日高管内の新冠町(にいかっぷ)を全国的に有名にした要素は何と言っても日本有数の「競走馬の産地」としての存在でしょうか。
実際、サラブレッドなどが含まれる「軽種馬」カテゴリーに関する直近の統計を見ると、国内における生産頭数実績では全国4位に位置する同町を含め隣接する日高地方の自治体でおよそ80%の構成比を占めるほどの主要産業となっています。
もちろん”一朝一夕”で現在のレベルまで成長した訳ではない当地の「馬匹の生産・育成拠点」としての歴史を遡るとなんと明治時代初期へまで達することになります。
今後における北海道開拓の際に必要不可欠な存在になる馬の安定生産や品種改良を図るにあたり、比較的温暖な気候である上に清涼な河川や豊富な草木にも恵まれている丘陵が放牧に最適な土地として認められた新冠には「開拓使」の手によって明治5年(1872年)に官設牧場が設置され、それ以降実に150年以上にわたり時代に則した形で農耕馬や軍馬、そして競走馬と様々な馬が産み育てられてきたのでした。
かくも歴史深い町につき、往時より悲喜こもごも様々な出来事が当然あったと思います、但し地域の生い立ちや「いしぶみ」についてまとめられた書籍によると、町内に建つ慰霊碑にまつわるものに限れば、意外にもさほど”いにしえ”の話でもない昭和の中後期にあたる頃に重大事が集中していたことが分かります。
その中には、台風がもたらした大水害(昭和30年)やダム工事中の雪崩事故(昭和36年)など大勢の人が一度に犠牲となってしまった未曽有の大災害もありましたが、私としては昭和30年代と同50年代にあった航空機事故に係る二つの碑の存在がとりわけ気になりました。
というのも、本来旅客便の航行路でもない上に、地図を見れば分かる通り航空機など”瞬時”に横断出来てしまうほどの”細長い”町域において、そう滅多にないはずの空の事故がよりによって二度も起こっているからであり、もしや何らかの因果を疑わせる程ですが無論両事案に関連性はありません。
ただこれらの悲劇の間に共通する点がひとつ、それは事故で命を落としたのがいずれも職務中の国家公務員だったことです。
【新冠町】「殉職之碑」(営林局チャーターヘリ墜落事故慰霊碑)
事故発生年月日:昭和33年10月26日
建立年月日: 昭和40年 5月
知る人ぞ知る新冠町の「サラブレッド銀座」(道道209号線)、太平洋側から内陸部へと向かう沿線には多くの軽種馬がのんびりと放牧されている牧場エリアが延々と続き見る者の目を楽しませてくれます。
その中には数々の重賞レースで活躍したような往年の駿馬を輩出している有名な「ファーム」もあるそうで、一部の競馬ファンにとっては「聖地」とも言える街道ですが、そんな通りも奥へ進むに連れ目に入る風景もだいぶ変わり、10kmも過ぎるとまばらになった牧場に代わって山林地が目立つようになってきます。
そうこうして着いた人口50人ほどの小さな集落「若園」で枝分かれした山道脇の雑木林の中にそっとその碑は建っていました。
碑面にある「殉職之碑」の文字だけでは分からなかった建立の事由は背面に詳しいいきさつが刻まれており、昭和33年(1958年)にこの地であったヘリコプターの墜落事故により、搭乗していた2名の営林署職員が命を落としてしまった悲しい歴史を読み取ることができます。
広大な国有林の管理を担う北海道の営林局においては、昭和29年(1954年)の台風15号によって被害を受けた風倒木の調査や後処理時に使用されたのを皮切りに、この頃は業務の際本格的にチャーターヘリを駆使する機会が増えつつあったようで、その辺りの背景については『全日空職員殉職碑』の逸話内でも取り上げていますが、今回事故を起こしてしまったのも実は同社の所有機でした。
ヘリコプターの死亡事故としては北海道内、そして全日空にとっても共に初めてのケースである本件、その原因と影響やまた係る後日談についてここでは少し触れてみたいと思います。
