オホーツク管内「津別町」は北見市や美幌町の南側に位置する農林業また木工業が盛んな内陸の町です。
山林地の面積が域内の86%を占めるという当地で、林産事業が町の運営の原動力となって久しい訳ですが、そのルーツを辿るとまだ「達媚村」(たつこぶ)だった頃にマッチの軸木を作る工場が出来た明治時代後半まで遡ります。
その後、相次ぎ地元に誕生した木材加工業者が山に”有り余る”原料を利用して特色ある様々な林産品を生産、その中でも他に先駆けて開発に手がけた「合板材」などは一時期国内最多の出荷数を誇るほど町を代表する製品になりました。
かくて100年以上にわたり地域経済を支え続けてきたこれらの産業ではあるものの、人口減少による人材不足や需要の先細りといった現在そして今後業界が直面するだろう問題はたくさんあるようで、確かに過去にはあれほど多く操業していた事業所の数も今は一桁台にまで減少、かつての勢いは衰えたかのように感じます…ただ一方で「工業統計」(※)を見る限り、集約された精鋭企業によって産み出された「木材・木製品出荷額」は近年ではむしろ年々増加するなど堅調に推移しており、人口が4千人にも満たない自治体の数値が、本項目では全国でも3番目に多い北海道全体の実績内の10%以上を構成している実態にはまったく驚かされます。
(※公表されている令和2年までの統計データを参照)
まさに木々からの恩恵を受けながら共に歩んできたとも言えるそんな津別町ですが、しかし悲しいことにそれ故に起こってしまった事故もその長い歴史の中には幾度かありました。
全国ベースでは現代に至るも労働災害による死亡事例が比較的多く報告されている「林業」に携わる業務においては、以前から伐採時の樹木との接触や車両・機械の操作中での重大事故にとりわけの注意が喚起されています。
その間には作業手順のマニュアル化や各工程に特化された機材の開発等、職場環境の安全対策が様々に施されているにも拘らず、結果に未だ改善の余地がある現状を踏まえると、自然を相手にしている上はすべてが機械化でもされない限り完全に根絶させるのはやはり難しいのかも知れません。
しかも、町内に遺されている慰霊碑が伝える往時にあった出来事が図らずもそれを証明しているように、事が起きてしまう恐れがあるのは必ずしも作業中だけとは限らなかったのです。
【津別町】「造林殉難者慰霊碑」
事故発生年月日:昭和28年 5月31日
建立年月日: 昭和29年 5月31日
津別町に広がる山林を大別するとそのおよそ東半分は「国有林」、そして西側は「道有林」に属しています。
建築材料やパルプ原料、あるいは枕木・家具等特定用途向けに最適な林木が多く生い立つ一帯はそれぞれの林野区域を管轄する官庁の出先機関によってきちんと管理されており、もしそれらを入手したいとすれば計画や契約に応じて伐木された必要分を買い付けるといった規則に沿わなければならずその1本たりとも勝手に持ち出す行為は法的に許されません、だが今から80年ほど遡る昭和20年(1945年)の太平洋戦争終結直後においては戦災復興需要と極度のインフレが重なって木材価格が急騰したため、一部では残念なことに過剰に伐採された資材がヤミ値で売り捌かれるような言わば「無法状態」がしばらく続いたと聞きます。
序文では当地の樹木のことを「有り余る」などと誇張表現したものの、かような”乱獲”が続けば山も当然荒れ放題となる訳で、公共事業として継続的に発注される「造林」工事によって治山や森林資源の原状回復が図られるには、物価と国情が落ち着く昭和25年(1950年)頃まで待たなくてはなりませんでした。
かくして損なわれた山林の自然を戻すべく本格始動された造林工事、その内容は主に伐採後の切り株などを除去して地盤を整備する「地拵え」と苗木の「植栽」工程にて進められますが、専用機械もない時代においては人力に頼らざるを得なかった上に、また施工時期が春と秋に限定されるという条件も加わって、当時の作業はある程度まとまった員数の手によって短期集中的に行われ、そのエリアの工事が終われば人員込みで拠点ごと速やかに次の現場へ移動するといったまるで”巡業”のような形態で各所を回っていたそうです。
