北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【和寒町/旭川市】塩狩峠客車暴走事故慰霊碑

和寒町旭川市】「長野政雄氏殉職の地」碑/「長野政雄之碑」

事故発生年月日:明治42年 2月28日

建立年月日:  昭和44年 9月/不明

建立場所:   上川郡和寒町塩狩旭川市字近文6線1号

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(2018/7/30投稿)

  上川管内旭川市の北側に隣接する比布町(ぴっぷ)と和寒町(わっさむ)との境に跨る「塩狩峠」(しおかり)、標高263mとそれほど高くない位置に通じ、また取り立てて急な坂道やつづら折りのカーブが続く難所という訳でもない言わば極めて”地味”な峠ですが、その名からかつてこの地が「天国」と「石国」とを隔てる”国境の関門”だった名残をかろうじて留めています。

 しかし一見何ら”変哲のない”この峠の存在が全国的に広く知られるようになったのはやはり、旭川出身の作家三浦綾子氏が昭和40年代に発表した同名タイトルの小説の”おかげ”であると言えるでしょう。

 上梓されてから半世紀が経った現在でも「人生を変えた一冊」のひとつとして常に並べられるこの作品ですが、とりわけ読者の多くが心動かされたに違いない最終章でのよもやの列車事故のくだりが、実は過去にここで実際起こった悲劇に基づいている事をあとがきで知り、さらなる衝撃を受けたのはきっと私だけではないと思います。

 明治末期の真冬にあったその出来事「塩狩峠の客車暴走事故」について今では既に様々な書籍やネット上で紹介、映画化もされるなど、今更ここで取り上げるまでもない有名なエピソードとなっているものの、私なりに感じた事も踏まえて史実をあらためて振り返ってみたいと思います。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 時は明治42年(1909年)の冬、北海道のほぼ中央部に位置する上川盆地内の旭川町(現・旭川市)は記録的な酷寒の中にありました。

 もっとも、周囲を山々に囲まれるこの地域が「放射冷却現象」の効果によって著しく冷え込む真冬の光景はもはや毎年見られる”風物詩”のようなものであり、7年前(明治35年1月25日)には「氷点下41.0℃」という気象台による公式観測値としての国内最低気温を記録しているほどですが、ただこの年は「日間において観測史上もっとも低い」最高気温(-22.5℃/1月12日)や平均気温(-32.8℃/1月13日)を測定するなど、シーズンを通してまさに”記録破り”の寒波に見舞われたのです。

 これら尋常ではない寒さを示す各数値がまさか100年以上を経た現代、そして今後も当面破られそうにない「日本記録(※)になろうとは、もちろん当時誰にも想像出来なかった事でしょう。(※富士山頂観測値を除く)

 こうして見ると”人が住むにはかくも不適な最果ての地”という印象すら覚えますが、しかし実際にはその頃の当地の人口は約4万人と年々増加し続けており、新しい「北都」としての発展の歩みを着実に進めていました。

 その背景には、明治34年(1901年)に札幌より移設・配置された陸軍第七師団の存在が大きく影響したと言えます。

 広い北海道全体を視野に入れて「北辺警備」を徹底する必要性に鑑み”中心地”へ師団を置く構想が具体化したのは明治30年頃、その準備として札幌から旭川まで至る鉄道(上川線)が急ピッチに整備されました。

 その後も、北へ東へと益々延伸されていく事になる鉄路や道路の起点となった旭川は「軍都」、そして「交通の要衝」としてもっとも重要なエリアのひとつという位置付けになっていたのでした。

 また、こと鉄路に関すれば、この明治40年前後は「私鉄全線の国有化」という北海道の鉄道にとって歴史の転機が訪れた時代で、その影響は大規模な官設鉄道工場を持つここにも否応なく波及する事になりました。

 この措置により国が管理すべき道内路線の総延長が一挙に3倍増となったばかりか、時を同じくして旭川起点の最重要幹線である「官設十勝・釧路線」が10年越しの工事の末いよいよ全線開通するなど新設中の路線の完成・開業が順次控えている状況も重なり、不足する車両の製作・改造や配備、あるいは運行・維持管理の担当職員を補充・配置する必要に迫られた工場や運輸・保線各事務所が混乱・多忙を極めたと言います。