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当年(昭和33年)の9月に日本列島を襲った台風22号(狩野川台風)は当時最低気圧の世界記録(877ミリバール)を作ったほどの強烈な勢力を有しており、上陸時において伊豆半島を中心に甚大な被害をもたらしたこの台風の今後の予想進行ルートが本道の太平洋岸に沿う形で描かれていたため、広範囲の山林地が壊滅的損害を被った4年前の悪夢の再来を危惧する所轄の営林署が事の成り行きを殊更に注視していたのは言うまでもありません。
結果的には北海道到達直前に弱体化、温帯低気圧へと変わったことにより幸いにも被害は想定レベルより少なく抑えられ最悪のケースは回避出来ましたが、規模に拘らず国有財産たる立木の異動状況を把握してその処理法を策定するのが役所の務めであり、営林署には事後において倒木等の実態調査のため現地を視察する仕事が待っていました。
但し、昔と違って当時はすでに上空からの空撮で位置や規模等大方の確認を済ませる方法が普及しており、更には滞空機能を活かしながらより的確な情報収集が可能なヘリコプターの使い勝手が良かったことから、太平洋岸地域では東胆振から日高地方全体へかけての国有林を管轄する「札幌営林局」としては10月22日から31日までの予定で操縦士込みでの機材チャーターを、この業界ではもっとも豊富な実績を誇る全日空の札幌出張所へ早速依頼したのでした。
さて、日替わりで当該所轄営林署の担当係官が同乗し各地で順次始まった調査飛行でしたが、思いのほか被害範囲が広くなかったためか作業は大幅に捗り、多くの予備日を残した10月26日には今回の最終工程となる厚賀営林署担当エリアへ向かうこととなります。
その日の発着基地として設定された新冠村若園の営林署管理敷地を朝方に飛び立った全日空の3人乗り小型ヘリ(ベル社製47D-1型7012号機)はここでも順調に対象林地での職務を終わらせ、早くも午前11時前には帰還の途についていました…かつてはそれなりの人手と時間をかけて調べたのであろう作業が省力化・効率化へ向け劇的に進歩している現状を、同機に乗り込んでいた厚賀営林署経営課所属の2名の実務担当者もおそらく一様に実感していたことでしょう、だが先端的な機器と技術を用いたこの業務には最後に及んで”昔ながらの罠”が待ち受けていたのです。
ヘリは丘陵の谷間に牧草地が広がる通称「スネナイ沢」に沿って進んでいたそうです、然して着陸地点である造林用苗圃場がいよいよ近づき飛行高度を下げたその時…パイロットの視界に入ったものは目前を横切る一条の「送電線」でした。
フライトの際にもっとも注意しなければならない要素のひとつとして初期の頃から取り上げられていながら、現在に至るもいまだ墜落事故を引き起こす一因になっているこの細くも危険なケーブル線、当日があいにくの曇天のため非常に目視確認がしにくい条件であった上に、左右の高い地点に”そびえ立つ”存在が同時に電線の”ありか”をも示すはずの「送電塔」も、当地の場合は集落界隈の需要を賄うだけの低電圧仕様に合わせた”背の低い”簡易タイプだったと聞きます。
ただいくら目につかないほどの小規模設備とはいえ飛行体にとってはそれらがこの上なく怖ろしい障壁に他ならず、とうとう避けきれなかった線に触れた後「とんぼ返り」をうって眼下60mの雑木林へ墜落した機体は間もなく炎上、全身に打撲と火傷を負いながらも命からがら這い出した操縦士の他は残念ながら職に殉じる結末になってしまいました。
事故で亡くなった両名はいずれも年齢が30歳前後の前途ある若者であり、片や2歳と4歳の幼子を残して、そしてもうひと方に至っては新婚1か月という本来もっとも幸福感に満ち溢れているタイミングでの災難だけに遺された家族の悲しみの深さには計り知れないものがあったでしょう。
