北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【函館市】函館大火関連慰霊碑

函館市】函館大火関連慰霊碑

事故発生年月日:昭和 9年 3月21日

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(2019/5/19投稿)

  私がブログ記事を作成する際、よく参考にさせてもらう資料のひとつに道内各自治体が編纂する「市町村史」がありますが、巻末などにまとめられているそれぞれの沿革年表を見るに、意外なほど多くの都市や集落がかつて大規模火災に見舞われた歴史を経ている事実に驚かされます。

 さすがに住民の意識向上や建材・設備の進化等、様々な防火対策が施されるようになった近年ではほとんど事例がないものの、明治時代からおよそ昭和30年代初め頃まではほぼ毎年のように道内のどこかで大火が発生していたといっても過言ではありません。

 その出火原因は様々なるも、震災や戦争に起因するもの、または放火といった特殊なケースを除けば人的過失である「火気扱いにおける不注意」による失火と「山火事」などの自然要因とにおよそ大別され、それが延焼へと発展する共通の環境・条件として「家屋の密集」や「低湿度」、あるいは「強風下」である事が挙げられます。

 そうして見ると、なるほど空気が乾燥し割と風の強い日が続く春先にそれらの多くが起こっており、建築物の構造がまだ単純な木造であった時代においては人口が増加する過程の中で住宅などが過密状態にある大都市ほど発生のリスクが高かったであろう事が容易に想像出来ます。

 このような災禍により、被災住民は無論、経済発展の遅れという意味で自治体が深刻な打撃を受けたのは言うまでもなく、その復興のために計り知れない費用と労力が都度投じられた事でしょう。

 ただ一方で、”手ひどい”損害を被ったからこそ建築物の耐火構造化や消防体制の強化、あるいは都市計画自体の見直しなどの有用な対策が真剣に講じられ、時代を経て現在の比較的安全な環境が整えられているのもまた事実だと思います。

 それにしても、現代とは違ってまだ災害保険制度の”建て付け”や意識付けが確立されていない時分に、自らが招いたものならいざ知らず、思いもかけない”巻き添え”によってすべての家財や最悪には家族を失った大勢の被災者が、まともな補償すらない中で一からの再出発を決意せざるを得なかった状況を想像すると余りにもいたたまれないものがあります。

 さて、たった一度きりの災いでさえも地域が無に帰するほどの破壊力をもつそんな市街地火災ですが、100戸以上の家屋を焼失させるレベルのいわゆる「大火」を明治時代から数えて実に26回も経験しているという全国的にもあまり類例のない都市が北海道にあるのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 北海道の南端に位置する「函館市」は、本州にほど近い地理的条件も手伝って江戸時代中期には和人による人口約2,500人の市街地が既に形成されていたとされ、道内では「松前町」界隈と共にもっとも古くから栄えた地域のひとつです。

 明治維新時に起こった「戊辰戦争」における最後の激戦地であり、また江戸末期に国際貿易港として開かれたこの地には、古くからの社寺や城址、あるいは異国情緒漂う当時の洋風建築物など、道内の他地域には見られないような近世時代の貴重な史蹟が多く遺され、シーズンには道内外からたくさんの観光客が訪れる名所となっています。

 但し、これら浪漫あふれる魅力的な建物は「函館山」の山麓や「西部地区」の一部に概ね集中しており、一方で市街中心部まわりから東側近郊へ向けては比較的広い道路に沿ってきちんと区画整理された土地に割と新しいビルや家屋が整然と建ち並ぶ極めて”すっきり”した街並に見えます。

 その様は歴史深い街にしてはやや違和感を覚えるほどの景観と言えなくもありません、しかしそれにはこの地がいにしえより被ってきた「度重なる大火の歴史」という哀しい所以があるのです。

 「平成の大合併」により近隣町村を吸収し今では”大所帯”となっている函館市ですが、”本来”の市域の位置をあらためて衛星写真等で確認すると、津軽海峡へ向けた洋上に突出した”出島状”の土地周辺に市街地が広がっている様子が見て取れます。

 このような三方を海で囲まれている地形ですから、常に風の影響をまともに受ける地域であるのは当然である上に、明治2年(1869年)の段階で北海道の総人口(58,467人)の内、実に1/3にあたる住民(19,223人)がこのさほど広くない場所に”密集”していたという統計値からも、その時代において万一ここで火の手があがればどうなるかはおよそ察しがつくでしょう。

