【複合管内】北海道警察官殉職碑

北海道で公務員としての警察官が初めて誕生したのは開拓使施政下にあった明治5年(1872年)のこと、函館と札幌に配置された彼らは「邏卒」(らそつ)と呼ばれ、人口の著しい増加に伴って乱れ気味だった都市部の治安維持や取り締まり任務に従事しました。
早くも2年後の明治7年には現代でも馴染みのある「巡査」という名称に改められ、以来150年余にわたり道内各地域の平和と安全を最前線で守ってくれている訳ですが、職務柄一旦事が起きた際には何かと矢面に立つケースが多く、常に一定の危険が伴う大変な職業であるのは誰もが認めるところです。
しかも時と場合においてはそれが直接身に及ぶことも間々あって、この長い歴史の中では様々な事由によって公務中の巡査らが命を落とすという深刻な事例が少なからずあった事実が関連資料の中でも確認出来ます。
例えば警察官殉職の全国事例をまとめた戦前刊行の書籍では、獣害による最初の事案や風雪等の自然災害、あるいは無頼漢が起こした直情型刃傷沙汰など、道内での該当案件を「実に”大まか”な植民地らしい事件」と評して紹介していますが、その表現が適切かはともかく、確かに他の地域では起こり得ないような「新天地」特有の事象も多く含まれていることは否定できません。
また、3冊にわたって編纂された「北海道警察史」には明治初旬の発足時から平成9年までに殉職された道内対象者全165名の芳名が記されており、その内訳をひとつひとつ見ていくと、明治10年代にあった『坂口尚政巡査』の遭難・殉職事例を初め『手宮火薬爆発事故』や『函館大火』あるいは『湧別機雷事故』など当ブログで取り上げた歴史的出来事においてもそれぞれ警察官が犠牲になっている事実が分かります。
かように、きっかけや要因は多種多様であっても、いずれも責務を全うせんと職に殉じたこれらの方々の功績の顕彰と追悼のため「殉難警察官之碑」が明治44年の札幌市内に建てられ、移設先の北海道警察学校では合祀者へ向けての慰霊式が現在も定期的に執り行われているそうですが、本記事ではこの他に碑類が現存する個別の8件(及び類する1件)をも併せて、そのあらましを紹介したく思います。
【札幌市】「殉難警察官之碑」
建立年月日:明治44年 5月
建立場所: 札幌市南区真駒内南町5丁目

碑面
※北海道警察学校の許可を得て撮影・掲載しています。本画像の複写・転載はご遠慮ください。
【岩内町】「三等巡査庄司己吉之墓」
殉職年月日:明治13年11月26日
建立年月日:明治26年11月26日
建立場所: 岩内郡岩内町高台131
序文でも触れていますが、北海道警察機構における初めての殉職事例は賊の凶刃によるものでも、また大災害がもたらした出来事でもありません、それを生み出したのは意外にも1頭のエゾヒグマで、その退治に立ち上がった巡査が激闘の末に命を落としてしまったというある意味”北海道ならでは”のエピソードでした。
開拓使時代の明治13年(1880年)にあったというその事件、現在においても熊による深刻な被害に関する報道は頻繁に耳にしますが、約150年前の北海道は今とは比較にならないほど獣害が多かったと聞きます、もっとも海沿い地域の一部を除きほぼ”未開の地”だった当時の情勢からすればそれは至極当たり前の話だと言えるでしょう。
舞台は現在の後志管内共和町にあたる「岩内郡発足村」(あるいは前田村とも)、同一個体と思われるヒグマによる人命さえ脅かす度重なる被害に困り果てた村からの陳情を受け、所轄の札幌警察署岩内分署は村民有志を募って同署所属巡査を「長」とした討伐隊を編成、合わせて4組から成る部隊が各々担当する区域へ山狩りに向かったのが11月10日のことでした。
その内、水松沢(おんこのさわ)地区を担当した「三等巡査庄司己吉氏」率いる第1組は、道中で発見した足跡を辿ったところいきなり件のヒグマに遭遇してしまい不意をつかれた隊は散り散り、気が付けばその場に踏み留まっていたのはまさか巡査のみという有様だったのです。
想定もしなかった孤立無援の状況の中で果敢にも庄司巡査は持っていた槍と刀剣をもって立ち合いに挑むも、体長2mを超える巨熊を相手とするにはいかにも頼りない武具での太刀打ちは困難で、遂には暴れ狂う猛獣の一撃を受けその場に伏してしまいます。
