」(せっぷ)は、町内唯一の漁港を持つ土地柄もちろん漁業・水産業が盛んな地区であるものの、但し携わる人の数も減っているのかコンブやウニなど主力品の漁獲量は統計を見る限り近年減少の一途を辿っています。

 明治末期に辺りが本格的に開かれたのち、漁業のみならず今で言うところの海運業もあらたに起こり主に函館との交易の窓口としての役目を担った当地は、その後も新冠の他地域とは一線を画した形の発展を遂げていますが、時代の移り変わりとともにそれらの事業も廃れ、これからはもうかつてほどの活況を見ることは難しいのかも知れません。

 そんな今は”こぢんまり”とした港町にはその穏やかな街並に”似つかわしくない”とも言える、過去に起こった大きな出来事の慰霊碑が2基建っています。

 ひとつは古く太平洋戦争の最末期(昭和20年=1945年)に敵潜水艦からの雷撃を受け節婦沖に沈没した陸軍輸送船「大成丸」(大誠丸)の乗員へ向けた碑、そしてもう1基は昭和52年(1977年)にあった陸上自衛隊の連絡偵察機の墜落事故に関するもので、図らずもいずれも軍事が絡む事案ですが、公表されている情報に不詳な要素が多い面でも両者には共通点がありました。

 もっとも、片や戦時作戦中の出来事ですので時世柄そうなるのは致し方ないのでしょう、しかし後者の場合も機密に抵触、あるいは自衛隊への批判をいたずらに刺激するのをおそれた当局からの情報提供が止められてしまったのか、軍用機が市街地へ墜ちて乗員全員が亡くなるといった大事故にも拘らず、新聞紙面においても翌日の第2報以降はまったく本件に触れられることはなかったのです。

 一体、何が原因でまた墜落までどのような経緯を辿ったのか…WEB上でもほとんど情報が残されていない本事故について、当時の新聞報道内容に個人的憶測を交えてここに取り上げてみます。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和52年(1977年)6月14日、根室管内別海町の陸上自衛隊矢臼別演習場他では同第1師団の第31連隊(埼玉県朝霞市駐屯)を主体に実施される大規模演習がいよいよ始まっていました。

 「北方機動特別演習」と銘打った同イベントは、東西冷戦体制の中で敵性国家である「ソビエト連邦」(ソ連)による北海道侵攻を想定、管轄エリア以外で発生した有事の際における速やかな機動展開を図るため他都府県の陸自連隊を対象に昭和45年から順繰り行われている予行演習と言えるもので、実際に前年の昭和51年9月にはソ連の最新鋭戦闘機「ミグ25」の北海道領空内への侵犯を許した上に事件の後処理の段階で同国との間に軋轢と緊張が生まれた状況を受け、本年から揚陸訓練を加えるなどその規模が拡大化されたと聞きます。

 かように本格的な国防訓練を策定・監督し成果を総括する役目にある「東部方面総監部」の責任者らを現地まで送り届けるため、その日の朝に東京の立川飛行場を発ち、演習地に最寄りの第5師団帯広駐屯地(当時)へ向かっていたのが件の連絡機でした。

 ところが、目的地の十勝飛行場界隈は当日あいにくの濃霧に包まれており、視程がどれほどだったのかは不明ながら別段危険を冒してまで強行する必要などないところから、結局この場での着陸を断念した機は代替地である千歳基地で一旦待機する方法を選択、前述揚陸演習が行われている「浜大樹訓練場」をちょうど眼下に望みながら太平洋沿いを西へ向かっていきました…が、彼らがそのまま千歳へ無事に辿り着くことは叶わなかったのです。

 ちなみに一行が乗っていた連絡偵察機は三菱重工業が開発・製造した「MU-2」型という7人定員のプロペラ双発機であり、民間向け小型航空機(1963年初飛行)をベースに陸自専用の改装を施した仕様になっていました。(陸自内型番LR-1型)

 旅客機「YS-11型」に続く純国産航空機として誕生した同機は、陸自(計20機)の他、航空自衛隊に33機納入されたのを初め、ビジネス用途を中心にして外国へも多く輸出、生産を終える昭和62年(1987年)までの20年余りの期間に計762機が製造されたという実績を持つ”成功作”であり、その総合的な性能には押し並べて高い評価を得ていたものの一方で操縦面に関してはやや”気難しい”部分があったとも言います。

 さて、目的地に到達することが出来なかった同機(LR-1・02号機)の姿はその時新冠町節婦市街の貯木場の敷地内にありました…但し事態は深刻で、時刻は午後0時13分、行程を半分残して同所へ墜落してしまった機体は無惨にも大破、この事故では住民を巻き込むことはなかったものの5名の乗員においては残念ながらただ一人も助かりませんでした。

 順調に航行していたはずの機で何が起こったのか…それを語れる人がいない上に本件では事故機から緊急事態の連絡が一切なされていなかったため、原因調査はかなり難航したようですが、結局のところ序文で記した通り真相が公にされることはなく、その内容を知るすべはありません。

 ただ素人が勝手に推察した上では「節婦沖の洋上を過ぎたあたりで急に陸地へ向け右旋回、折り返すような形で市街裏手にある標高約60mの小さな山(通称バット山)の頂きに一度接地した後、きりもみ状態でそのまま市街地まで落ちてきた」という目撃者の証言から察するところ、突発的なエンジントラブルに見舞われた結果「片発」での飛行を余儀なくされた可能性が高いように感じます。

 また墜落までの経緯において一説では「トラブルを受けバット山への不時着を試みたものの失敗した」との考察もあったようですが、当時の航空写真を見る限り海岸線から一段高い「平場」にはもっと容易に着陸出来そうな牧場が広がっていることからしても、むしろ制御不能状態での落下途中に山があったと見る方が自然なのかも知れません。

 とは言え、同機を含め一般のプロペラ双発機においては万一片方のエンジンが停止する事態に陥っても対処を誤らなければ継続飛行が可能なように設計されており、操縦者側も訓練を通じてそのことを理解していたはずです…だがしかし聞けばそれは一定の高度と速度が確保されている場合に限定される話であり、今回のケースでは「(現場より約50km手前に当たる)浦河沖を低空飛行する同機を見た」という別の目撃談と、前述「機から連絡・報告が出来ない」ほど時間的に猶予がなかったのであろう状況を結びつけると、低空を航行中にまさかのエンジントラブルが発生しその時点で高度が足りていなかったため、態勢の立て直しをする間もなく墜落に至ってしまったのではないでしょうか。

 尚、本件の状況とよく似た経緯と結末を呼んだ陸上自衛隊北宇都宮駐屯地近くへの墜落事例(昭和56年8月・栃木県)を含めて、同型機が起こした重大事故は陸自関係で合わせて4件、空自でも4件あった他、主な輸出先であるアメリカにおいても1970年代中盤からの9年間で計32機が墜落している状況を受け米国連邦航空局が原因調査に乗り出したという記録が残っています。

 高速巡行や航続力など高性能なスペックが人気のMU-2型機だったものの、ひとたびトラブルに見舞われた際には回復までの操作にかなり”手間取った”という話もあり、その点が先に記した”気難しさ”に繋がっているようですが、それでも後年アクシデントが目に見えて減ったのはやはり、このような不具合報告や時に悲劇の発生を受けてエンジンや機体の改善・改良の適宜実施、あるいは操縦側の心得・対処法がこれまで以上に明確化されたからなのでしょう。

 技術力向上・確立へ向けての過渡期ゆえに頻発したとも言える数々の悲しい事故…完成形に至るまでここまで多くの犠牲を必要とした現実へ対しては理想論とかけ離れた非情なものを感じずにはいられませんが、せめてこれらが単なる過去にあった出来事としてだけではなく、現代の最新技術と設計思想にきっと何らかが活かされているはずと信じたいところです。

碑面

【音威子府村/幌延町】天塩線関連慰霊碑

【音威子府村/幌延町】天塩線関連慰霊碑

 タイトルにある「天塩線」とは現在の宗谷本線(旭川⇔稚内)に当たる鉄道路線の旧名称であり、同線は同時期に敷設された他線との兼ね合いから呼称や対象範囲が幾度か変更されたという複雑な経緯を持っていますが、ここでは音威子府⇔稚内間(幌延経由)の線区のことを指しています。

  本線の誕生までのいきさつについては『天塩川渡船遭難』のエピソードでも少し触れておりますが、陸軍師団が駐屯する旭川から本土最北端の稚内まで鉄路を通すべく明治30年(1897年)に着工されたのがことの始まりです。

 その大部分が当時における「天塩国」域内を通るレイアウトから官設「天塩線」と名付けられた路線は「塩狩峠」越えなどの道中の難所を踏破しつつおよそ6年の歳月を費やして名寄まで到達、しかしこの勢いをもって一気に北進すると思ったところで財政難を理由に一旦”足踏状態”に陥った工事は、その内勃発してしまった「日露戦争」(明治37~38年=1904~1905年)の影響を受けやむなく中断せざるを得なくなりました。

 然して戦後に至って、戦利としてロシアから割譲された「南樺太」の本土側玄関口になる稚内までの交通インフラ確保がいよいよ必要不可欠となったこともあり、明治42年(1909年)に工事が再開された訳ですが、この間に鉄道を取り巻く環境は劇的に変化していたのでした。

 まず「鉄道国有法」(明治39年=1906年制定)によって道内すべての鉄路が国有化されていました…もっとも本線はもとより「官設」扱いではあったものの、法施行前後にはその所管省庁が目まぐるしく変わることとなり、開業区間の運営面や工事発注の際にも何かと混乱をきたしたと聞きます。

 さて、そんな中でも工事は地道に進捗し大正元年(1912年)に音威子府(常盤村)まで行き着いた路線は、ここで重大な岐路に立たされることになります、というのも当初計画ではこのまま天塩川右岸側に沿って内陸ルートを北へ突き進む予定であったものの、事前の実地踏査の段階において、とりわけ「音威子府⇔中川村」間の敷設にあたっては地形上極めて難航する状況が確実視されており、それは敢行したところでいつ完成出来るかも皆目見当がつかないレベルだったのです。

 施工を困難にする大きな理由としては、天塩山地と北見山地の際(きわ)に険しく両側を挟まれる天塩川沿いの一定区間において路盤を設けるスペースがほとんどなかったことが挙げられ、現代であれば長大トンネルを幾つか造れば解決したのでしょうが、如何せん海外から授かったノウハウをもってようやく自力で隧道掘削ができるようになった時代の話であり、それほどの技術力や予算もない中で、解決法が定まっていなかった設計方の「鉄道院北海道建設事務所」としても相当頭を悩ませていたであろう様子は想像に難くありません。

 そのような局面で代替案として急浮上したのが、北東方向の頓別原野を越えオホーツク海寄りの地域を北進する「宗谷線」(のちの天北線)の新設話でした。

 内陸ルートに比べると距離こそ嵩むものの地勢的障壁が少ない分工事の進捗が早まることが確実な本線への切り替えは施工面から見ると最善策と言えましたがその一方で、当時路線建設の原拠としていた「北海道鉄道敷設法」の上では予定線にも含まれていない新線を優先させるような大幅な計画変更は手続き上何かと面倒だったと思います、しかし「稚内まで速やかに鉄路を通す」という大義に加え、沿線地域の住民に陳情され自らの利権も絡む代議士からの強力な”働きかけ”を受けて、遂には鉄道当局も大きな決断をするに至ります。