 実際歴史を遡ると、江戸時代の文化3年(1806年)に全戸の約半数にあたる350戸を焼失したのを初め、いよいよ明治時代に至ると人口増加や近代産業勃興の影響もありほぼ2~3年おきには100戸以上を失うレベルの火災が頻発しています…その中でも明治40年(1907年)8月25日に発生した大火は1万戸に近い家屋が焼き尽くされるというこれまでとは”桁違い”に深刻なものでした。

 この災禍によってなす術もなく市街の大部分が焦土と化され経済が壊滅的状況に陥った函館では、これを機に最新の消防ポンプの導入や消火栓の高性能化、あるいは他に先駆けて「火災報知器」を要所に設置するなど段階的に防火・消火体制が強化され、更には家屋の耐火構造化や狭く入り組んだ道路の拡幅・直線化等のインフラ整備も併せて推進されています。

 もっとも、こうして全国的にも最高水準の「防災環境」が整えられた状況下でも、その後の大規模火災の発生自体は止められず、例えば大正10年(1921年)には2千戸以上を焼損する災害に見舞われているものの、被害規模は「明治大火」に比較すると低減されており、少なくとも「減災」的には着実に効果を発揮しているものと見られていました。

 「もはやかつてほどの大惨事は起こるまい」…そう実感していた人もいたかも知れません、だがその考えが所詮”儚い幻想”に過ぎなかったのは昭和9年(1934年)に起こった出来事により切なくも明らかとなってしまうのです。

 その年の3月21日、今では「春分の日」にあたるこの日は「春季皇霊祭」として当時から祭日に設定されており、市内のあちらこちらでは各学校で卒業式を終えた師弟や父兄らによる「謝恩会」が催されていたそうです。

 ”晴れの門出”を祝う気持ちとは裏腹にあいにくの曇天となってしまい昼過ぎには雨もが降り出した当日、しかしその時猛烈な速度で日本海を北上し北海道に接近中だった低気圧の影響を受けて天候状況は見る間に悪化の一途をたどり、夕刻に至って降雨は治まったものの界隈は台風並みの暴風に見舞われたと言います。

 街中の所々では強風にあおられた電線が切断され、放電によるスパークから火災発生の恐れがあるためにやむなくほぼ市街全域で停電措置が施された函館では、とても”祝賀”どころではなくなった市民が暗闇の中で心穏やかでない時間を過ごしていました。

 そんな中でも、即座にストーブの火を消すなど一般家庭における非常時の防災心得についての市民意識がそれなりにも高かった事は、当時の児童らによって書かれた日記や作文の記述内容からも窺えます。

 これも、ある意味”災害慣れ”した函館市民が日頃の啓蒙活動や過去の経験から学んだ結果と言えるでしょう、だが哀しいかなそれでも悲劇は起こってしまったのです。

 いよいよ秒速20mをゆうに超える暴風が吹き荒れる午後6時53分頃、市街の最南端に位置する「住吉町」では、海手からの強烈な風に持ちこたえられず、遂に屋根ごとが吹き飛ばされてしまう民家が続出します。

 それぞれの住人は突然の大ごとに際し命からがら家から脱出するに至りましたが、その内1軒の2階にあった「切抜き炉」(茶室などに見られる畳の一角を切り抜いて設けられた炉)の火の始末が不完全であったために「残り火」が吹き込んだ風にあおられて建屋へと飛び火…これがこの後空前の惨禍をもたらす事となる「(昭和)函館大火」の”幕開け”でした。

 かくて、もっとも南の外れに建つ一民家におけるほんの”些細”なきっかけにより上がった火の手は南南西風に乗って隣接家屋への延焼を次々と呼び、瞬く間に住吉町全体が猛火に包まれる事態となります、この様子を望楼(火の見やぐら)で確認した消防組はすぐさま火消しに出動、しかし様々な阻害理由が重なり結果的にその任務を果たす事はほとんど出来なかったのです。

 かつてよりしばしば大火に見舞われている函館では、前述の通り今後の防災対策として道路環境や住宅構造あるいは土地区画の見直しがその機会になされています、但しそれは不穏当な表現ながら”焼け野原の更地”だからこそ速やかに遂行出来た措置であり、今回の火元である住吉町は幸か不幸かこれまでの被害から免れてきたがために、複雑に入り組んだ道路脇に老朽住宅がひしめきあう”昔のまま”の姿を残す地区のひとつでした。

 その上”街はずれの終点”であるが故、消防水利として活用されるべくあった水道管内の水圧(水量)が絶対的に不足している状況では、圧倒的な向かい風への太刀打ちなど到底出来るはずもありません、本来50m以上の高さへも放水可能な大型ポンプを擁し「全国最強レベル」と謳われた函館消防組をもってしても逆巻く火焔を前にまったく打つ手がなく、飛来物による負傷者も現れる中で防衛線の後退を余儀なくされる事になります。

