北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【上士幌町】糠平地区所在慰霊碑

上士幌町糠平地区所在慰霊碑

 道内でも有数な温泉郷である十勝管内上士幌町糠平地区、肌質の向上の他、神経痛や胃腸病にも一定の効果が認められる「重曹泉」による当地の宿の湯はもれなく「源泉かけ流し」とのことで、平成21年(2009年)には正式な地名を「糠平」から「ぬかびら源泉郷」へ変更してしまうところからもその点を強くアピールしたい地元の意気込みが伝わってきます。

 この地で初めて温泉が発見されたのは今から100年以上昔である大正8年(1919年)の出来事、必ずしも確証のない情報を頼りに”人跡未踏”の山林を切り拓き遂に湯元に辿り着いたという実業家のたくましい商魂にはまったく恐れ入りますが、同時期のこの近辺では別の目的を果たすため樹木相手に”悪戦苦闘”している人たちがいました。

 前年の同7年、苫小牧にて大規模工場を操業展開中の大手製紙会社の思惑により原材料となる立木調達地の拡充が図られ、対象の内に含まれた糠平一帯の国有林では従来の「元小屋地区」(黒石平)から10km以上北進した地点に新たな造材拠点を設けるべく計画が進行、まず整備が急務である未開区間における道路開削工事については地元木材業者を介して「十勝監獄」(現・帯広刑務所)が作業を請け負うこととなり、そして懲役の一環として実際に現場へ派遣されたのがその囚徒だったのです。

 そもそもここら音更川上流側一円においては更に時代を遡る明治25年(1892年)頃、監獄の前身となる北海道集治監十勝分監を建設する際に、建材等を自給するため囚徒みずからが木材を伐採・運搬したという歴史が残っている訳ですが、そんな所縁がありその後も度々当地で造材作業をおこなっていた”実績”を持つ彼らにこの役務が課されたのでした。

 ちなみに、囚人の手による道路工事というと『中央道路開削』のエピソードで紹介したような明治時代中期を背景にした”凄惨な修羅場”の様子がどうしても想像されますが、この頃に至っては「監獄法」(明治41年=1908年施行)によって囚徒の扱いについても細かく規定が設けられており、勿論苛酷な環境下での労務だったには違いないものの本件の内で過度な労役強要やあるいは懲罰的な処遇を理由とした死亡事例の発生は確認されていません。

 かくて、大正7年6月から8月までの3か月間という”突貫工事”の末、名付けて「音更山道」が原生林の中に完成、本来の目的である木材積出しの効率化に大きく寄与したのは言うまでもなく、後年に敷設される鉄道(国鉄士幌線)や幹線道路(国道273号線)のルートの基礎となったとも聞く本道の南側起点付近には工事に携わった十勝監獄関係者らの名が刻まれた竣功記念碑が厳かに置かれています。

 その後は、音更山道⇔湯元間の道路開通と伴う温泉街の本格的始動やまた前述鉄道の敷設による林業の活性化など、緩やかながらも着実に発展を遂げていった糠平地区でした…が、至って”平和的”なそんな界隈がもしや先の戦時中をも上回るほどの劇的な変革の渦へ突然”巻き込まれた”のは「北海道開発法」が施行された昭和25年(1950年)の事でした。

 というのも、本法を基に今後へ向けての施策を列挙した「北海道総合開発計画」に明示される「電源の開発」という項目において、あらたに必要とされる複数の大規模なダム式水力発電所の建設案が並ぶ中で、基幹拠点として設定されたのが十勝川水系音更川上流に位置するここ糠平だったからです。

 そうと決まってからの展開は極めて早く、この「国家的プロジェクト」は諸々の事前調査を経て昭和28年(1953年)には設立間もない「国策企業」の主導により、まず「糠平ダム」と同発電所の建造工事に早速着手、その後急ピッチにて進められた事案は実に都合2年余りという短期間にて”堂々”の完成を見ることになりました。

 だが、名だたる建設会社が請け負い当時における技術の粋を集めて臨んだ工事ではあったものの、結局は”生身の人間”が施工するところやはり事故の発生は避けられず、残念ながら従来のダム工事同様、本件でも幾度ものアクシデントによって多数の犠牲者が生まれる結果になっています。

