北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【増毛町/富良野市】鉄道橋梁列車転落事故慰霊碑

増毛町富良野市】鉄道橋梁列車転落事故慰霊碑

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 ”いい大人”である私が恥ずかしながらいまだに高所を苦手とする要因のひとつになっているのが、幼少の頃に乗った「汽車」の車窓から目にした鉄橋通過時における眼下の光景の記憶です。

 当時は開閉自在だった窓から身を乗り出し興味本位で真下を覗き込んだその時の私の目に映ったのは遥か下に見える川の流れの他には何もなく、まるで支えのまったくない所を走る列車が今にもバランスを崩し落下するかのような錯覚に襲われました。

 考えれば、軌道上を走る列車用の橋梁には道路橋のように幅方向へ余裕を持たせる必要性などないのは当たり前の話ですが、子供心に焼き付けられた「どこにも逃げ場のない絶望的に恐ろしい場所」とのイメージは妙に耳に残る独特の音と相まって、今尚”恐怖の対象”として脳裏の片隅に残っているのでしょう。

 もちろん、その後何回となくあった列車・電車に乗る機会において実際にそのような怖い思いをした経験は一度もありません、にも拘らず今でもあの奇異な景色がたまに見る夢でふとよみがえる事があり、いつまでも残る幼い記憶とそれを払拭出来ない自分につくづく呆れるばかりです。

 さて、夢の中だけであって欲しいそんな恐ろしい橋からの列車転落事故ですが、残念ながら”現実世界”においてもこれまで幾度か起こっています。

 その中でもやはり強烈な印象が残っているのは、JR発足直前の昭和61年(1986年)に兵庫県国鉄山陰本線で起こった「余部鉄橋事故」(あまるべ)でしょうか。

 明治末期に建設されたいかにも”いかつい”造形の長大橋の上から秒速30m以上の強風にあおられた客車7両が約40m下へ次々と転落、回送列車だったため一般乗客の搭乗はなかったものの、上空から”降って来た”車両の直撃により直下にあった工場の従業員と列車に乗っていた車掌の合わせて6名が命を落としたというもはや”悪夢”としか言いようのない大惨事の様子をテレビの画面越しに見た時の衝撃は忘れられません。

 いくら平常時での安全が確保されている鉄橋であろうとも、例えばこの場合では「たまたま列車が通過している時に想定レベル以上の突風が発生」という偶発的要因が重なって大事故に結びついた訳であり、結果として国鉄側の危険予知に関する認識の甘さが指摘されたところですが、しかし相手が「どれほどのものがいつどこで起こるか分からない」自然現象だけに対策規模や基準の設定に際しての判断には現実的に難しいものがあります。

 そしてこれから紹介する北海道でかつて起こった2つの同様事例も、やはり自然要因がきっかけながら、人間側の「先見力」や「注意力」の不足が事故の発生を”見過ごしてしまった”とも言えるものでした。


増毛町】「遭難之碑」

事故発生年月日:昭和21年 3月14日

建立年月日:  昭和21年11月

建立場所:   増毛郡増毛町阿分

 我が国において現在の教育体制(6・3・3・4制)に改編されたのは昭和22年(1947年)4月の事、義務教育である小学校(修業年限6年)~中学校(3年)と、高校(3年)・大学(4年~)という今に至る「学校の枠組み」がこの時施行された学校教育法によって定められました。(幼稚園も含めて)

 折しも時代は太平洋戦争(昭和16年~20年)が終わって間もない頃であり、戦後日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の「これまでの教育構造を解体し新しい秩序に従わせるべく刷新を図りたい」思惑がこの学制改革の内容に色濃く反映されたであろう事は想像に難くありません。

 そのGHQいわく「国民学校」や「青年学校」で”非民主的”教育が施されたとされる戦時体制下での一時期をさらに遡ると、基本的に戦前の日本では「尋常小学校」在学時までが義務教育期間となっており、その後希望する者が「高等小学校」へ、またはそれに値する学力・能力があると認められた児童・生徒だけが受験を経て「中学校(男子校)・高等女学校(女子校)・実業学校」へ進学し”高等教育”に接する機会を許されたと聞きます。

 つまり、例えば男子の場合から見ると昔の中学校が現在における「高等学校」のポジションとなり、あらかたが今で言う小卒あるいは中卒後に就職し労働に勤しむのが当たり前の中で”ほんのひと握り”のみがその先のステップへ進む事が出来る時代だったと言えるでしょう。

 そんないわば”選り抜きの秀才”しか通う事の出来ない(旧制)中学校ですから当然その数には限りがあり、そしておのずとそれらの大半が比較的人口の多い都市部に設けられました。

