北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【複合管内】学童吹雪遭難慰霊碑

【複合管内】学童吹雪遭難慰霊碑

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(2017/12/13投稿)

  平成25年(2013年)3月2日、急激に発達しながら北海道地方を通過した”爆弾”低気圧によって引き起こされた暴風雪の影響で道東地域では合わせて9名が犠牲になるという深刻な人的被害がもたらされました。

 中でも、オホーツク管内湧別町における遭難事例は、風雪から愛娘をかばって父親が凍死するというあまりにも衝撃的で悲しい結末ゆえ未だ記憶に残っている方もあろうかと思います。

 児童館から子供を乗せて自宅へ戻る道中、猛吹雪により視界がまったく利かない中で自家用車が路外へ逸脱し身動きが取れなくなったため、現場から約300m離れた知り合いの農家宅へ救助を求めるべく徒歩で向かった末にこの悲劇が起こりました。

 当日の朝方には晴れ間さえ見せていた天候がまさかこれほどまでに急変するとは予測出来なかったのでしょう、極めて軽装のままやむなく酷寒の中を歩く事になった父親はたちまち「低体温症」に陥り、命を落とす要因になったものと見られています。

 翌朝父娘が発見されたのは彼らが目指した農家の地先にある倉庫の前だったそうです、不謹慎ながら「ここまで来たのだからもう少しだけ頑張れば…」とも思えるかも知れません、しかしこの低体温症がとりわけ恐ろしいのは体力の消耗と同時に気力や平常心をも奪ってしまうところにあるのです。

 彼らがやっとの事でたどり着いたであろうその倉庫にはあいにく頑丈な施錠がなされていました…それは冷静に考えればある程度予想がつく状況だと思います、だがもはや限界状態の中での”唯一の救い”に非情にも見放される形となり気落ちした父親にとってはここで気力の糸が遂に切れ、おそらくそれ以上進む力は残されていなかったのではないでしょうか。

 このエピソードと同列にするにはまったくふさわしくないレベルの余談ですが、かく言う私も今から20年ほど前の真冬に道北の豊富町にて恐ろしい目に遭った経験があります。

 仕事を終えた夜半に稚内から旭川へ戻る途中の国道40号線で、地吹雪によってにわかに道路上に積み上がっていた”小山状”の吹き溜まりに気付かず社用車が突っ込んでしまい立往生、独りの力ではどうにも出来ない上にこのままでは後続車の追突事故を誘発する可能性が高い事から、救出要請と危険喚起のため意を決して車外へ出ざるを得ない状況になりました。

 上空と地表の両方から吹き荒れる雪で視界がほぼゼロの中、車一台通らない夜中の国道上を下手へ向かっておそらく40~50mほど歩いたでしょうか、作業用上着を羽織っただけの私の体温がその時点で相当に奪われ漠然とながら生命の危機を感じた事を覚えています。

 その後、このまま外に留まるのは危険と判断し一旦車内で待機する事にした訳ですが、その距離たかだか数十メートルに過ぎない来た道を引き返す際にかなり難儀する羽目になりました…というのも目まぐるしく変わる風向きによってあらゆる方位から雪が目の前で吹き乱れる状況では方向感覚がまったく麻痺してしまうのです。

 果たして今向かっている方角が正しいのか確信もないまま当てずっぽうに進み、何やら身体の自由があまり利かないせいか雪に足を取られて何度か転倒する度に、平静さが段々と失われ、焦燥感と無力感、あるいは観念にも似た不思議な感覚にみるみる支配されていきました。

 結局遠回りしながらも何とか車に戻りついた後、幸運にもたまたま通りかかった「北海道開発局」の除雪車に救出してもらい無事帰還する事が出来たのですが、今思い返しても何故あのような”前後不覚”な行動と思考パターンに陥ってしまったのかは我ながらまったく説明がつきません。

 このように、誰がいつどこで遭遇するか分からず、その際にまかり間違えば命を落とす危険性さえはらむ暴風雪災害について北海道では程度の違いこそあれほぼ毎年のように報告されています。

 過去の事象に鑑み考慮された防風雪設備や防寒装備などがそれなりにも進化し、よりリアルタイムに近い時点で気象や道路情報を得る事が可能な現代に至ってもこのような悲劇が時々起こる訳ですから、対策や情報に乏しい昔の時分には天候急変時におけるちょっとした判断の誤りや行動の遅れ、あるいは不運なタイミングが即”命に係わる”重大事故に直結しただろう事が窺えます。