そして、一人助かった操縦士が病室で誰に言うでもなくうわごとのようにずっと謝罪の言葉を繰り返していたという何ともやりきれない後味を残した本事故、いつからか巷で言われていた「ヘリの安全神話」らしきものもこれで崩れてしまった訳ですが、職員を失った札幌営林局としてはさすがに今後のヘリ使用計画に関する見直し談話を発表していたものの、ある意味原因と対策法が明確な事例だけに、これまでヘリコプターを重用あるいは今後活用を検討する業界が方針を改めるきっかけにはなり得ず、彼らが以前の手法へ回帰することはありませんでした。
かくして世の中の流れは『全日空職員殉職碑』のエピソードで描かれた時代へと繋がっていくのです。
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本件の当事者である全日空の操縦士は前身の「日本ヘリコプター輸送」を立ち上げた時期(昭和27年=1952年)と時を同じくして入社した最初期メンバーであり、年齢はすでに47歳を目前にした明治生まれのベテランパイロットでした。
戦前期からの生粋なる「飛行機乗り」だった彼は、昭和天皇を前にしての曲芸飛行の披露や敵爆撃機B29との交戦など陸軍時代における数々の武勇伝を綴った「一代記」が刊行されるほどの人物だったのですが、終戦を経て復員後郷里に籠っていたところを旧軍の知人からの誘いを受け再び大空の世界へ”舞い戻った”という経歴を持ちます。
天性の資質なのか、勝手が違うはずの回転翼機の扱いについても極めて短い講習時間での習得から免許取得を果たし、無論操縦技術も確かなものを持っていた氏、ただ一方でその”特攻隊あがり”の「豪胆」な性格が災いとなったことも過去にはあったようで、昭和28年8月には送電線設置ルート策定のため北海道電力の社員を乗せて夕張郡栗山町の山林上空を飛行中、ちょっとした思い込みからの判断ミスにより人的被害は軽微だったものの購入したばかりのヘリ機材を喪失するほどの墜落事故を起こしています。
会社設立以来、航空機部門の赤字をヘリコプター事業の収益で”穴埋め”すべく”東奔西走”していた功労者へ向けるには少し酷な表現となりますが、今回の事例においても事前情報の把握と適宜判断によっては避けられたアクシデントだっただけに、やはりオペレーターとしての責任から逃れることは出来ないでしょう。
クライアントの死亡という深刻な結果を受け会社側でも事態を重く見たのか、職場復帰後は運航管理セクションで内勤業務に従事することになった彼にはもう第一線へ戻る道は残されていなかったと思われます。
然して迎えた昭和35年(1960年)は全日空のヘリ部門にとってとりわけ受難の年になったことは過去記事に記したところですが、直属長の運航課長を初め、道内での様々な受注案件を取りまとめてきた札幌出張所主任や、また彼をこの世界へ引き込んだ関係者の一人である専務といった、氏にゆかりのある人たちがいずれも殉職により相次いで旅立っていきました。
これらの出来事が氏に与えた影響はもちろん小さくなかったことでしょう、翌同36年には自身に区切りをつけるようにそして彼もまた会社を去っています…同年は図らずも初代社長が勇退を決断した年でもありますが、今から振り返ってみると前身会社を含めて設立10年の節目となるこの時が全日空にとっていろいろな意味での”時代が変わった”タイミングだったのかも知れません。
※参考文献「パイロット一代」(岩崎嘉秋氏著)


【新冠町】「LR-1.02号機殉職者慰霊碑」
事故発生年月日:昭和52年 6月14日
建立年月日: 平成元年 6月
新冠市街から北西方向へやや離れた太平洋沿いに位置する「節婦町」(せっぷ)は、町内唯一の漁港を持つ土地柄もちろん漁業・水産業が盛んな地区であるものの、但し携わる人の数も減っているのかコンブやウニなど主力品の漁獲量は統計を見る限り近年減少の一途を辿っています。