ただ独りで無謀にも近い戦いに臨むその様を遠巻きに”恐る恐る”眺めていた村民たちもここでようやく奮起、鳴り物と銃撃で敵を一旦追い払ったのち、彼を何とか運び出したものの負った傷は相当に深く、生死の予断をまったく許さない状況でした。
この壮絶かつ悲痛な顛末を受けて一様に思うところがあったのだろう大勢の村人が俄然気勢を上げて集結、さながら”弔い合戦”のごとく大規模な山狩りを連日敢行した結果、11月20日までかかりながらもとうとう巡査の”仇討ち”を果たすことになります。
然して、重体の身ながら討ち取ったヒグマの検分に立ち会った氏は自らの恨みを晴らしてくれた住民の手柄に快哉を叫びつつ、ここで気力の糸が切れてしまったのかそのまま人事不省に陥り再び目を覚ますことはなかったと伝えられています。
命をも惜しまない勇猛な戦いぶりで名を馳せる「庄内藩士」の血統を受ける庄司氏もまさか自分が熊と闘って命を落とすことになるとは思いもよらなかったでしょう、彼にとって決して本懐ではなかったとは言え、氏の功績を讃える石碑とともに「北海道初の殉職警察官」としてのその名はこれからも語り継がれていくのです。

【浜中町】「坂口尚政巡査殉難慰霊碑」
殉職年月日:明治16年 2月15日
建立年月日:昭和57年 9月
建立場所: 厚岸郡浜中町琵琶瀬
『過去記事』をご覧ください。

【八雲町(旧熊石町)】「巡査中原君紀功碑」
殉職年月日:明治19年 9月 5日
建立年月日:明治19年10月22日
建立場所: 二海郡八雲町熊石畳岩町553
現在(2026年)から見ると既に過去の出来事になってしまいそうなあの「コロナ禍」、しかし蔓延が拡がりはじめた頃のことを思い出すと自らが住む地域での罹患者数が日々増えていく様をメディアで確認しながら、先が見えない状況に底知れぬ恐怖感を覚えていたのはもちろん私だけではないでしょう。
この未知のウイルスへ対しては、医療技術が飛躍的に進歩したはずの現代社会においてでも一時期は人間の手には負えないようにさえ感じた訳ですが、往時を振り返ればこれと同じような危機に幾度も脅かされながらも、人々の知恵や献身的な働きによってその都度何とか克服してきた歴史が北海道にもありました。
時は明治19年(1886年)、道南の熊石村(現・八雲町熊石地区)は目に見えぬ疫病によって地域全体が恐怖の渦に巻き込まれていました。
罹患者の症状から、この流行病の正体が前年より日本全国で蔓延の兆しを見せていた感染症「コレラ」であることが判明、商用のためか郡役所のある江差市街へ赴いた一村民がどうやら菌を”持ち帰ってしまった”のが発端だと推測されています。
明治時代になってからは外国船の来航も増えた影響で我が国にも度々上陸・流行していたので、この”あれよという間に死に至る”恐ろしい病気の存在自体は北海道でも知られていましたが、まさか自分の村で発生するとは誰もが考えていなかったのでしょう、あまりにも突然の事に定住の医者も居ない田舎の村落ではなす術もなかったのは想像に難くありません。
そんな皆が平静を失った状態の中で対応に追われたのは江差警察署熊石分署の分署長である「中原宗三郎警部補代理」でした、ひとまず優先させる対処法として患者を現代の感染症指定医療機関に当たる「避病院」へ直ちに移動させ感染拡大の防止に務めることを推進した氏、ところがもし今なら至極当然な措置に対して意外にも当時はこれを素直に受け容れる人が多くありませんでした。
なぜなら、この病院とは名ばかりの”隔離施設”は押し並べて衛生環境的に劣悪であったようで、有効な治療法も確立されていない中で人家から遠く離れたここへ収容されることは、すなわちやがて確実に訪れる”孤独な死”を意味したからです。
「”終の住処”を自宅に求める」患者の心情と、また避病院の存在意義のいずれも理解していただろう中原氏にとってもつらい決断だったと思いますが、そんな彼をさらに厳しい状況に追い込んだのは言うなれば”人手不足”の問題でした。
というのも、コレラに対する認識が十分に備わっていないながらも強い感染力の怖さだけは村民間でも必要以上に伝わっていたようで、いくら懇願をしたところで罹患者へ対する看護や搬送を手助けしてくれる者は残念ながらひとりも居らず、”待ったなし”の状況で結局それらの作業をすべておこなったのは中原分署長自身と彼の指示を受けたその部下たちだったのです。
