北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【厚岸町】日連丸・白雲遭難慰霊碑

厚岸町】「日連丸・白雲遭難平和の碑」/「戦死者追悼の碑」

事件発生年月日:昭和19年 3月16日

建立年月日:  昭和63年 8月26日/昭和62年 8月 7日

建立場所:   厚岸郡厚岸町愛冠/厚岸郡厚岸町梅香1

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(2014/6/12投稿)

 今回は、数千名もの犠牲者を出した釧路沖での船舶沈没にまつわるエピソードですが、今まで紹介したものとは明らかに事情が異なります。

 これまでの事故は様々な誘発的伏線があるものの不測の事態により起こった不幸な出来事でしたが、この悲劇的な事件は明確な目的を持った人間の手によってもたらされました。

 しかしその実行犯を捕えて処罰する事は誰にも出来ません。

 それどころかこの事件の存在自体が封印されていたため当時は”捜査”する事すら不可能でした。

 ではなぜこの”故意に人を殺めた凶悪犯”の罪を問う事が出来ないのでしょうか…それは戦争中の「戦闘行為」によって起きた事件だったからです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和16年(1941年)に勃発した太平洋戦争、開戦当初こそ破竹の勢いで海に陸に快進撃を続けた日本軍でしたが、戦闘が長期化するに連れ戦局は悪化していきます。

 昭和17年半ば頃から米軍の反攻が強まり、海戦での相次ぐ敗北によって日本の海軍力は弱体化、戦争後半においては太平洋の大半の制海権は既に米軍に掌握されていたのです。

 そんな情勢の昭和19年(1944年)3月、濃霧の釧路沖近海の太平洋上を千島列島の得撫(ウルップ)島へ向けて航行する7隻の船団がありました。

 それは千島防衛強化のため仙台で編成された陸軍将兵約2,800名を乗せた「日連丸」をはじめとする輸送船4隻とそれらを護衛する3隻の駆逐艦でした。

 彼らは仙台などを発ってから軍用列車や青函連絡船を用いて小樽に集結の後、そこで輸送船に乗り込み3月10日に釧路港へ入港、数日間の滞在を経ていよいよ前線へ赴くところとなったのです。

 3月16日午後4時、航海の無事を祈りつつ釧路を出港した輸送船団でしたが、その願いも空しく平穏は長く続きませんでした。

 3日前に千島沖で日本の軍用船2隻を撃沈し、意気揚々とミッドウェイ島の基地へ向け帰投中だった米太平洋艦隊の潜水艦トートグ(USS Tautog, SS-199)のレーダーに厚岸から20kmの沖合を航行する船団が運悪く捉えられてしまったのです。

 当時の米軍は、日本軍の燃料や軍需物資、兵員の補給線を断つべく躍起となっており、潜水艦は軍用・民間を問わず発見した船という船を手当たり次第に攻撃していました。

 前述の通り、この頃は海洋防衛が手薄になっていたため、日本近海でも敵潜水艦が我が物顔で航行していたのです。

 さて、「その数26隻という戦時中もっとも多くの敵艦を撃沈した戦果を誇る」トートグに狙いを定められた船団には逃れる術はありませんでした。

 時刻は午後8時30分頃、まず船団の右側前方に位置していた「日連丸」が船尾に魚雷を受けましたが、その当たり所が悪かったのか船はそれこそあっと言う間に沈没してしまいます。

 しかし暗闇で視界が効かない中、日連丸があまりにも”静かに”その最期を遂げたため、他の艦はこの事態をまったく把握出来ていませんでした。

 その後も執拗に船団をつけ回すトートグは、今度は船団左後部を護衛する駆逐艦「白雲」(しらくも)に照準を合わせ、残りの魚雷でこれを葬ります。

 白雲が被弾した時にはっきり敵の存在を認識した他の護衛艦は必死の応戦を開始、だが対潜哨戒のレーダーすら搭載されていない当時の駆逐艦からのやみくもな砲撃や爆雷攻撃など効果があるわけもなく、任務を終えたトートグは悠々とこの場から去っていったのです。

