北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【複合管内】教職者水難殉職碑

【複合管内】教職者水難殉職碑

 私がかつて「学校生活」というものを”謳歌”していた時代はとうにはるか彼方へ過ぎ去ってしまいましたが、そのあやふやな記憶を呼び起こすと友人たちとの楽しかった想い出が圧倒的に多く占める中で、学識のみならず社会常識をも授けて頂いた幾人かの印象的な先生の事も回顧されます。

 中でも、物事の分別がつかない小学低学年の時分に学校で悪ふざけをした挙句、うっかり友人を怪我させてしまった私へ向け、まるで鬼のような形相で叱りつけた担任は今も顔を思い出せる数少ない教師のひとりです。

 その時は多分、そこまで強く叱責される理不尽さに不満を覚える自分がいたのかも知れません、しかし今から思えば多くの児童を親元から預かる立場である担任教諭としてはクラス内の秩序や安全を保つため、もし自らの思うままに振る舞う者がいれば、その行動の程度に応じて厳しく律するのは至極当然の対応だろうと納得出来ます。

 本分である学業の指導ばかりか予期せぬ動向にまで目を配らなければならない大変な職務を担う教職者へは今更ながら頭が下がります、だがいくら注意を払っていてもこれら想定外の出来事の発生自体を防ぐ万全策はなく、時には不本意なトラブルに見舞われた例もおそらくあった事でしょう。

 実際に過去へ遡って広く事例を調べてみれば、表面化されない些細な問題ばかりでなく、収拾が困難な大ごとや、最悪には「人命に関わる程深刻な事態」が公務中において現実に起こっていた事が分かります。

 関連史実についてネット上などで更に深堀りすると、戦争や交通事故、あるいは自然災害など不可抗力な状況下での悲劇もある一方で、割と身近なケースとして「野外授業中における水難事故」によって教師が命を落としてしまう案件が思いのほか多く発生している事実に驚かされました。

 その中でももっとも知名度の高い出来事としては、今から100年前の大正11年(1922年)に宮城県であった「小野さつき訓導殉職事例」が挙げられるでしょうか。

 川辺での写生授業中、誤って川へ転落した教え子を”自らの命と引き換え”に救ったという小学校教諭の美挙へ対しては教育界のみならず、当時文芸界や芸能界、はたまた政界までをも巻き込む程の大きな反響を呼んだと言います。

 図らずも「教職者のあるべき姿」のイメージを内外へ強く印象付けるきっかけになったとも聞くこの出来事ですが、ただしそのような”他人からの目線”に左右されることなく、似たような局面でやはり彼女と変わらない行動をとり、そして同じ運命を辿った先生が少なからずいた事も忘れてはいけません。

 「自分なら果たして出来得るのか」とおそらく多くの人が自問するだろうこのテーマ…教師たる以前にまず「人として」敬いたいそれらの方々が遺したエピソードの中で、ここでは「北海道教育史」に記載されている道内事例について触れてみたいと思います。


幌加内町】故歳桃訓導殉職彰碑/【今金町】本間訓導之碑

事故発生年月日:昭和13年 8月26日/昭和7年 7月22日

建立年月日:  昭和16年 8月26日/昭和8年 7月22日

建立場所:   雨竜郡幌加内町字添牛内/瀬棚郡今金町今金

 北海道における最大(最深)積雪量の公式記録は「324cm」、割と最近の平成30年(2018年)2月25日に上川管内幌加内町で観測されました。

 もっとも、全国ベースで見るとこの数値は新潟や青森など有数な豪雪地方のそれには遠く及びません、しかしやや誇張気味に表現すれば12月~2月の最高気温が氷点下を上回る事のないような”極寒の地”に「粉雪」が深々と降り積もった末でのこのレベルですから、これはこれで驚嘆に値するものだと思います。

 「酷寒にして豪雪」という住民にとっては苛酷過ぎる冬の環境に当地がほぼ毎年のように置かれる大きな要因は、内陸の深い山間部にありながら日本海側からの雪雲の影響をも受けやすい独特な地理的事情にあると言えるでしょう。

 ただ一方、この”特異”な地域では山々に囲まれたその地形ゆえに、夏場においてもフェーン現象などの条件が整った時には極端な暑気が留まり続けるといった”不具合”がしばしばあったそうです。