もはや警察官としての本分を超える献身的な行動をもって事態の収拾を図った彼ら、しかし非情にもそれ故とうとう中原氏自身が病魔に冒されるという最悪の結末が待っていました。
警察分署長と言えば当時としてはかなり身分の高い位置付けのはずで、その特権を用いれば最終的な結果はともかく、ここより大きな隣町で少しはましな医療処置を受けることも可能だったでしょう、だが遠くない死期を悟っていた彼が選んだ”最期の場所”は庶民と同じ避病院でした…「住民に苦労を強いているのに自分だけが特別扱いを受けては申し訳が立たない」というのがその理由だったそうです。
私が勝手に持っていたイメージの上では、士族上がりでプライドが高く一般庶民などに決して目線を合わせることもなさそうな明治時代の警察官ですが、本件について報じた新聞記事で「実にかかる労役をも憚らず、之に任じたる同氏の尽力は感服のほかはなし」との絶賛を受けるほど「徳の備わった」人物も確かにいたのです。

【三笠市】「故北海道廳巡査能勢初治君之墓」
殉職年月日:明治34年 4月28日
建立年月日:明治36年 4月28日
建立場所: 三笠市幌内町2丁目
三笠市幌内地区(旧・幌内村)は今でこそ道内のあちらこちらでよく見かける”過疎化が著しい”山間の地域のひとつに過ぎませんが、北海道の近代史を語る時には決して外すことの出来ない重要な場所です。
実質道内初の本格的な採炭事業所となる「官営幌内炭砿」(明治12年=1879年開坑)や石炭運搬のために敷設された「官営幌内鉄道」(明治15年=1882年開通)など、明治期の北海道における近代産業の目覚ましい発展にこの地が関わっている事柄が多くあります。
一方で、炭山での採炭作業には主に「空知集治館」から送られた囚徒が安全・衛生環境の悪い中で酷使されるなど、決して喜ばしいことばかりではない歴史も併せ持つこの炭鉱、しかし明治も20年代に入ると払下げによる民営化(明治22年)や囚徒の外役禁止(明治27年)等、取り巻く環境が劇的に変化、完全に「官」の手を離れ生まれ変わった事業はこれから新しく健全な道を進み始める…はずでした。
だが、実際のところ囚徒の代替要員として急募された「良民鉱夫」は思うように揃わず、結局怪しげな「斡旋人」らを通じて手段を選ばず集められた人員の中には気性が荒い程度ならまだしも”素行不良なならず者”など他の地域から追い出されたような社会不適合者も一定数含まれていたと言います、かくして”清濁”区別なく来る者を受け入れた幌内がやがて”表裏の面を持つ街”へと変わっていくのに数年もかかりませんでした。
集治館が炭鉱運営に携わっていた頃にはそれほど多くなかった市街地における違法な「賭場」や「俗悪な飲食店」は、民営化を受けて需要とともにその数が一挙に増えました、そしてそれらの”元締め”である反社会的な組織も明治30年頃を境に広域化、また活動の資金源を確保する手段も様々巧妙化していき、善良な住民にとって迷惑極まりない存在は一帯の風紀を取り締まるべき警察をも大いに悩ませていたそうです。
かような混沌とした時代を迎えた明治34年(1901年)4月末の出来事、幌内村派出所に赴任してから日もまだ浅い「能勢初治巡査」のもとへ隣村である幾春別の飲食店経営者よりの捜索願が届けられました。
いわく「幌内の”札付き”の口車に乗せられた自店の女性従業員が他所へ拘引されたので何とか探して取り戻して欲しい」との意味合いの内容、その手口から察しがついた氏は早速割り出した2名の”被疑者”を派出所へ出頭させ直ちに善処するよう命じています。
近衛歩兵として従軍した後は警視庁そして北海道庁巡査と厳格な組織の中で長年にわたり勤勉実直に務めてきた彼にとっては、20歳そこそこの若者が定職にも就かず”意気がって”他人に迷惑をかけている様がどうにも許し難かったのかも知れません、無論良かれと思いながらおのずと厳しい口ぶりになったという今回の説諭対応、しかし返ってそれが良い結果を生まなかったのはその直後起こる出来事によって明らかになるのです。