 かくて、あたかも時勢に引き摺られるかの如く慌ただしく発展を遂げる旭川でしたが、このような時代背景の中、北進延線途中の「天塩線」で発生した列車事故のニュースが突然飛び込んできたのです。

 明治42年2月28日、旭川界隈は最低気温氷点下10℃程度と”極寒の地”にしては珍しく”温暖”な日曜日を迎えていました。

 その日は降雪もなく、年明けからずっと続く”凍れる”毎日に引き籠りがちの庶民らが買い出しなどの用を足すには絶好の日和だったと想像されますが、しかしそんな過ごし良いひとときも日暮れとともに終わり、また辺りが明日からの”揺り戻し”を占うかのような冷気に包まれた午後6時頃、旭川市街から北方へ20数km離れた塩狩峠では夕闇の中の上り勾配をゆっくりと向かってくる列車の姿が見られました。

 これは官設鉄道天塩線を行く午後4時名寄発の旅客列車で、上り最終にあたるこの便は目的地旭川を目指して、目の前に待つ本区間最大の難関を突破すべく”全力を尽くし挑んでいた”のです。

 そう言うと少々大げさに聞こえるかも知れませんが、今でこそ「普通の峠」でも、明治時代の蒸気機関車の”力量”からすると貨車・客車を引きながら当地の「最大勾配」(1/40)を越えるのは決して容易な事ではなく、その際には必要に応じ峠手前の「和寒駅」にて最後尾へ増結された補助機関車との連携によるいわゆる「プッシュプル運転」で難所を乗り切っていたと聞きます。

 但し、客車4両のみという比較的短い編成だったこの便に補機は手当てされていませんでした…それは「単機牽引でも峠越えは出来るはず」という見立てからの措置であり、もちろんその点での判断に誤りはなかったでしょう、しかし平時通り「後押し」さえもしあったならばおそらくまるで大事には至らなかっただろうこの時不意に発生したアクシデントが、図らずも後々まで歴史に残る結末をもたらす事になるのです。

 列車は今にも止まってしまいそうな速度ながらも”独力”でやっと峠頂上へたどり着きつつありました、ところがその時…あろう事か最後尾の車両を繋ぐ連結が何かの拍子に突然外れ、とんでもない場所に一両”置き去られた”客車は重力に任せるまま今来た坂道をゆっくりと引き返し始めます。

 車両に乗り合わせていた22名(諸説あり)の乗客は皆、「一体何事が起こったのか」きっとすぐには理解出来なかったに違いありません、ただ暗闇の中で窓越しの景色は見えずとも徐々に加速度を増して逆走している現実を認識した車内が大混乱に陥るまでにそれほど時間はかからなかったであろう事は容易に想像出来ます。

 それにしても、何故列車が分離するような事態になったのでしょうか。

 当時の複数の新聞紙上では原因に関して「機関車と客車を連結せる”連鎖”が外れた」などと一様に報じられています…実際は「客車同士」が正しいものと思われますがそれはさておき、全国の鉄道において当時主流だったイギリス式の「鎖とネジを用いた連結器」は牽引の強度的に限度があり、長大編成列車が長距離間にて運行されるケースの多い北海道では不向きとされたため、本来道内を走る機関車や客車には私鉄・官鉄ともにすべてアメリカ製の「自動連結器」が当初期から採用されていました。

 つまりは「連鎖」など元々使用されていなかったはずなのですが、ただそもそも道内では馴染みが薄く自動連結器と混同しようのない「鎖」の存在をわざわざ記事にしているところを見ると、あながちそれが虚偽や誤記とも言い切れません。

 思えば、先に記したようにこの頃は鉄道が新時代を迎える過渡期にあたり、不足する車両を補うため新車製造の他、買収された道内私鉄や”内地”からも”中古車”がかき集められ、結果保有台数が一時的に急増しています。

 また、「本州から来た他方式のものや、同じ自動連結でも取付位置が違う私鉄車両など、これら各々互換性のない連結器を改造・付け替えするのに苦心した」といった当時の鉄道工場事情を文献で目にした事もあるので、もしかすると新聞にある通り、改造作業が間に合わなかった”古くて強度に難がある”鎖連結式車両の一部が”とりあえず”天塩線で運用されていたのかも知れません。