 かくて北へ向かう経路は決まりましたが、但しこの結論に到底納得できなかったのは鉄路の開通を当てにしていた”元天塩線”の沿線住民でした…その時代の折、鉄道の有無は地域経済の発展に大きく影響し、集落にとってはまさに”死活問題”であるだけにそう簡単に引き下がれないのも無理はありません。

 この”悲報”を受けてから間もなく幌延村や天塩村の有志によって結成された陳情団がすぐさま行動を起こし、元々天塩線の誘致に尽力してくれた代議士の伝で当時の鉄道院総裁に直接謁見、路線復活の必要性を熱く訴えた結果、そう遠くない内での延長工事着手の確約を口頭でながらとうとう取り付けたというから鉄道へ対する彼らの並々ならぬ執念には恐れ入る限りです。

 こうした水面下での”駆け引き”もありつつ、紆余曲折の結果当初計画から5年遅れての延伸が決まった天塩線、それ自体はとりわけ関係者にとって大変喜ばしい出来事だったでしょうが、そもそも宗谷線の先行を許した原因である地勢上の諸問題を内包したままで突入した工事は”案の定”悪戦苦闘を強いられることになりました。

 結局、それから全通まで10年を要した工事中に斃れた多くの作業員をはじめ、完工後においても頻発した自然災害に巻き込まれた保線担当者など、本線に係って命を落とした人はこれまで100名を下らないと言われています…今回はそれらの方々の慰霊のため沿線に建てられた碑にまつわる逸話を通じて天塩線が辿った厳しく悲しい歴史に触れてみたいと思います。


【音威子府村】「嗚呼天鹽線工事殉難者之碑」

建立年月日:大正10年 9月

建立場所: 中川郡音威子府村音威子府

 この碑は天塩線(延伸部)の起点にあたる音威子府市街の寺院の境内に”ひっそり”と建っています。

 大正6年(1917年)より着手し同15年(1926年)に稚内まで全通した本線の敷設工事(全8工区)の内、前半の「音威子府⇔幌延」間(1~5工区)を請け負った建設会社によって建立されたその碑面には”所狭し”と文字が刻まれており、担当工区の範囲内で職に殉じたと見られる計100名もの作業員らの氏名が年次別に記されている様を確認することができます。

 碑銘からしても本碑がこれら殉職者の功労を讃え御霊を慰めるためにあるのは間違いないと思われますが、あくまでも私の主観ながら今まで見てきた同様の碑が持つ一種の”後ろめたさ”とは違って、むしろ多数の犠牲の上に難工事を成し遂げたという”誇らしさ”すら感じ取れる気がするのは、この会社が初めて北海道の案件を請け負った本州(秋田県)の企業だったからなのでしょうか。

 というのも、聞けば本工事の入札について当初は従来からの慣例通り北海道での実績が豊富な”いつも”の指定業者を中心に実施されたものの、初端の第1・第2工区ともにまったくの不調に終わり、応札者不在の状況に困り果てた発注官庁側(鉄道院建設部)から”泣きつかれた”該社が”義侠心”で引き受けたといういきさつがありました。

 ちなみに入札が不成立になった理由として、当時(大正5年=1916年)欧州を中心に繰り広げられていた長引く「第一次世界大戦」の影響が巡り巡って我が国における各資材の物価をも著しく引き上げていたため、それ以前の基準で積算された工事予算額では到底対応出来ないという事情が背景にあったようですが、実際はそれに加えて序文で記したような「難工事が不可避」である現場の実情をすでに把握していた各業者が「はずれを引くのは御免」とばかりに体よく忌避していたのかも知れません。

 さて、役所への”義理立て”と「今後における北海道での事業拡大へ向けての実績作り」のためにも”勇んで”乗り込んで来たこの建設会社でしたが、序盤でいきなり暗礁に乗り上げたであろう様子は工事記録の各数値などを目にすればおよそ想像が出来ます。

 ひとまず該社が請け負った音威子府から筬島を経由して神路まで至る1~2工区は合わせて15km程度と距離こそそれほど長くはありませんでしたが、その道程の大部分においては天塩川沿いの山裾を切り取って路盤をこしらえる必要があり、全工区分を見比べた限り他より明らかに割安な受注金額をもって賄うには限界があったのでしょう、資金不足のため材料や人員調達もままならなくなった工事はほどなく滞ってしまったと聞きます。

 そのような”不健全”な状況は往々にしてさらなる不具合を呼ぶことが多く、本現場においても工事初年度である大正6年(1917年)には実に全体の1/3にあたる33名もの人員の命が何らかの理由によって失われた事実が前出石碑から読み取れ、また下請業者の幹部が作業員の手で殺害されるという尋常ならざる事件が発生するなど、もはやあらゆる面で機能不全状態に陥っていたとしか思えません。

 かくて翌大正7年の前半までほとんど休止に等しかった現場が再び本格的に動き出したのは、第3工区(神路⇔佐久)の工事を引き続き同社が受注したタイミングでした…この時組まれた予算には現実的な物価がきちんと織り込まれていた上に、1・2工区をある意味無理やり請け負わせた結果による現在の有様を見て”負い目”を感じていた役所側の配慮もおそらくあったのか、前倒しにて行われた「1社特命」での入札はまるで”帳尻合わせ”の如く破格の高額条件で落札されています。

 これでやっと資金の目処がついた現場が”息を吹き返した”のは良かったものの、だがこの3工区には施工上もっとも困難が予想される難所が控えていました。

 基本的に「平場」がまったくないため切土しなければ路盤が確保できない地形が延々と続く状況はこれまでと同じでしたが、とりわけこの工区の工事を絶望的に難しくさせていた要因は極めて軟弱な地山の土質・岩質の問題であり、箇所によっては崖縁の土砂を取り除いたそばから地すべりが迫り来るような恐ろしい現象が見られたそうです。

 今後長く鉄路を活用することを思えばとてもではないが山に手を加えるのは不可能な状況を受け、立案されたのが「川の中に道を作る」、つまり山裾に接する天塩川の流域に石垣を組み上げあらたな埋め立て地盤を拵える方法でした。

 文章にすれば簡単に見えますが、かなりの水深をもつ大河の一部を巨大な木枠で締め切りながら、発破をかけて現地の山面から採取した石材を、掘り下げた川底よりひとつひとつ積み上げていくという気の遠くなるような作業を続けて出来た石垣の総面積は約65,000㎡に上った他、擁壁造りに使用した手練りのコンクリート量8,000㎥など、この難関を抜けるのに費やした材料費や人件費は莫大なものとなり、その結果”ふんだん”に用意されたはずの当初受注額でも工費が不足、最終的に追加予算が組まれたという逸話も残っています。

 この想像を絶する難工事においては、その事実を示す報道こそないものの、頻発する大小のアクシデントによって命を落とす作業員が相当数いても何ら不思議ではないし、時世柄いわゆる「タコ部屋労働」に係る嘆かわしい事態も起こっていただろうことは容易に想像出来ます。

 そんな不測・不遇の最期を迎えてしまった人々の名が記される碑が建てられたのは実はまだ工事半ばの大正10年9月のこと、それは中川村誉平まで達した工事(1~4工区)が丁度竣工を迎える直前のタイミングであり、これまで手掛けた中でもっとも難渋した現場を遂にやり遂げ感慨もひとしおだった請負会社としては、おそらくここで「区切り」をつけたつもりだったのかも知れません…しかし実際は本意か否か、この先の第5工区(~幌延)の施工も担当したがために、さらに3年の歳月をかけて碑の空白部へ新たに29名分の氏名を加わえなければならない事態になろうとはその時は思いもよらなかったでしょう。

 過去の鉄道工事、特に明治~大正時代に施工された事案において労務者の中から多数の犠牲者が軒並生まれている史実については関連書物や資料の記載内容によっておよそ認識はしていたものの、こうして当事者の手でその時代に建立された碑面に隙間なく刻み込まれた名前を目の前にすると、これが「本当にあった出来事」である旨をいよいよ実感せざるを得ません、だが長年の悲願たる天塩線開業を迎えた地元の”お祭り騒ぎ”を伝える当時の新聞記事がこの負の側面に触れることはありませんでした。

碑面

【幌延町】「殉職之碑」(線路工手雪崩殉職碑)

事故発生年月日:昭和13年 3月14日

建立年月日:  昭和17年 8月15日

建立場所:   天塩郡幌延町雄興

 先のエピソードは天塩線敷設工事の中の主に第1から第4工区(常盤村音威子府⇔中川村誉平)に関する内容が中心でしたが、今回の話はその後の同5工区間(誉平⇔幌延村)で施工された地域が舞台となります。

 本エリアの工事に関しては「泥炭地を通過する関係で土工に労力を多く費やすも比較的容易に完了した」といった意味合いの総括が、鉄道省北海道建設事務所によって編纂された「天鹽線建設概要」(大正15年刊行)の中の1ページにまとめられていました。

 確かに”至難の連続”と言えるそれまでの工区に比べれば幾分「容易」であったのかも知れません、だがしかしこの線区が潜在的に抱えていながら”つけ残された”問題は後年顕在化することになるのです。

 さて、ここまで狭溢な渓谷を”肩身も狭く”通過していた天塩川の流れも、少しずつ平坦地が広がり始める誉平(ぽんぴら)を過ぎたあたりから波長の短いバイオリズムのごとく著しい自由蛇行状態へと変容していく訳ですが、それゆえに今度は急曲線を描く河川域がまるで山肌を削る勢いで迫るポイントが所々現れ、その地点に通す線路にも当然相応の工夫が要求されました。

 特に、幌延村の問寒別(といかんべつ)と同村雄信内(おのっぷない)両駅間はそのような地形が連続しているもっとも危険度が高い箇所で、当該部の敷設工事に際しては、流れの線形から想定できる侵食の影響や辺りの地質の脆弱さに鑑みると最悪の場合、以前の工区でさんざん苦しめられた「石垣造り」までをも検討しなければならないレベルでした…ただ前とは違って近辺の山際には幸いにも比較的堅固な天然岩が川方向へと張り出す形で露出していたため、それを橋脚代わりに利用した「陸橋」を架けるといった方法でこの難局を乗り切ったと言います。

 だが一方で”急斜面に貼り付く”ように設けられた橋梁は山からの脅威へ対してあまりにも”無防備”であり、大正14年(1925年)に開業された当区間においては、初めの内こそ平穏だったものの昭和初期頃から土砂災害や冬季は雪崩トラブルの頻度が増えだしたそうです、もちろんこれは降雨状態や積雪量に係るものが大きいのですが、どうやらこの頃に発生した「山火事」のせいで多くの林木が焼失し「土留め」や「防護壁」としての本来機能を失ったことが被害の度合いを拡大させる要因になったと思われます。