当日の晩遅く、市街地の飲食店で”たむろ”する件の連中を見つけた夜回り中の能勢巡査は再びそれを咎めんと近寄ったところ、昼間の一件がよほど腹に据えかねていたのか暴漢たちはやにわに逆上し所持していた刃物をもっていきなり巡査を襲撃、私服巡回につき「丸腰」だったにも拘らずそれでも賊を捕縛せんと奮闘するもやはり多勢に無勢であり、深刻なダメージを受けその場に倒れた氏は遂にこのまま帰らぬ人になってしまったのでした。
本事案は北海道警察官殉職事例内で「凶刃によるもの」としては初めてのケースに当たり、これまでは悪党の間でもいわば”御法度”だった「警官殺し」を何のためらいもなく実行できる”無思慮”な輩による犯行は、少数精鋭たる巡査個々人の手腕・才覚に頼る旧来の防犯・取締手法がもはや通用せず、すでに”時代遅れ”である現実を浮き彫りにしたとも言えます。
その正義感に溢れる実直な精神ゆえに凶漢たちとも真正面から対峙し最後は毒刃に斃れた能勢巡査、「警察官の鑑」として最大級の賛辞を贈った上部組織の関係者はともかく、常に危険と隣り合わせの緊迫感の中で職に臨む現場の巡査たちがこの事件の報に触れ果たして何を思ったのか…それを知る術はありません。

【豊頃町】「故巡査大友陽之助碑」
殉職年月日:明治43年11月20日
建立年月日:明治45年 7月
建立場所: 中川郡豊頃町大津幸町14
道東は豊頃町の太平洋岸に位置する「大津地区」、その”小ぢんまり”とした港町の海岸ふちには「十勝発祥之地」なる碑が”ぽつん”と建っています。
果てしなく広大な平野に畑や牧場がどこまでも続く十勝地方のイメージとは一見あまり結びつかないものの、よくよく考えるとなるほど当地は大河「十勝川」の河口に接する地域であり、拓殖が本格的に始まる明治初期から入植者や彼らのための物資がここを起点として川の上流側、つまり帯広など現在栄える内陸の土地へと運ばれていた様子が想像できます。
そして、函館などから必要物資を載せた貨物船が大津へ到着し荷下ろしを終えた後は当地で多く水揚げされる「鮭・鱒」を積んで帰るという効率の良い「ビジネスモデル」が次第に確立されていきました。
ところが、こうした儲け話を聞きつけると早速寄ってくる一定数の”不届者”が禁じられている河口域での「密漁」により得た獲物を転売するといった犯罪行為がやがて横行、監視員を置くも効果が薄い状況に困窮した水産組合や自治体側がとった最終手段が、かかる経費負担を覚悟してまでの「請願巡査」の配置であり、かくて明治43年(1910年)9月より鮭の遡上が終わる12月上旬までの期間限定措置として「大友陽之助巡査」が帯広警察署大津分署から派出される流れになったのでした。
初めは戸惑ったかも知れない「魚を人間から守る」という不慣れな任務も何とか無難にこなしつついよいよ終盤を迎えた11月20日の夜10時頃、定例の夜間巡回のため「丸木舟」に乗り河口近辺をパトロールする大友巡査は闇夜の中で”うごめく”怪しい気配を察知、果たしてその正体である「密漁犯」は巡査の存在に気付くや否や仕掛けた網もそのままに一目散に逃走しています…が、不法を未然に防いだところまでは首尾よく運んだ事態はこの後最悪の方向へ向かってしまうのです。
実は、最も干満差の大きい「大潮」のタイミングがちょうどこの日に当たり、それ自体はおそらく事前に認識されていたと思われるものの、状況柄こまめに時刻をチェック出来ない中で、犯人の遺留品たる漁具の検証作業に思いのほか手間を要したがために、もしや岸へ戻るべき時間を読み違えた可能性が考えられます、然して折悪しくその時発生した猛烈な引き潮になすすべもなく舟ごと外海へさらわれたまま行方不明となってしまった大友巡査…村を挙げての捜索にも拘らず安否が分からなかった彼が無念にも変わり果てた姿で発見されたのは事故から2週間が過ぎた12月4日のことだったそうです。
見方によっては氏が守ってきた「自然」に”裏切られた”とも言えるこの理不尽な悲劇に際し、村葬として執り行われた葬儀には警察関係者や村民ら約一千名が、また2年後の大正元年に三回忌を記念して建立された慰霊碑の除幕式にも大勢の臨席・参列者があった旨記録に残されています。
ただ私感としては、誠に失礼ながら”事の程度”からすると多少の”仰々しさ”を否めないこの一連の催事、もちろん重要な村の財産を無法者から守るため職に殉じた大友巡査を純粋に悼んでのことだろうとは思うものの、何となく明治35年2月にここであった北海道警察機構の歴史上最大級の不祥事である「大津(中山)事件」の所為で”ことごとく”失った地域住民の信頼を取り戻すべく計らいに躍起となる当局の思惑を邪推してしまうのはひねくれ過ぎでしょうか。