明治末期に辺りが本格的に開かれたのち、漁業のみならず今で言うところの海運業もあらたに起こり主に函館との交易の窓口としての役目を担った当地は、その後も新冠の他地域とは一線を画した形の発展を遂げていますが、時代の移り変わりとともにそれらの事業も廃れ、これからはもうかつてほどの活況を見ることは難しいのかも知れません。
そんな今は”こぢんまり”とした港町にはその穏やかな街並に”似つかわしくない”とも言える、過去に起こった大きな出来事の慰霊碑が2基建っています。
ひとつは古く太平洋戦争の最末期(昭和20年=1945年)に敵潜水艦からの雷撃を受け節婦沖に沈没した陸軍輸送船「大成丸」(大誠丸)の乗員へ向けた碑、そしてもう1基は昭和52年(1977年)にあった陸上自衛隊の連絡偵察機の墜落事故に関するもので、図らずもいずれも軍事が絡む事案ですが、公表されている情報に不詳な要素が多い面でも両者には共通点がありました。
もっとも、片や戦時作戦中の出来事ですので時世柄そうなるのは致し方ないのでしょう、しかし後者の場合も機密に抵触、あるいは自衛隊への批判をいたずらに刺激するのをおそれた当局からの情報提供が止められてしまったのか、軍用機が市街地へ墜ちて乗員全員が亡くなるといった大事故にも拘らず、新聞紙面においても翌日の第2報以降はまったく本件に触れられることはなかったのです。
一体、何が原因でまた墜落までどのような経緯を辿ったのか…WEB上でもほとんど情報が残されていない本事故について、当時の新聞報道内容に個人的憶測を交えてここに取り上げてみます。
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昭和52年(1977年)6月14日、根室管内別海町の陸上自衛隊矢臼別演習場他では同第1師団の第31連隊(埼玉県朝霞市駐屯)を主体に実施される大規模演習がいよいよ始まっていました。
「北方機動特別演習」と銘打った同イベントは、東西冷戦体制の中で敵性国家である「ソビエト連邦」(ソ連)による北海道侵攻を想定、管轄エリア以外で発生した有事の際における速やかな機動展開を図るため他都府県の陸自連隊を対象に昭和45年から順繰り行われている予行演習と言えるもので、実際に前年の昭和51年9月にはソ連の最新鋭戦闘機「ミグ25」の北海道領空内への侵犯を許した上に事件の後処理の段階で同国との間に軋轢と緊張が生まれた状況を受け、本年から揚陸訓練を加えるなどその規模が拡大化されたと聞きます。
かように本格的な国防訓練を策定・監督し成果を総括する役目にある「東部方面総監部」の責任者らを現地まで送り届けるため、その日の朝に東京の立川飛行場を発ち、演習地に最寄りの第5師団帯広駐屯地(当時)へ向かっていたのが件の連絡機でした。
ところが、目的地の十勝飛行場界隈は当日あいにくの濃霧に包まれており、視程がどれほどだったのかは不明ながら別段危険を冒してまで強行する必要などないところから、結局この場での着陸を断念した機は代替地である千歳基地で一旦待機する方法を選択、前述揚陸演習が行われている「浜大樹訓練場」をちょうど眼下に望みながら太平洋沿いを西へ向かっていきました…が、彼らがそのまま千歳へ無事に辿り着くことは叶わなかったのです。
ちなみに一行が乗っていた連絡偵察機は三菱重工業が開発・製造した「MU-2」型という7人定員のプロペラ双発機であり、民間向け小型航空機(1963年初飛行)をベースに陸自専用の改装を施した仕様になっていました。(陸自内型番LR-1型)
