北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【七飯町】ばんだい号遭難者慰霊碑

七飯町】「ばんだい号遭難者慰霊碑」

事故発生年月日:昭和46年 7月 3日

建立年月日:  昭和47年 7月

建立場所:   亀田郡七飯町東大沼(横津岳)

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(2015/11/1投稿)

 はるか道南を目指して道央自動車道を走ってきました。

 道東を発ってから約6時間、道中目にしてきた山々と比べひと際異彩を放つ駒ヶ岳の景観を左手に望みながら、現時点で南端終点の「大沼公園IC」を降りると渡島管内七飯町(ななえ)の域内に入ります。

 そして、その噴火活動によって生まれた駒ヶ岳山麓に点在する大小の湖沼を中心に成す広大な「大沼国定公園」を通り抜け、いよいよ函館を目前にして左側奥手に見えてくる山が、かつて渡島管内の最高峰であった「横津(よこつ)岳」(標高1,167m)です。

 ”かつて”というのも妙な表現ですが、実は平成18年に檜山管内熊石町が八雲町との合併ののち渡島管内へ編入された事によって、同町とせたな町の境に跨る「遊楽部(ゆうらっぷ)岳」(標高1,277m)にその座を追われてしまったのでした。

 さて”元”最高峰と言っても傾斜も比較的緩やかで全般に平坦な山であるこの横津岳、南西側斜面には頂上まで至る舗装道路が整備されており、沿線ではスキー場やゴルフ場などのレジャー施設も営まれていた事から、好況な時代にはその利用客やハイキング、あるいは函館の”裏夜景”を楽しむ人々で大変賑わっていたそうです。

 しかし時は過ぎ、経営難のためかそれらの施設は2000年代に入ってから相次いで閉鎖、件の道路も路面損壊の影響で基本通年通行止めになった現在では、人の姿を見る機会もめっきり減り、以前の活況を見る事はもうありません。

 かくて今はすっかり静寂が戻った横津岳ですが、その山腹、標高900m地点の丘の草藪を分けて行くと少し開けた場所にひとつの石碑が建っていました。

 これは今から約45年前にここであった航空機事故にまつわる慰霊碑なのですが、旅客機を対象にすれば、死亡を伴うものとしては北海道内で初めて、そして今のところ唯一であるこの墜落事故の発生原因については未だに不可解な点が多く残されています。

 昭和46年(1971年)7月3日午後6時10分頃、札幌(丘珠空港)から函館へ向かった東亜国内航空のプロペラ旅客機YS-11型「ばんだい号」が着陸直前に墜落、乗員乗客合わせて68名全員が亡くなるという大惨事が起こりました。

 「函館空港上空に達し、これから高度を下げる」との午後6時5分の交信を最後に無線連絡を絶ったばんだい号、しかし翌日無残にも粉々となったその機体が発見されたのは空港から北方へ18kmも離れた横津岳南西側の山腹だったのです。

 交信内容から察するに空港上空において着陸態勢に入っていたはずの機がなぜまるで方角違いの山中に墜落したのか、当時ジェット旅客機に全機装備が義務付けられていたフライトレコーダーやボイスレコーダーがプロペラ双発のYS-11型機にはまだ備わっておらず、更にここには空港監視レーダーも導入されていなかったためその状況や原因がまったく分かりませんでした…最後の交信から墜落までの5分間、ばんだい号で一体何が起こったというのでしょうか。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 7月3日の札幌丘珠空港は厚い雲に覆われ時折激しい雨が降るあいにくの天気でした。

 その日は、北海道西方の日本海上にあった低気圧から伸びる温暖前線の影響で道内の広い範囲にわたって雨に見舞われたため、ローカル便を中心に空のダイヤが混乱、航空各社は慌ただしくその対応に追われる事になります。

 そんな中、観光シーズンの到来を迎え64名の乗客で満席となった東亜国内航空63便は、到着地の天候不良が懸念されつつも定刻よりやや遅れた午後5時31分、悪天をついて函館へ向け丘珠を後にしました。

 午後5時発表の函館空港周辺の天候は風雨が強く、朝9時提供の天気図から予想される状況より明らかに悪化していたものの、否応なく欠航が強制される基準までには至っていなかったため、運航責任者と機長の判断で予定通りのスケジュールが決行されたのです。