 この敵襲により、日連丸と白雲の乗員合わせて3,000余名が漆黒の凍てつく海に投げ出されましたが、彼らがすぐに救出される事はありませんでした。

 というのも、この時に至っても情報は錯綜しており、日連丸遭難の事実が確実視されたのは、航行の続行を断念し一旦引き返した船団が釧路へ帰港してからだったのです。

 そして護衛艦が翌朝に現場海域に戻った時には、すでに大半の乗員は力尽きており、救助された生存者はわずか48名に過ぎませんでした。(救出後に2名が亡くなっています)

 12時間もの長きに渡り海上を漂流しながらも奇跡的に助かった方の後日の証言によると、船が沈没した当初はその姿は見えなくもおそらくまだ数百名は残っていただろう生存者がお互いを励ましあいつつ助けを待っていましたが、気温2℃・水温4℃の極寒の海に精魂も尽き果て一人また一人と海中に消えて行ったそうです。

 僚船に救出された生存者たちは事件海域の近くである厚岸町の寺に一時収容・保護されましたが、事を知った日本の軍部は寺に憲兵を派遣し本人はもとより生存者の世話をした地元民にまで徹底した箝口令(かんこうれい)を敷きました。

 表面上は日本軍の快進撃を連日喧伝していた手前、まさか本土近海で敵艦に撃沈された事実を知られると国民の戦意発揚に悪影響があると判断されたのでしょう、犠牲者の家族には3ヶ月後に「北方輸送中に戦死」とだけ記した「戦死公報」と空の遺骨箱が届けられ、こうして事件は軍事機密として秘匿されたのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 その後、この事件の生存者はどうなったのでしょうか…実は生き延びたゆえに彼らはさらなる数奇な運命に翻弄される事になります。 

 厚岸で手厚い保護を受けた彼らはその後秘密裡に列車で小樽へ送られ、そこではしばらく軍の監視下で”軟禁”状態に置かれました。

 事件自体が封印されているためもちろん原隊復帰もかなわず、約1ヶ月を経て復調した者は他の部隊に編入、あらためて得撫行きを命ぜられたと聞きます。

 そして、おそらくもう二度と見たくもなかったであろう輸送船に再度乗船するも、事もあろうに得撫到着目前にしてまたしてもあの憎き「トートグ」からの攻撃によって撃沈されるという悲運に見舞われているのです。(昭和19年5月3日・伏見丸事件)

 乗員997名中685名が犠牲となったこの事件では、乗船していた日連丸生存者20名の内12名が命を落としていますが、2度までも命拾いをしてやっと得撫にたどり着いた人達でさえ、終戦直後千島列島に侵攻してきたソ連軍の捕虜としてシベリア送りとなる悪夢から逃れる事は出来ませんでした。

 かくて、もはや無慈悲としか表現しようがない度重なる苦難を越えて戦後まで生き抜いた関係者はほんの僅かしか残されておらず、この事が日連丸事件の解明を遅らせた要因になったのでしょう。

 しかしそれでも、遺族や関係者の地道な活動によりこの知られざる事件は戦後少しずつ真相が明らかにされていきました。

 そして昭和59年8月には、前出厚岸町の寺において遺族や生存者が参列して初めての合同法要が執り行われます。

 事件発生から実に40年後の事でした。

 それにしても、こうして一度に幾千もの命を奪い、その家族・親族を耐えがたい悲しみに突き落とした米兵たちは祖国に帰ればそれこそ英雄扱いですが、一つの出来事がもたらした結果のそのあまりにも大きな差には恐ろしいほどの”不条理”を感じざるを得ません。

 「戦争とはそういうもの」、「逆の立場だったら」と問われれば返す言葉もありませんが、軍命とはいえ体面のため味方にまで事を隠し果されて無念にも海に散っていった英霊たちを想うとその理不尽さにやりきれない気持ちになります。

 昭和62年(1987年)、地元の有志によってその寺の境内に慰霊の木碑が、そして広く後世に伝えるために厚岸町愛冠(アイカップ)岬そばの「緑のふるさと公園」内には石碑が翌年建立されました。

 現在は青少年宿泊施設「ネイパル厚岸」の敷地内にその碑を見る事が出来ます。
 もしこの地を訪れる機会があれば、この歴史に埋もれた悲劇があった事を思い出してみてください。

 

※参考文献「故郷に告げよ ~戦時機密 日連丸の撃沈~」(相神達夫氏著)

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平和の碑

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碑文

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戦死者追悼の碑