 最盛期には合わせて1万人程も集ったと言われる工事関係者が完工とともにまるで嵐のように去りゆき、すっかり静けさの戻った糠平に残されたものは、北海道地図の描き直しが必要なほど大きく周辺環境を変えてしまったダムと人造湖、そしてそれらを作らなければ建てられることもなかった複数の慰霊碑でした。

上士幌町】「音更山道」碑

建立年月日:大正 7年 9月 1日

建立場所: 河東郡上士幌町黒石平

碑面

案内板


上士幌町】「慰霊碑」(糠平ダム建設工事殉職者慰霊碑)

事故発生年月日:昭和29年 3月22日/同 6月19日/同 8月29日/昭和30年 3月11日/

        同 9月18日/昭和31年 3月31日他

建立年月日:  昭和31年 1月

建立場所:   河東郡上士幌町ぬかびら源泉郷

 序文で記した「十勝川水系発電計画」の全体像は、十勝川支流の音更川や美里別川流域に重力式コンクリートダム4基と各貯水池、並びにそれらの間を連絡する総延長40kmを超える水路の途中に4か所の水力発電所を建設するという広域にわたる大掛かりなもので、全稼働すれば道内需要の実に3割にあたる電力を産み出すレベルのプラントを当初は5か年の内にすべて完成・運転させようとしていたのですから、本件がいかに巨大で且つ実現が容易ではないプロジェクトだったのかはおよそ窺い知れます。

 しかしいざ始動してみれば、起点に当たる「糠平ダム」建設工事は本体部の起工が昭和28年(1953年)9月、そして同30年中には発電所を含む建物・設備が完成するという、規模を考慮すれば信じられない程のスピードで竣工し、その点計画の滑り出しはこの上なく順調に進捗したと言えるかも知れません。

 但し、決して万事がうまくいった訳ではないことは、ダムの脇に作られた展望公園の一角にある慰霊碑がそれを示していました。

 碑の傍らに置かれた銘板には工事作業中に命を落としたと見られる32人もの氏名が刻まれており、そこに併記される各々の出身地から察するに工事を請け負った大手建設会社が東日本を中心に各地の下請業者を”かき集めて”工事に臨んだ様子が想像できますが、ただひとつ不可解なのは彼らの内の多くについて職に殉じた理由が不明であるという点です。

 ちなみに今回の記事作成のため、私が図書館で閲覧した関連書籍類にはそれについてまったくと言って良いほど触れられておらず、また複数の新聞紙上からも本碑に関わるものとしては河川水路切替作業中での水難事故や積荷もろとも転落した2名が亡くなったケーブルクレーン絡みの事例など、6件(8名)分しか記事を見つけることが出来ませんでした。

 あまりにも少ない情報に何かしらの違和感を覚えるものの、もっとも発注元や請負会社側が殊更に事故を隠蔽しなければならない理由も考えにくいため、単に個別事案の内容詳細が当局を通じて新聞社へ伝わっていない、あるいは社の事情で記事にされなかっただけの話かも知れません…確かに「炭鉱」を代表例として、現場であたかも”当たり前”のごとく頻発する”小さな”事故、まして被害者が後日死亡に至ったケースなどは規模や紙面の都合によって”いちいち”報じられなかったことも当時は間々あったようですが…。

 もし仮にそうであるなら、表面化されていないだけでこの現場が計算上細かい事故の発生数、すなわち遭遇確率がかなり高い労務環境であったことを意味し、それはそれで何とも恐ろしい状況ですが、その前提でさらに憶測を進めれば、中でも多く起こり得たのはやはりもっとも手数がかかる「導水路」工事中におけるアクシデントだったのではないかと推察されます。

 本プラントでは糠平ダムと同発電所間に内径4.6m/延長3.4kmもの導水路トンネルを掘削する必要があり、これが完成しない限り発電プロセスがまったく機能しないだけに、昭和30年12月に予定される試運転へ向け、並行して行われている本体工事に遅れを取らぬよう迅速な施工を求められていたのはもちろん言うまでもありません。