 言われてみれば、国内における歴代最高気温が記録された場所として、決して南国には当たらない地方にある内陸の盆地が軒並み多い事にもなるほど頷けます。

 今回紹介するのは、そんな寒暖差の著しい幌加内がかつて記録的な猛暑に見舞われた年、その暑い夏がもたらした悲しい逸話についてです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 時は戦時体制下の昭和13年(1938年)、前年に勃発した中国大陸における日中両軍の紛争が本格的な全面戦争へと発展、戦略地域の拡大に伴いもはや長期化が不可避な様相を呈していました。

 しかし、広大な大陸で戦局を維持・展開するには兵力が足りない日本軍としては増強を図るべく本土からも師団を多く派遣、その中には本来「北鎮部隊」として北方防衛の任を担うも日露戦争やシベリア出兵の際に動員された実績がある「陸軍第七師団」(旭川)も含まれていたのでした。

 かくて、一旦戻る事を許された生まれ故郷から各々出征する軍人を”地元総出”で見送った庶民たち、だが「国家総動員法」が公布された状況で北海道の”防衛の要”たる師団までもが外地へ”駆り出される”現実に際し、表向きとは裏腹に内心では今後へ向けた不安を覚える人もいたのかも知れません。

 ただ、その年平穏でなかったのは世の中の動向だけではありませんでした。

 昭和13年の北海道地方は広域にわたり例年より暖かい夏を迎え、多くの農民たちが豊作の期待に胸をはずませていたと聞きます…実際当年の北海道内におけるコメ等の作況は過去にないレベルの好成績を残したようですが、しかし他方で日照り続きによる極端な「雨不足」は一部の地域、とりわけ内陸部の村落などを中心に深刻な影響を及ぼしていたのです。

 幌加内村の中部に位置する添牛内(そえうしない)集落もそんな場所のひとつでした、今でこそ蕎麦(ソバ)の生産で有名なこの地も当時は専ら林業澱粉馬鈴薯栽培で生業を立てており、7月下旬から毎日続く酷暑とまったく雨が降らない「干ばつ」状態は農作物へは当然ながら、”寒さならともかく”暑さへの耐性が比して低かった住民までをもすっかり”弱らせていた”だろう事は容易に想像出来ます。

 ちなみに、当地における記録がないため南東側に隣接する「旭川市」のデータを参考にすると、昭和13年8月の月間合計降水量は「3.8mm」とあり、実にこの数値は観測開始(明治21年1888年)から現在に至るまでの史上最低値である事実に鑑みても、この時界隈がいかにただならぬ雨不足に見舞われていたかを推し量る事が出来るでしょう。

 とうとう神頼みの”雨乞い儀式”がそこかしこで行われるほど地元民にとって”厳しい試練”が続く8月26日、やはり当日も朝から茹だるような暑気に包まれた鉄道(幌加内線)の添牛内駅頭には、大陸へと旅立つ地元出身の兵士を見送るために多くの住民が集結、そしてその中には日の丸の小旗を手にする「添牛内尋常高等小学校」の児童の姿も見られました。

 前年に制定された要綱に基づく「挙国一致精神」の徹底推進により定着したと聞くこの”地域ぐるみの行事”には家族や村の関係者のみならず、地元の学校へ通う学童までもが参加を義務付けられ、子供なりの戦意昂揚と報国へ対する意識付けが図られたと言います。

 さて、一部の子供らにとってはきっと”所在無かった”に違いない”お堅いイベント”が終わったのは正午前、帰途についた高等課1年生の一行は校舎まで約1kmの道程の途中、道路沿いに流れる「雨竜川」の河原へ立ち寄っています。

 当時の新聞記事には「体操授業の水泳指導中」での出来事である旨記されておりますが、状況や時刻から察すれば、もしかすると朝から炎天下に晒されバテ気味の教え子の様子に忍びなく思った担任教諭の”計らい”による一時の”息抜き”の時間だったのかも知れません。