 初期鎮火に失敗し、もはや手の施しようがなくなった烈火は、函館山の東側山麓に沿う形で風下にある地区を”着実かつ徹底的”に蹂躙しながら北進、出火から早くも1時間後にはすでに市街中心部へ迫りつつありました。
 昭和8年調べによると当時21万3千人(40,835戸)が住んでいたとされる道内最大都市の機能は完全にマヒし、凄まじい勢いで燃え拡がる火を目前に市民は闇夜の中での避難を決断せざるを得ませんでしたが、その数は総人口の半分以上にあたる約11万人にものぼったと言います。

 その際、警察や消防、あるいは自治体側からの公式な指示・誘導がなされる事はありませんでした…というのも電信・電話も不通となったこの頃に至っては各組織内での連絡もままならない状況に陥っており、指示命令や現状報告もおぼつかない中では冷静な分析に基づく的確な情報発信など出来るはずもなく、もっとも受ける側としてもそれを悠長に待つ時間的・精神的余裕すらまったくなかったのでしょう、結果人々は各自の判断を信じて行動するしかありませんでした。

 かくして”おのれの思うところ”の安全な方角へと各々移動を始めた避難民たち、だが彼らの命運は直後にもたらされた”自然の急変”によってはっきりと明暗が分かれてしまうのです。

 その兆しが現れたのが午後9時頃、今まで北へ向けて市内を縦断していた風向きが変化を見せ始め、最後は完全に「西寄りの風」となったためそれからは市街東側の地域が”炎の標的”となってしまいます…ただこの現象は別に”天候の気まぐれ”によるものではなく明確な科学的根拠がありました。

 北海道接近まで時速100kmという極めて速いスピードで北上しながらも到達後は一気に5km/hまで急減速した事で、函館が長時間強風に晒される原因を作った「発達した低気圧」は午後8時頃には、気圧示度721mmHG(約962hPa)の勢力を保ちつつ寿都沖約50kmの日本海上へ”ゆっくり”と達していました。

 北半球における低気圧付近では常に大気が左回り(反時計回り)に旋回するため、つまり今回のケースでは低気圧が函館と近い緯度にある時は南北を通して影響を及ぼした風が、その北上に伴って東向きへと移行するというのはなるべくしてなった、いわば”当然の成り行き”だったのです。

 但し、リアルタイムにおける「低気圧の位置」など庶民に知る由もなかったのはこれもまた”当たり前”の話です…然して東側の湯川村方面へ向け海岸線を移動していた1万人とも言われる人々はその後、まさに”この世の地獄”を見る事になってしまいます。

 いつの間にやら背後からひっきりなしに飛んで来る無数の火の粉を受けて、避難民たちはすでに状況が変わり自らの身に危険が迫っている現実を悟りました、しかしいくら先を急ぎたくともめいめいが引く家財道具で山積みとなった荷車や馬車、さらには”上層階級市民”が乗る自家用車と乗合バスまでもが入り乱れてごったがえす道路は渋滞を極め一向に前へ進む気配すらありません。

 そんな彼らの行く手を決定的に阻んだのは大森町とその先を隔てる「亀田川」でした…そしてここが直後に起こる他に類を見ない悪夢の舞台となったのです。

 この川は明治21年1888年)の切替工事により新しく誕生した水路である事から地元では通称「新川」と呼ばれており、その下流側には「新川橋」「高盛橋」「大森橋」という3つの橋が架かっていましたが、火勢に追われなかばパニック状態である数千の人々が決して広くないこれらの木橋へそれぞれ殺到したのですから必然的に良からぬ結末が待っていました。

 飛び火により車上の荷や欄干の一部が燃え出し怒号と悲鳴が飛び交う中で、人や車両で”すし詰め”となった大森橋は限界をはるかに超える荷重をとうとう支えきれず午後9時40分頃に崩落、この悲惨事は同様の状況下にあった残る2箇所の橋でも立て続けに起こる事となります。

 逃げる間もなく彼らがもろとも転落した新川はその幅20mに満たないさほど大きな川ではなく本来であればすぐ岸にたどりつく事も出来たはずです…が、次から次へと積み重なるように無数の人や物が上から”降ってくる”状況で下敷きになってしまったら助かる見込みはほぼありません、このような不幸な要因も相まって橋崩落事故に関連して命を落とした人は合わせて400名とも600名とも言われています。