 折しも昭和30年頃はトンネル工法において新旧転換点とされる時期にあたり、例えば耐久性の高い鋼製の坑内補強枠(支保工)の採用により作業工数が大幅に減り効率が飛躍的に向上したと聞きます…但しそれら器材の進化が必ずしも現場の安全環境構築と事故防止のためだけではなく、掘進のスピード化を一層促す結果になったことも否めないのです。

 実際、同じプロジェクトの一環として本件からやや遅れて着工されていた「活込ダム⇔足寄発電所」間の導水路工事においては昭和29年(1954年)9月6日午後1時40分頃、コンクリート覆工用型枠の取扱中に前触れなく天端が長さ10mにわたり崩落し坑内で作業していた11名が亡くなるという大事故が発生していますが、その原因について「”たまたま”軟弱な岩層との継ぎ目に突き当たった結果のものでまったくの『不可抗力』」とする工事責任者へ対して、事前地質調査の正確性への疑問と共に「”まず前進ありき”の現行工法からの改善の必要性」を示唆する労働基準監督署のコメントも残されています。

 同様の事象は後述する鉄道トンネル工事でも発生しており、確かに地層の変化に起因する大きな落盤にはとりわけ用心すべきなのですが、もとより坑内労務中は発破の工程を初め、直後の岩石除去(ずり出し)や支保工建て込み作業中での切羽面からの落石(はだ落ち)等、いつ起こってもおかしくない上にタイミングが悪ければ即重大事に結びつく危険が常に”付きまとい”、携わる事業者としては従業員の生命を脅かすそれらの災害の防止あるいは被害を最小限に抑えるために、実務経験に乏しい一定数への教育も含めた入念な安全対策の実施が重要なことは当時からそれなりにも認識されていたと思います。

 ただ現実的には、進捗が急がれる現場に置かれ、互いに”しのぎを削る”数多の下請「組」が工区ごと連帯的に稼働している中、自分の持ち場での遅延・停滞という”失態”を晒さぬように、状況によっては多少無理をしてでもとにかく作業を前へと進めざるを得なかった各業者の事情らしきものがあったのかも知れません…が、そうでなくてさえ事故リスクの高い掘削工事で「危険予知・予防」の意識が希薄なまま不用意に事を進めれば、当然良からぬ結果を招くことになります…あくまで想像の域を出ないものの、もしそれをある程度承知しながらも先を急ぐあまり”強行突破”し、その帰結としての前出「慰霊碑」の存在であれば、あまりにもつらく切ないものを感じるほかありません。

 本碑により再認識されることとなった「北海道の大動脈たる発送電網の確立」という華々しい大成果の裏に隠れた”負の一面”、たとえそれが”報酬のため”だけだったとしても「誰かがやらねばならない”命がけ”の仕事」を担った人たち、なかんずく不幸にもこの”最果ての地”で不測の災難に斃れた方々へ対しては、今の時代に不自由なく電気を使える恩恵を受けている身として、労いと感謝の言葉を捧げても罰は当たらないでしょう。

 時代は移り、新たに立案された「十勝川水系河川整備計画」の中のひとつとして糠平ダムの多目的化に伴う「堤体の嵩上げ工事」が現在検討されている旨の記事を目にしました。

 今のところ実現性については未知数であるものの、今後の協議を経てそれが具現化した際には「無事故無災害の達成」という目標の下に最新の機材と技術を用いておそらく慎重の上にも慎重を期し工事が進められることでしょう、しかし今の規程や感覚からすれば至極当たり前なこの「安全策」に対して、現役プラントが元々は70年前に実質2年少々の期間で造り上げられた事実を知った関係者は、良くも悪くもその時代が持っていた”勢い”にきっと驚かされるに違いありません。

碑面

銘板

上士幌町】「殉職碑」(国鉄士幌線付替工事殉職者慰霊碑)

事故発生年月日:昭和29年 4月 6日/同 8月19日/同 9月 9日/昭和30年 3月 4日

建立年月日:  昭和30年 7月

建立場所:   河東郡上士幌町ぬかびら源泉郷

 先述「糠平ダム」の完成(昭和30年=1955年)に伴い”突如”現れた「糠平湖」、堰き止めた音更川の流れを取り込むために用意された湛水域は8.2k㎡にも及び、そこで貯えられるおよそ1億6千万㎥という有効貯水量は、資料を見ると当時国内で5番目の規模だったそうです。