 実際その時の川の様子は渇水期に加え雨不足の影響で流水量が激減していたため川床の岩盤がところどころ露わになっているような状態だったそうです、そんな"せせらぎ”の中で水遊びに興じる児童たちの微笑ましい様が目に浮かびますが、しかしこの一見穏やかな川に潜んでいた恐ろしい”落とし穴”には子供は無論の事、彼らを引率していた「歳桃多吉訓導」もまったく気付いていなかったのです。

 歳桃先生は明治43年(1910年)生まれの当年とって29歳、「訓導」の肩書が示す通り札幌師範学校出身の本科正教員であり、昭和6年(1931年)の卒業と同時に添牛内尋常小学校へ赴任して以降ずっと同校で教鞭を執っていました。

 聞けば戦前当時でも”師範出”の教員が7年を超えて同一校、ましてや”僻地”に留まって勤続するのは珍しいケースだったようで、戦時体制や教員不足だった時代要素を差し引いても、いかに先生が学校側から必要とされていたかが分かり、そして彼自身もこの地への愛着を深めていたのでしょう。

 もちろん教え子からの信望も厚かったそんな歳桃氏の元へ血相を変えたひとりの女児が飛び込んできたのは突然の事、いわく「共に行動していた友人が川へ潜ったまま浮かんでこない」との通報を受け慌てて向かった先にあったのは「流れもなくひどく淀んでいる見るからに”禍々しい”一角」でした。

 俗に「淵」と呼ばれるポイント、流れの形状と高低差やまた地盤の状態等に応じ水流の力によって川床が局部的に深く掘り下げられるこの現象自体は別に稀有なものではなく全国の河川でも見られるものでしたが、雨竜川流域の中でもとりわけ蛇行が著しかった添牛内近辺においては長い年月を経て、とてつもない「深淵」が人知れず生まれていたのです。

 どれほど深いのか見当もつかない混濁した”奈落”を前にして、教え子の危機を救わんとすぐさま飛び込む決断をする歳桃先生の脳裏には、もしやあるひとりの人物の姿が浮かんでいたかも知れません…その人の名は「本間鐵雄」氏、彼もまた桧山管内利別村(現・今金町)の「今金尋常高等小学校」で教壇に立っていた訓導でした。

 6年ほど遡る昭和7年(1932年)7月22日、村内を流れる「利別川」(現・後志利別川)での水泳授業中において深みにはまり溺れた児童を救出しながらも自身は力尽きてしまった本間氏、実は彼と歳桃氏とは札幌師範学校時代本科での修業を共に終えた”同期生”だったのです。

 二人がどれほど親密な間柄だったのかは今となっては知る由もありませんが、赴任2年目にして志半ばで逝った学友の訃報に心痛めていたに違いない歳桃訓導はまさに同じ境遇に立たされた今、迷うことなく自らもその道を選んだのでした。

 報じられたところ深さ4mにも及ぶ淵の底に沈んでいた件の女児を見つけた先生は彼女を抱きかかえながら一旦は水面まで達したそうです、だが最初の難局を何とか乗り切ったかに見えた事態は、この後あまりにもやるせない結末を迎える事になってしまいます。

 というのも、前述の本間訓導や序文で記した小野訓導の事例では、現場に同行していた他の先生方の協力を得て子供を救い出す事が出来ましたが、一方今回のケースは帯同者がいない中で起こった事故、つまりせっかく助け上げた児童を安全な場所へ受け渡す術がなかったのです。

 様々な沈殿物や網の目のように巡る樹木の根など無数の障害物が遮る水の中を、子供とはいえ”ぐったり”した人間を負って引き上げる過程では当然相当の体力を消耗したはずです…然して通報を受けた集落の大人が現場へ駆け付けた時、もう二人の姿は川面にはありませんでした。

 かくして、生まれ故郷から遠く離れた幌加内の地で現場教育に尽力された歳桃訓導は多くの地元住民や教え子に深い悲哀を、そして学校での同僚だったという妻と幼子を遺して「不帰の客」となりました。

 この事故からちょうど3年後の昭和16年(1941年)8月、未だ悲しみ残る雨竜川河畔に氏を顕彰する石碑が建てられています。

 空知支庁から視察のため添牛内校へ訪れた際に、たまたまこの悲話のあらましを耳にした「教育課長」の”一声”により具現化されたという碑建立の流れには、”当時の国家理念”に則する教育が強力に推し進められていた時代を背景にした”時”の教育行政による”何かしらの意図”が透けて見えなくもありませんが、それでも2千名以上に及ぶ地元や教育関係者からの貴い厚情と寄付がなければ、顕彰碑がこのような形で日の目を見る事はなかったとも言えるでしょう。