 この状況を受けて鉄道当局が講じた対策は”人間の目”による異状監視の強化、つまり自然現象たる「1次災害」の予防策には限界があるため、せめて列車が巻き込まれるような「2次災害」は絶対に防ぐべく、幌延保線区に「現場警戒員」を配置し、徒歩による見回りのほか季節や天候に応じて現地の監視小屋に滞在しながら昼夜を問わず警戒に当たることでした。

 悪天候の時こそ”出番”となるような非常に労苦を伴う本職務ですが、実際に界隈にて発生した内で最大規模の災害である「下平陸橋事故」(昭和36年=1961年1月26日)においては、猛吹雪の中で偶然目の前で起こった大雪崩の直撃を受けて延長150mもの橋桁がすべて崩落した様子を目撃したパトロール中の警戒員の働きによって丁度現場近くへ差し掛かっていた旅客列車を緊急停止させることに成功したというエピソードが残されており、もしその時に彼がいなければ間違いなく人命に関わる大惨事になっていただけに、いかにこの地道な作業がなくてはならないものであったかが理解できます。

 のちに至って陸橋の代わりにあらたにトンネルが造られ、また法面保護や雪崩防止設備が進化を遂げる時代まで長きにわたり続けられたというこの警戒体制であるも、危険が伴う職務だけにその歴史の中にはやはり悲しい出来事も幾度かありました。

 その内ひとつは昭和13年(1938年)3月14日の午後2時頃にあったもので、場所は前出「下平陸橋」から3kmほど問寒別方向へ上った「間平陸橋」付近で発生した雪崩に、線路上で作業中の線路工手及び補助員が巻き込まれ3人中2名が亡くなってしまったという内容であるものの、当時の新聞紙面上では起こった事実について簡単に報じられているのみなので原因や状況についての詳細はまったく分かりません…ただ当該地の警戒員を務めていた方の回顧録的文章を参照した限り、これは「雪庇落とし」作業における不測の事故の可能性が高いように感じられます。

 当地の雪崩はおよそ、大雪が降ったあと強い北西風を受けて山頂付近(標高約250m)の稜線沿いに出現する「雪庇」(せっぴ)の成長から崩落に至るプロセスにおいて誘発されるパターンが多く、この元凶たる”雪のひさし”を早い段階で取り除くことが重要なのですが、それを常時目視観測した上で必要に応じて除去するまでが実は鉄道保線区側の担当だったのです。

 作業内容としては山頂まで登って雪庇を処理する班とその結果線路の域内へまで及んだ雪を除く班にそれぞれ数人ずつ配置し、連係を取りながら慎重に進められる段取りになっていました…が、何せ自然が相手ですので計算通りにすべて事が運ぶとは限りません、今回の事例においても新聞社によって数値にばらつきはあるものの最大では「高さ2m×長さ300m×幅50m余」に達する広範囲の雪塊が崩落したとの記事内容から思うところ、3月中旬という寒気が緩む季節柄、もしや頂上におけるほんの些細な作業動作が想定外の大雪崩を呼ぶきっかけになってしまったのではないでしょうか。

 実際本件が上記のプロセスを辿ったものかは不明ながら雪庇処理中において作業員の中から複数の犠牲者が生まれているのは間違いない事実らしく、このような過去を経て鉄路が長年守られてきたのだと想うと、その職務範囲の広さへ対する驚きも加わって、携わった保線職員の方々の苦労が唯々偲ばれます。

 事故現場の近くに後年建てられた殉職碑の周りに地元住民らの手で桜の木と苺の苗が当時植えられたのも、もちろん彼らへの労いと感謝の気持ちがあってのことでしょう。

 今や、往時に植栽された防雪林が大きく育つ山面には高機能な各種保全設備が配備され以前から見れば格段に安全面が向上しているものの、それでもやはりこのエリアが宗谷本線の内でもっとも災害リスクが高い地点のひとつである状況に変わりはありません、稚内行き特急列車でさえ最徐行を余儀なくされる本区域においても、他地域と同様に今後も安全が保たれ続けることを心から願っています。

碑面

【幌延町】「203km地蔵尊」(幽霊地蔵)

建立年月日:昭和31年 7月 7日

建立場所: 天塩郡幌延町下沼

 このブログで今まで取り上げた数々の石碑の類は往時にあった歴史的出来事に基づき建立されています…但し今回対象のそれはその確証がないという意味で”異色”の存在とも言えるでしょう。 

 というのもその誕生までのいきさつがまずあまりにも突飛過ぎてにわかには信じられない内容であるからなのですが、しかし当事者の一人である国鉄保線区の工事担当者が体験した不思議な話が、氏いわく「実話」として北海道の鉄道保線の歴史を辿る至って”真面目”な書籍に掲載されており、そして何よりそれなりの地位と立場にある人の意向と費用負担によってモニュメントが建てられたこと自体は紛れもない”史実”なのです。

 幌延市街からやや稚内方面へ向かった下沼地区の宗谷本線脇に建つ地蔵尊と石碑は、そばにある路線の距離標(キロポスト)が示す数値より鉄道関係者からは「203km地蔵尊」と呼ばれている旨聞きますが、一般の人にとっては「幽霊地蔵」という異名の方が馴染みがあるようです。

 なぜ「幽霊」なのか…それは昭和30年(1955年)にこの近辺で線路及び法面の改修工事が行われたときに、前出国鉄職員を含む複数の関係者が相次いで古めかしい姿の女性の幽霊と遭遇、そちらの世界に詳しい人が語る「大正時代末期における天塩線敷設工事の際、”情念のもつれ”によって命を奪われた土工作業員夫婦の怨嗟が起こり」との言葉を信じた工事責任者の判断にて彼女らの霊を弔うべく各碑類を急遽用意し、追悼儀式が営まれたという過去があるからです。

 そもそも「天塩線下第3工区」(幌延⇔兜沼)として当地で鉄道敷設工事が行われていたのは大正12年(1923年)5月から同15年(1926年)9月のこと、音威子府側からの工程が停滞している中で”業を煮やした”訳ではないものの稚内側より同時並行にて手掛ける「下工区」も大正11年に着手され、南北両線の合流が目前となった工事はいよいよ大詰めの段階をここで迎えていましたが、さすが難関続きだった事案だけあって最後の最後まで楽に完工することは許されませんでした。

 上の逸話で記したように、幌延駅以南の工事はどちらかというと「切土」作業の際の地勢的問題が進捗の妨げとなっていました、しかしここから北側は「泥炭地」を基盤とした広大な湿地帯である「サロベツ原野」に線路を敷設するにあたり、”軟弱極まりない”土地にいくら「盛土」しようとも路盤がまったく落ち着かず、仕上がったはずの築堤が雨を含んで大規模にわたり沈下崩壊するなど、これまでとは違うトラブルが工事担当者の頭を相当悩ませたと伝えられています。

 また、実際地蔵尊がある地点には建設当時、天塩線唯一のトンネル「溫内隧道」(延長約82m)が設けられていたものの、結局完成から10年も経たない昭和8年(1933年)には撤去工事が施され「切通し」になっているところから見て、事後の維持管理でさえも困難なこの隧道を掘削するに当たり、その”厄介”な地質にかなり苦しめられたであろう様子を想像するのは難しくありません。

 かような難工事が進められる”荒んだ環境”の中で、重大な事故や物騒な事件が起こった可能性も十分にあるでしょう、但し隧道撤去工事のあった時代も含め当時の新聞を調べてもあいにくそのような記事はまったく見当たりませんでした…尚、先のエピソードで取り上げた「工事殉難者之碑」に関わる建設会社は幌延までの工区担当につき、他の業者が請け負った本工区での出来事に絡んだ人物名が碑面に反映されることはもちろんなく、かくて手段が尽きた私の”検証作業”は完全に頓挫してしまっています。

 ただ、以降においてその女性についての目撃談は耳にせず、さらに近辺で大きな人身事故が発生した記憶もないので、解釈を広げれば一連の対応によってそれなりの効果と御利益があったのかも知れません、だがその地蔵尊も私が現地を訪れた時(2025年4月末)には碑文が記された石碑と台座だけを残し、建屋や周囲の卒塔婆とともに何故か”綺麗”に撤去されている状況でした。

 無論その理由や背景など知る由もありませんが、同年4月8日には当地からは少し離れているものの沿線で融雪水を含んだ盛土部分が崩れ通行中の普通列車が脱線、復旧するまでの18日間宗谷本線の音威子府⇔稚内間が不通となるトラブルが発生している折、もしも今後新しく生まれ変わったお地蔵様があらためて置かれる時があれば、どうせなら物故者の慰霊と合わせて防災祈願をも含めた「安全地蔵」としてのご加護を是非お願いしたいところです。

地蔵尊用台座と碑(右上は在りし日の地蔵尊)

碑文「鉄道布設工事中、惨殺されし女性、男性の幽靈を弔う」

遠景(防護柵の部分がかつて隧道があった箇所)

【旭川市】油脂工場爆発事故殉職者慰霊碑

旭川市】「殉職者之碑」

事故発生年月日:昭和29年 9月 1日

建立年月日:  昭和35年 9月 1日

建立場所:   旭川市東旭川町上兵村→上川郡東神楽町東1線12号

 北海道のほぼ中央に位置する「旭川市」は、近年徐々に減少傾向にありながらもまだ30万人台の人口を維持しており、トップの札幌市からは大きく水を開けられているものの”まず”は道内第2の規模を有する「中核市」になります。

 本地域の特色として、行政側では動物園やスキー場など観光面に焦点を当てて対外的にPRしているようですが、産業全体で見ると水稲を初めとする農業、製紙や家具製造等の工業と、また各種卸売・小売企業の出先や飲食店が多い点で商業的にもかなり盛んであり、突出して目立つものはないもののある意味非常にバランスが取れているエリアと言えるでしょう。

 歴史的に界隈で様々な業種が比較的偏りなく育まれた要因のひとつとして、かつてここが「陸路交通と物流の要衝」にあたる土地柄だったことが挙げられます。

 明治期における陸軍師団の配置に起因して旭川起点の鉄道網が各々整備された歴史については本ブログの過去記事でも触れたところですが、その後の人口増加により当地自体がそこそこの消費地になったことに加え、高速道路などまだ整備されていなかった一昔前までは当市から鉄路を通じてより大都市である札幌圏、さらには函館を経由し連絡船にて本州へと貨物が運ばれるという物流モデルが出来上がっていたため、北部日本海オホーツク海で水揚げされた海産物を含め北海道の”北半分”で産出された多くの物品が一旦内陸のこの地に集められる”仕組み”になっていたのです。

 そして、製品によっては道内需要を満たすにあたり原材料生産地と大型消費地のどちらにもさほど遠くない中間点で製造した方が輸送コスト的に有利に働くことを理由に、古い時代から製造拠点を旭川に置くケースも少なからずあったと聞きます。

 本エピソードで取り上げる「植物性食用油脂」(サラダ油等)もその内のひとつであり、昭和14年(1939年)に相次いで設立された2つの製油会社が道北各地で収穫された「菜種」(なたね)や「大豆」を集積、工場でそれら原料を圧搾・抽出し出来た「食用油」は都市圏へ、また残る「搾り粕」は加工食品原料のほか肥・飼料として農協を通じて地方の酪農家などへと供給されていました。