旅客機「YS-11型」に続く純国産航空機として誕生した同機は、陸自(計20機)の他、航空自衛隊に33機納入されたのを初め、ビジネス用途を中心にして外国へも多く輸出、生産を終える昭和62年(1987年)までの20年余りの期間に計762機が製造されたという実績を持つ”成功作”であり、その総合的な性能には押し並べて高い評価を得ていたものの一方で操縦面に関してはやや”気難しい”部分があったとも言います。
さて、目的地に到達することが出来なかった同機(LR-1・02号機)の姿はその時新冠町節婦市街の貯木場の敷地内にありました…但し事態は深刻で、時刻は午後0時13分、行程を半分残して同所へ墜落してしまった機体は無惨にも大破、この事故では住民を巻き込むことはなかったものの5名の乗員においては残念ながらただ一人も助かりませんでした。
順調に航行していたはずの機で何が起こったのか…それを語れる人がいない上に本件では事故機から緊急事態の連絡が一切なされていなかったため、原因調査はかなり難航したようですが、結局のところ序文で記した通り真相が公にされることはなく、その内容を知るすべはありません。
ただ素人が勝手に推察した上では「節婦沖の洋上を過ぎたあたりで急に陸地へ向け右旋回、折り返すような形で市街裏手にある標高約60mの小さな山(通称バット山)の頂きに一度接地した後、きりもみ状態でそのまま市街地まで落ちてきた」という目撃者の証言から察するところ、突発的なエンジントラブルに見舞われた結果「片発」での飛行を余儀なくされた可能性が高いように感じます。
また墜落までの経緯において一説では「トラブルを受けバット山への不時着を試みたものの失敗した」との考察もあったようですが、当時の航空写真を見る限り海岸線から一段高い「平場」にはもっと容易に着陸出来そうな牧場が広がっていることからしても、むしろ制御不能状態での落下途中に山があったと見る方が自然なのかも知れません。
とは言え、同機を含め一般のプロペラ双発機においては万一片方のエンジンが停止する事態に陥っても対処を誤らなければ継続飛行が可能なように設計されており、操縦者側も訓練を通じてそのことを理解していたはずです…だがしかし聞けばそれは一定の高度と速度が確保されている場合に限定される話であり、今回のケースでは「(現場より約50km手前に当たる)浦河沖を低空飛行する同機を見た」という別の目撃談と、前述「機から連絡・報告が出来ない」ほど時間的に猶予がなかったのであろう状況を結びつけると、低空を航行中にまさかのエンジントラブルが発生しその時点で高度が足りていなかったため、態勢の立て直しをする間もなく墜落に至ってしまったのではないでしょうか。
尚、本件の状況とよく似た経緯と結末を呼んだ陸上自衛隊北宇都宮駐屯地近くへの墜落事例(昭和56年8月・栃木県)を含めて、同型機が起こした重大事故は陸自関係で合わせて4件、空自でも4件あった他、主な輸出先であるアメリカにおいても1970年代中盤からの9年間で計32機が墜落している状況を受け米国連邦航空局が原因調査に乗り出したという記録が残っています。
高速巡行や航続力など高性能なスペックが人気のMU-2型機だったものの、ひとたびトラブルに見舞われた際には回復までの操作にかなり”手間取った”という話もあり、その点が先に記した”気難しさ”に繋がっているようですが、それでも後年アクシデントが目に見えて減ったのはやはり、このような不具合報告や時に悲劇の発生を受けてエンジンや機体の改善・改良の適宜実施、あるいは操縦側の心得・対処法がこれまで以上に明確化されたからなのでしょう。
技術力向上・確立へ向けての過渡期ゆえに頻発したとも言える数々の悲しい事故…完成形に至るまでここまで多くの犠牲を必要とした現実へ対しては理想論とかけ離れた非情なものを感じずにはいられませんが、せめてこれらが単なる過去にあった出来事としてだけではなく、現代の最新技術と設計思想にきっと何らかが活かされているはずと信じたいところです。