 また、先生と運命を共にした女児のためにと添牛内校同窓生が中心となって完成を間に合わせた弔碑が、師と一緒に除幕式を迎えている事にも何やら一層感慨深いものを感じさせます。

 それから歳月は流れ、師弟の想い出の写真が職員室前の一角にずっと並べられていたという添牛内小学校(旧・添牛内尋常高等小学校)も、ただ一人の卒業生を送り出した平成12年(2000年)には88年の歴史に幕を下ろしました。

 かつての賑わいを思うとめっきり寂しく見える現在の添牛内の街並、”仲良く寄り添う”大小の碑が長年眼下に見つめてきた雨竜川の曲がりくねった流れにも、早ければ来年度(2023年度)には治水の手が加わるそうです。

故歳桃訓導殉職彰碑

碑文

本間訓導之碑

碑文

標茶町塘路小学校長遭難碑

事故発生年月日:昭和18年 7月31日

建立年月日:  昭和56年 7月31日

建立場所:   川上郡標茶町塘路

 昭和39年発刊の「北海道教育史」には、公務中の水難によって「殉職」された教職員として、上のエピソードで取り上げた「本間鐵雄訓導」(昭和7年・利別村)と「歳桃多吉訓導」(昭和13年幌加内村)両氏の芳名が掲載されていますが、それとは”別項”にて昭和18年(1943年)に道東の「標茶村」であった同様事例についてにも同書では少し触れています。

 学校近くの川で溺れた教え子を救う過程においてやはり教職者が犠牲になってしまったという先と同じ悲劇、但しこの出来事は公には「殉職事例」として記録されていません。

 事の背景や経緯・結末に大差ないこれら事案の取扱いが分かれている理由…それは単純に「”公務中”の事故であるか否か」の違いにありました、つまり「放課後」に発生した本件へ対しては「勤務時間外における”私務”」と見なされたのです。

 だが、その極めて”事務的”に施された処遇の差は、不幸な時代背景と相まって遺された人々につらく苦しい生活を強いる事になりました。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 釧路管内標茶町(しべちゃ)は、ラムサール条約や国立公園にも登録・指定されている「釧路湿原」の一角をその町域に収め、また古く明治20年前後にはいろいろな意味で名高い「釧路集治監」や道内では2例目となる「釧路鉄道」が設置・整備されるなど歴史的に見ても非常に興味深い場所と言えるでしょう。

 そしてその南端側、周りを「塘路湖」「シラルトロ沼」などの湖沼や大小の河川に囲まれる、まさに”湿原の中”といっても差し支えないエリアに本エピソードの舞台となる「塘路地区」(とうろ)はあります。

 釧路湿原目的の観光客が立ち寄るスポットのひとつに過ぎないイメージにある現在の様子からは想像がつきにくいですが、まだ釧路⇔標茶間の鉄路が通じていなかった明治~大正の時分には、人員や物資輸送のために専ら利用されていた釧路川での「水運」の中継地点、また近隣集落の入植者向け物資の調達場所にされるなど、かつてこの地は「物流の要衝」としての重要な役割を担っていました。

 その後時代は昭和となり当該区間の鉄道(釧網線)が開通してからは、急激に水運事業が廃れる一方で、順次新しく敷設された「殖民軌道」によって木材や木炭、あるいは牛乳などの生産物が内陸入植地から続々と運び込まれる集積地になっていきます。

 かくて、その手段が水路から鉄路へと変わりながらも塘路がまだ物流拠点の機能を果たしていたそんな昭和序盤の頃にあったのが今回の話です。

 昭和18年(1943年)、世は太平洋戦争の真っただ中にあり、長引く戦況は国内全土の庶民生活にもその負の影響を確実に及ぼしていました。

 それは、北海道の”東の果て”にあるこの地でも状況は同じで、戦時対策として5年前に定められた「物資配給制度」は年々その対象品目を拡大、この頃に至るともはや米穀等の食糧ですらわずかな”割り当て分”以外入手出来ない有様だったと聞きます。