 このブログでも『公務員殉職慰霊碑』のエピソードで往時に起こった吹雪による遭難事故について少し触れていますが、無論これらはほんの一例に過ぎなく、もし文献にも記録されていないような事例を加えた全容を知れば、おそらくその犠牲者のあまりの多さに思わず驚愕せざるを得ない事になるでしょう。

 そしてその中には、相手を選ばず容赦なしに吹きつける風雪を前にして、太刀打ちなど到底出来ようのない幼い子供たちがなすすべもなく命を奪われるといういたたまれないケースもきっと少なからず含まれているはずです。

 いつの時代とも、我が子を失った親たちがとりわけ深い悲嘆に暮れたに違いないそれら哀しい歴史の中で、ここでは慰霊碑という形で伝え遺される3つのエピソードについて紹介したいと思います。


石狩市(旧・浜益村)】「二妙薦福之碑」

事故発生年月日:明治33年 2月 6日

建立年月日:  明治33年 9月

建立場所:   石狩市浜益区柏木(浜益小学校)

 留萌管内との境界に接する石狩管内浜益村(現・石狩市浜益区)は日本海に面する水産業を基幹産業とする地区です。

 遺跡の検証によりおよそ六千年前には既に人間(モヨロ人)が住んでいたとされ、その後アイヌ文化が栄えた歴史深いこの場所ですが、江戸中期頃に始まったニシン交易が当地への「和人」進出のきっかけとなったと言われています。

 春ニシンや秋サケ、そして夏はナマコ漁など、豊富な水産資源とそれに携わる仕事に事欠かなかった浜益には明治時代の到来を機として主に東北地方からの移住者が増え、明治30年(1897年)に至る頃には8箇村から成る総人口約四千人の郡部へと発展しました。

 また、水産経済の中心部で戸長役場も置かれた茂生村(現・浜益浜益)より2~3km南下した黄金区地域(現・浜益区川下・柏木・実田)では、近くを流れる黄金川(現・浜益川)に沿った平坦地において稲作や豆類・馬鈴薯などの畑作が広く営まれ、浜益郡随一の農業地帯として独自の繁栄を遂げています。

 こうして着実に経済発展が進む浜益でしたが、世帯数と共に当然ながら児童数が増加する状況に際し「学校不足」という悩ましい問題にやがて直面する事になります。

 明治20年代頃の教育事情としては、明治政府の下で公布された「教育令」(明治12年)など児童教育の促進策に基づき北海道各地においても学校の設置が進んでおり、浜益でも茂生村(もい)に小学校がありましたが、そこに通う事が出来るのは事実上市街地に住む一部の子供たちにほぼ限定されていました。

 もちろん、身分や区域などの制約はなく誰でも教育を受ける機会は一円内に等しくあったものの、公共交通機関もない時代において遠隔集落に住む庶民がその距離数キロ、場所によっては10km以上も離れた学校へシーズンを通して毎日通学する事など現実的に不可能だったのです。

 この状況を受け、黄金区(こがね)の住民代表は地元での必要性を訴え学校新設を請願(明治25年頃)、当該地域の人口が郡部全体の2割以上にも達し、加えて既設の茂生小学校ももはや飽和状態にて受入が困難な事情もあって、明治28年(1895年)やっと北海道庁から開校認可が下るに至りました。

 校舎建設資金の不足を皆で出し合った寄付金などで補いつついよいよ新しい学び舎が落成したのは同年12月、これから嫌でも勉学に励まなくてはならない子供たちが果たして皆歓迎したのかはともかく、長年の夢がかなった地元の人々の喜びもさぞかしひとしおだった事でしょう。

 かくして、晴れて新設開校の日の目を見た「黄金尋常小学校」では地元児童が学業に勤しむ環境が整いましたが、通学対象地域が内陸集落を含む4村と広範囲に及んだため、とりわけ冬の厳寒期における登下校には遠くから通う子らが難儀を強いられたと聞きます。

 その時分における学童たちの一般的な冬の装いを文献等で見ると概ね「袴やモンペに脚絆を巻いた藁の長靴を履き、教科書がくるまれた風呂敷を背負った綿入れの上から生地を縫い合わせた厚手のマントを羽織る、また女子は頭巾をすっぽりと被る」という”いでたち”だったそうです…現代から想像すると実に愛らしいと感じる一方で、実際に雪が吹き荒れ凍える中をその姿で通学していたのだと思うと当時の苦労が偲ばれます。

