北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【苫前町】三毛別羆事件犠牲者慰霊碑

苫前町】「熊害慰霊碑」

事件発生年月日:大正 4年12月 9日~10日

建立年月日:  昭和52年 7月 5日

建立場所:   苫前郡苫前町三渓

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(2014/7/2投稿)

 今回紹介するエピソードは、大正初期に発生した苫前村(現・留萌管内苫前郡苫前町)で10名もの住民が殺傷された悲惨な事件ですが、その凶行に及んだのは人間ではありません。

 それは国内最大の陸上動物エゾヒグマが真冬の北の大地で引き起こした他に類を見ない最悪の獣害事件でした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 大正の時分、苫前村の市街地から30kmほど内陸奥地に入った三毛別六線沢(さんけべつ ろくせんさわ)には、近くを流れる三毛別川に沿って15~16戸が点在する縦長の集落がありました。

 付近一帯は開拓促進のため賃下げされた御料地(皇室直轄地)であり、東北地方などから来た”将来に夢見る人々”が入植して農業を営んでおりました。

 おそらくは入植前に想い描いたであろう”豊かな生活”とは程遠い現実ながらも、開拓農民が平穏な毎日を過ごしていたおよそ大事件とは無縁のこの集落を、大正4年(1915年)の冬、突如としてとんでもない悲劇が襲ったのです。

 12月9日の午前10時30分頃、集落上流側の一軒で最初の惨事は起こりました。

 朝から仕事で出払っていた家主が昼食をとるため帰宅した際、留守番をしていた男児が何者かに惨殺されているのを発見、更には一緒にいたはずの内縁の妻が行方不明になっていたのです。

 殺害現場の状況や屋外の雪上には山林まで続く引き擦り跡があった事から、犯行は人間の手によるものではなくヒグマの仕業であり、妻は”獲物”として連れ去られたものと推察されました。

 実はこの事件より10日ほど前には、集落内の別の民家の近くに巨大なヒグマが再三現れ、銃で反撃するも取り逃がすという出来事が起こっています。

 この時期のエゾヒグマは通常”穴ごもり”に入りますが、たまに冬眠し損ねる個体もおり、そんな通称”穴持たず”の熊は空腹のあまり、普段は襲わない人間にさえ手を出すほど凶暴であると当時は恐れられておりました。

 翌12月10日朝の集落では、ふもとの村役場や駐在所に事を知らせるために選ばれた住民代表が徒歩で出発、一方で行方不明女性の安否確認のため約30名の捜索隊が結成され、残された手がかりを基に山林に入りますが、いきなり件のヒグマに遭遇、銃で応戦したものの整備不良による不発などの不手際もあり、またも逃げられてしまいます。

 その後、近辺の捜索によって既に変わり果てた姿になった女性を発見、一行はその亡骸を回収してひとまず集落に戻ることにしました。

 しかし、結果的にはこの行為が第2の惨劇を誘発する事になってしまいます。

 その夜、最初の事件が起きた家では亡くなった2名の通夜がしめやかに行われていましたが、その最中になんと再び同じヒグマの襲撃に遭っています。

 ヒグマには自分の所有物に異常なまでに執着を持つ習性があり、この場合は”一度得た獲物”である女性を奪回すべく本能のままにとった行動だと言えます。

 余談ですが、この習性については後年昭和45年に起こったいわゆる『福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件』でも裏付けられる事になり、所持品のリュックサックの奪還を巡って執拗にヒグマに追われた大学生3名が犠牲となっています。

 さて、いきなりの襲撃にパニック状態になった通夜会場でしたが、万一のために銃を携行していた参列者の反撃により、幸いにもケガ人を出さずこの場から追い払った事に一同はひとまず安堵します…がしかし、実は熊は逃げ帰ったのではなく、その足で約500m下流側にある別の一軒を襲い、今度はその住民を”牙にかけた”のです。

 その民家には、連絡のためふもとへ赴いた前出住民の妻子3名も含め、女性・子供を中心に10名が避難していました。

 当然ながら集落の男たちがここの警護にも当たるはずでしたが、先の通夜での騒動により全員が上流側の現場に駆け付けたため、まるで無防備となった中での不意の出来事でした。

 熊除けのかがり火にも臆する事なく家に突入した熊は情け容赦なく中に居た住民に襲いかかり、暗闇の室内は一瞬にして阿鼻叫喚の修羅場と化します。

 今度は下流側での尋常ではない様子を察した男たちは慌てて戻ったものの、時既に遅く、幼児3名・女性1名(及び胎児1名)が死亡、他3名重傷という想像を絶する惨禍を目の当たりにする事になりました。