 ちなみに同市場に関しては、「さして複雑でもない製法ゆえ最小限の設備投資額での起業が可能な事業モデル」としてもしや安易に考えられたのか、その後太平洋戦争終結を機に多くの企業が参入したものの、昭和25年(1950年)頃には大小取り交ぜ約250社もあったと言われる道内の事業所数は、熾烈な過当競争の末に大半があっという間に淘汰され、昭和30年を前にして日産10トン以上の処理能力を持つ企業はわずか7社へまで減少したそうです。

 当時すでに道内総生産量のおよそ7割を担う屈指の存在となっていた前出旭川の2社が無論その7社の内に含まれていたのは言うまでもありませんが、会社のポジションに”あぐら”をかくことなく採油量の歩留まりを飛躍的に高める新しい製法(抽出法)をその間に確立、設備を増強させるなど生産性向上の企業努力を怠らなかった”老舗”がこの”戦国時代”を経て更なる強みを得た結果になりました。

 かくして、今後の需要増にも期待できる中で競合先が減り、原料入手も容易な土地でこれからもっと大きく事業を発展させる環境は整いました…だが”落とし穴”は思わぬところにあったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和29年(1954年)9月、旭川市内中心部のやや東寄りにある油脂工場では今年の”かき入れ時”を迎えていました。

 というのも、原料の菜種が採れる初夏から始まり収穫大豆が引き続き入荷する秋口過ぎまでが毎年工場操業的にピークとなるためで、その時本工場においても総量200トンにも達する在庫菜種を速やかに処理すべく三交代体制の下、昼夜を問わず稼働していたと言います。

 折しも世の中は「高度経済成長」の幕開け時期にあたり、外食産業等の業務用途の他に一般家庭向け需要も”右肩上がり”になるなど、業界として”前途洋々”な時勢だったと言えるでしょう、ただしこの工場の場合は問題を幾つか抱えていました。

 そのひとつは立地の関係で、創業当時は鉄道駅近くの「街はずれ」に過ぎなかった場所が、15年も経つと地域の発展に伴いもはや「市街地の真ん中」へと変わってしまっていたがため、これまではそれほど問題視されなかった油分の地下浸透による井戸水汚染や煤煙の発生が近隣住民との間の深刻なトラブルと化しており、さらに前述製法変更によって大量の使用が必須となった「溶剤」の存在が”揉め事”を拡大させることになります。

 プレスやスクリューなどを用いて物理的・機械的に原料を圧搾し油分を搾り出す旧来工程の後、一時的に溶剤へ浸漬・反応させることで残留分までもれなく抽出するという化学的プロセスを加える点がこの新しい「抽出法」の特徴なのですが、その際最適な溶剤として使われていたのが一般に「石油ベンジン」と呼ばれる工業用ガソリンの一種でした。

 当然ながら、極めて高い揮発性と引火性を有し燃焼時は爆発的に炎上するこの危険物の取扱いにはとりわけの慎重さが求められていました…にも拘らず溶剤導入後2年足らずで原料倉庫を焼失させるレベルの火災(昭和27年4月)が発生、それをきっかけに不安を募らせた住民から工場移転の要望書が出される等、新たな”火種”が増えた恰好になっていましたが、市役所や消防署あるいは保健所らの指導の下、「排水溝や防火壁の新設」「煙突の嵩上げ」また「溶剤貯蔵タンクの地下埋設」等の公害・防災対策を順次施した結果、ひと時の騒動は昭和28年の段階でひとまずの沈静化を見せていたそうです。

 ところが、役所筋の仲介・助言を受けての工場側の善処や住民側の冷静的譲歩など大勢の人々の努力を以ってようやく落ち着いた状況はこの日におけるただひとつの些細なミスによってすべて”消し飛んで”しまったのです。

 9月1日の午前6時40分頃、三番方(夜勤担当)の従業員が職務に勤しむ「抽出工場」では1基のタンク(5㎥抽出缶)へボイラー蒸気(圧力0.75MPa)を吹き込む作業を始めていました。

 本措置は缶内に残る1kℓ程度の含油溶剤成分を加熱により蒸発させ、次の蒸留工程へ送るために施されるもので、抽出作業の後は毎度必ず実施するプロセスではあるものの、この時いつもと違う状態がひとつだけ、それは担当方の手で開放されていなければならない蒸気排出バルブが何故か閉じられたままになっていたことでした。

 おそらく徹夜勤務の終了を前に注意力が散漫となっていたとしか考えられません、出口を塞がれた”密閉”タンクに”どんどん”蒸気が注入され続けている危険極まりない状態の中、やっと内圧の異常値に気が付いた係員が正しくバルブを操作すべく慌てて走り寄ったその瞬間…遂に持ち応えられなかった抽出缶のマンホール蓋が熱せられた蒸気とともに吹き飛び、このアクシデントに巻き込まれた作業員が気の毒にも”最初”の被害者となってしまいました…だがしかしこれはあくまでも悪夢の始まりに過ぎなかったのです。

 こともあろうに、この後工場建屋から漏れ出し大気中に拡散された気化ベンジンが抽出工場に隣接する事務所内にあった火鉢の火気によって引火、辺りに充満していた目に見えぬミストが連鎖的に反応し、先刻のものとは”桁違い”の大爆発と火災が工場敷地内の広い範囲で引き起こされることになります。

 この事故で当該の2棟はもちろん、爆風を受けた乾燥室や荷造室など合わせて総床面積660㎡もの木造あるいはレンガ造りの建築物が倒壊、下敷きにされた作業員や警備員ら計7名が最終的に命を落とすという目を覆わんばかりの大惨事に至ってしまったのでした。

 こうなることを危惧していた近隣住民を恐怖のどん底へ実際に突き落したこの出来事を受け、もはや元の場所に工場を再建することなど法律や道義的にも不可能な現実を自ら招いた会社側はここでの操業を断念、翌昭和30年には本社機能を残して、主力工場は遠く隣村(東旭川村)の農地の一角へと”引っ越して”いきました。

 ちなみにこの年(昭和29年)は、序文で記した旭川所在のもう1社の工場でも本件の3か月後に同様の爆発・火災事故が起こっており(12月17日・重軽傷者3名)、いずれのケースも普段はしっかり出来ている作業がその時に限って”うっかり”忘れてしまったという「ケアレスミス」が原因なだけにまるで”魔が差した”としか言いようがなく、一体何の因果なのか業界にとってはまさに”呪われた年”になってしまったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この事故がその後の業績に直接影響を及ぼした訳ではありませんが、それからの会社経営は順風満帆とはいかなかったようで、特に日本政府が米国からの圧力に屈して受け容れた「大豆の輸入自由化」措置(昭和36年=1961年)は国内の製油業界全体を揺るがす大事件となりました。

 安価な海外産大豆の大量流入によって大打撃を受けた道内農家が次々と他の作物への転作を余儀なくされたため、今まで原料産地に近い点が強みだった地元油脂工場がその存在意義を失うことになった上に、さらには国内大手メーカーが挙って過剰気味の設備をフル稼働させた結果、巷に溢れ出した商品はいたずらに「価格下落」状態を呼び、需要がありながらも収益が確保できないような体力に乏しい企業は相次いで市場から撤退せざるを得ない憂き目に遭ったそうです。

 然して、本エピソードの舞台となった会社も対策に行き詰った挙句、とうとう菜種までもが自由化された昭和40年代には本州の大企業の実質子会社化、また別の1社に至ってはなす術もなく同時期に会社清算の決断をするに至ったと聞きます…かつて終戦直後の過当競争時では”勝ち組”であった旭川の製油メーカーもこの時は既にもう一方の側に立たされていたのです。

 以降も苦しい業況に置かれる中、OEM生産や健康ブームにあやかった商品展開などで何とか操業を継いでいたこの事業所でしたが、平成14年(2002年)に親会社の経営方針転換を受け遂に解散が決定、敷地を処分する段階において、新工場内に建てられていた慰霊碑(昭和35年建立)については高野山の管長(最高位住職)によって碑銘が揮毫されたつながりで、東神楽町にある真言宗の寺院へ移設されたようです。

 今年(2025年)に開基135年を迎える旭川市の歴史上、単独事象に因るものとしてはおそらくもっとも多くの犠牲者を生んだ出来事の一つだと思われるこの史実、しかしそれを後世に伝えるべく遺された証しは意外にも隣町のお寺で大切に管理されていたのでした。

碑面

碑文

【津別町】津別町所在慰霊碑

津別町津別町所在慰霊碑

 オホーツク管内津別町」は北見市美幌町の南側に位置する農林業また木工業が盛んな内陸の町です。

 山林地の面積が域内の86%を占めるという当地で、林産事業が町の運営の原動力となって久しい訳ですが、そのルーツを辿るとまだ「達媚村」(たつこぶ)だった頃にマッチの軸木を作る工場が出来た明治時代後半まで遡ります。

 その後、相次ぎ地元に誕生した木材加工業者が山に”有り余る”原料を利用して特色ある様々な林産品を生産、その中でも他に先駆けて開発に手がけた「合板材」などは一時期国内最多の出荷数を誇るほど町を代表する製品になりました。

 かくて100年以上にわたり地域経済を支え続けてきたこれらの産業ではあるものの、人口減少による人材不足や需要の先細りといった現在そして今後業界が直面するだろう問題はたくさんあるようで、確かに過去にはあれほど多く操業していた事業所の数も今は一桁台にまで減少、かつての勢いは衰えたかのように感じます…ただ一方で「工業統計」(※)を見る限り、集約された精鋭企業によって産み出された「木材・木製品出荷額」は近年ではむしろ年々増加するなど堅調に推移しており、人口が4千人にも満たない自治体の数値が、本項目では全国でも3番目に多い北海道全体の実績内の10%以上を構成している実態にはまったく驚かされます。

(※公表されている令和2年までの統計データを参照)

 まさに木々からの恩恵を受けながら共に歩んできたとも言えるそんな津別町ですが、しかし悲しいことにそれ故に起こってしまった事故もその長い歴史の中には幾度かありました。

 全国ベースでは現代に至るも労働災害による死亡事例が比較的多く報告されている「林業」に携わる業務においては、以前から伐採時の樹木との接触や車両・機械の操作中での重大事故にとりわけの注意が喚起されています。

 その間には作業手順のマニュアル化や各工程に特化された機材の開発等、職場環境の安全対策が様々に施されているにも拘らず、結果に未だ改善の余地がある現状を踏まえると、自然を相手にしている上はすべてが機械化でもされない限り完全に根絶させるのはやはり難しいのかも知れません。

 しかも、町内に遺されている慰霊碑が伝える往時にあった出来事が図らずもそれを証明しているように、事が起きてしまう恐れがあるのは必ずしも作業中だけとは限らなかったのです。