 そんな子供たちの悲喜こもごも、沢山の想い出を刻んだであろう学校も開校から数えて4年経ち、今や児童百数十名を預かる浜益一の”マンモス校”となった黄金尋常小学校が今後の建て増しの必要性に迫られていた明治33年(1900年)の真冬、その日も元気に学校へ向かっていた児童の身に突如降りかかった悲しい出来事がありました。

 旧正月を迎えてから一週間が過ぎ祝賀気分も落ち着いた2月6日、早朝には晴天だった天候が午前8時40分頃に急変、大雪に強風を伴った猛吹雪となり、その中連れ立って登校途中の女児7名の行方が分からなくなってしまったのです。

 この気象現象は察するに、今まで幾度か石狩地方を中心に一日にして1メートル以上の積雪をもたらした記録がある「石狩湾小低気圧」の影響だと思われ、現代に至るもその発生メカニズムが解明されていないこの低気圧は石狩湾沖に前触れなく出現した後、海水温との相関によりにわかに生まれた積乱雲が大気を極端に不安定にさせ、時に「竜巻」にも似た強烈な突風を引き起こす事が知られています。

 ”大の大人”でも果たして無事でいられるか分からないこの突風をおそらくまともに受けてしまったのでしょう、散り散りに吹き飛ばされた7人の女の子のその後の運命は非情にも明暗を分かつ事になりました。

 自宅が割と近かったのか、幸いにも大事に至らず引き返し何とか家へ帰り着いた3名からの通報を受け、事態を知った住民は総出で残る4人の捜索を開始、しかしもはや一寸先も見えないほどに荒れ狂う吹雪の中での作業は難航を極めたそうです。

 自らも遭難しかねない状況でそれでも決死の捜索が続く昼過ぎ、その内二人が発見されたとの知らせが相次いで届きます…だがそれはいずれも悲しい内容でした。

 海沿いに住む漁師の娘であるひとりが見つかったのは内陸部の隣村へ向かう道端だったと言います、視界が利かない中で戻るべき道を見誤りとうとう力尽きてしまった彼女が道中でたどり着く事を心から祈ったであろう民家は哀しくもこの界隈にはまったくありませんでした。

 そしてもう一人は悲運極まりない事に田畑を営む自宅を目前にしたあぜ道で冷たくなっていました、もし一瞬でも吹雪が止みその先にある我が家が目に入ったならきっともう少しだけ頑張れたのかも知れません、しかしいつ戻りつくかも分らず孤独にさまよう中で精魂尽き果てたたった12歳の少女にその力は残っていなかったのです。

 この悲報が耳に入ったためか未だ見つからない二人の安否はいよいよ絶望視され、朝から必死の捜索を続けた村人たちもさすがに疲れとあきらめの色を隠せずにいました。

 だが、彼女らの父親だけは決して捜索を断念しようとはしませんでした、このまま夜を迎えたならば万にひとつの生存の可能性も潰えてしまうのが解っている以上、残された少ない時間に最後の望みを託したのでしょう…然して子を想うその執念が奇跡を呼ぶ事になります。

 実は二人の少女は突風に飛ばされながら路外に出来ていた深い雪の竪穴へ共に転落、その際どこかを痛めたのか動けずままにずっと救助を待っていました。

 傍目からはまったく目に付かない場所である上、さらに自力での脱出が不可能というまさに絶体絶命の危機状態にはありましたが、但しこの場合もっとも生命を縮める要因となる風雪の直撃を図らずも回避する事が出来たのは彼女らにとってむしろ幸運だったとも言えるでしょう。

 助けを呼ぶ声は吹雪にかき消され、凍える寒さに意識が薄れていくも、しかし気力を失わぬようずっと励まし合い、必ずや家へ帰れる事を信じ続けた二人、わずか11歳の少女へ課すには”あまりにも酷な試練”は、この後ついに父親らに発見・無事救出される事で報われます…遭難から実に8時間、辺りはすでに夕闇が迫っていました。

 発見に至った決め手は風に飛ばされ木の枝に引っ掛かっていた見覚えある我が子の「マント」でした、”父親の一念”が届いたのか荒れに荒れた吹雪が一時治まったその時、拡がった視界の中にはためく”唯一の手掛かり”を見い出し、今まで”やみくも”だった捜索地点を絞り込む事が出来たのです。