 一方で、比較的安全性が高いと言われたワンタッチ式自動連結器がたとえ装備されていたとしても、極端な寒冷地において「可動すべき部分がきちんと噛合い正しく機能を果たしていたのか」、あるいは連結器がいくら”立派”でも「車両本体への固定状態はどうだったのか」など原因となり得る不安要素は他にもあるでしょう。

 例えば、国有化直前の明治38年度(1905年)において全国(官私鉄合計40社)にて発生した鉄道事故の中で「列車分離」に起因するものは合わせて64件あり、その内実に約半数の31件は道内3社の路線でそれぞれ”万遍なく”起こったとされる統計資料があります。

 もちろん単年度の結果で判断するのは早計であり、すべての分離事故が自動連結に係わるものとは限りませんが、ただ間違いなく言えるのは、この”高性能”連結器が即ち安全を約束するものではないという事であり、まして勾配やカーブが続き車体や部品に過大な負荷がかかる峠地点では殊更に危険度が高まるため、連結の種類に拘らずとりわけの注意を払う必要があったのです。

 さて、峠頂上付近から制御不能状態で急坂を逆走しもはや絶望的にも思われた「4号車」では、人々が恐怖に慄き身動き一つ出来ない中でひとりの「男性客」が”獅子奮迅”の働きを見せていました。

 名を「長野政雄」というその青年、実は列車運行側の立場にある「鉄道院北海道鉄道管理局旭川運輸事務所」の職員でしたが当日は公務ではなく、私用で名寄へ赴いた帰路において乗客としてたまたまこの車両に乗り合わせていたのでした。

 温厚ながらも勤勉実直な性格から「庶務主任」としての職場での人望はすこぶる厚く、また毎週教会へ通っては人々への教えを熱心に説く程の敬虔なクリスチャンであった彼は、ある意味”自らの勤め先が招いた”この深刻な状況を何とか鎮めるべく、慟哭する乗客をなだめ、そしてあまりの事になすすべもない同乗の車掌への指示を冷静沈着に出していたそうです。

 その後、暴走する客車を止められるかもしれない唯一の手段である「手動ブレーキによる制動」を自ら試みるため、彼は装置のある屋外デッキへと向かいます…それが乗客らが見た氏の最後の姿になりました。

 車両はその時、3.5km程続いた峠の坂道を猛スピードで一気に下りきり緩斜面に差し掛かっていました、もしや最悪の状況は脱したかにも見えましたが、しかし無情にもそこから1kmあまり先に実はこの区間でもっとも急な下り勾配(1/33)と連続カーブが待ち受けていたのです。

 当地点においては9年前の明治33年3月4日、和寒から旭川へ向かう客貨混合第16列車がやはり連結不具合による分離事故を起こし客車・貨車合わせて5両が逆走、制動手が懸命のブレーキ操作を施したにも拘らず列車は止まらず、結局2km先にあった和寒駅構内に停留中の貨車へ激突し乗員・乗客から2名の負傷者を出しています、つまり今の速度でこのエリアへ突入すれば、その後の減速が困難なだけにカーブ途中における脱線・転覆は免れなかったかも知れません。

 状況はこのようにまさしく”土壇場”と言える局面を迎えていましたが、しかしここに至り長野主任の決死の行動が奏功してか、客車は少しずつながらも確実に減速し始めていました、分離車両が1両のみでさらに乗客が少なく車重を抑えられた事も幸いしたのでしょう、そして人々が一度失った望みをまた取り戻しかけていたその瞬間…車内ではこれまでの挙動とは明らかに違う不思議な衝撃を感じたと言います。

 それが果たして何だったのかその時は誰にも知る由がなかったものの、かくして「暴走車両」はそれからしばらくの後ついに動きを止めました、然してその位置はまさに「魔の下りカーブ」の直前だったのです。

 乗客に幸い負傷者はなく、さぞや皆が感極まって互いの無事を喜び合ったであろう様子が目に浮かびます、だがその光景の中にこの”奇跡の生還劇を生んだ立役者”の姿を見つける事は出来ませんでした。

 彼は一体何処に…実はその時氏はもうこの世の人ではありませんでした、人々の歓喜の声に包まれる客車から数百メートル手前側の線路上にぽつんとあったひとつの亡骸、それこそがこの事故で唯一の犠牲者となった長野主任の変わり果てた姿だったのです。