 離陸から15分後、巡航高度に達した機は南南西の方角へ一直線の航路を進行、その30分間余りのフライト中、晴天時なら眼下の支笏湖噴火湾などの絶景が楽しめたはずのコースも、その日視界に入るものは敷き詰められた雲以外になく、期待を裏切られた観光客はさぞがっかりした事でしょう。

 こうして、平時とは様々に違う状況下での航行を余儀なくされる63便でしたが、実はもうひとつコックピット内にも普段と異なる光景が見られました。

 2名の客室乗務員を含む計4名の乗員にて運航されるこの旅客便、総飛行時間約1万5千時間のベテランパイロットが機長を務めていましたが、その隣りに座る副操縦士はこれまでのキャリアこそ長いものの日本国内における民航機の操縦経験わずか150時間余りというアメリカ人パイロットでした。

 そして、その日に限ってはこの”青い目”の副操縦士が機を操り、彼にとって初めてとなる函館へのフライトを機長が「教官」として指導・補助する役回りになっていたのです。

 航空法に抵触しないとは言え、すこぶる天候条件が悪い中でなぜわざわざ国内経験の浅い外国人パイロットに操縦を任せる事になったのか、その経緯を知るにはこの頃の時代背景と置かれた状況をまず把握しておかなければなりません。

 太平洋戦争の終戦後においてアメリカ占領軍からの命令により禁じられていた国内航空の運営も昭和25年(1950年)にやっと解禁、日本航空を初めとする民営航空会社が次々に設立され、新しい移動手段として”空の足”が認知・定着していく事になります。

 ところが、”国内航空史上最悪の年”と呼ばれた昭和41年(1966年)には、乗客全員を巻き込む規模の航空機事故が国内で4件も集中した事に起因して、2年前に開業した東海道新幹線などに客を奪われた航空各社は軒並み赤字経営を強いられ、規模の小さい会社に至っては存続の危機に立たされるまでの状況に陥ってしまいました。

 航空会社の倒産は負債額やその影響がとてつもなく大きいため、対策に乗り出した運輸省(当時)の主導により、当時10社ほどあったそれら各社の統合が推進され、紆余曲折を経て昭和45年には「日本航空」「全日本空輸」そして「東亜国内航空」の3社に集約する方向で決定されます。

 しかし世の中の流れは驚くほどに早く、国が統合政策にもたつく間に情勢は一転、経済の急成長に伴い、例えば会社業務における人員移動の更なる迅速化が求められ、はたまた所得増加により生活に余裕が出てきた人々のバカンス需要が急増するなど、これまで離れていた客足はすっかり回復し、この時既に航空業界は黒字基調に転換していたのです。

 この”ニーズの急変”に応じて、今度は国内線定期便の増発や新規路線就航などの対応を取らざるを得なくなった各社でしたが、とりわけ国内ローカル線の運用を主に担う東亜国内航空においては過密する一方の運航スケジュールをこなすだけの人員に事欠いていました。

 急務に迫られた人材確保に際し、誰でもすぐなれる訳ではない機長クラスを国内で調達するのはもはや困難と判断した会社は、そこで海外のベテランパイロットに着目、高収入条件を”好餌”に彼らの取り込みが図られます。

 かくして、その長いキャリアを生かした”即戦力”として起用された彼らでしたが、当時「世界最大の”人力”航空機」と呼ばれたほど操縦士の技量への依存度が高い国産のYS-11型機を駆って、欧米人の目からすればあり得ないレベルの”小さく貧弱”な日本の地方空港へ着陸する事に慣れるまでにはそれなりの手間と時間を要したと聞きます…だからこそ彼らには極力早く天候不順時を含む様々な状況における操縦経験を積ませ、すぐにでも機長としての任務が果たせるよう”日本特有”の航行技術を習得してもらう必要があったのです。

 そして、そのアプローチ時により高いスキルが求められる空港のひとつとして、後方に山々を”背負った”狭幅な海岸線に設けられ、夏場に発生する強風や濃霧にしばしば悩まされるこの函館空港が含まれていたのでした。

 さて、そんな厳しい立地環境にある空港へ着陸するには最悪の気象条件の中での飛行を続ける63便、この路線では初めて操縦桿を握る49歳の経験豊富なアメリカ人パイロットもおそらく多少のプレッシャーを感じていたに違いありません。