然して迎えた昭和28年(1953年)、この数年の間は朝鮮動乱による再びの木材相場の乱れがあったものの津別町界隈の道有林では「北見林務署」発注の造林直営工事が概ね予定通り履行され、この年も4月に始まった工程を順調に消化、いくつかの現場を完工させたのち5月19日からは同町木樋集落区域内にある「本岐23林班」での作業に着手されています。
さて、ここで共に従事する人員は総勢21名、内約半数の10人ははるばる秋田県から出稼ぎのため来道した若者ばかりでしたが、前述の通り基本的に同じ仲間と順繰り現場をこなしていくことで要領や手際も良くなっていったようで、本現場でも大きなトラブルもなく都合10日間で作業は完了、5月30日には次の作業地である同町沼ノ沢へ移動する予定でした…ところが当日はあいにくの「土砂降り」に見舞われてしまい、おそらく現場責任者の指示あるいは許可の下”引っ越し”はやむなく翌日へ順延されることになりました。
いくら若いとはいえ連日の重労働で疲労気味の作業員にとってはきっとちょうど良い”安息日”となったことでしょう、だがその日の雨は決して”恵み”をもたらすものではなかったのです。
明日の移動を前に皆が寝静まった昭和28年(1953年)5月31日午前2時15分頃、本岐23林班作業所の裏山で突如起こった大規模な「地すべり」により、沢の出口の山裾に建てられていた木造2階建て約30坪の飯場(仮泊所)が土砂の直撃を受け全壊、室内で就寝中だった作業員(計18人)の内、大半の16名が亡くなるという津別町始まって以来の大惨事が発生しました。
降雨続きの天候状況を受けて元々脆かった地盤が限界まで緩み、とうとう滑落に至った幅・長さ共におよそ100m 、そして深さ3~4mほどの土塊は、当初麓からはかなり離れた奥側の斜面でしかも方角的にもまるで違う方向へと流下したものでしたが、不幸にもその途中で飯場へと繋がる沢道に突き当たったことから、そこから沢沿いに向きを変え山津波のごとく一直線に下ってきたとされています。
この災害においては建物の1階に居た人たちが全員犠牲となってしまった一方で2階で寝ていた2人と30日の時点で山を下りて一時自宅へ戻った3人の計5名が”命拾い”をしており、まさに明暗を分けた形となりました…特に後者の内1名のケースでは父子3人で従事していた中で父親だけが助かり帰宅よりも仲間との語らいを選んだ息子たちが命を落とすという何ともやるせない結末を残し、将来の担い手を一瞬にして失った父親が寂しげに語る「雨の中帰る自分を外まで見送ってくれた息子の姿が瞼から離れない」との談話には唯々胸を締め付けられます。
これを「山の怒り」とするにしても、緑を蘇らせるべく汗を流している若者らへその矛先が向けられたという理不尽な結果へ対しては、関係者にとっても到底割り切れない想いをきっと抱いたことでしょう。
尚、事後に至り、この事象の原因が太古に形成された脆弱な地層の自然崩落という明らかな「天災地変」である上、さらに悪天候だったとは言え予定日に移動しなかった点がネックとなって、本事案が「業務上災害」に該当するか否かは労働基準監督署から労働省(当時)へまで持ち込まれての論議を呼んだようですが、結局災害認定の上で保険金が遺族へ支給され補償問題が無事解決した模様は後日の新聞報道で確認できました。
現在、災害時に麓まで到達しそのまま残った「流れ山」の上には他と同様に草木が繁茂し、あたかも昔からそういう地形だったかのような様相を呈する現地を外から眺めても、そこから少し離れたところに建つ慰霊碑以外に何らの名残を見出すことは出来ません。
そしてこの間町内において大きな地すべりによる人的被害が発生していないことは大変喜ばしいのですが、事故直後に現場を検証した北海道大学理学部の教授からは「この地域一帯が同様地質にある以上、いつどこで何をきっかけに同じ現象が起こるか分からない」といった主旨の報告がなされており、それを捉え直すとこれまでの70年間など”ほんの束の間”に過ぎず、人間がそこへ”立ち入る”限り今後もずっとそのリスクに備える必要がある現実をあらためて思い知らされるのです。