津別町】「造林殉難者慰霊碑」

事故発生年月日:昭和28年 5月31日

建立年月日:  昭和29年 5月31日

建立場所:   網走郡津別町木樋

 津別町に広がる山林を大別するとそのおよそ東半分は「国有林」、そして西側は「道有林」に属しています。

 建築材料やパルプ原料、あるいは枕木・家具等特定用途向けに最適な林木が多く生い立つ一帯はそれぞれの林野区域を管轄する官庁の出先機関によってきちんと管理されており、もしそれらを入手したいとすれば計画や契約に応じて伐木された必要分を買い付けるといった規則に沿わなければならずその1本たりとも勝手に持ち出す行為は法的に許されません、だが今から80年ほど遡る昭和20年(1945年)の太平洋戦争終結直後においては戦災復興需要と極度のインフレが重なって木材価格が急騰したため、一部では残念なことに過剰に伐採された資材がヤミ値で売り捌かれるような言わば「無法状態」がしばらく続いたと聞きます。

 序文では当地の樹木のことを「有り余る」などと誇張表現したものの、かような”乱獲”が続けば山も当然荒れ放題となる訳で、公共事業として継続的に発注される「造林」工事によって治山や森林資源の原状回復が図られるには、物価と国情が落ち着く昭和25年(1950年)頃まで待たなくてはなりませんでした。

 かくして損なわれた山林の自然を戻すべく本格始動された造林工事、その内容は主に伐採後の切り株などを除去して地盤を整備する「地拵え」と苗木の「植栽」工程にて進められますが、専用機械もない時代においては人力に頼らざるを得なかった上に、また施工時期が春と秋に限定されるという条件も加わって、当時の作業はある程度まとまった員数の手によって短期集中的に行われ、そのエリアの工事が終われば人員込みで拠点ごと速やかに次の現場へ移動するといったまるで”巡業”のような形態で各所を回っていたそうです。

 然して迎えた昭和28年(1953年)、この数年の間は朝鮮動乱による再びの木材相場の乱れがあったものの津別町界隈の道有林では「北見林務署」発注の造林直営工事が概ね予定通り履行され、この年も4月に始まった工程を順調に消化、いくつかの現場を完工させたのち5月19日からは同町木樋集落区域内にある「本岐23林班」での作業に着手されています。

 さて、ここで共に従事する人員は総勢21名、内約半数の10人ははるばる秋田県から出稼ぎのため来道した若者ばかりでしたが、前述の通り基本的に同じ仲間と順繰り現場をこなしていくことで要領や手際も良くなっていったようで、本現場でも大きなトラブルもなく都合10日間で作業は完了、5月30日には次の作業地である同町沼ノ沢へ移動する予定でした…ところが当日はあいにくの「土砂降り」に見舞われてしまい、おそらく現場責任者の指示あるいは許可の下”引っ越し”はやむなく翌日へ順延されることになりました。

 いくら若いとはいえ連日の重労働で疲労気味の作業員にとってはきっとちょうど良い”安息日”となったことでしょう、だがその日の雨は決して”恵み”をもたらすものではなかったのです。

 明日の移動を前に皆が寝静まった昭和28年(1953年)5月31日午前2時15分頃、本岐23林班作業所の裏山で突如起こった大規模な「地すべり」により、沢の出口の山裾に建てられていた木造2階建て約30坪の飯場(仮泊所)が土砂の直撃を受け全壊、室内で就寝中だった作業員(計18人)の内、大半の16名が亡くなるという津別町始まって以来の大惨事が発生しました。

 降雨続きの天候状況を受けて元々脆かった地盤が限界まで緩み、とうとう滑落に至った幅・長さ共におよそ100m 、そして深さ3~4mほどの土塊は、当初麓からはかなり離れた奥側の斜面でしかも方角的にもまるで違う方向へと流下したものでしたが、不幸にもその途中で飯場へと繋がる沢道に突き当たったことから、そこから沢沿いに向きを変え山津波のごとく一直線に下ってきたとされています。

 この災害においては建物の1階に居た人たちが全員犠牲となってしまった一方で2階で寝ていた2人と30日の時点で山を下りて一時自宅へ戻った3人の計5名が”命拾い”をしており、まさに明暗を分けた形となりました…特に後者の内1名のケースでは父子3人で従事していた中で父親だけが助かり帰宅よりも仲間との語らいを選んだ息子たちが命を落とすという何ともやるせない結末を残し、将来の担い手を一瞬にして失った父親が寂しげに語る「雨の中帰る自分を外まで見送ってくれた息子の姿が瞼から離れない」との談話には唯々胸を締め付けられます。

 これを「山の怒り」とするにしても、緑を蘇らせるべく汗を流している若者らへその矛先が向けられたという理不尽な結果へ対しては、関係者にとっても到底割り切れない想いをきっと抱いたことでしょう。

 尚、事後に至り、この事象の原因が太古に形成された脆弱な地層の自然崩落という明らかな「天災地変」である上、さらに悪天候だったとは言え予定日に移動しなかった点がネックとなって、本事案が「業務上災害」に該当するか否かは労働基準監督署から労働省(当時)へまで持ち込まれての論議を呼んだようですが、結局災害認定の上で保険金が遺族へ支給され補償問題が無事解決した模様は後日の新聞報道で確認できました。

 現在、災害時に麓まで到達しそのまま残った「流れ山」の上には他と同様に草木が繁茂し、あたかも昔からそういう地形だったかのような様相を呈する現地を外から眺めても、そこから少し離れたところに建つ慰霊碑以外に何らの名残を見出すことは出来ません。

 そしてこの間町内において大きな地すべりによる人的被害が発生していないことは大変喜ばしいのですが、事故直後に現場を検証した北海道大学理学部の教授からは「この地域一帯が同様地質にある以上、いつどこで何をきっかけに同じ現象が起こるか分からない」といった主旨の報告がなされており、それを捉え直すとこれまでの70年間など”ほんの束の間”に過ぎず、人間がそこへ”立ち入る”限り今後もずっとそのリスクに備える必要がある現実をあらためて思い知らされるのです。

碑面

碑文

遠景(現場に残る流れ山と左奥の碑)


津別町】チミケップ湖トラック水没事故慰霊碑

事故発生年月日:昭和31年 2月 1日

建立年月日:  昭和33年 8月 1日

建立場所:   網走郡津別町沼沢

 津別町域西端側の山奥に”ぽつん”と佇む「チミケップ湖」、一説には約1万年前に発生した巨大地すべりによって堰き止められたチミケップ川の流れが湛えられ誕生したとされており、町の観光スポットのひとつとして各種広報メディアにも広く取り上げられてはいるものの、実際そこへ辿り着くためには複数あるルートのいずれを選択しても未舗装の細い道を延々と進まなければならなく、交通アクセス的にはあまり便利とは言えない立地にあります。

 加えて、湖畔には小さな宿泊施設とキャンプ場があるだけで、商業リゾート地展開もされていない当地へ繰り返し訪れるような”本格派”は一定数に限られると思われ、ましてや通行止め措置によりほぼすべての道路が閉ざされてしまう冬季などはいよいよ「辺境の湖」の”本領を発揮”しているそうですが、時をずっと遡ってみるとかつてはここに多くの人や自動車が集って”賑わい”を見せていた時代がありました。

 但しこれらの人々はもちろん観光客ではありません、湖まわりに広がる道有林域内の優良林木を伐採・造材すべく、一帯を管轄する北海道北見林務署との請負契約を結んだ造材業者に雇用された作業員が現地に留まり業務に勤しんでいたのです。

 昭和初期には既に複数の作業所と追って仮泊用の山荘が常設され基本的には冬場を中心に針葉樹の伐採作業が粛々と進められていたという当地の造材事業でしたが、やがて訪れる戦時体制から終戦直後における社会の混乱に木材産業が振り回されることとなったのは先のエピソードでも触れた通りです。

 ただそんな”異常事態”も昭和25年(1950年)頃を境に落ち着きを見せ、携わる企業としてもこれからはやっと平静な世の中で事業に邁進できる…はずでした。

 ところが、昭和29年(1954年)9月26日から27日へかけて北海道をかすめるように通過した台風15号洞爺丸台風)によって林産業界はまたしても大混乱に巻き込まれる羽目になります…この時もたらされた被害は船舶や市街地火災のほか道内各地の山林へも広く及び、倒木などの影響を受けたその範囲は国有林だけでも実に約11万ヘクタール(1,100k㎡)に上ったと伝えられています。

 後から振り返るにこの4~5年間分の伐採量に相当する風倒木の後始末が本当に大変だったらしく、本来「売り物」でもあるそれらの樹木については害虫の”餌食”となって商品価値が失われる前に極力早く回収する必要があったのですが、如何せん人手が足りない上にいまだ手工具・馬そりが”主役”であるような旧態依然の伐採・運搬方法ではまったく作業が捗らなかったため、緊急の対策として当時まだ高価だったチェーンソーや「大型トラック」が急遽導入されスピードアップが図られたそうです。

 かくて、まさに”官民を挙げて”対処に当たっていたそんな状況下の昭和31年(1956年)2月1日、北見林務署との契約に基づき津別町本岐市街から造材現場がある真冬のチミケップ湖へと向かった北見市の運送会社の所有する木材運搬用大型トラックが道中で交通事故を起こし乗車していた3名全員が亡くなるという悲劇がありました。

 ただ交通事故とは言っても、向こう岸の作業所へ行くための”ショートカット”として凍結したチミケップ湖面に直接乗り入れたトラックがその途中で氷の割れた湖中へ乗員もろとも水没してしまったという現代からはちょっと考えられないようなこの出来事、新聞紙上では「暖冬下であったことを考慮せずに湖上横断を強行したドライバーの判断ミス」が原因と推定されており、確かにその冬は例年より総じて気温が高かったようで平年の厳寒期には50~60cmにも達する氷厚が落下地点では15cmしかなかったとの後付けながら判った事実からしても、いくら無積載状態とはいえ車重が6.5トンもある大型車が無事に通り抜けることの出来る状況ではありませんでした。

 しかしながら、氷上を車両で通行する行為自体を問題視する論調が報道内容にも見られないところからも分かる通り、本事例が当時にしてとりわけ”常識外”なものではなく、結氷した湖が昔から”当たり前”のように道路代わりとして使用されていたことはほぼ間違いないのでしょう、ただ時代の流れに応じて上を通るものが人から馬そり、更には小型貨物車両を経て年々大型化するトラックへと変わっていったにも拘らず、重量制限が明確に定められる訳でもない中でその”慣例”が見直されるきっかけがなかったのかも知れません。

 実際、事故現場となった湖中央部へ至るまでの1kmを超える道程は順調に通行出来ていた事実を踏まえても、今回の仕業がまったくの”無謀な試み”とは言えず、むしろ同車両でもトラブルなく横断出来た以前の経験に基づく判断だった可能性が高いのではないでしょうか。

 馬そりレベルならともかくトラックがすれ違うことなどまず不可能な曲がりくねった林道しかない道路環境、そして先に記した時勢の下で丸太や人員を載せながら造材現場と市街集積地との間を”ピストン輸送”するという迅速な業務遂行を求められていた民間企業の一従業員である20歳代のトラック運転手が取った行動が特段禁令を犯した悪質なものではない以上、やや穿った見方をすれば「基盤整備の伴わない拙速な近代化」が生んだ弊害と言えなくもないこの不幸な結末には個人的に深い同情を覚えます。