 その風土ゆえに食用農作物の作付がもともと少なかった界隈がとりわけ困窮状態にあったのは言うまでもありませんが、同時期に急増した軍からの「充員召集」や遠隔地への「戦時徴用」によって”働き手”が次々と”召し上げられる”状況は地域に更なる”追い打ち”をかけていたのでした。

 このような時勢の中、塘路市街からやや上った高台で”地ならし”作業に精を出す一人の壮年男性の姿がありました、実のところ「塘路国民学校」校長の肩書をもつ「柴山藤造」氏がその人であり、彼は来年に控えた校舎の新築・移転を前にして、時間を見つけては新しい運動場用地の整備を独り黙々と続けていたのです。

 それなりにも地位の高い校長自らが汗だくで職人さながら”土工”に勤しむ光景は当時の目からしても少し不思議に映ったかもしれません、だが先に記した通り著しい人手不足の折、自身を含めてただ2名の教師で計100人近い児童を預かる学校を”切り回す”には、級を受け持つ「訓導」としての兼務は当然、必要とあらばその他あらゆる雑務まで引き受けなければなりませんでした。

 もっとも、「自分から率先して働く」事を善しとする立派な信条を持っていた氏にとってこれらの仕事はおそらく苦ではなかったのでしょう、しかし戦時下ならでは国民学校を統括する立場にある彼には本分以外の要務が”有り余るほど”課されていました。

 前述の務めの他、休校日には青年学校へ赴いての教示に始まり、青年会や婦人会、更には要職にあった「大政翼賛会支部の会合など、集落内はもちろん標茶村で開かれる重要行事には必ず参加していたという柴山氏、書物を読み解きながら翌日用いる担当学年分の授業資料をそれぞれ作成してようやく床に就くのはいつも夜半過ぎだったそうです。

 まさに”寝る間もなく”激務を実直に果たしていたそんな柴山校長でしたが、昭和18年(1943年)7月31日、氏にとって運命の分かれ目となるその出来事は予期せず起こりました。

 1学期の終業式を経ていよいよ夏休みが始まったその日の昼下がり、執務を済ませた後いつもの”日課”をこなすため高台へ赴いていた彼は、駆けつけた児童からの通報により6年生男児の一人が学校から1kmあまり離れた「釧路川」で行方不明となっている事実を知らされます。

 つい先ほど通信箋(通知票)を手渡したばかりの教え子の危急に際し、案内に導かれながら急行した現場は「二股(二俣)」と呼ばれる釧路川と「阿歴内川」の合流地点でした。

 今でも衛星写真などでその変わらない様を確認出来ますが、人手が加えられず太古からの姿をそのままに残す湿原内の釧路川は蛇行が著しく、ひときわ鋭角な屈曲部に支流が加わり見るも”異様”な流れの様相を見せるこの区域は以前から「遊泳禁止」とされ注意喚起が促されていたのです。

 何故少年がそこへ立ち入ってしまったのか、聞けば自宅で飼っていた「ウサギ」の餌を採るため母親と共に河畔の草地へ来ていたという彼…ちなみにこの時代には、耐寒性に優れたその毛皮が軍服の素材として重宝される”軍用兎”の飼育が国から奨励され、特に道東地区では地域ぐるみで盛んに取り組まれていたそうです。

 当地にしてはかなり暑かったというその日、自身が”ひもじい”思いをしながらも家畜の餌の確保に励んでいた彼は、しばらくの後休憩がてら河原へ降り、近くに居た友人と一緒に「川涼み」を始めます…が、彼らに悲劇が訪れるのは間もなくの事でした。

 児童たちが戯れていた場所は急曲線を描く川の内周側、つまり浅瀬が少し残り流れも緩い比較的安全な地点だったものの、但し以前のエピソードでも触れたようにこのような複雑な形状の河川においては流速や川床の状態が箇所によって極端に変化するため、人の考えが及ばないような危険がそこかしこに潜んでいました。