 まったく救いのない悲劇がある一方で、このような感動的なエピソードも残されたこれら一連の出来事、まるで”天の気まぐれ”にもて遊ばれたかのような両極端な結末に際した住民がとりわけ切なく複雑な心境に置かれたであろう事は想像に難くありません。

 吹雪や運命にさえも翻弄され、不憫にも短い人生を終えた二つの幼気な御霊を祀る慰霊碑が村民の手により小学校の校庭に建てられたのは、その年9月の事です。

 それから経つ事約120年、碑は厳しい風雪や陽射しにも耐えながら今もなお同地に遺されています、しかし”足掛け3世紀”という長き歳月の間に村の情勢はすっかり変わってしまいました。

 かつて、子供たちの教育のために村民が”なけなし”の資金を持ち合い苦労の末一つ一つ増やしてきた小学校は、その後の水産業の衰退に起因する過疎化や少子化による児童数の減少に伴って統廃合を繰り返し、今や残るはここ浜益小学校(旧・黄金尋常小学校)一校だけになっています。

 はるか遠い明治の時代、やっと通うことの叶った学校がきっと大好きだったに違いない二人の小さな女の子の想いが宿る碑はそしてこの先も、母校の行く末を案じながら、変わりゆく浜益の姿をこの場所からずっと見届けていく事になるのでしょう。

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碑面

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碑文

中標津町】「幼霊地蔵尊

事故発生年月日:昭和 8年 1月18日

建立年月日:  昭和 8年 8月

建立場所:   標津郡標津町川北

 北海道の東端一帯に広がる「根釧台地」、この”果てしない”原野の面積は約2千平方km、あるいは範囲を拡大解釈にて算出すると5千平方kmに及ぶとも言われています。

 山岳・森林地帯が総面積の約65%を占める道内においては、「石狩平野」「十勝平野」と並ぶ数少ない広大な平坦地なのですが、二つの地域と比較しての絶対的な相違点はその土地の利用法にありました。

 開拓期から度々施された土地改良により今や有数の”米どころ”となった石狩管内、そして道内全体の1/5に当たるおよそ25万ヘクタールの耕地で主に畑作が営まれる十勝地方に対し、根釧原野の大半はもっぱら牧場や牧草地として利用されています。

 この広い地域の中ではここに住む人間の約4倍にあたる16万頭にも達する乳牛が飼育されており、今や牛乳(生乳)生産量や牧草作付面積などの実績・実態調査において常に国内トップを記録、他の追随を許さないほどの基幹産業へ成長した訳ですが、しかしそれは同時にこの”酪農王国”がその他の用途には適さない場所だった事実を物語っているのです。

 界隈はもともと気温が低い上に夏場を中心に頻発する霧の影響で日照時間が少ないばかりか、そもそもその地質は保水力に乏しい火山灰、あるいは泥炭地という、稲作は言うに及ばず畑作にすら不向きないわゆる”痩せた”土壌でした。
 このような風土も影響してか、歴史的に見ても一帯の耕地開発は道内の他地域と比べてかなり遅れ、その内陸部において入植開拓民による本格的な開墾が行われたのは昭和に入ってからの事です。

 そんな地域の中のひとつ、標津郡中標津町字養老牛(ようろううし/ようろうし)は釧路やオホーツク地方とも境を接する根室管内でもっとも内陸に位置する集落で、現在では”仙境の温泉郷”として隠れた人気を持つこの地には、拓殖計画に基づく募集に応じた移民(100戸)が昭和4年(1929年)に初めて入植しました。

 折しも時代は関東大震災や金融恐慌による悪影響が未だ尾を引く状態だったところにして、さらに追い打ちをかけるように発生した世界恐慌に対する政府の失策とそれに伴って引き起こされた農業恐慌など、国内経済はかつてなく最悪の不況に陥っており、都市部の失業者や凶作で食べるにもままならない東北の農民などが、”救い”を求めて北海道へ多数訪れたと聞きます。

 だが、そんな彼らが意を決して移り住んだここ養老牛は、北海道庁拓殖部が移民募集の際の宣伝用ツールとして用意したPR映画の中に描かれる「五穀豊穣で食べる事に不足がない理想郷」のイメージからは到底程遠い土地でした。

 伐採すべき森林がほとんどない無立木の原野ゆえ開墾の手間は思いのほか省けたものの、前述したような貧弱な土地で収穫を期待出来る農作物は一部の根菜や蕎麦・キビ等の雑穀類に限られ、その実情を悟るまでに当初はしばらくいろいろな穀物や野菜を作付するなど結果的には落胆に拍車をかける試行錯誤が繰り返されたそうです。