 さて、事後の遭難者捜索作業は相当の難航を強いられたと言います、というのも水面下20mへ沈んだトラックは人の身の丈ほどに達する湖底堆積泥の中に埋没してしまっていたからであり、その後試案の末に大量のドラム缶製”浮き”を使って少しながら車体を引き揚げることに成功した際には運転席から同乗者2名が発見されたものの、解氷時期まで待って再開された作業をもってしても結局運転手だけはどうしても探し出すことが出来ませんでした。

 家族からの申し出を受け捜索が打ち切られたという本件の顛末、事故から2年半後の昭和33年の夏には彼が眠る湖のほとりに墓標代わりの地蔵尊と碑が身内の手により建てられ現在に至っています。

 いつの頃にか造材事業の終了と共に作業員も引き上げた界隈からは大型車が行き交うような光景は勿論消え、今は何事もなかったかの如くすっかり静寂が戻っていますが、自治体がまとめた「森林整備計画書」によると一帯の自然環境については今後も「維持に努力」という方針が示されており、景観を損なうような施設はもとよりおそらく森林や道路に大幅な手が加えられることも当面なさそうなチミケップ湖周辺はこれまで通り太古のままの姿を残す”知る人ぞ知る秘境スポット”としてここにあり続けるのでしょう、そしてそう願っているのはきっと私だけではないと思っています。

地蔵尊と碑

遠景(夏季)

遠景(冬季)

【芦別市】野花南交通安全地蔵

芦別市】「野花南交通安全地蔵」

事故発生年月日:昭和29年 6月20日

建立年月日:  平成  4年 6月20日

建立場所:   芦別市野花南町

 車で遠乗りをした際、訪れた街々で交通安全の願が掛けられた「お地蔵様」が交差点そばや道路わきなどに鎮座している様子を見かけることがあります、界隈における交通事故根絶のため御利益にあずかっている有難い存在ですが、それらひとつひとつに気を留めたりする人は実際そう多くはいないでしょう…しかし当然ながら各々が建てられた理由があり、そしてその内の大半は過去に近辺で起こった悲しい出来事が謂れだったりします。

 国交省関連団体のデータによると国内での自動車保有数が初めて100万台を超えたのは昭和28年(1953年)の事、その後も”右肩上がり”に推移した数値は、俗に”マイカー元年”と呼ばれた昭和41年(1966年)頃からは自家用車を中心に年200万台ペースで伸びが加速し、約30年後の平成7年(1995年)に一旦落ち着きを見せた時には実に7,000万台を超えるほどの規模になっていました。

 その間においてはやはりそれに伴って交通事故数や死傷者数が年々増えてしまった時期が残念ながらあったのですが、年度ごとの推移グラフを閲覧したところ、とりわけ昭和30年代中盤から40年代へかけての急増ぶりはまさに「異常」と言えるほどの線形を示し、令和の現在と比して4~6倍にあたる1万数千人の死亡者が毎年軒並生み出されるという”嘆かわしい”事態から過去の戦死者数になぞらえて、この時代には「交通戦争」なる物騒かつ不名誉な造語が生まれています。

 尚、この状況は北海道でも概ね同じ様相を呈しており、「道路環境や法律の未整備」「自動車の性能不足」あるいは「運転者や歩行者の意識欠如」など、様々な未成熟要素への対策が追いつかない位にいわゆる「モータリゼーション」の拡大が地域を問わず著しかったことは容易に想像できます、だがそのためにまず犠牲となったのは”交通弱者”たる高齢者や幼い児童たちでした。

 当時の新聞紙面を見るに、各地で発生した交通死亡事故のニュースが掲載されない日はほとんどなく、とりわけ無謀な運転により小さな子らが命を奪われるといった痛ましい内容の記事を目にした後には、今からすれば”いささか配慮に欠けた”この時代ならではの文章表現の効果も相まって、もはや自動車を運転すること自体が恐ろしくなる程です。

 他人をしてそう思わせるような不幸が現実に身近で起こってしまった関係者の悲嘆の深さは察するに余りあります、然してこの憂慮すべき状況を受け地元コミュニティらの手により「再発なきよう」祈願された地蔵尊などが各地に建立されるケースが増え、これらを基に児童を中心とした地域住民へ対する啓蒙・啓発活動が活発化していったという背景があるのです。

 その後時局に応じて段階的に施されてきた「交通インフラ整備」や「関連法改正」また「安全装置の開発」等、各問題点への個別対策の確立・強化に加え、人々の意識改善を促したという意味でのこのような「ご加護の力」もあって、増える一方だった交通事故死者数にようやく歯止めがかかったのが昭和40年代後半のことでした。

 今回紹介するエピソードは数あるこうした地蔵尊の中のひとつの誕生にまつわるものですが、時代的には交通戦争の幕開けと称される昭和30年代を目前に控えたいわば”前夜”に当たる頃の話になります。

 学校帰りの「路」を行く”年端も行かぬ”子供たちへ降りかかった思いもかけない災難…しかし交通事故のリスクが潜んでいるのは必ずしも道路だけとは限らず、そして彼らを危地へ追いやった”相手”は自動車ではありませんでした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 空知管内の「芦別市」は隣接する赤平市と並ぶ「空知炭田北部地域の中核を成す都市」であり、大小取り交ぜ多くの炭鉱が操業された大正序盤から平成初期までの約80年間にわたり、石炭産業を主軸とした栄えある一時代を築いています。

 滝川と富良野とを結ぶ鉄道「下富良野線」(現・根室本線)の開通(大正2年=1913年)と、それを見越していた本州資本の鉱山会社の同時期における当地進出が、これまで優良かつ膨大な量の石炭の存在が確認されていながらそこからの展開が鈍かった一帯を道内でも有数な産炭拠点へと一気に”押し上げる”きっかけとなりました。

 その後景況に左右されながらも徐々に増え続けた出炭量は太平洋戦争の終結を受けて一度決定的に激減してしまったものの、戦後の復興目的のため優先的に公的資金を投入された石炭業界は、高度経済成長時代を迎える昭和30年頃には大きく開花、国が定めた政策の下で更なる設備投資からの増産という好循環を産み出したこの頃が、振り返れば事業の絶頂期だったのかも知れません。

 時はまさにそのような世相を示していた昭和29年(1954年)、芦別市街から南東側へ向かった富良野寄りに位置する「野花南」地区(のかなん)で事は起こりました。

 ここは芦別の中でも大手筋が営む炭山、いわゆる「芦別五山」があるエリアとは異なって、古くから主に農業や林業で生業を立ててきた地域であり、前年における市制施行により益々活気に溢れる「芦別市中心部」に比べると幾分落ち着いた環境の中で人々が生活を営んでいた様子が想像されます。

 そんな”のどか”な集落が悲しみのどん底へ突き落とされたという6月20日(日曜日)、その日は何処との繋がりか新潟佐渡島無形文化財「文弥人形芝居」の公演が市教育委員会推薦のイベントとして開催されており、地区会場となった「野花南小学校」の体育館には同校生徒ら50名ほどが集いこの伝統芸能を堪能したそうです。

 問題は催しが終わったその帰り道、自宅のある野花南市街へ戻るべく先を行く上級生の男児が通学路である国道ではなく線路の方へ向かった場面から始まりました。

 というのも、基本的に街へとまっすぐ伸びる鉄路のすぐ脇を並走していた道路が、学校を出て野花南方面へ向かう300m程度の区間だけは何故かまるで迂回路の如く大きく弧を描きながら一旦遠ざかる不可思議なレイアウトに元々なっていたところに、その途中を横切る「野花南川」に架かる木橋(更生橋)が10日ほど前から改修工事中につき通行するのに難が生じていたという事情も加わって、一部の児童にとってはこの間の「近道」として線路内を行き来することが半ば習慣化されていたのです。

 学校側でもこの事実はある程度把握していたらしく、危ないからやめるよう日頃から”口酸っぱく”指導していたそうですが、本来の登校日ではなく先生の注意があまり行き届かない日曜日であったことも災いしたのか、「兄姉が行けば弟妹も従い、そしてまたその友人もが…」という悪い連鎖によって結局この時はほとんど全員が同じルートを辿っていたと言います。

 通り慣れた者からすれば、これまではそれほど危険な目に遭ったことはなく「もし汽車が来ても脇によければ済む」程度の認識だったのでしょう、だが当日は自らの意思とは無関係にただ皆に付いて初めてここを歩くような小さな子らも多く含まれていました…そしてその時、彼らにとって”まさか”の危機がそれこそ最悪のタイミングで後方から迫っていたのです。

 その危機を招いたのは根室本線を滝川から富良野方面へ向けて進行中の下り貨物9491列車(46両編成)で、上芦別を発ってからほぼ定刻通りの午後3時25分頃に現場付近へ到達、直前まで続いた見通しの悪い連続カーブを抜けて直線路にかかったところで、約100m先の「野花南川橋梁」(延長約35m)の上を縦一列に歩く15~16人ほどの児童たちの一団を発見したため、直ちに警笛を鳴らすとともに非常制動をかけたものの間に合わなかったとの運転士の談話が残っています。

 この事故で、列の最後尾にあって橋上にとり残された児童の内、咄嗟に下へ飛び降りたため軽傷で済んだ一人を除き、残り6名は残念ながら列車との接触により命を落とす結果になってしまいましたが、とりわけ悲しむべくは亡くなったすべてが10歳にも満たない幼子(女児5名・男児1名)であったことです。

 惨劇の一部始終を少し離れた小高い畑から目撃していた住民が語るには「犠牲になった子は皆慣れていないせいか橋を渡るにもおぼつかない足取りで”恐る恐る”進んでいたところに列車が突入し、橋から飛び降りるという判断もつかないままに、最後を歩いていた女の子に至っては恐怖のあまり両手で顔を覆ってその場にしゃがみこんでしまった」というこれ以上なくいたたまれない状況にあったらしく、一緒に居た友人は勿論、この光景を目の前にしながらなす術もなかった前出運転士の受けた精神的ショックも相当大きかったであろうことは想像に難くありません。

 そもそも線路内に入らなければ…と言われればその通りです、ただそれにしても「列車の進行がもうわずかでも遅かったら」あるいは「助けになる年長の子がそばに居てくれたら」など、”ほんの少し”だけでも条件が変われば最悪のケースを免れたかもしれない「もしも」の要素が多く含まれている事故だけに後悔と呵責の念ばかりが残り、関係者が現実をなかなか受け容れられなかったのも無理からぬことでしょう。

 翌日の午後3時過ぎ、在校生が揃った学校の体育館では事故で亡くなった児童の「学校葬」が執り行われましたが、その最中には件の貨物列車が昨日と同じ時刻に通過、まるで哀悼の意を表するかのように鳴らされた長い汽笛には、聞く者の涙を誘う一方であの悪夢が蘇って凍りつく子もおり、式場は様々な感情が入り交じった一種異様な雰囲気に包まれたと言います。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 子供や大人も含め皆の心にいろいろ”思うところ”を残したこの悲し過ぎる事故を受け、現場近くの小高い所に遺族らの手で地蔵尊が建立されたのは四十九日法要に合わせた同年8月7日のことです。