 そのため広い北海道ではとりわけ、学校のない郡部等遠隔地に住む中学生たちが通学に際し長い間不便を強いられ続けてきただろう様子は容易に想像出来ますが、前述の改編をきっかけに昭和22年以降は小学校の敷地に中学校を一時的に併設したり、比して地方にも多く置かれていた高等女学校との統合により男女共学の(新制)高等学校を創設するなど、あまねく”門戸を開放”すべく環境改善が順を追って図られています。

 このエピソードは、終戦学制改革のはざまにあって教育界が混乱を極めていた昭和21年(1946年)、戦時体制に則した従前の内容から劇的に一新された教育方針に大いに戸惑いつつも、同時にこれから待っている明るい未来をきっと想像していたに違いない前途ある中学生が被った悲劇の話です。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 留萌管内増毛町の歴史については『信砂御料殉難碑』の逸話の中でも少し触れていますが、漁業や水産業によって明治中期頃から飛躍的に経済発展を遂げたこの町は天塩国(当時)随一の都会としてかつて”華やかなりし一時代”を築いています。

 しかし明治40年(1907年)に石狩国とを結ぶ新たな鉄道(留萌線)の天塩側窓口が、すでに増毛の人口を上回っていた新興地の「留萠村」(現・留萌市)に決定してからというもの、その”地位”も揺らぎ始め、さらに3年を経て留萌港の建設に着手された頃には管内中心地としての座はもはや失いつつあったのでした。

 このような状況に加え、もしかすると第1次産業中心に経済が成り立つ町には元々その必要性が低いと判断されていたのか、古くから栄えていたにも拘らず増毛町には”良妻賢母”へ育てるべく高等女学校はあっても、”学識高いエリート”を養成する旧制中学校が設置される事は結局一度もありませんでした。

 それでも、少なからずいた”向学心に燃える”増毛の学童は管内では留萠にしかない道立中学校への進学を目指し、苦学の末に入学が叶った学び舎までの遠い道のりを毎日汽車に揺られながら通っていたのです。

 だが大正を経て昭和になってから、やがて世の中は戦時色が深まる不穏な時代を迎えます、そしてそれは確実に教育の現場へも波及する事になりました。

 中国大陸で起こったいざこざを発端としてとうとう欧米列国との全面戦争へと突入した昭和16年(1941年)以降には、戦局の悪化に伴い顕在化する人員不足を補うため実施された地元の人造石油や造船工場への動員あるいは農村へ赴いての「援農」作業など、留萠でも学徒が「勤労奉仕」させられる機会が増えていきます。

 せっかく進学してまで彼らが本当に学びたかったものとはおそらくかけ離れていただろう”勤労報国”に明け暮れる日々、しかし戦争の終結とともに数年間にも及んだその労苦からもやっと解放され、いよいよ新しい時代の幕開けを予感させる昭和21年(1946年)が始まりました。

 気の毒にも中学校在学4年間のほとんどを戦時下で費やす羽目となった最上級生が卒業を迎える直前の3月14日の事、その日の朝には好天だった留萠界隈は昼前から降り出した大雪によって白一色の世界になっていました。

 3月も中旬に至ってからのまとまった降雪自体は道内でも比較的雪の多い留萌地方にとって取り立てて珍しい事ではありませんでしたが、ただ当日の気温がこの時期にしてはかなり高めだったために、湿気を含んだ”べた雪”は瞬く間に交通に支障をきたすレベルの積雪を呼んだと言います。

 このあいにくの天候の中、鉄道の留萠駅では帰宅途中の学生や買い出し帰りの乗客で満員となった増毛行きの客貨混合第713列車(5両編成)が定刻より約30分遅れの午後3時40分頃にようやく発車、降り積もった重い雪を押しのけながら”騙し騙し”進んで行きました、しかし海岸線の際を走る増毛町域に入るとそれは海風を伴った吹雪と化し、「阿分トンネル」(あふん)を抜けた地点で一面の吹き溜まりに行く手を阻まれた列車は遂に立ち往生してしまいます。

 これを受け、機関車からの救援を促す汽笛信号により事態を把握した周辺の集落住民はめいめい道具を持ち寄って集結し、列車まわりの除雪を一斉に開始します…当時の事情はよく分かりませんが、地域に恩恵をもたらしてくれる大切な鉄道にもし不測の事態が発生した際には地元集落が全力を挙げて協力する体制というものがおそらく以前から確立されていたのかも知れません。