 夏休みを迎え、また友達の手前で気にゆるみがあったのかは分かりませんが、川遊びに夢中になる内に、そして彼は生死を分ける境界線をついに踏み越えてしまったのです。

 さて、必死の形相の柴山校長らが駆け付けた時、現場ではすでに先着していた幾人かの住民が捜索を開始するところでした、しかし混濁した川面を”恐る恐る”覗き込むだけで埒があかない状況に業を煮やした氏は自らが川へ入る決断をします。

 冷静に見れば、経過時間や流れの状況から考えてもこの場に少年が留まっている可能性は極めて低くもしや別の判断も出来たかと思います、あるいはそれを分かった上で何らかの痕跡か手掛かりを見出すためだったのか、とにかくこのまま何もせずじっとしている訳にはいかなかった先生の心情は痛いほど伝わります。

 だが、数日前の降雨により増水気味だった濁流は無慈悲にも至純な師弟愛ばかりかその生命までをも呑み込んでしまいました…体力には自信があり水泳も巧みだったはずの氏ですが、知人にだけ明かしていた「連日の激務がたたっての疲労困憊」状態が実は身体の自由を限りなく奪っていたのでしょう。

 塘路集落の人々は無論、標茶村や釧路管内の教育関係者に衝撃と悲しみをもたらした柴山藤造先生(享年40)の「殉職」、その「村葬」に際しては釧路支庁長を初めとして管内学校長が多数参列され故人を偲んだと聞きます…ただ”大元”である「文部省」(当時)の態度だけは極めて”冷淡”なものでした。

 書き出しに記したように「勤務時間外にあり、ましてや人命救助も叶わなかった」本事例へ対しては「何ら礼遇の余地なし」と言わんばかりに、「遺族恩給」の伴わない”単なる遭難死”として事後処理が進められ、付与されたのは当日付の退職辞令と6年余りの正教員勤務日数に見合うだけのわずかな退職金に過ぎなかったのです。

 規定に従えば必然の措置ではあるものの、このあまりにも”杓子定規”な処遇に地元関係者が”歯がゆい”思いをしたのは確かな話です、だがそのために誰よりも大変な境遇に置かれたのが他ならぬ遺された妻子だったのはもちろん言うまでもありません。

 これから女性独りの力で1歳の乳呑児を含む3人の幼子と身体の不自由な義父の面倒を見ながら生きていかなければならない将来を案ずるとまさに絶望以外の言葉が見つからないような時代、初めこそ退職金や関係者から頂戴した弔慰金などを”取り崩し”細々と暮らしていた家族でしたが、終戦直後のインフレ状況によりささやかな蓄財さえもが”紙屑同然”となってしまった現実を受け彼女が選んだ道は…亡き夫の信条だった「自らが”真っ黒”になって働く」事でした。

 一家が住む「鳥取町」(昭和24年に釧路市と合併)にあった製紙工場における屈強な男たちに並んで文字通り泥まみれになりながらの「丸太の皮むき作業」や、あるいは早朝から深夜にまで及ぶ「駅構内での立売り」とそれから約25年間にわたり”身を粉にして”働いた彼女、その間にはあの小さかった3人の子女たちも元気に成長し、それぞれが優良企業へ無事就職出来るまでになったと聞きます。

 これ以上ないほどの失意の中から立ち上がり、その後は少しも惑わず独りで子供たちを立派に育て上げた柴山夫人の生きざまには本当に深い感銘を受けるほかなく、他人事ながら頭が下がる思いです。

 北海道帝国大学日本大学といった名門大学へ進学しながらも大正末期から昭和初頭にかけて見舞われた大不況のあおりで夢破れて帰郷、代用教員として下積みの後最期は疲れきった身体で教え子を救わんと職に殉じた柴山先生と、戦中・戦後という激動なる時局の中で自分を捨ててまで働き続け家族を守り遂げた夫人、もし違う時代に生まれていたならもっと素晴らしい人生がきっと二人を待っていた事でしょう。

 そう思うと「人の世の無情」を恨みたくもなりますが、本記事の参考文献に綴られている文章によって「長女夫妻と二人の孫に囲まれて穏やかに過ごす」夫人の晩年の様子を見届けた時、何故か私自身が救われたような不思議な気持ちになるのです。

 

※参考文献「柴山先生をしのぶ」(柴山先生頌徳碑再建期成会・編)

遭難碑

遠景(右端に碑)