 この広大な人造湖の誕生により、例に漏れず湖底に水没してしまう人家が糠平地区にもあった訳ですが、観光資源として地域経済を支えていた「温泉郷」が幸いにも対象地から外れていたこともあり、実際影響を受けた家屋は”にわか”に誕生した労務者向け飲食店等を除くと林業関係を中心とした10戸程度でした、しかしその点でもっとも”損害”を被ったのは、もともと音更川左岸側に沿って敷設されていた「国鉄士幌線」と言えるでしょう。

 そもそも士幌線十勝平野北部地方の拓殖推進を目的にして大正年間に設けられた路線であり、計画に基づき起点の帯広からひとまずの目的地である現・上士幌市街へ達したのは同15年(1926年)7月のことでした。

 一帯を畑作物の生産拠点として発展させるための環境を整えた鉄路は、8年の運用の後林業への貢献にも応えるべく更に北へ延伸、既に温泉地として認知度のあった糠平を経由して昭和14年(1939年)には”裏大雪”の木材積出基地である「三股」(十勝三股)までの全通を果たしています。

 さて、消滅する運命が確定してしまった糠平駅と付帯設備、またその前後合わせて約12.5kmにわたる線路については、行く手を遮る”まだ見ぬ”巨大なダムと湖を大きく迂回しながら別のルートで敷き直す必要が生じました。

 従来、温泉街から遠く離れていた鉄道駅がこれを機に近傍へ移設されるに伴い、旧線から見て対岸側である右岸沿いへの敷設が決定した「付替線」、新旧線切替の際営業に支障が出ないようにダムと並行して進められた工事は、新線完成までの間供用される「仮付替線」を手始めとして昭和28年(1953年)6月に着工、追いかけ本線付替は「黒石平⇔メトセップ」間の14.9km区間で施工されることとなります。

 但し、屹立した山面に両端を挟まれた峡谷の中、音更川沿いの狭いスペースにもともと設けられた鉄路なので移設出来る場所はおのずと限られており、箇所によってははるか頭上の急斜面に切土して路盤をこしらえるなどかなり無理なレイアウトも見られましたが、やはり特筆すべき旧線との違いは今までこの区間に限ればひとつもなかったトンネルをあらたに10か所も設ける必要があったことでしょうか。

 もっとも、その半数以上は延長100m前後の小規模なものであり、全体を5つに分けた工区それぞれを経験豊富な道内外の大手建設会社が請け負った本工事の進捗を阻害するまでの障壁にはならない…はずでした、だが実際は作業員の生命に関わるレベルの事故が4件もトンネル工事中に発生しています。

 内2件は発破用ダイナマイトの誤爆、残りは落盤によるものですが、特に昭和30年(1955年)3月4日に起こった事故は発注側の技師や現場監督をも含む9名が犠牲となる大惨事になってしまいました。

 場所は第4工区の「第9糠平トンネル」現場、総延長116mの内大半の掘削が終わり貫通間近であったタイミングにおいて突然長さ27mにわたり天端が崩れ、800㎥もの流入土砂があっという間に作業員もろとも内部を埋め尽くしてしまったのです。

 初端の発破事故(昭和29年9月9日・於第7糠平トンネル)以降は概ね順調に進捗し終盤へ差し掛かっていた本工区を再び襲ったこの大事故の発生原因とされる要素は大別すると2つあるようです…まずは地質の見立て違いの問題で、事前の調査によると比較的頑健な「安山岩」メインで構成されているはずの本トンネル近辺の地盤について、崩落箇所まわりでは粘土が固結した「頁岩」という非常に脆い岩層が見られたとの報告がありました。

 太古へ遡っての隆起や断層等の地質活動を経て複雑に堆積形成された山岳地層の中を直線的に掘削する訳ですから予定外の岩層に期せずして突き当たるおそれがあるのは致し方なく、いにしえよりトンネル工事を妨げてきたこの”厄介な難敵”へ対しては、補強の強化など状況に即した措置を施すしか方法がありません、しかしその対策作業の際の「不備」が二つ目の疑われている要因に当たります。