 しかし、せっかく作付したそれらの多くが冷涼な環境下でまともな生育までに至る事はほとんどなく、以前よりむしろ酷い有様に失望した多くの世帯が移住から1~2年で早くもここを見限り他の土地へ去ってしまったとも聞きますが、開拓民を苦しめた自然要因はそれだけではありませんでした。

 集落の北側に隣接する摩周湖やそれを取り巻く山地から季節を問わず”気まぐれ”に吹き下ろす冷たい北風「摩周おろし」は障害物のない原野一帯を”我が物顔”に駆け回り、時にそれは厳しい気候の中でやっと実り収穫を目前にした作物さえをも容赦なくなぎ倒したのです。

 このあまりにも救いのない状況に際して対策を講じなければならなくなった集落住民の代表者は一帯における防風林の造成を根室支庁根室営林署へ請願、他所での成功事例によってその効果がすでに認められていた背景もあり、然したる問題もなく許可が下された事業は昭和6年秋ごろから早速着手されました。

 それにしても、他の地域では開墾の障害となる”厄介者”でしかなかった樹木が、所変われば集落の存続に必要不可欠な存在という事実には、北海道もつくづく広いものだとあらためて感じざるを得ません。

 さて、作業を手伝う事で得られる収入が不作に苦しむ地元住民の生活の糧にもなったこの造林工事、「”更地”に若木や苗木を植樹する」その造成方法は、「もともとある森林を”伐り残す”」形の他所とは大きく異なる点でした。

 つまり、防風林としてその機能を十分に発揮するまでには尚しばらくの辛抱が必要だった訳ですが、それでも将来の安定へ向け”第一歩”が進められた事は住民にとって喜ばしい状況だったと思います。

 ところが工事の完成が待たれる昭和8年(1933年)、養老牛は暴風がもたらした深刻な事態にまたしても見舞われます…ただし今回被害に遭ったのは農作物ではなく、あろう事か学校へ通っていた集落の子供たちだったのです。

 養老牛においては昭和4年の第1回入植の際に時期を合わせて子女のための「特別教授場」が設置され、翌同5年には児童数約80名を数える「養老牛尋常小学校」へ格上げされていました。

 決して裕福ではない、いやむしろ貧困と言っても差し支えない程の家庭事情の中、それでも「蕎麦粉の団子や芋」だけの弁当を持って毎日元気に学校へ通っていたという学童たちの姿を想像すると微笑ましいと共にいじらしくもあります。

 友だちと雪遊びをしたりスキー(のようなもの)を楽しむなど、住み慣れない土地での厳しい冬場でさえそれなりにも順応し自然と共存するべく努めたたくましい養老牛の子供たち、しかしこの年の冬はそんな子らの健気な想いを無慈悲にも踏みにじったのです。

 1月18日、その日の朝は新聞などで予報された低気圧接近による天候悪化がまるで誤報かと思われるほどの晴天でした、しかし正午前から急に雪と風が強まりはじめた不穏な天気は午後にはみるみる猛吹雪へ変貌していきます。

 当時の新聞で見る限り、中心示度「744ミリ水銀柱」(現在の表現で約990hPa)という数値上ではさほど驚くレベルではないこの低気圧、ただ釧路・根室管内のあちらこちらでは突如生まれた高さ1メートルにも達する吹き溜まりによって通る列車が軒並立往生するなど、降雪よりむしろ強風の威力と被害が大きかっただろう事が窺えます。

 道東広域において影響を及ぼした暴風雪は、遮蔽物のない養老牛ではいよいよ猛威を振るう事となり、積もっていた雪ばかりか畑の表土までをも剥ぎ取った”黒い吹雪”に一帯が覆われたと言います。

 これまで経験した事もないこの見るからに恐ろしい”異変”を目の当たりにし、学校に居る我が子の身を案じた遠隔地住民は終業時刻へ向け「馬そり」で迎えに行きましたが、ちょうどその時学校では一見”些細”だが実は学童たちの運命の分け目となる出来事があったのです。

 授業を終えた教室では児童数名が交代で居残り清掃をおこなう事が日課とされており、当日は遠隔集落から通う子供らが当番に割り当てられていたのですが、このような酷い天候状態にあって「帰りが遅くなっては可哀そう」と慮った学校近くの市街地に住む児童が代役を買って出てくれました。