 丘珠を発ってから切れ間なく続く雲の中を行く事30分間、コックピット内で自動方向探知器(ADF)の針が大きく反応したのは午後6時3分頃、それは函館空港内無線標識(NDB)から発信された電波をキャッチ、すなわち機が空港上空に達した事を意味しました。

 これは、この日のように雲が低く垂れ込めている天候不良時には目視する事が不可能なため、誘導電波を使って空港と航空機の位置関係を確認するシステムであり、この後「機体を旋回させつつ徐々に高度を落とし、やがて視界に入ってくる空港に位置合わせしながらランディングに臨む」というのが正規の函館空港へのアプローチ方法でした。

 とても快適とは言えなかったであろうフライトもようやく終わりに近づき乗員乗客を問わず皆ひとまずほっとした事でしょう、機は函館空港の管制通信官へ無線報告をした後、規定通り大きく右旋回を始め高度を下げていきます…だがしばらくして雲の切れ間からパイロットの目に飛び込んできたのは空港ではなく目前に迫った横津岳の山面だったのです。

 一体なぜこのような状況になったのか、実は前出「ADF」と「NDB」を用いた無線システムは、受信範囲が広い反面で電界の影響を受けやすいと言われるAMラジオと同じ周波帯域を利用していたため大気中の静電気によって殊に山岳地帯の上空などでは時々異常動作を示す事が確認されており、その不安定さからもはや”時代遅れ”と言えるものでした。

 実際この日、道南地方一帯には俗に”雷雲”と呼ばれる帯電性が強い「積乱雲」が多く発生しており、おそらくその影響で誤作動を起こしたADFの反応をそのまま信用した機は位置を誤認、つまり63便は函館空港上空に至る9kmもの手前の地点から着陸態勢に入ったものと見られています。

 悪天候の中でのフライトで運航時間に予想以上の遅れが生じたのが災いとなり、本来であれば早すぎると気付いたはずであろうADF反応時刻と当初の空港上空到達予定時刻との差異が少なかったものと想像され、そしてさらに不幸な事にその旋回中には秒速12~13mとも言われる南西からの強風にあおられ大きく北へ流された機体は知らず知らずに山深い方角へ向かっていったのです。

 かくて目の前に突然現れた山を回避する間もなく、午後6時10分頃、札幌発函館行き東亜国内航空63便「ばんだい号」は横津岳南西面標高910m地点に激突、この悲劇においてはただひとりの生存者もいませんでした。

 洞爺湖・定山渓などを経てツアー最終日の函館観光を心待ちにばんだい号へ乗り込んだであろう39名の団体客や、4人の子供たちからのプレゼントで初めての空の旅を楽しむ夫婦、あるいは念願の巡査部長へ昇任し札幌での幹部研修を終えて新任地へ戻る途中だった警察官、そして婚約の報告をするために胸はずませて函館の実家へ向かう若い二人、そんな彼らの夢も希望もすべてがこの一瞬に消えていきました。

 幅40m・長さ160mにわたって樹木がなぎ倒され機体が見る影もなく四散した事故現場では、運命の時刻を指したまま止まった時計や、楽しかった想い出が詰まっていただろう旅行カバンと、もう渡す事もかなわない北海道土産の包みがはかなく散乱していたそうです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 本文における事故原因や経緯に関する記述は、昭和47年12月18日に発表された事故調査委員会による最終報告内容に沿ったものですが、この結論に至るまでに実は「二つの説」を巡って委員会内が対立・紛糾、後に委員のひとりが抗議の辞任をする事態にまでなったと言います。

 この「計器不具合による位置誤認説」は青森県航空自衛隊三沢基地のレーダーに記録されていた当該機の航跡の情報に基づいており、ボイス・フライト両レコーダーも装備されず、現場に残された原形を留めない事故機の計器類から何ひとつの手がかりも得られない中ではこのレーダー情報がとりわけ重要視されたようです。

 「不慣れなルートを初めて操縦する外国人副操縦士だけならまだしも、この路線を何度もフライトし、状況によって発生するADFの誤作動についても認識していたはずのベテラン日本人機長までもが果たして計器指示を信じて疑わなかったのか」という当然の疑問も呈されてはいたものの、捜索時における機体発見に繋がる決め手となった情報源であり、そしてマスコミ各社が報じる航空専門家らの見解も概ねこれに類推されるものであったため、事故直後の段階では”科学の目”に裏付けされたこの説にはもはや疑う余地がないようにも思われました。