 建立地の地盤に敷く玉石を小・中学校の生徒たちが遠くの沢から力を合わせて搬送するなど、学校・PTAや地域全体の協力で生まれたそれは「子守地蔵」と名付けられ、犠牲者の御霊を慰めるとともにそれから長年にわたり登下校する子供たちの安全を見守ってきました。

 この間、もう二度と線路内に入ることのなくなった児童は勿論、大人たちの中でも子の模範となるべく意識が生まれた集落近辺においては、その後本格的な「自動車社会」を迎えた時期を含めても大事故の発生は比較的少なかったと聞きます。

 尚、現在は平成4年(1992年)に建て替えられた2代目がこの役目を受け継いでおりますが、事故から70年が経ち、野花南小中学校が他校との統合によりすでに閉校してしまっている今に至っても変わらず大切に手入れ・管理されている様子が分かります。

 石勝線の新設と一部の廃線措置を受けて通行する列車がめっきり減った根室本線と、当時はまばらだった自動車が今や”ひっきりなし”に行き交う国道38号線、時代の移り変わりを経て、すっかり様相が逆転した両線を左右に望むお地蔵様は、たとえ学校がなくなってもここにある限りこれからも地域の交通安全のためご加護下さることでしょう。

 「未来永遠に地蔵尊のよう護により災禍を除去しむ」(初代子守地蔵尊に刻まれた祈願文より)

地蔵尊(左上は初代子守地蔵)

野花南川橋梁(2024年現在)

【上士幌町】糠平地区所在慰霊碑

上士幌町糠平地区所在慰霊碑

 道内でも有数な温泉郷である十勝管内上士幌町糠平地区、肌質の向上の他、神経痛や胃腸病にも一定の効果が認められる「重曹泉」による当地の宿の湯はもれなく「源泉かけ流し」とのことで、平成21年(2009年)には正式な地名を「糠平」から「ぬかびら源泉郷」へ変更してしまうところからもその点を強くアピールしたい地元の意気込みが伝わってきます。

 この地で初めて温泉が発見されたのは今から100年以上昔である大正8年(1919年)の出来事、必ずしも確証のない情報を頼りに”人跡未踏”の山林を切り拓き遂に湯元に辿り着いたという実業家のたくましい商魂にはまったく恐れ入りますが、同時期のこの近辺では別の目的を果たすため樹木相手に”悪戦苦闘”している人たちがいました。

 前年の同7年、苫小牧にて大規模工場を操業展開中の大手製紙会社の思惑により原材料となる立木調達地の拡充が図られ、対象の内に含まれた糠平一帯の国有林では従来の「元小屋地区」(黒石平)から10km以上北進した地点に新たな造材拠点を設けるべく計画が進行、まず整備が急務である未開区間における道路開削工事については地元木材業者を介して「十勝監獄」(現・帯広刑務所)が作業を請け負うこととなり、そして懲役の一環として実際に現場へ派遣されたのがその囚徒だったのです。

 そもそもここら音更川上流側一円においては更に時代を遡る明治25年(1892年)頃、監獄の前身となる北海道集治監十勝分監を建設する際に、建材等を自給するため囚徒みずからが木材を伐採・運搬したという歴史が残っている訳ですが、そんな所縁がありその後も度々当地で造材作業をおこなっていた”実績”を持つ彼らにこの役務が課されたのでした。

 ちなみに、囚人の手による道路工事というと『中央道路開削』のエピソードで紹介したような明治時代中期を背景にした”凄惨な修羅場”の様子がどうしても想像されますが、この頃に至っては「監獄法」(明治41年=1908年施行)によって囚徒の扱いについても細かく規定が設けられており、勿論苛酷な環境下での労務だったには違いないものの本件の内で過度な労役強要やあるいは懲罰的な処遇を理由とした死亡事例の発生は確認されていません。

 かくて、大正7年6月から8月までの3か月間という”突貫工事”の末、名付けて「音更山道」が原生林の中に完成、本来の目的である木材積出しの効率化に大きく寄与したのは言うまでもなく、後年に敷設される鉄道(国鉄士幌線)や幹線道路(国道273号線)のルートの基礎となったとも聞く本道の南側起点付近には工事に携わった十勝監獄関係者らの名が刻まれた竣功記念碑が厳かに置かれています。

 その後は、音更山道⇔湯元間の道路開通と伴う温泉街の本格的始動やまた前述鉄道の敷設による林業の活性化など、緩やかながらも着実に発展を遂げていった糠平地区でした…が、至って”平和的”なそんな界隈がもしや先の戦時中をも上回るほどの劇的な変革の渦へ突然”巻き込まれた”のは「北海道開発法」が施行された昭和25年(1950年)の事でした。

 というのも、本法を基に今後へ向けての施策を列挙した「北海道総合開発計画」に明示される「電源の開発」という項目において、あらたに必要とされる複数の大規模なダム式水力発電所の建設案が並ぶ中で、基幹拠点として設定されたのが十勝川水系音更川上流に位置するここ糠平だったからです。

 そうと決まってからの展開は極めて早く、この「国家的プロジェクト」は諸々の事前調査を経て昭和28年(1953年)には設立間もない「国策企業」の主導により、まず「糠平ダム」と同発電所の建造工事に早速着手、その後急ピッチにて進められた事案は実に都合2年余りという短期間にて”堂々”の完成を見ることになりました。

 だが、名だたる建設会社が請け負い当時における技術の粋を集めて臨んだ工事ではあったものの、結局は”生身の人間”が施工するところやはり事故の発生は避けられず、残念ながら従来のダム工事同様、本件でも幾度ものアクシデントによって多数の犠牲者が生まれる結果になっています。

 最盛期には合わせて1万人程も集ったと言われる工事関係者が完工とともにまるで嵐のように去りゆき、すっかり静けさの戻った糠平に残されたものは、北海道地図の描き直しが必要なほど大きく周辺環境を変えてしまったダムと人造湖、そしてそれらを作らなければ建てられることもなかった複数の慰霊碑でした。

上士幌町】「音更山道」碑

建立年月日:大正 7年 9月 1日

建立場所: 河東郡上士幌町黒石平

碑面

案内板


上士幌町】「慰霊碑」(糠平ダム建設工事殉職者慰霊碑)

事故発生年月日:昭和29年 3月22日/同 6月19日/同 8月29日/昭和30年 3月11日/

        同 9月18日/昭和31年 3月31日他

建立年月日:  昭和31年 1月

建立場所:   河東郡上士幌町ぬかびら源泉郷

 序文で記した「十勝川水系発電計画」の全体像は、十勝川支流の音更川や美里別川流域に重力式コンクリートダム4基と各貯水池、並びにそれらの間を連絡する総延長40kmを超える水路の途中に4か所の水力発電所を建設するという広域にわたる大掛かりなもので、全稼働すれば道内需要の実に3割にあたる電力を産み出すレベルのプラントを当初は5か年の内にすべて完成・運転させようとしていたのですから、本件がいかに巨大で且つ実現が容易ではないプロジェクトだったのかはおよそ窺い知れます。

 しかしいざ始動してみれば、起点に当たる「糠平ダム」建設工事は本体部の起工が昭和28年(1953年)9月、そして同30年中には発電所を含む建物・設備が完成するという、規模を考慮すれば信じられない程のスピードで竣工し、その点計画の滑り出しはこの上なく順調に進捗したと言えるかも知れません。

 但し、決して万事がうまくいった訳ではないことは、ダムの脇に作られた展望公園の一角にある慰霊碑がそれを示していました。

 碑の傍らに置かれた銘板には工事作業中に命を落としたと見られる32人もの氏名が刻まれており、そこに併記される各々の出身地から察するに工事を請け負った大手建設会社が東日本を中心に各地の下請業者を”かき集めて”工事に臨んだ様子が想像できますが、ただひとつ不可解なのは彼らの内の多くについて職に殉じた理由が不明であるという点です。

 ちなみに今回の記事作成のため、私が図書館で閲覧した関連書籍類にはそれについてまったくと言って良いほど触れられておらず、また複数の新聞紙上からも本碑に関わるものとしては河川水路切替作業中での水難事故や積荷もろとも転落した2名が亡くなったケーブルクレーン絡みの事例など、6件(8名)分しか記事を見つけることが出来ませんでした。

 あまりにも少ない情報に何かしらの違和感を覚えるものの、もっとも発注元や請負会社側が殊更に事故を隠蔽しなければならない理由も考えにくいため、単に個別事案の内容詳細が当局を通じて新聞社へ伝わっていない、あるいは社の事情で記事にされなかっただけの話かも知れません…確かに「炭鉱」を代表例として、現場であたかも”当たり前”のごとく頻発する”小さな”事故、まして被害者が後日死亡に至ったケースなどは規模や紙面の都合によって”いちいち”報じられなかったことも当時は間々あったようですが…。

 もし仮にそうであるなら、表面化されていないだけでこの現場が計算上細かい事故の発生数、すなわち遭遇確率がかなり高い労務環境であったことを意味し、それはそれで何とも恐ろしい状況ですが、その前提でさらに憶測を進めれば、中でも多く起こり得たのはやはりもっとも手数がかかる「導水路」工事中におけるアクシデントだったのではないかと推察されます。

 本プラントでは糠平ダムと同発電所間に内径4.6m/延長3.4kmもの導水路トンネルを掘削する必要があり、これが完成しない限り発電プロセスがまったく機能しないだけに、昭和30年12月に予定される試運転へ向け、並行して行われている本体工事に遅れを取らぬよう迅速な施工を求められていたのはもちろん言うまでもありません。

 折しも昭和30年頃はトンネル工法において新旧転換点とされる時期にあたり、例えば耐久性の高い鋼製の坑内補強枠(支保工)の採用により作業工数が大幅に減り効率が飛躍的に向上したと聞きます…但しそれら器材の進化が必ずしも現場の安全環境構築と事故防止のためだけではなく、掘進のスピード化を一層促す結果になったことも否めないのです。

 実際、同じプロジェクトの一環として本件からやや遅れて着工されていた「活込ダム⇔足寄発電所」間の導水路工事においては昭和29年(1954年)9月6日午後1時40分頃、コンクリート覆工用型枠の取扱中に前触れなく天端が長さ10mにわたり崩落し坑内で作業していた11名が亡くなるという大事故が発生していますが、その原因について「”たまたま”軟弱な岩層との継ぎ目に突き当たった結果のものでまったくの『不可抗力』」とする工事責任者へ対して、事前地質調査の正確性への疑問と共に「”まず前進ありき”の現行工法からの改善の必要性」を示唆する労働基準監督署のコメントも残されています。