 長野氏はブレーキ操作中に装置があった客車前面部のデッキから誤って線路へ転落、あるいは一説には自ら飛び降り、結果的に身を挺して客車を止めたと言われています…乗客が停車直前に受けた衝撃感、それは彼が”身体を張って”車輪を食い止めた時のものでした。

 いきさつを知った人々は再び涙に暮れる事になりました、ただし今度は”御身を捧げて”皆の生命を救った弱冠29歳の青年へ向けた哀悼の涙に…。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 まるで”映画を見ているかのような”出来事が、当時の新聞記事や各資料で確認する限り、小説に描かれた世界とさほど違わない形で実際に起こっていたのです。

 作品が世に出るまでほとんどの人が知る事のなかったこの哀しくも心震わせるエピソード、長野氏が所属していた教会関係者の中ではこれまでも定期的に追悼集会が行われていたそうですが、やはり「宗教」という要素が阻害したのか、自治体や省営・国有鉄道関係者の表立った協力を得ることが出来なかったのも史実が日の目を見なかった要因のひとつなのでしょう。

 ところで、彼が命を落とした件が果たして小説にあるような「覚悟の上の自己犠牲」によるものか、あるいは「不慮の事故」という側面が強いのか、後年において論じられた事がありました。

 それについては今更”白黒”つけるべきテーマではないと思いつつも、敢えて客観的に状況判断するに個人的には後者の可能性が高いと感じています。

 当時道内で運用されていた客車の構造を見ると、車体の前後面にある屋外解放型デッキ(出入口)からさらに外側へ”張り出す”形で手動制動ハンドル(ハンドブレーキ)がそれぞれ設備されており、そしてこの自動車用ハンドルを小型化したような鉄製の部品を手回しするには、高さ1メートルに満たない防護柵から”身を乗り出し”操作する必要がありました。

 また、事故があったのは酷寒の真冬ですから、順行していれば最後尾にあたる部分に露出している制動装置やデッキの床が外気温や巻き込んだ雪煙によって著しく凍り付き、足元の状態が悪い環境下での操作には相当難儀したであろう状況は想像に難くありません。

 つまり、よほど”腕っぷし”が強くない限り、ましてや不慣れな人が手回しするには、おそらく”ありったけ”の力をハンドルに委ねるという極めて危うい体勢での作業を、しかも猛スピードで車体が激しく揺れる中で臨むしかなかったと思われます。

 さらに言えば、本来緊急時における制動役を業務規則で義務付けられている車掌がその時何もせずというのはいかにも不自然ですので、もしや長野主任からの的確な指示により前後の各ハンドブレーキの操作を二人で分担したのではと推察すると、まったく憶測に過ぎない仮説ながら「長野氏が前述のような非常に不安定な体勢にあったところへ、車掌のハンドル操作によって予測不能な制動力が働き、足をすくわれる形で誤って転落した」というイメージが浮かんでくるのです。

 ただいずれであったにしても、彼の勇気ある行動へ対する感銘・敬服の程がそれによって左右される事など少しもありません。

 そんな長野政雄氏を祀る碑が旭川に古くからある墓地内に建っています。

 墓誌を増設し台座を改修するなど、今では教会関係者らの手で綺麗に周辺整備されたその碑が元々いつ建立されたものなのか分かりませんが、ずいぶんと古めかしく”質素”な印象の碑の側面にはやっと判読出来る文字で彼の実妹の名が建之者のひとりとして刻まれていました。

 小説の中で人懐っこく快活な実に愛らしい女性として描かれている彼女、作中では東京在住の設定でしたが実際は当時旭川で長野氏と同居していたそうです。

 貨車に乗せられて事故当日の深夜遅くに独りで自宅へ戻った無言の兄を迎えた彼女の気持ちはいかばかりのものだったでしょうか…。

 そして先日、長野氏にまつわるもう一つのモニュメントである「殉職の地」碑をたずねて塩狩まで足を延ばしてきました。

 列車の連結が外れた地点にほど近い線路脇に建つ碑の前をちょうど、1両編成の旭川行き快速列車が今も変わらずゆっくりと峠へ向けて通り過ぎていく光景が見られたその日は快晴、まるで小説の結びの一文そのもので「塩狩峠は、雲ひとつない明るいまひる」でした。

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「長野政雄氏殉職の地」碑

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「長野政雄之碑」