 かくて”友愛を有難く受け取った”遠隔地の学童は迎えの馬そりに乗り込みいち早く帰宅の途につく事が出来ました、しかし一方で級友を気遣った心優しき子どもたちはその分下校時間が遅れたばかりにこの後災禍に見舞われてしまいます。

 住民生活の平常をことごとく乱す”いまいましい”天候は、この近所同士の仲良し4人組が一所懸命掃除をしている間にもますます悪化の一途をたどり、やっと帰宅の準備を終えた彼らが玄関から目にした外の景色はもはや一寸先も見えない別世界になっていました。

 この状況を受け、担任教師はまずしばらく学校に留まるよう4人へ勧めたそうですが、結果的には教師が校舎の被害状況を確認するためその場を離れた時に彼らはとうとう”幼い判断”ゆえの危険過ぎる一歩を踏み出してしまいます。

 一刻も早く暖かい自宅へ戻りたかったのかも知れません、学校からの距離もそう遠くない事からおそらく吹雪が少し治まった時を見計らって帰宅を決断した子供たち…だが彼らの足取りはそのまま途絶えてしまったのです。

 それからややあって4人の内のひとりの父親が帰りの遅い娘を心配して学校へ訪れますが、意に反してそこには誰もいない中、担任からの説明により事情を知った彼は頭から離れない不吉な予感を払拭しながらその距離約60mである自宅間の通学経路の捜索を始めます。

 しかし幾ら路上を探り、また道中の民家へ尋ね回っても彼らの姿は見えず、猛吹雪の中ながらも助太刀に集まった近隣住民の力を借り範囲を拡げた大捜索が夕闇に包まれる頃まで続けられたにも拘らずその日朗報が届く事はありませんでした。

 「一体彼らはどこへ消えてしまったのか」…なす術もないまま唯々無事を祈るしかなく迎えた翌日、ようやく吹雪が小康状態となった夜明け前から一斉に再開された作業の末、そして遂に4人が発見されましたが、それは親たちにとってもっとも受け容れ難い最悪の結末だったのです。

 無念にも既に冷たくなった彼らが折り重なるようにして斃れていたのは事もあろうに学校の校庭でした…位置的に通学路から幾分外れていた事やあまりにも学校に近かったのが逆に盲点となってしまったのでしょうか。

 状況を察するに、学校を発った途端にまた荒れだした吹雪に際して帰宅を断念した4人は慌てて引き返したものの、学校到着の直前でおそらく強烈な突風に吹き飛ばされたものと考えられました。

 もしかすると吹雪に含まれていた土砂か、あるいは激しく雪の中へ放り込まれた事による窒息が原因かも知れません、発見現場から学校の玄関までの距離はわずか10mに過ぎませんでしたが、もはや彼らはほんの少しも動ける状態にはなかったのでしょう。

 14歳から9歳の女児3名、そして8歳の男児が犠牲となった痛ましい悲劇、この非情極まりない現実に直面した前出の父親は「仕事に忙殺され迎えに出遅れた」自らの非を責め、後悔に暮れる中で供養の地蔵尊を建立しました。

 当初は学校の校庭に建てられ、その後近くの寺の境内へ移されたこの「お地蔵様」は、廃寺に伴って今は父親も眠る先祖の墓の隣りで寄り添うように置かれています。

 現在養老牛地区を訪ねると、延々と広がる牧場の中にかつて集落住民から切望され設けられた防風林が立派に成長している姿をきっと確認する事が出来るでしょう。

 それらの樹木の中には歴史を感じさせる樹齢百年に近い見事な「トドマツ」もあると聞きますが、その大木がまだ”生まれたて”の小さな苗木だった頃の時代にはこんな悲しいエピソードがあったのです。

 

※参考文献「養老牛の今昔」(西村武重氏著)

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地蔵尊

留萌市】「慰霊」碑(姉妹星の碑)

事故発生年月日:昭和31年 2月 5日

建立年月日:  昭和31年 7月

建立場所:   留萌市沖見町5

 「その日より雪野の果ての姉妹星」

 これは、留萌市街の南西部にあたる丘の上の公営住宅街の一角に置かれた碑面に描かれている一句です。

 留萌生まれの俳人が詠み、そして同じく市内に住む書家の揮毫(きごう)によって刻まれたという”そこはかとない物哀しさ”を覚えるこの句、ただしその碑はこれら著名な方々にまつわる「句碑」ではありません。