 というのも、当時の工法からすると掘り進めた坑道地点への支保工の速やかな建て込みからコンクリート打設までが1セットの作業となっており、ましてや前述したような危険性が高い箇所には補強枠の増設やコンクリートの増厚などの更なる追加措置が必要となるところが、実際の現場ではそれぞれの位置関係から判断するに”先走り”する切羽部に対して後続作業が著しく遅れており、結果坑内の安全確保が不十分であった可能性を指摘されていたからです。

 聞けば実務を担当した下請業者の中には就業2か月程度の経験の浅い作業員が多かったという事情もおそらく無関係ではないでしょう、ただ当年7月末日までの完成・引き渡しが”至上命令”である本工事において、当該トンネルの貫通を目前とした中、すでに現場管理者の意識はその先に控える本工区最後にして最長となる「第10糠平トンネル」(延長474m)へ向けられていたのかも知れません…結局事が起こるまでこの”連係不足”状態が根本解消されることはありませんでした。

 脆弱な岩質に加え、外圧から支える岩盤層自体の厚みも足りておらず実は限界に近い状態で保持されていたに過ぎない坑道が浸透水の吸収や発破作業の振動による地盤の緩みの進行を受けてとうとう崩落してしまったとされるこの悲劇、国鉄工事局職員や元請業者の監督を初め命を落とした方々の2/3に当たる6名がまだ20~30歳代の前途ある若者であり、立場は違えどそれぞれ描いていたはずの将来へ向けた夢が一瞬にして潰えたことを想うと唯々やるせない限りです。

 その後、遅れを取り戻した工事は目標期日の昭和30年7月31日に無事完工し、翌日からの新線での営業運転、そして糠平ダムの湛水開始(9月20日)とすべて計画通りにスケジュールがこなされていきました。

 かくして、延べ48万5千人もの労働力を費やし晴れて開通した”新生”士幌線糠平温泉郷へのアクセスが格段に向上されたうえ、大自然の中にいきなり”お目見え”したダムや湖などの景勝も集客の一助となり、これまで以上に多くの観光客の呼び込みに成功しています、だが木材積出しのためだけに敷設されたといっても過言ではない糠平以北の線区が置かれた状況はそれとはまったく違うものだったと聞きます。

 活況を呈していたのは最初の内だけであり、当地産原木の主要ユーザーであった大手製紙工場において外国産木材チップの輸入が本格化する昭和40年頃を境に需要内容が大きく変化、ただでさえ目減り傾向にあった林業従事者の転出にも拍車がかかり、木材出荷拠点の「三股」や「幌加」では貨物量・乗客数ともに減少の一途をたどることになりました。

 然して、もはや士幌線運営面での”重荷”になり果てたこの線区へ”引導を渡した”出来事が「国道273号線」の部分開通(昭和47年=1972年)だと言われています、道内における国道最高地点(標高1,139m)に位置する「三国峠」を越えて上川管内上川町まで北進することが出来る本道路を利用したトラック輸送がこれで可能となり、遠回りで高上りにつく貨物列車にわざわざ荷を積み込む理由がいよいよなくなってしまったのです。

 昭和53年(1978年)12月、ついに糠平⇔三股間の運行は国鉄として全国初のケースとなるバス代行便に取って代わられることになり、それから士幌線が全線廃止される昭和62年(1987年)へ至るまでの間、第7から第10までのトンネル群を含む本区間を列車が走る光景はもう二度と見られませんでした。

 いくらしかたのない事情に因るとは言え、15年しか使っていない路線を潰してまでせっかく完成させた新線も結局20年そこそこで事実上”無用”とされた現実を受けては、「命を懸けて」インフラを整備した工事従事者もさぞ浮かばれないものと同情を禁じ得ません。

 昨今、界隈に遺される新旧士幌線のコンクリートアーチ橋遺構を巡る観光需要があるそうですが、それらの構造物を含めさながら「昭和の音更山道」を造るために命を散らした若者らが少なからずいたことを想い、現地へ足を向けた際にはぬかびら源泉郷の上士幌鉄道資料館の敷地内に置かれている「殉職碑」を訪ねてみてはいかがでしょうか。

碑面