 近隣住民によるまさに”人海戦術”を駆使しながら少しずつ雪が除かれた線路上を”這うように”進む713列車はやがて「舎熊駅」(しゃぐま)手前およそ1km地点へようやく到達、時刻は午後7時を回り通常には30分もあれば行き着けるここまで至るのにすでに3時間以上を費やしていました。

 さて、列車の目前には信砂川河口に架かる「信砂川橋梁」が控えていました、そして見たところ橋向こうの様子は幸いにも吹き溜まりの程度が大分軽減していたため、もしや列車単独の力での突破も可能かとも考えられたのでしょう、急遽ここで一旦分離された機関車は”単身”この先の線路状況の”視察”へ向かう事になります。

 その間に待っていた人々には、しばらくして戻って来た機関車からきっと”朗報”がもたらされたのだと思います、かくして”前方の安全確認”をしっかり終えあらためて連結された列車は”満を持して”橋を渡り始めました…だがその時”列車後方”で起きていた異変には誰も気付いていなかったのです。

 実はこの時点ですでに最後尾の客車の後部車輪は「脱線」またはその直前状態にありました、もちろん車両の周囲の雪は問題なく除かれていたものの、時節柄レールの摩耗等線路の状態にもともと難があったと推察される点に加え、おそらくここまでの走行を経て後ろ側の車体の下まわりにより集中・固着して”隙間なく”詰まっていただろう「見えない部分の圧雪」が、例えば固定の甘かった部分のレールを車両の動きに合わせて”ゆっくりと押し広げる”ような悪い作用を働かせたのかも知れません。

 然して”脱線客車”はなすがままに信砂川橋梁へと導かれていきます…ここが「平地」ならばそれほど大ごとにはならない内にきっと異状がすぐ発覚し、しかるべき措置が施されていたでしょう、だが車両は100mに満たない橋を無事に渡り切る事が出来ませんでした…。

 橋上に構造物のない「上路式橋梁」であった事も災いし、狭い橋桁から遂に車輪が”はみ出した”最後尾の1両は大きく傾いたのち列車から離脱して多くの乗客を乗せたまま後面から突き刺さるように眼下10mの信砂川へ落下、異変に気付いた乗務員が緊急停止の後確認した時にはすでに川面で裏返しにひしゃげた無残な姿と化していたのでした。

 この悲惨極まる事故においては国鉄側の資料によると死者17名・負傷者67名という甚大な被害が生まれましたが、特に犠牲者中の大半である13名が増毛から留萠へ通学していた中学生だった事実には驚きと悲しみを禁じ得ません。

 この時当該車両に乗っていて負傷した中学生の後年における談話によると、「男女七歳にして席を同じうせず」という戦前からの風潮に従い、少なくとも当時の生徒・学生の間では先頭客車に女子学生が、そして最後尾には男子が乗るという「不文律」があったそうです、つまり本列車を利用したすべての中学生が運悪くもこの車両に集中していたのです。

 また、不適切な表現ながら”事故の規模の割には”大き過ぎるとも感じられる被害レベルに関しても悲しい理由がありました。

 草創期から全国の鉄道において順次製造・運用されてきた「木造客車」も運行の高速化と車両自体の老朽化に伴い、その脆弱な造りが「事故時における過度の乗客被害を招く」要因となったため、対策として「鋼製ボディ」への全移行が昭和初期から図られていましたが、戦時体制の折計画通りには事が運ばず結局20年経った終戦直後の段階でも全国保有総数の約6割が旧式のまま運用されていたと聞きます…いわんや北海道のローカル線の車両がどのレベルだったかなど触れるまでもありません。

 そのような老朽車両が橋から落下という想定外の衝撃に持ちこたえられるはずもなく、前出乗客の学生いわく最後は車体が”仰向け”になったがために乗客の中には頭上から落ちてきた重い「車輪や台枠」と押しつぶれた「屋根」との間に挟まれてしまった人も相当数居たそうです。

 天候と時代ならではの要因が重なってのこの悲惨事、とりわけ犠牲となった中学生については不遇の刻を乗り越え、これから新しい世の中でその才能を開花させる可能性を大いに秘めていただけに、志半ばにして命を落とした本人の無念さや今まで育て支援してきた彼らをこの段階で失った親たちの悲嘆の大きさは察するに余りあります。

 事故現場近くの「舎熊青年会館」にひとまず安置された我が子の亡骸を前にして、やりきれなくも「これも運命」とまるで自らへ言い聞かせるかのように唯々悲しみに暮れる親族もいる中で、弔問に訪れた鉄道関係者へ取りすがって、ひとり”涙の抗議”を訴え続けていたという中学校の校長の姿を思い浮かべると胸が締め付けられます。