 実は今から60年ほど前の真冬に、この地で13歳と10歳の幼い姉妹が命を落とす遭難事故がありました。

 ごくごく普通の日常を過ごしていた少女の身に突然降りかかったあまりにもやるせない悲劇を受け、我が事のように心を痛めた二人の母校関係者の手により哀悼の意を込めた碑が建立される運びとなり、その際に寄せられたのがこの哀感漂う句なのです。

 この悲しい出来事があった昭和31年(1956年)は国内における高度経済成長時代の序盤に当たり、港町留萌ではこれまで地域経済を支えてきた水産業がここ数年来続くニシン不漁によって苦境に立たされていた一方で、もっぱら土建業を中心に活況を呈していたと聞きます。

 鉄道開通(明治43年)や留萌港の建設(明治43年昭和8年)など交通インフラが整い始まる明治末期から急激な発展を遂げた留萌市は、昭和初期に至る頃には天塩や中空知地方で採れる石炭を主とする近隣地区の各種産物が集約・積出される管内屈指の物流拠点となりました。

 その後、戦時体制下の国策の影響で取扱貨物量が激減する不遇の時代もありましたが、戦後の昭和27年に国が指定する「重要港湾」のひとつとして留萌港が選ばれたのをきっかけに、活気を取り戻した市では港湾施設の改修や護岸、あるいは周辺道路整備などの各種工事が計画され順次着手されています。

 このような時勢の折、建設工事や港湾業務を初めとする人手が多く必要な仕事に尽きない留萌には必然的に人が集まり、不況にあえぐ漁業従事者や離農者など様々な人々が働き口を求めて他地域からも流入していたのです。

 そして、にわかに増えたこれら「ニューカマー」の住まいとして多く利用されたのが、本エピソードの舞台である沖見町地区に建ち並ぶ低家賃の公営住宅でした。

 留萌港の南側に位置する瀬越浜沿いの緩やかな丘に広がる一帯からは当時日本海が一望出来、涼しい海風が吹き渡る夏場はさぞや過ごし易かっただろう様子が想像されるこの地区、しかし一方で冬にはその風が招く「雪嵐」によって住民がとことん悩まされたとも聞く、必ずしも年間を通して人々が快適に暮らせる利便性の優れた場所ではなかったのかも知れません。

 さて、昭和31年の留萌は例年よりまして厳しい冬を迎えていました、もともと降雪量が多い地方である上に、その年は大陸から日本海を渡って吹き込む「シベリア気団」が猛烈な吹雪を度々引き起こし、その都度市民生活や市の経済が深刻な影響を受けたそうです。

 中でも2月5日から6日にかけて猛威を振るったいわゆる「シベリア颪(おろし)」は地元民からしても過去に覚えのない程とりわけ苛烈なものでした…度重なる災難に疲弊する住民が早い天候回復を心底祈っていたのは言うまでもありませんが、しかしその中でとうとう悲劇は起こってしまったのです。

 その日もすでに陽が落ちた2月5日午後5時40分頃の沖見町には、雪が舞う道を手をつなぎ、楽しそうに会話を交わしながら歩くまだ幼い姉妹の姿がありました。

 人通りもないこんな暗い冬道を彼女らは何処へ行くつもりだったのか、実は二人は親から言いつかった日課の「お使い」のため、自宅の公住から500~600mほど坂を下った先にある最寄りの食料品店と米穀店へそれぞれ醤油・精米を買い求めに向かっていたのです。

 晴天だった前日とは打って変わって当日は「立春」にも拘らず朝から風雪が烈しく、バス・汽車などの公共交通機関は軒並運休、市内の学校でも臨時休校の措置を取らざるを得ない程の大荒れの天気でした。

 よりによって、そんな日に小さな女児を使いに出すという親の行為には、今聞くと大きな疑問と違和感を覚えるかも知れません、ただ幼い時分の私もそうしたように”多少の悪天候”レベルでも子供が手伝いとして用足しに行かされる事自体は時代を考慮すると”ごく当たり前”の話だったと思います。

 とは言え、さすがに見るから猛吹雪の中を無理やり外へ出す訳もなく、おそらく風が少し治まった頃合いを見て家を発ったのでしょう、だが青森県の内陸部から移り住んだ家族は大雪には慣れていても留萌の雪嵐の”本性”を知りませんでした、そして「この小康状態が長くは続かない」という事も…。

 目的の品を無事買い終えた姉妹が急いで帰途に着いたのは午後6時過ぎ、その目に入る景色は来た時の様相からまるで一変していました、而して街灯や人家もまばらな枝道に入った時に辺りはもはや天地から雪が逆巻く恐ろしい世界になっていたのです。