もっとも、その後の大津村は程なく時局の急変に翻弄される形となり、物資や人員の移動手段の主役が内陸寄りに新設された鉄道「十勝・釧路線」(明治40年全通)へと移ってからはそれに応ずるように船便が激減、おのずと関連する川舟・艀運送業者や海運会社が廃業・撤退に追い込まれる状況は更に人口減少の加速という悪循環を生み出しますが、連鎖する負の勢いを食い止める力はもはや地元にはありませんでした。
最終的には昭和時代において3つに”切り分け”られた村域がそれぞれ隣接する他の町村へ編入され、自治体ごとが消滅という何とも哀しい顛末を迎えた大津村、かつての「十勝の表玄関」はその面影を残すことなく今に至っていますが、現地を歩くと寺院の境内にあってひと際大きく目立つ慰霊碑が当時の何事かを物語っているような気がします。

【中川町】「故巡査部長齋藤高範殉難之碑」
殉職年月日:大正 7年10月10日
建立年月日:大正13年10月
建立場所: 中川郡中川町中川415
明治中後期に開かれたという現在の上川管内中川町、道北を流れる大河「天塩川」沿いの内陸部に集落が点在するその場所柄、開村当時はとりわけ陸路の交通アクセスが極端に悪く入植民が苦労を強いられたと伝えられますが、大正時代に入り話が二転三転しながらも念願の鉄道が通されることが決定し地域に明るいニュースがもたらされた経緯については前に『天塩線関連碑』のエピソードでも触れたところです。
ところがそんな”前途有望”な村全体を揺るがす恐ろしい出来事が起こったのが大正7年(1918年)10月のこと、発端は一組の若い夫婦の離婚・復縁騒動に過ぎませんでしたが、一見他愛のない揉め事が最終的には他人の生命が失われる程の大事件へ発展してしまったのです。
新聞報道によれば、件の夫婦は縁あって大正3年に入籍、常盤村音威子府で所帯を構え子宝にも恵まれたものの、もともと素行に難があった夫が同7年に至り窃盗事件を起こしたところから転落が始まり、結果懲役8か月の罪で監獄へ収監中に夫を見限った妻が子供を連れて帰郷してしまったそうです。
その上、すっかり”夢から醒めた”妻側よりの再三の離婚申し入れや終いには裁判所への申し立てを一方的に起こされた獄中の夫はかなり憤慨していたと聞きます、もちろん詳しい事情は知り得ませんが、報じられているそれまでの数々の問題行動に鑑みるとすべては”身から出た錆”なのでしょう。
さて、生まれ故郷の中川村へ帰って来た妻は、いずれ必ず追ってくるだろう夫の目から逃れるべく実家ではなく実姉の嫁ぎ先に身を寄せていましたが、何せ狭い村の中のこと居場所を突き止められるのは時間の問題でした。
一方、刑期を終え出所したばかりの夫は案の定、頭を下げるためではなく”力づく”でも妻を連れ戻すべく早速行動を開始、情けないことに酒の力と実弟ら”ごろつき”仲間3人の”後ろ盾”を得ながら、やってきた中川村で彼女と相対した男は持っていた凶器を振り上げつつ復縁を迫りました、しかしエスカレートする脅迫に手ひどい傷を負いながらも頑なにそれを拒絶し続ける妻へ対し「ならば」とばかりとうとう最悪の局面にならんとしたその時…この”修羅場”に介入したのが隣家の住民からの通報を受けて駆けつけた旭川警察署名寄分署誉平巡査派出所勤務の「齋藤高範巡査」だったのです。
まったく予断を許さない状況に際し、なかば錯乱状態である相手の正気をまずは戻すべく自らの身分を名乗りながら夫を”一喝”した氏、だがよりにもよってこの悪漢は先の窃盗事件でのいきさつでよほど警察を恨んでいたのか、”ひるむ”どころかむしろ激昂しながら怒りの矛先を変えて切りかかってきたそうです。
更には傍らのならず者たちも夫に加担するといった圧倒的不利な状況の中、それにも臆せず決死の組み打ちに臨んだ齋藤氏でしたが、無念にも形勢は戻らず最後は賊に奪われた自身のサーベルによる攻撃を受け、ついに壮烈な殉職を遂げるに至ったのでした。