 そして、ふもとでの通報を終え翌日(12月11日)帰途についていた連絡係の住民は、安全な場所に避難させたはずの妻子全員に関わるまさかの悲報を帰還直前で知るところとなり、その場に泣き崩れたと言います。

 もはや完全に人間を”獲物”として認識し、火をも恐れない巨大ヒグマに対して、集落にある貧弱な武器では到底太刀打ち出来ないと悟った住民は、役場経由で隣村羽幌の警察署(増毛警察署羽幌分署)に応援を要請、さっそく苫前・羽幌両村の有志が集結して大がかりな討伐隊が組織されました。

 こうして早期解決を期して12月12日から本格的に開始された討伐作戦でしたが、ヒグマをおびき寄せるために打ち出された諸策はことごとく空振りに終わり、討伐隊本部は状況打開に頭を悩まされる事になります。

 翌13日には苫前から遠く離れた旭川の陸軍第7師団に異例の出動要請をしているところからも、その焦燥感が感じ取れます。

 その頃、討伐隊の目の届かぬ場所では、そんな彼らをあざ笑うかのように件のヒグマが住民退避後の無人民家を次々に荒らし、飼育されていた鶏を食い殺すなどやりたい放題に暴れ回っていました。

 しかし、悪運も尽きたのか”傍若無人な振る舞いの度を越えた人喰熊”はその晩の移動中、ついに討伐隊に発見され一斉射撃を受けます。

 闇夜の中の銃撃ゆえ命中精度が高くなかった事もあり、致命傷を負わせるまでには至らなかったものの、雪上に残る血痕は確かな手応えを裏付けていました。

 そして世が明けた12月14日早朝、いよいよ最終決戦に臨むべく10名の選抜討伐隊は残された痕跡をたどり山林へ向かいます。

 果たして手負いの熊は山林の中腹で傷の養生をしていましたが、風上である山麓方向から接近する討伐隊の存在には既に気が付いている様子でした。

 然して臨戦態勢に入ろうとしたその時、立て続けに2発の銃声が響き、あれほどしぶとかった巨熊は心臓と頭部を貫かれあっけなく絶命します。

 それは途中から討伐隊に加わった”誰よりもヒグマの習性を知り尽くした熊撃ちの名人”が風下方向への単身迂回の末、背後の至近距離から放った”会心の一撃”でした。

 ようやく仕留められたエゾヒグマの個体は体長約2.7m・体重約340kgのオス(推定年齢7~8歳)で、目近に見るその規格外の大きさに一同はあらためて戦慄を覚えたそうです。

 こうして、合わせて死亡7名・重傷3名の被害者を出し、12月12日からの3日間で延べ600人の討伐隊を動員したこの最大の獣害事件は、ただひとりの男の2発の銃弾によってその幕引きを見たのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 一頭のヒグマによって未曽有の災難に見舞われたこの集落のその後は平和と安寧を取り戻した…という訳にはいかず、大切な家族や生活の目標を失った人々は深い悲しみを背負い、相次いでこの地を捨て他所へ去っていきました。

 それから長く経たず、開拓当初の六線沢集落は三毛別川最下流側のただ1戸を残し無人地区になったそうです。

 また、事件終結最大の功労者である”孤高の熊撃ち名人”は、その後も”マタギ”(猟師)として第一線での活躍を続け、昭和25年に92歳で亡くなるまでの生涯において仕留めた熊は300頭を下らなかったという伝説を残しています。

 そして、この惨劇の生き証人となった当時7歳の少年は、後に犠牲者の仇討ちと追悼のため”羆撃ち”になる事を決意、実質猟師となった昭和5年から足かけ48年の歳月を費やし宣誓通りに100頭のヒグマを”退治”しています。

 この目標が達成された昭和52年には、自らが施主となり”犠牲者との約束を果たすため”三毛別(現・三渓)の神社境内に慰霊碑を建立しました。

 事件発生から実に62年後、当時の少年は68歳になっていました。

 それから8年後の昭和60年、彼は事件70周年の記念式典での講演中に突然倒れ、波乱に満ちた77年の生涯を終えています。

 この獣害事件によって大きく運命を変えられた少年は、その人生の最後の瞬間まで事件と縁を切る事が出来なかったのです。

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碑面(表)

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碑面(裏)