 事故から2年後の昭和23年(1948年)4月、先に記した学校教育法の施行から1年遅れて増毛町には従前から置かれていた「増毛高等女学校」の男女共学化措置によって新制「増毛高等学校」が創設され、男子も地元で高等教育を受ける環境がやっと整いました。

 ただ、かくて待ち望まれながら誕生した高校、そして当時学校がなかったが故に生まれた悲話の舞台となったこの鉄道線区(留萌⇔増毛)も、今はもうありません。

 少子化や会社の経営難などを理由として平成23年(閉校)と同28年(廃線)にそれぞれの措置が実施されていますが、私のような古い人間としてはこうして街の情景が移り変わる様に一抹の寂しさと儚さを覚えながら時代の過ぎ行く速さというものを痛感する限りです。

 そう思うと、今はまだそれとはっきり分かる旧線跡の脇に建つ慰霊碑が、いずれ「かつてここに鉄道が通っていた」事を示す数少ない証しとなる日ももしやそれほど遠い話ではないのかも知れません。

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碑面(表)

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碑面(裏)

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信砂川橋梁跡(2019年現在)

富良野市】 「富良野川事故殉職者慰霊碑」

事故発生年月日:昭和43年10月 1日

建立年月日:  昭和45年10月 1日

建立場所:   富良野市北斗町11

 北海道の”真ん中”に位置する富良野市旭川市を結ぶJR富良野線(延長54.8km)、今では「JR北海道単独では維持困難な線区」のひとつにピックアップされるほどの「不採算路線」に成り下がってしまいましたが、そもそも「官設鉄道十勝線」の一部として誕生した明治時代には札幌や旭川から道東地域へ人員や物資を運ぶ際の唯一の鉄道ルートという重要な役割を担っていました。

 その後「下富良野線」(滝川⇔富良野)の開業(大正2年=1913年)により「基幹線」(根室本線)のポジションが新ルートへ移管された事で重要度が幾分落ちたものの、尚も道北地区との連絡・中継手段としてこの路線が重宝されるべき存在であったのはもちろん言うまでもありません。

 しかし、長年に渡り北海道の歴史の一端に関わってきたそんな”老舗”路線も、戦後に至って昭和30年代における商用車の普及と続いて生まれたマイカーブームなど、モータリゼーションの影響をまともに受け、貨物取扱量や利用客の減少がもたらす営業数値の悪化傾向が年々表面化していきました。

 もっとも、これは道内の他線区や、更に言えば全国の鉄道路線の大半でもほとんど同じ状況にあり、事態を深刻に受け止めた国鉄では失った”客足”を取り戻すべく高速走行が可能な新型車両の投入や電化・複線化等のインフラ整備を昭和30年代後半から数か年計画にて推進、然して昭和43年には「一定の環境が整った」として国内すべての便を対象に運行体制やスケジュールをゼロから見直すいわゆる「白紙ダイヤ改正」が断行される事になります。

 かくて”起死回生”を図る国鉄が満を持して”再スタート”を切った昭和43年(1968年)10月1日、ところがよりによって晴れのその日にここ富良野線で起こってはならない死亡事故が発生してしまいました。

 それは、国鉄が改善・強化の重きを置いていた高速化や利便性追求のための車両・設備等「目に見える部分」に比べると注意が行き届きにくい「足下」に潜んでいた思わぬ”落とし穴”が原因だったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 その日の朝8時過ぎ、雨にけむる国鉄富良野線を行く旭川発の下り「貨第691列車」は終着富良野駅を目前に控えていました。

 貨物列車でありながら、機関士3名によって運転される蒸気機関車が引く貨車(3両)には何故か荷の積載が一切なく、それらに搭乗していたのは3人の車掌のみという”変則的”なこの便、おそらくは「実地・実機訓練」を目的とされていたものであり、当日より運用された「新ダイヤ」に基づき、初めて本区間の乗務を担当する事になった「富良野機関区」と「旭川車掌区」所属の職員がそれぞれ乗り組んでいたのでした。

 さて、”駆け出し”の機関士・車掌とその指導役が乗る4両編成の”教習”列車は、しばらくして富良野駅の手前1.2km地点に架かる「第一富良野川橋梁」へとゆっくり差し掛かっていきます。

 北海道南方に停滞した前線の影響で当日界隈を見舞っていた大雨は前夜から数えて既に雨量100mmの豪雨レベルに達しており、橋上から目に入る増水著しい富良野川の流れは濁流が逆巻くさぞ”おどろおどろしい”光景だったに違いありません…しかしその直後にはもっと恐ろしい瞬間が訪れる事になるのです。