碑面

碑文

遠景(現場に残る流れ山と左奥の碑)
【津別町】チミケップ湖トラック水没事故慰霊碑
事故発生年月日:昭和31年 2月 1日
建立年月日: 昭和33年 8月 1日
津別町域西端側の山奥に”ぽつん”と佇む「チミケップ湖」、一説には約1万年前に発生した巨大地すべりによって堰き止められたチミケップ川の流れが湛えられ誕生したとされており、町の観光スポットのひとつとして各種広報メディアにも広く取り上げられてはいるものの、実際そこへ辿り着くためには複数あるルートのいずれを選択しても未舗装の細い道を延々と進まなければならなく、交通アクセス的にはあまり便利とは言えない立地にあります。
加えて、湖畔には小さな宿泊施設とキャンプ場があるだけで、商業リゾート地展開もされていない当地へ繰り返し訪れるような”本格派”は一定数に限られると思われ、ましてや通行止め措置によりほぼすべての道路が閉ざされてしまう冬季などはいよいよ「辺境の湖」の”本領を発揮”しているそうですが、時をずっと遡ってみるとかつてはここに多くの人や自動車が集って”賑わい”を見せていた時代がありました。
但しこれらの人々はもちろん観光客ではありません、湖まわりに広がる道有林域内の優良林木を伐採・造材すべく、一帯を管轄する北海道北見林務署との請負契約を結んだ造材業者に雇用された作業員が現地に留まり業務に勤しんでいたのです。
昭和初期には既に複数の作業所と追って仮泊用の山荘が常設され基本的には冬場を中心に針葉樹の伐採作業が粛々と進められていたという当地の造材事業でしたが、やがて訪れる戦時体制から終戦直後における社会の混乱に木材産業が振り回されることとなったのは先のエピソードでも触れた通りです。
ただそんな”異常事態”も昭和25年(1950年)頃を境に落ち着きを見せ、携わる企業としてもこれからはやっと平静な世の中で事業に邁進できる…はずでした。
ところが、昭和29年(1954年)9月26日から27日へかけて北海道をかすめるように通過した台風15号(洞爺丸台風)によって林産業界はまたしても大混乱に巻き込まれる羽目になります…この時もたらされた被害は船舶や市街地火災のほか道内各地の山林へも広く及び、倒木などの影響を受けたその範囲は国有林だけでも実に約11万ヘクタール(1,100k㎡)に上ったと伝えられています。
後から振り返るにこの4~5年間分の伐採量に相当する風倒木の後始末が本当に大変だったらしく、本来「売り物」でもあるそれらの樹木については害虫の”餌食”となって商品価値が失われる前に極力早く回収する必要があったのですが、如何せん人手が足りない上にいまだ手工具・馬そりが”主役”であるような旧態依然の伐採・運搬方法ではまったく作業が捗らなかったため、緊急の対策として当時まだ高価だったチェーンソーや「大型トラック」が急遽導入されスピードアップが図られたそうです。
かくて、まさに”官民を挙げて”対処に当たっていたそんな状況下の昭和31年(1956年)2月1日、北見林務署との契約に基づき津別町本岐市街から造材現場がある真冬のチミケップ湖へと向かった北見市の運送会社の所有する木材運搬用大型トラックが道中で交通事故を起こし乗車していた3名全員が亡くなるという悲劇がありました。
ただ交通事故とは言っても、向こう岸の作業所へ行くための”ショートカット”として凍結したチミケップ湖面に直接乗り入れたトラックがその途中で氷の割れた湖中へ乗員もろとも水没してしまったという現代からはちょっと考えられないようなこの出来事、新聞紙上では「暖冬下であったことを考慮せずに湖上横断を強行したドライバーの判断ミス」が原因と推定されており、確かにその冬は例年より総じて気温が高かったようで平年の厳寒期には50~60cmにも達する氷厚が落下地点では15cmしかなかったとの後付けながら判った事実からしても、いくら無積載状態とはいえ車重が6.5トンもある大型車が無事に通り抜けることの出来る状況ではありませんでした。
しかしながら、氷上を車両で通行する行為自体を問題視する論調が報道内容にも見られないところからも分かる通り、本事例が当時にしてとりわけ”常識外”なものではなく、結氷した湖が昔から”当たり前”のように道路代わりとして使用されていたことはほぼ間違いないのでしょう、ただ時代の流れに応じて上を通るものが人から馬そり、更には小型貨物車両を経て年々大型化するトラックへと変わっていったにも拘らず、重量制限が明確に定められる訳でもない中でその”慣例”が見直されるきっかけがなかったのかも知れません。
実際、事故現場となった湖中央部へ至るまでの1kmを超える道程は順調に通行出来ていた事実を踏まえても、今回の仕業がまったくの”無謀な試み”とは言えず、むしろ同車両でもトラブルなく横断出来た以前の経験に基づく判断だった可能性が高いのではないでしょうか。
馬そりレベルならともかくトラックがすれ違うことなどまず不可能な曲がりくねった林道しかない道路環境、そして先に記した時勢の下で丸太や人員を載せながら造材現場と市街集積地との間を”ピストン輸送”するという迅速な業務遂行を求められていた民間企業の一従業員である20歳代のトラック運転手が取った行動が特段禁令を犯した悪質なものではない以上、やや穿った見方をすれば「基盤整備の伴わない拙速な近代化」が生んだ弊害と言えなくもないこの不幸な結末には個人的に深い同情を覚えます。
さて、事後の遭難者捜索作業は相当の難航を強いられたと言います、というのも水面下20mへ沈んだトラックは人の身の丈ほどに達する湖底堆積泥の中に埋没してしまっていたからであり、その後試案の末に大量のドラム缶製”浮き”を使って少しながら車体を引き揚げることに成功した際には運転席から同乗者2名が発見されたものの、解氷時期まで待って再開された作業をもってしても結局運転手だけはどうしても探し出すことが出来ませんでした。
家族からの申し出を受け捜索が打ち切られたという本件の顛末、事故から2年半後の昭和33年の夏には彼が眠る湖のほとりに墓標代わりの地蔵尊と碑が身内の手により建てられ現在に至っています。
いつの頃にか造材事業の終了と共に作業員も引き上げた界隈からは大型車が行き交うような光景は勿論消え、今は何事もなかったかの如くすっかり静寂が戻っていますが、自治体がまとめた「森林整備計画書」によると一帯の自然環境については今後も「維持に努力」という方針が示されており、景観を損なうような施設はもとよりおそらく森林や道路に大幅な手が加えられることも当面なさそうなチミケップ湖周辺はこれまで通り太古のままの姿を残す”知る人ぞ知る秘境スポット”としてここにあり続けるのでしょう、そしてそう願っているのはきっと私だけではないと思っています。

地蔵尊と碑

遠景(夏季)