その後自分のしでかした事の重大さにおののき逃亡を図るも一週間後には潜伏先の中頓別村で捕縛されたというこの”救いようのない”殺人犯を、ちょうどその時期に発表された有島武郎の小説「カインの末裔」に登場する粗暴極まりない主人公になぞらえている当時の文献も目にしましたが、物語ではそれでも最後まで夫に連れ添った”人生の伴侶”からも早々に”三行半”を突きつけられるようなみじめな男に無惨にも命を奪われた齋藤巡査はまったく浮かばれず本当に気の毒としか言いようがありません。
聞けば、齋藤氏の妻は腎臓疾患の加療のためしばらく入院中だった札幌の病院にてこの訃報に触れたとのことですが、その事実から想像を膨らましてみると「一度警察を退官したのち約10年間務めた森林監守の仕事を辞めてまで再び巡査の職へ戻った」と紹介される氏の経歴の背景には、もしや長く病床にある奥方の高額な治療費の捻出目的も含まれていたかも知れず、だとすると本件に係る二つの家族における「所帯を守る」という意味のあまりにも大きい違いには唯々絶句するのみです。
この事件で検挙・訴追された凶漢たちが以後どうなったのかは公判内容を後追いしていないためその顛末は分かりませんが、おそらく各々が厳罰に処される形で結審したのだと思います、ただ先のエピソードに引き続き「複数の凶悪犯に巡査が単身で臨み凶刃に斃れる」といった深刻な事例が残した問題に対しては、今後の改善へ向けて警察機構が何らかの対策を求められたのは間違いないでしょう。
しかしながらその後においても、道庁巡査の募集に際しまったく芳しくない応募結果を受け対象範囲を東北・北陸地方へまで拡げる旨の内容や、その土地の実力者に”おもねる”傾向にある派出所巡査の実態などの新聞記事を見るにつけて人員配置や増員、あるいは地方の対策が決して順調に進んでいない苦しい事情が読み取れます、かくしてとりわけ”後進”地域の警察官が”正しく”職務を果たそうとすればするほど、本来無用な危険に晒される”不具合”は、まだしばらく彼らを脅かし続けるのです。

【上川町】「故巡査部長渡邊喜作之碑」
殉職年月日:大正12年 6月 8日
建立年月日:大正13年 6月 8日
建立場所: 上川郡上川町共進
序文で記した書籍の中で殉職事例の一覧をいわゆる「凶刃要因」に絞って見ると、大正時代に至ってからはそれまであまり見られない「一般人」が加害対象者になっているケースが目に付きます、つまり犯罪が最初のきっかけではなく住居などでの身内のトラブルの処理中、”成り行き”で不幸な結果を招いてしまった事案がいくつか起こっているのです。
広義の意味では先の中川村の事件(大正7年)もこれに該当しますが、大正11年3月に札幌警察署丘珠派出所の管轄内で正常な思考力を失った一人の農民が引き起こした事案や翌12年の本件など、大正末期に目立つこれらの事象の発生が時節柄深刻な不況が続いていた当時の世情とまったく無関係ではないような気がするものの、もちろんそれも単なる想像に過ぎません。
大正12年(1923年)5月11日午後11時頃、札幌警察署山鼻町派出所へ配属されて間もない「渡邊喜作巡査」は、町内の自宅で泥酔の上大暴れしている男の取り鎮めを求める家人からの通報を受け早速現場へ急行しました。
北海道の花見シーズンにあたるこの時期は程度の違いこそあれ毎年似たような騒ぎが近辺で起こっており大抵は警察沙汰になった時点で治まるのですが、しかし今回に限っては”一筋縄”にはいかなく、一体何に対して怒りを覚えているのか家の中で刃物を振り回す玩具職人の男へ対し説諭を試みるも、まるで聞く耳を持たない状況にやむを得ず署への同行措置を執行しようとするや益々激昂、巡査ばかりか同居の妻や弟へ向けての殺意まで感じられたため、これを取り押さえんと組み合いとなります。
だが人並大きい体格で一説では過去に警察官への剣術指導をしていた経験を持つというこの男を組み伏せるのは容易なことではなく、しばらくの格闘の中で巡査は凶器による複数箇所の傷を負いながらも遂には捕縛に成功、気丈にも本署までの連行・引き渡し任務を終えた後、昏倒し病院へ運び込まれたと言います。
心配された身体の具合は幸いにも「重傷であるものの生命には別条ない」レベルであり、この時は「”天晴れ”な逮捕劇」の主役として世間に知れ渡った渡邊巡査でした…が、新聞紙上にその名前が再び載ったのは約1か月後、但し今度の内容はまさかにも彼自身の「訃報」だったのです。