 2本のコンクリート製橋脚によって支持されていた橋長38.4mのこの上路式鉄橋、ところが691列車が真上を通過するまさにその時、手前側(旭川寄り)の1本があろう事かいきなり横倒しとなり支えを失った2本の橋桁は上を走る貨車もろとも川へ落下してしまいます。

 その上、被害を免れた橋桁上へ到達していた先頭機関車までもが連結貨車に引きずり込まれるように後退、巻き添えをくう形で結局は同じ運命をたどる事になりました。

 あまりにも突然の出来事に乗員たちは「一体何が起きたのか」一瞬では判断できなかった事でしょう、それでも「完全水没」までやや間合いがあった車掌車または有蓋緩急車に居た人には、落下後にも窓をこじ開け外へ脱出する時間的猶予が幾分与えられたようです…だが機関車運転席の3名は無事ではいられませんでした。

 当初安否が分からなかった機関士の姿は無残にも”仰向け”に大破した機関車の下にありました…おそらく転落する際に車外へ放り出された彼らは逃れる術もなく重量60トンもの車体の下敷きにされたのだと思います、かくして乗務員の命運ははっきりと明暗が分かれてしまったのです。

 直下の橋桁ごとが落下するなど列車運行側としては回避はもちろん予測すら不可能であったこの悲劇の原因については、専門家らによる調査の末、最終的に橋脚まわりの「洗堀」(せんくつ)に起因するものとして結論付けられています。

 今回のケースの洗堀とは水流の影響を受けて橋脚付近の川底が集中的に侵食される現象を意味し、つまりこの”自然の根掘り作業”がやがて基礎部分へまで及ぶに従い脚部の安定性が極端に損なわれていたところに、増水によって強まった水勢と列車通過時の荷重が加わりついに倒壊に至ってしまったものと考えられました。

 実際、件の橋脚は基礎ごと横倒しとなっており、川床の現場状況から見てもこのプロセスを経たのは間違いないのでしょうが、ただ数か月前の点検では一応の安全が確認され、過去にも数知れずあった川の増水時においてもここまでの事象が起こっていない面に鑑みると、今までと違って”その時にはあった”何らかの誘発要因を疑う必要がありました。

 明治39年1906年)建造の第一富良野川橋梁は当時からしても確かに”老朽橋”の中のひとつでしたが、但し橋脚のみは昭和24年(1949年)に新しく改築されており、基礎を含む構造図を見る限り橋体自体には多少の増水レベルで倒壊するような致命的な脆弱さを確認する事は出来ません…しかし他方で橋周辺における富良野川の環境はその時並行して行われていた工事によってこれまでとはまったく異なる状態にあったのです。

 他の主要河川と違わず、旧来よりしばしば周辺地域に洪水被害をもたらしてきた富良野川の治水対策に着手されたのは昭和28年頃、長きにわたって進められた河川改修工事は事故のあった昭和43年にはひとまずの最終段階に至っており、本橋が架かる空知川合流前の「最下流部」においては拡幅・川床の掘り下げ措置と併せて流れの蛇行を修正すべく大幅な河道のレイアウト変更(切り替え)が計画に基づきすでに施されていました。

 ところが、際して架け替えが不可避となるため国鉄側の都合にも配慮しなければならない架橋地点の改修工程が最後に回されており、その結果一時的ながら橋周辺のみには図らずも不自然なまでに「狭隘」で、そして「湾曲した」流れが生まれる事になったのです。

 更には当地が「ベベルイ川」と「ヌッカクシ富良野川」の2支川が富良野川本流へ合流する地点という地理的条件を踏まえると、3つの河川において各々増水した激流が合わさりこの”局部的”に川幅が狭く川床も高い湾曲部へ集中した事で目に見えない強大かつ複雑な水流が生まれ、必然的にその影響をより大きく受ける外周側の橋脚まわりの地盤を中心に洗堀が恐ろしい速さで促進される環境が整ってしまったのではないでしょうか。

 事案が刑事及び民事訴訟の対象となり情報が一般へ公にされる機会を失った事情もあって結局のところ原因や経緯の詳細を明確に知る術はありませんが、従来曖昧な部分も残されていた橋梁の建設・点検の基準がその後見直され改正された際には、複合的要因をもつ今回の事例もきっと参考にされたものと想像されます。

 然して事故から半年後、改修工事が速やかに施され「真っすぐな広い流れ」に整備された富良野川の上には全面的に生まれ変わった第一富良野川橋梁が架けられ、堤防脇に建てられた慰霊碑が見守る中、6本にも増えた橋脚が通過する列車を今日もしっかり”下支え”しています。

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碑面

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第一富良野川橋梁(2019年現在)