 通い慣れた道のはずながらその日は果てしなく遠い家路を、まるで背中から急かすような風雪に押されるまま進む二人はいよいよ何も見えない中でとうとう自宅へ向けて曲がるべき道を見失ってしまいます。

 かくして、切なくもそのまま”我が家”から遠ざかる方へとふらふら歩いていく姉妹の後ろ姿はやがて雪煙の中に消えていきました。

 彼女らが出かけてから経つ事2時間、未だ戻らない娘たちが気掛かりになって様子を見に戸外へ出た父親は自らですらまともに立っていられない程に荒れ狂う暴風雪を前に絶句したと言います。

 まさかここまで凄まじい状況に急変していたとは思いもよらず、事の重大さに青ざめた彼は、自宅と商店間の経路を幾度も往復し子供らの姿を必死に探し求めるも、吹雪と暗闇の中では有力な手掛かりなど見つかる訳もなく、ただただ時間だけが過ぎていきました。

 今はもう「やむなく他所の家に避難させてもらった娘たちがきっと明日には元気に帰ってくる」事だけを信じるほかなかった親の切なる願いが儚くも打ち砕かれた翌日に至っても二人は依然見つからず、ついに警察の手を借りた本格的な捜索作業が始まった2月7日の午前10時頃、遭難から40時間ぶりにやっと事態が動きました…だがもたらされた報告内容はこの上なくいたたまれないものだったのです。

 結局、彼女らを図らずも探し出したのは親でも警察でもなくたまたま現場の近くを通りかかった地元の人だったそうです、嵐が去った後の道を歩きながらふと脇の畑へ目を向けた彼は雪原の中になびく「赤いもの」を発見、それは姉が着用していた毛糸のスカーフの一端でした。

 そこには姉と、彼女に守られるようにその下で眠る妹の姿がありました…そして痛々しくも靴まで吹雪に飛ばされてしまった裸足の二人の腕の中には「これだけは決して離すまい」としっかり抱えられた醤油瓶と風呂敷にくるまれた米があったのです。

 新聞などを通じて市民に大きな衝撃を与えたこのあまりにも哀しいニュースは、子に対する親の在り方はもちろん、近隣住民同士の交流という意味でも問題を提起しました。

 昭和31年当時の住宅地図を基に姉妹が通ったであろう経路をたどってみると途中までは入居状態の公営住宅が隣接している様子がわかります、しかし結果的に二人はそこらを訪ねて助けを求める事をしませんでした。

 帰路においては基本「追い風」だった事も理由のひとつかも知れませんが、新聞記事によれば、実は近くの住民の多くは報道で見聞きするまで事故はおろか、この家族の存在自体すらよく知らなかったと言います、つまり普段から近所内の交際がほとんどなかったがため子供たちからしても”まるで見知らぬ他人”に頼るという考えには及ばなかったのではないでしょうか。

 前述の通り、界隈が新しくここへ移り住んだ多種多様な人々の混在する生活環境であった事も悲劇を招いた遠因のひとつだと思われますが、事故を重く受け止めた沖見町地区では住民が発起人となり「沖友会」なる互助組織を直後に設立、街灯の増設や除雪の義務化、あるいは子供たちへの声かけの励行などを立案・実践し、留萌にはまだほとんどなかった「町内会」のそれからの普及における「モデルケース」になったと言われています。

 そして、当時世間からの非難を一身に受けた父親は、「自らが呑む焼酎を買わせるため猛吹雪にも拘らず子供を”死の使い”へ送り出した」などといったもはや根拠も確証もない風説が流れる中も黙して語らず、深い悲しみを背負い続けました。

 それから約20年後の昭和53年、彼は地元の作家からの取材に一度だけ応じた事があります。

 齢よりも老いて見える父親が重い口を開いて語った内容からは愛娘がとうに居なくなった現実を未だに認められないという心情が察せられ、そんなまるで現世と隔絶しているかのような言動には、その後の人生がすっかり変わってしまった彼もまた事故の犠牲者のひとりなのだと感じざるを得ません。

 この悲話から60年余、当時46歳だった年齢からするとおそらくもう旅立ったと思われる父親と仲良し姉妹がきっと、お互いわだかまりなく心からの笑顔で再会したであろうその姿を、二人の娘を持つ”父親失格”の私は今この文を打ちながら複雑な想いと共に願いを込めて想像するのです。

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碑面

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碑文