記事いわく「入院加療中『丹毒』を併発し6月8日に急逝した」とのこと、おそらく現在で言う「敗血症」が命取りとなったのだと思います…とすれば今なら病院側の術後の処置方にも疑義が生じるところですが何せ大正時代の医療レベルであれば致し方ない面も多分にあるのでしょう。
自らが農家出身であったからかとりわけ庶民へ向けての温和な対応が際立つ模範巡査だったという渡邊氏、きっと早期の職場復帰を目指して療養に専念していただろうだけに、快方へ向かっていながらこの期に及んでの急変は本当に残念でなりません。
そんな渡邊巡査を悼む碑が建てられたのは、事件のあった札幌から遠く、彼が幼少の頃を過ごした上川村(現・上川郡上川町)の地でした…明治後期に富山県より入植してから黙々と農地開拓に励んでいた実父が自身の所有地の一角に建立した立派な碑、喜作氏が家督ではない次男であるがゆえ時代柄表面上は放任的に接していたかも知れませんが、実は父にとって誰に劣らず自慢の息子のひとりに変わらなかった証しではないでしょうか。
それから100年余が過ぎ、自身が携わることはなくも渡邊家が代々守り続けてきた上川の土地には”苔むした”姿で今も彼の碑が遺されているのです。

【根室市】「故坂野隆義警部殉難慰霊之碑」
殉職年月日:昭和54年 6月21日
建立年月日:昭和55年 6月21日
建立場所: 根室市川口
道東地域のいずれも主要都市である釧路市と根室市、なんとなく近い”隣町”の印象にある両都市間の距離が地図で見ると意外にも離れていることに驚いた記憶があります。
もし検証のため、その間を結ぶ「国道44号線」を実際に車で走行してみれば、なるほど到着まで相当の時間がかかり「総延長137.7km」の公称数値が偽りでない事実をきっと実感できるでしょう。
その道中には厚岸湾や別寒辺牛湿原(べかんべうし)など所々に眺望の良いエリアもあるものの、基本的には山林や草地といった自然の単調な景色が延々と続きドライバーの”眠気”を誘う、そんな本国道を釧路から向かうと根室市域に入って間もない川口地区の道路わきに一人の警察官の殉職碑が建っているのが目に入ります。
これは昭和54年(1979年)6月にここで起こった交通事故によって亡くなった根室警察署厚床派出所勤務の巡査部長(当時)の慰霊と交通安全祈願のために建立されたものですが、一見何の変哲もない片側1車線の直線道路であるこの事故現場、実は以前から事故が多発している要注意エリアでした。
というのも、夏場を迎え頻発する霧により見通しが悪くなりがちな道路状況の中、根室港や花咲港から水揚げされた海産物を満載し荷下ろし先へと急ぐ大型トラックの通行量が増える上に、「追い越し禁止」の交通規制がこの近辺で解除されるに伴い、ここまでの先詰まり状態に苛立っていた高速車が一斉に追い越しを試みるなど、この時期の界隈は潜在的に事故を招く要素がいくつも重なる極めて危険な地帯だったのです。
本事故についても、濃霧に包まれた薄暮時での走行中、先行車を追い越し中の4トン貨物トラックとたまたま対向車線を走っていた小型パトカーが正面衝突を起こしたという言わばこの地ならではのもので、先導する別のトラックに引き続き当の車両が無理な追い越しをかけていたため、対するパトカー側としては目視確認出来た1台目はともかくまさかの後続車を回避する術がなかったようです。
パトカーを運転していて殉職された「坂野巡査部長」(38)は道警本部高速機動隊など主に交通関係部署での職務を歴任、運転技術はもちろんリスク管理や危険予知力にも優れていたと聞きます、この日も濃霧発生の気象状況を受け、不穏な交通の流れを律するべく出動した矢先での悲劇でした。
現在国道44号線の当該地区を走行すると、2車線の「ゆずりゾーン」が比較的多く設置されている一方で、1車線の区域はコンクリートの中央分離帯で車線が仕切られており直線路にも拘らず物理的に追い越しが不可能な構造になっている様を確認できます、事情を知らなければ不便を感じるドライバーもいるかも知れませんが、過去に幾度かあったこのような悲しい事故を受けての安全措置であることに理解が必要です。

【夕張市】「故北海道廳巡査池田真清記念碑」
建立年月日:大正14年 8月
建立場所: 夕張市住初6