 人混みからはぐれる事のないようにと紐で結ばれたままの5人の母子や、大切な商売道具である綺麗な着物をいっぱい抱えた大森遊郭のあでやかな遊女、あるいは小学校入学を控えおそらく親から買ってもらって間もないのだろう新しいランドセルを背負った児童など、現場には老若男女を問わずおびただしい数の犠牲者の姿が残され、そのあまりにも気の毒な様はとても見るに忍びないものだったと聞きます。

 いくら平静な状況下ではないとは言えこれが現実に起こったとはとても信じられないほどのやるせない出来事…だがこの事故が図らずもさらなる惨劇を呼ぶ”引き金”となってしまいました。

 東西を結ぶすべての橋がこうして落ちてしまったがためにいよいよ”先詰まり”となり大森町界隈に取り残された多数の避難民が向かったのは海岸の砂浜でした、もうすでに辺りは火の海になりつつあり追い詰められた彼らにとっての選択肢はもはやそれ以外なかったのでしょう、ただちょうど満潮時刻と強風が重なって”とてつもない”「高波」が打ち寄せていた「大森浜」は炎とは違った意味で恐ろしく絶望的な場所だったのです。

 強大なエネルギーを秘めている「引き波」にもしさらわれたらそれこそ”一巻の終わり”なのは当時でもそれなりに認識されていたと思います、しかしじっとしているだけで衣服が燻りだす程の熱風に晒され、留まっても死を待つのみの人々にとってはそれでも海に救いを求めるほかありませんでした…かくして大森浜界隈からは実に1千人以上の避難民が真っ暗な海へと引きずり込まれたまま無事に戻る事はなかったそうです。

 その後も砂山町の砂丘での大量遭難や夜半からの厳しい冷え込みによる凍死事例など未曽有の悲劇を生んだ函館大火がようやく”鎮圧”されたのは翌3月22日の午前6時頃、計り知れない悲しみをもたらした早春の嵐がまるで”追い打ち”をかけるかのように置いていった冷たい雪が降りしきる中、残されたものは見渡す限りただ一面の焼け野原とすべてを失い途方に暮れる人々でした。

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 11,105棟もの家屋を焼失させ、そして死亡・行方不明者合わせて2,828名・重軽傷者約9,500名という想像を絶する人的被害を数えた「函館大火」、大震災や戦時の空襲を除く都市火災によってここまでの犠牲者が出た事例は近代日本において他にはないでしょう。

 同規模の戸数が全焼した「明治大火」(死者8名)や、やはり数千戸を失った「大正大火」(同1名)など、同地で起こった過去の災害と比較しても今回住民の身へ直接及んだ被害レベルがいかに並外れたものなのかが分かります。

 公式統計によると確認された死亡者数は2,166名となっておりますが、その内訳を見てひと際目に付くのは、748名の焼死者より多い「溺死者」(917名)の存在です。

 これは、前述の通り火災の裏側で派生的に起こった新川や大森浜における「2次災害」に起因するところが大きく、その経緯については”避難経路の選択を誤った末の不運な出来事”と言われればそれまでですが、それ以外のすべてのケースを含めても結局は風向きが変わってから市街東側で生まれた犠牲者が圧倒的に大多数を占める事実に鑑みると、結果論として「避難誘導の失敗」が発端にある事を否定できません。

 当時この危急に際して、消防はもちろん警察や市職員のほぼ総員、そして函館山の要塞に配置されていた陸軍の重砲大隊兵士までもが事態収拾に動員されたそうです、ただ当然ながら各々が直属の指揮の下に行動しており、所管がそれぞれ違うこれらの組織が連携・協力して事に当たったという記録は残されていません。

 仮に、その”縦割り”の枠を越えて有益な情報が集約・共有の上「統合的な指示・命令」が下されていれば、もしや人的被害拡大に少なからず歯止めがかかったのでは…とも今から見れば思われますが、実際のところは本文で記したように早い段階にて組織内の伝達手段さえもが閉ざされ指示系統的には壊滅状況に置かれていた訳ですから、いずれにしてもそれを群衆心理に影響されて動く人々もいる大混乱の中で効果的に周知させる術はなかったと言えるでしょう。

 後日報じられた話には”灼熱地獄”の中で孤立した子供や老人を救い出した警官や軍人など個人の活躍による美談もあったものの、しかしながら組織的に市民を守るという意味ではほとんどその役割を果たせなかった現実を受けては、哀しいかな大災害に翻弄される人間の”無力さ”を唯々思い知らされるほかありません。