 同様の事象は後述する鉄道トンネル工事でも発生しており、確かに地層の変化に起因する大きな落盤にはとりわけ用心すべきなのですが、もとより坑内労務中は発破の工程を初め、直後の岩石除去(ずり出し)や支保工建て込み作業中での切羽面からの落石(はだ落ち)等、いつ起こってもおかしくない上にタイミングが悪ければ即重大事に結びつく危険が常に”付きまとい”、携わる事業者としては従業員の生命を脅かすそれらの災害の防止あるいは被害を最小限に抑えるために、実務経験に乏しい一定数への教育も含めた入念な安全対策の実施が重要なことは当時からそれなりにも認識されていたと思います。

 ただ現実的には、進捗が急がれる現場に置かれ、互いに”しのぎを削る”数多の下請「組」が工区ごと連帯的に稼働している中、自分の持ち場での遅延・停滞という”失態”を晒さぬように、状況によっては多少無理をしてでもとにかく作業を前へと進めざるを得なかった各業者の事情らしきものがあったのかも知れません…が、そうでなくてさえ事故リスクの高い掘削工事で「危険予知・予防」の意識が希薄なまま不用意に事を進めれば、当然良からぬ結果を招くことになります…あくまで想像の域を出ないものの、もしそれをある程度承知しながらも先を急ぐあまり”強行突破”し、その帰結としての前出「慰霊碑」の存在であれば、あまりにもつらく切ないものを感じるほかありません。

 本碑により再認識されることとなった「北海道の大動脈たる発送電網の確立」という華々しい大成果の裏に隠れた”負の一面”、たとえそれが”報酬のため”だけだったとしても「誰かがやらねばならない”命がけ”の仕事」を担った人たち、なかんずく不幸にもこの”最果ての地”で不測の災難に斃れた方々へ対しては、今の時代に不自由なく電気を使える恩恵を受けている身として、労いと感謝の言葉を捧げても罰は当たらないでしょう。

 時代は移り、新たに立案された「十勝川水系河川整備計画」の中のひとつとして糠平ダムの多目的化に伴う「堤体の嵩上げ工事」が現在検討されている旨の記事を目にしました。

 今のところ実現性については未知数であるものの、今後の協議を経てそれが具現化した際には「無事故無災害の達成」という目標の下に最新の機材と技術を用いておそらく慎重の上にも慎重を期し工事が進められることでしょう、しかし今の規程や感覚からすれば至極当たり前なこの「安全策」に対して、現役プラントが元々は70年前に実質2年少々の期間で造り上げられた事実を知った関係者は、良くも悪くもその時代が持っていた”勢い”にきっと驚かされるに違いありません。

碑面

銘板

上士幌町】「殉職碑」(国鉄士幌線付替工事殉職者慰霊碑)

事故発生年月日:昭和29年 4月 6日/同 8月19日/同 9月 9日/昭和30年 3月 4日

建立年月日:  昭和30年 7月

建立場所:   河東郡上士幌町ぬかびら源泉郷

 先述「糠平ダム」の完成(昭和30年=1955年)に伴い”突如”現れた「糠平湖」、堰き止めた音更川の流れを取り込むために用意された湛水域は8.2k㎡にも及び、そこで貯えられるおよそ1億6千万㎥という有効貯水量は、資料を見ると当時国内で5番目の規模だったそうです。

 この広大な人造湖の誕生により、例に漏れず湖底に水没してしまう人家が糠平地区にもあった訳ですが、観光資源として地域経済を支えていた「温泉郷」が幸いにも対象地から外れていたこともあり、実際影響を受けた家屋は”にわか”に誕生した労務者向け飲食店等を除くと林業関係を中心とした10戸程度でした、しかしその点でもっとも”損害”を被ったのは、もともと音更川左岸側に沿って敷設されていた「国鉄士幌線」と言えるでしょう。

 そもそも士幌線十勝平野北部地方の拓殖推進を目的にして大正年間に設けられた路線であり、計画に基づき起点の帯広からひとまずの目的地である現・上士幌市街へ達したのは同15年(1926年)7月のことでした。

 一帯を畑作物の生産拠点として発展させるための環境を整えた鉄路は、8年の運用の後林業への貢献にも応えるべく更に北へ延伸、既に温泉地として認知度のあった糠平を経由して昭和14年(1939年)には”裏大雪”の木材積出基地である「三股」(十勝三股)までの全通を果たしています。

 さて、消滅する運命が確定してしまった糠平駅と付帯設備、またその前後合わせて約12.5kmにわたる線路については、行く手を遮る”まだ見ぬ”巨大なダムと湖を大きく迂回しながら別のルートで敷き直す必要が生じました。

 従来、温泉街から遠く離れていた鉄道駅がこれを機に近傍へ移設されるに伴い、旧線から見て対岸側である右岸沿いへの敷設が決定した「付替線」、新旧線切替の際営業に支障が出ないようにダムと並行して進められた工事は、新線完成までの間供用される「仮付替線」を手始めとして昭和28年(1953年)6月に着工、追いかけ本線付替は「黒石平⇔メトセップ」間の14.9km区間で施工されることとなります。

 但し、屹立した山面に両端を挟まれた峡谷の中、音更川沿いの狭いスペースにもともと設けられた鉄路なので移設出来る場所はおのずと限られており、箇所によってははるか頭上の急斜面に切土して路盤をこしらえるなどかなり無理なレイアウトも見られましたが、やはり特筆すべき旧線との違いは今までこの区間に限ればひとつもなかったトンネルをあらたに10か所も設ける必要があったことでしょうか。

 もっとも、その半数以上は延長100m前後の小規模なものであり、全体を5つに分けた工区それぞれを経験豊富な道内外の大手建設会社が請け負った本工事の進捗を阻害するまでの障壁にはならない…はずでした、だが実際は作業員の生命に関わるレベルの事故が4件もトンネル工事中に発生しています。

 内2件は発破用ダイナマイトの誤爆、残りは落盤によるものですが、特に昭和30年(1955年)3月4日に起こった事故は発注側の技師や現場監督をも含む9名が犠牲となる大惨事になってしまいました。

 場所は第4工区の「第9糠平トンネル」現場、総延長116mの内大半の掘削が終わり貫通間近であったタイミングにおいて突然長さ27mにわたり天端が崩れ、800㎥もの流入土砂があっという間に作業員もろとも内部を埋め尽くしてしまったのです。

 初端の発破事故(昭和29年9月9日・於第7糠平トンネル)以降は概ね順調に進捗し終盤へ差し掛かっていた本工区を再び襲ったこの大事故の発生原因とされる要素は大別すると2つあるようです…まずは地質の見立て違いの問題で、事前の調査によると比較的頑健な「安山岩」メインで構成されているはずの本トンネル近辺の地盤について、崩落箇所まわりでは粘土が固結した「頁岩」という非常に脆い岩層が見られたとの報告がありました。

 太古へ遡っての隆起や断層等の地質活動を経て複雑に堆積形成された山岳地層の中を直線的に掘削する訳ですから予定外の岩層に期せずして突き当たるおそれがあるのは致し方なく、いにしえよりトンネル工事を妨げてきたこの”厄介な難敵”へ対しては、補強の強化など状況に即した措置を施すしか方法がありません、しかしその対策作業の際の「不備」が二つ目の疑われている要因に当たります。

 というのも、当時の工法からすると掘り進めた坑道地点への支保工の速やかな建て込みからコンクリート打設までが1セットの作業となっており、ましてや前述したような危険性が高い箇所には補強枠の増設やコンクリートの増厚などの更なる追加措置が必要となるところが、実際の現場ではそれぞれの位置関係から判断するに”先走り”する切羽部に対して後続作業が著しく遅れており、結果坑内の安全確保が不十分であった可能性を指摘されていたからです。

 聞けば実務を担当した下請業者の中には就業2か月程度の経験の浅い作業員が多かったという事情もおそらく無関係ではないでしょう、ただ当年7月末日までの完成・引き渡しが”至上命令”である本工事において、当該トンネルの貫通を目前とした中、すでに現場管理者の意識はその先に控える本工区最後にして最長となる「第10糠平トンネル」(延長474m)へ向けられていたのかも知れません…結局事が起こるまでこの”連係不足”状態が根本解消されることはありませんでした。

 脆弱な岩質に加え、外圧から支える岩盤層自体の厚みも足りておらず実は限界に近い状態で保持されていたに過ぎない坑道が浸透水の吸収や発破作業の振動による地盤の緩みの進行を受けてとうとう崩落してしまったとされるこの悲劇、国鉄工事局職員や元請業者の監督を初め命を落とした方々の2/3に当たる6名がまだ20~30歳代の前途ある若者であり、立場は違えどそれぞれ描いていたはずの将来へ向けた夢が一瞬にして潰えたことを想うと唯々やるせない限りです。

 その後、遅れを取り戻した工事は目標期日の昭和30年7月31日に無事完工し、翌日からの新線での営業運転、そして糠平ダムの湛水開始(9月20日)とすべて計画通りにスケジュールがこなされていきました。

 かくして、延べ48万5千人もの労働力を費やし晴れて開通した”新生”士幌線糠平温泉郷へのアクセスが格段に向上されたうえ、大自然の中にいきなり”お目見え”したダムや湖などの景勝も集客の一助となり、これまで以上に多くの観光客の呼び込みに成功しています、だが木材積出しのためだけに敷設されたといっても過言ではない糠平以北の線区が置かれた状況はそれとはまったく違うものだったと聞きます。

 活況を呈していたのは最初の内だけであり、当地産原木の主要ユーザーであった大手製紙工場において外国産木材チップの輸入が本格化する昭和40年頃を境に需要内容が大きく変化、ただでさえ目減り傾向にあった林業従事者の転出にも拍車がかかり、木材出荷拠点の「三股」や「幌加」では貨物量・乗客数ともに減少の一途をたどることになりました。

 然して、もはや士幌線運営面での”重荷”になり果てたこの線区へ”引導を渡した”出来事が「国道273号線」の部分開通(昭和47年=1972年)だと言われています、道内における国道最高地点(標高1,139m)に位置する「三国峠」を越えて上川管内上川町まで北進することが出来る本道路を利用したトラック輸送がこれで可能となり、遠回りで高上りにつく貨物列車にわざわざ荷を積み込む理由がいよいよなくなってしまったのです。

 昭和53年(1978年)12月、ついに糠平⇔三股間の運行は国鉄として全国初のケースとなるバス代行便に取って代わられることになり、それから士幌線が全線廃止される昭和62年(1987年)へ至るまでの間、第7から第10までのトンネル群を含む本区間を列車が走る光景はもう二度と見られませんでした。

 いくらしかたのない事情に因るとは言え、15年しか使っていない路線を潰してまでせっかく完成させた新線も結局20年そこそこで事実上”無用”とされた現実を受けては、「命を懸けて」インフラを整備した工事従事者もさぞ浮かばれないものと同情を禁じ得ません。

 昨今、界隈に遺される新旧士幌線のコンクリートアーチ橋遺構を巡る観光需要があるそうですが、それらの構造物を含めさながら「昭和の音更山道」を造るために命を散らした若者らが少なからずいたことを想い、現地へ足を向けた際にはぬかびら源泉郷の上士幌鉄道資料館の敷地内に置かれている「殉職碑」を訪ねてみてはいかがでしょうか。

碑面