 ところがその後状況は一変します。

 というのも、どうやら機が函館まで到達していなかった公算が高いとの報道を見聞きした函館市民から、「事故当日、かなりの低空で飛ぶばんだい号を市内で見た」などという目撃証言が続々寄せられ、その数は数十件にも上ったのです。

 中には、午後7時函館着の全日空機と混同しているような誤報も含まれましたが、一方看過出来ないほど非常に信憑性の高い情報が多くあった事に加え、先のレーダー情報には南北座標的に不確実な要素がある事実がその後判明したため、固まりつつあった説の根拠を失った事故調査委員会は大いに混乱します。

 これまでの流れを根底から覆しかねない重要なポイントだけに、その後事故調の担当委員らによって慎重かつ綿密に行われた目撃者への聴き取りの結果、あらたな事故機の航跡が浮かび上がりましたが、その上で立てられた仮説の内容は概ね「ばんだい号は正規ルートを幾分外れながら一度函館空港まで到達し着陸を試みるも予想以上の悪天候あるいはその他の理由により着陸復航(ゴーアラウンド)を決断、函館市内上空を低空で通過した後、再進入すべく北側へ上昇・旋回しながら一旦戻る過程において強風にあおられ山岳地帯まで至った」というものでした。

 しかしこの新しい「証言重視説」は時刻と航行位置、特に飛行高度との関係を照合すると、機長と管制塔との間で交わされた交信内容とはつじつまが合わない部分が多く、そして何よりも着陸のやり直しという”イレギュラー航行”を断行したのであれば必ず施されていなければいけないその旨の報告の事実がまったくなかった事については不自然極まりないと思われても仕方がない内容だったのです。

 結局委員会では、この証言に基づく仮説は「通常ではおよそ理解出来ない航行状況でないと起こり得ないケースであり合理性に欠ける」という判断にて却下され、当初の説をベースとした最終報告に至ったのでした。

 ばんだい号墜落事故に関して詳しく検証している柳田邦男氏の著書では、「常識では測れない状況が生まれたからこそ事故が起こる」との関係者談話を紹介しており、そしてあくまでも憶測の域を出ないとしながらも、無線交信中における機長のちょっとした不思議な会話内容から「精神状態または体調の不良」、更にはばんだい号が最後の交信後に連絡”出来なかった”理由について「機長の急死あるいはそれに近い状態」の発生の可能性に触れています。

 いずれにしても「悪天候」や「地理的条件」、「パイロットの判断ミス」などの要因が絡み合った事故であろう事には双方に大差がなく、また現行計器指示システムに脆弱さが潜んでいるのも事実である以上、この際どちらの説でも良いようにも思われますが、机上の議論における「合理性」の一言で、”実際に機を見ている”市民からの数多くの証言がまったく無視された結論付けに際し、事故原因という”真相の究明”が目的であるはずの事故調査委員会のこの姿勢には多くの疑念が寄せられたと聞きます。

 昭和42年から5ヶ年計画にて推進中だった空港整備工事はこの事故を受け、これまでの「滑走路の延長・拡幅」から「無線誘導システムやレーダー設備の更新・新設」という内容へと安全対策方針の重点がシフトしていきました。

 そして、今後のジェット旅客機受入に向け2千メートルへの滑走路延長工事の途中であった函館空港においても、電波誘導計器着陸装置(ILS)や信頼性の高い新型無線標識・距離測定設備(VOR/DME)などが予定より前倒しで導入され、奇しくもばんだい号の悲劇の舞台となった横津岳山頂には新しく航空路監視レーダー基地(ARSR)が設けられる事となったのです。

 かくして、欧米のそれより遥かに立ち遅れていると言われていた日本の航空機装備や空港設備はその改善へ向けて前進を始めたのですが、ばんだい号事故から1ヶ月も経たない内に当時国内史上最悪の犠牲者を生んだ「全日空機雫石衝突事故」が、そして翌昭和47年にも海外でながら日本航空機がインド・ニューデリーソビエト・モスクワで続けて大規模墜落事故を起こし、その行く末に暗雲が垂れ込めたのでした。

 

※参考文献「続・マッハの恐怖」(柳田邦男氏著)

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碑面(表)

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碑面(裏)

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碑文

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ばんだい号