他の事例と違って本件については「殉職」に当たらず、従い前出書籍の芳名録にその名を見ることも出来ませんが、本碑に祀られる「池田真清巡査」は空知管内の夕張(当時登川村)に初めて配置された警察官であり、明治時代中期において炭山の開坑により目覚ましくも同時に不安定極まりない発展を見せる炭鉱街の治安維持に尽力されました。
碑面には職務中の負傷によりやむなく退官した後、そのまま留まったこの地で非業の死を遂げた旨のあらましが刻まれているものの、ただ実際に氏がどのような足跡を残したかを示す資料はほとんどなく、その最期の真相も正確なところは分かっていません。
彼が「請願巡査」として夕張に赴任したのは明治23年(1890年)5月のこと、当年に最初の坑口を開いた「北海道炭鉱鉄道会社」からの依頼に応じて北海道庁より派遣された訳ですが、当時の夕張には先に稼働していた前出「幌内炭山」からの補充者の他にも、有望な”働き口”を求めて遠方よりはるばる訪れる者、あるいは当地をあらたな商売の場として着目した人々などが”にわか”に集まり、街がどんどん活気づく様はある意味”前途洋々”とも言える勢いがありました。
だが一方で、その中には上のエピソードでも記したように他所から流れてきた”荒くれ者”や”前科者”など社会のルールから著しく逸脱した人種が相当数含まれていたため、炭鉱と村の安全を守るべき巡査にとっては”前途多難”な行く末が確実に待ち受けていたのです。
実際、「労働賃金切り下げ」に係る採炭所方針を発端として明治26年の年明け早々に起こった騒動では、会社側との交渉決裂を機に扇動された約300名の採炭従事者が無秩序に大暴れし、岩見沢や札幌から駆けつけた警察の応援部隊により暴徒が鎮圧されるまでの数日間に飲食店など市街地のあちらこちらで破壊・略奪行為が発生、その際に襲撃を受けた巡査派出所も手ひどく損害を被った記録が残っています。
これは極端な事例としても、普段よりかように荒んだ環境の中、職場や盛り場で頻々と起こる”揉め事”に当初はただ独りで対処していた訳ですから、身体と命がいくつあっても足りなく、職務遂行の意欲を維持するのはとても大変なことだったでしょう。
そんな池田氏が前述の通り何らかの要因により”深手を負って第一線から退いた”のが果たしていつの話なのか明確ではありませんが、その後不慮の死を遂げた彼が夕張川で発見されたのが明治34年(1901年)の事だと言われています。
思えば、前年の明治33年当時の夕張は、職務待遇の改善を求める鉱夫による再びの大規模騒乱や反社会勢力同士の”血みどろ”の抗争が市街地で展開されるなど、かつてないほど地域の治安が悪化していたので、あくまで推察の域を出ないものの、もしやそれらの事象が彼の身の回りに起こった事に何かしら関係しているのかも知れません。
また氏の最期の経緯に関して、昭和45年の新聞コラムには「夕張川上流で大量に発見された砂金の利権争いに介入したため命を奪われたらしい」との一説が掲載されていました…何かと物騒な時勢柄、面倒事に巻き込まれた可能性は十分にあるでしょうが、なにしろ彼に係る一連の事柄についてその事実を裏付ける記事や資料が一切ないのでもちろん断定は出来ません。
ただいずれにしても、その時代の界隈が非常に殺伐とした状況下にあったのは確かであり、炭鉱会社から請願された巡査という元々の立場上、法に背くような不届者はもちろんのこと、時に一般の労働者からも謂われなく”敵視”されるケースさえあり、長年にわたり真に心休まる時は少なかっただろう氏の心情を慮るとあまりにも気の毒に思ってしまいます。
大正14年(1925年)8月、没後25年を機会として町の有志の手により前出記念碑が現在の夕張神社地先に建てられました、時の夕張町長を初め警察署長や炭鉱会社の幹部などの歴々が臨席した除幕式典の様子を報じた当時の新聞記事の内容からも、氏が残した功績について少なくとも行政・企業の側からは大いに感謝されている様子が窺えます。
書き出しに記した通り、退官後の出来事であるがゆえに本件は「殉職」事例として公式には扱われません、しかしはるばる伊予国(愛媛県)から大志を持って北海道の巡査になった池田真清氏の数奇な生き様は「警察史」の名簿に記載されることはなくても、碑を通じて後世へ伝えられていくのでしょう。





