 さて、市街地の1/3が灰燼に帰した中で10万人以上とも言われる罹災市民がその後”塗炭の苦しみ”を強いられたのはもちろん言うまでもありません、但し一方で幸いにも港湾や鉄道がほぼ無傷だったため救援物資や人員の輸送に係る交通インフラを確保出来、また位置的に工場や倉庫群の多くが被災から免れ比較的短期での操業復帰が可能だったという面も救いとなって、その復旧作業は当初の予想より早く進捗したと聞きます。

 そしてこの際に、類焼をそこで食い止める「火防帯」の役割を担った幅55mもの広い道路や大きな公園があたかも市街を”分断”するかのごとく要所に配置され、あらためて区画整理がされた土地には補助金制度を利用した「耐火構造住宅」がその後建ち並ぶに至るのです。

 かくて、冒頭で記したような新しい街並が作られ順を追いながらも着実に復興を成し遂げた函館市でしたが、この災害によって受けた影響のせいもあったのかそれからの経済成長は鈍化し、隣接する亀田市を合併する昭和48年(1973年)までの約40年間に渡り当地の人口はほぼ横ばいに推移する事になります。

 「北海道」が誕生して以来ずっと「道内一の人口を誇る大都会」でありまた「経済の中心地」でもあった函館、しかし大火をきっかけとしてその座は「札幌市」に取って代わられ、以降かつての位置付けに戻る事は二度となかったのでした。

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 極めて個人的な話で恐縮ですが、私の実父(故人)は函館で生まれ育っています。

 大正末期に生まれ、太平洋戦争時における兵役を経たのち警察予備隊1期生として入隊、その後は一貫して陸上自衛官を定年まで務め上げたという”堅物”の父親は日頃における口数もさほど多くなく、本人から自らの生い立ちについて詳しく聞かされた覚えもありません。

 ただ晩年において「自分史」を密かに書き綴っていたらしく、父の他界後に初めて私がその存在を知った計600ページ近くにわたるこの”大作”の中には幼少の時分に体験した函館大火についての生々しい記憶も記されておりました。

 それによると、大火発生当時国鉄函館駅近くの「海岸町」に住んでいた尋常小学校3年生の父親を含む5人の子供と両親の7人家族は南方から刻々と攻め寄せて来る猛火に際して、「手遅れになる前に」と避難を決断するも、その進路を北側へ向けるのかはたまた東側にすべきかの選択に迫られていました。

 普通に考えれば火勢に追いつかれる恐れがある風下の北より東の方が比較的安全と判断されてもおかしくありません、ところがこの一大事にも拘らずまったく動ずる様子もない隣家に住む漁船の船長は「もうじき西風へと必ず変わるので火がここまで及ぶ事はないし、移動するにしても決して東へ向かってはいけない」と断言、普段から天候に関する造詣が深く信頼のおける隣人の自信に満ちた言葉を受けて一家は冷静さを取り戻したそうです。

 然して、間もなく彼の”予言”に沿った展開となったのは前述の通りです。

 まさに当地の風の動きを知り尽くしているベテラン船乗りならではの経験則が生かされたと言える話ですが、もし父親家族がこのアドバイスに耳を傾ける事なく東側へ避難していたら果たしてどのような結末になっていたでしょうか。

 また、家業の都合によりやむなく海岸町へ転居する1年前まで一家が長年暮らしていた「東川町」が火災による壊滅的被害を受け、避難の末に新川や大森浜の悲劇の犠牲となった人が多数いた地区であった事も含め、いろいろな意味で運命的な巡り合わせというものの存在を信じずにはいられません。

 そのタイミングや判断の行方によっては自分がこの世に生を受ける機会さえなかったかも知れない事を想うと、生まれる遥か前の時代に直接縁もゆかりもない土地で起こったこの史実に私はとりわけ感慨深いものを感じてしまうのです。


函館市】(函館)「大火災惨害記念塔」

建立年月日:昭和13年10月 8日

建立場所: 函館市大森町33

 この災禍の中でももっとも悲惨な犠牲を生んだ場所である大森町の亀田川のほとりには、事故から4年後の昭和13年に大きな慰霊堂と記念塔が建てられました。

 毎年3月21日に慰霊祭が執り行われるこの堂には、大火後にも引き取り手のなかった六百余の無縁仏が祀られているそうです。

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記念塔

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碑文

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慰霊堂

函館市】「供養碑」

建立年月日:昭和 9年 6月

建立場所: 函館市湯川町3

 大森浜で高波にさらわれた人の多くは、哀しくも彼らが目指していた湯川村の根崎海岸へ物言わぬ亡骸となって辿り着く事になりました。

 そのあまりにも哀れな様に心を痛めた湯川仏教会では彼らのための供養を現地で執り行い、式を取り仕切った寺の境内に供養碑が置かれています。

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碑面