北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【小樽市】手宮火薬爆発惨事記念碑

小樽市手宮火薬爆発惨事記念碑

事故発生年月日:大正13年12月27日

建立年月日:  大正14年12月27日

建立場所:   小樽市石山町5

 コロナ禍以前には毎年700~800万もの人々が”物見”に訪れていたという北海道内でも有数な観光都市「小樽市」、その歴史深い街並には明治~大正時代の魅力ある建造物などが数々遺され、特に「小樽運河」や傍らの石造倉庫群は、国内外からの種々様々な物資が集約される”商都”として繁栄を極めた往時の面影を現代に伝えています。

 江戸中後期における「北前船」交易の基点でもあり、古くから物流拠点としての素地が出来上がっていたここには明治時代の幕開けを機に石炭積出しのための鉄道(幌内線)敷設を初め、長大防波堤や高架桟橋の建設、あるいは要所の埋め立てなど、本格的な港湾整備が順を追って着々と進められていきました。

 かくて、「外国貿易港」の名に恥じない近代的な設備が整った小樽港へは”満を持して”船荷満載の貨物船が各地から続々と到来、いよいよ運河も完成した大正末期に至っては混雑のため入港出来ない船が外海で”列をなして”待機していた程だったと聞きます。

 次から次へと”待ったなし”に陸揚げされる夥しい数の積荷と、それを手早く捌くために集った多くの人手がせわしく駆け回る、そんな慌ただしい光景がもはや当たり前になった小樽で、港の北部に面した鉄道「手宮駅」構内において貨物の「火薬類」が爆発するという、まさに街を”揺るがす”大事故が起こったのはもう年の瀬も近い大正13年1924年)12月27日の事でした。

 しかし、行方不明と合わせて100名近くの人々が命を落とし、一説では市街地の1/3の家屋が何らかの被害を受けたとされるレベルの大惨事だったにも拘らず、本件に関しては検証に係る詳しい文献が残されておらず、爆発へ至ったプロセスについての公式見解の発表も恐らくなされていなかったかと思います。

 もっとも、その時現場に居合わせた大半が帰らぬ人となり正確な聴取が不可能である以上はそれも致し方ないところがありますが、ここでは当時の新聞記事と時代背景などを参照にした「個人的憶測」に基づき、この”謎残る”史実に触れてみる事にします。

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 序文にも記した「小樽運河」が約10年の工事期間を経て完成したのは大正12年(1923年)、この水路を通じて沿線に建ち並ぶ倉庫の”軒先”までそれぞれ荷物を運ぶ事が可能となり荷役効率は従前より飛躍的に高まったと言います。

 但し、入港した貨物船がそのまま進入する訳ではなく、運河を実際に往来していたのは「艀」(はしけ)と呼ばれる小型の運搬船でした。

 石炭積出専用の桟橋を除けば、大型船が直接横付け出来る埠頭がまだ整備されていなかった小樽港では、港内に停泊した船から小分けされた荷を積み替えた艀が幾度も往復するというやや手間のかかる手順を踏んでいたのですが、入港船舶数と伴う取扱貨物量が急増するにつれ、それに対応すべく艀の数もおのずと増えていきます。

 統計によれば大正13年当時の稼働艀数は前年比150%にあたる大小取り交ぜ約600隻、その急激な増殖ぶりにまず驚かされますが、もっとも膨らみ続ける需要を満たすためにはむしろこの位は必要なレベルだったのかも知れません。

 そして、当然ながら”器”が増えた分だけ用意しなければならない労働力の確保に関しても、「第一次大戦後の反動」や「関東大震災」に起因する不況が生み出した道内外の「余剰労働者」が図らずもこれを解決する事になります。

 こうした時代の”後押し”もあって順調に運営体制が整った港湾荷役業界でしたが、しかし現場の労務者からすれば必ずしも楽ではない現実が待っていました。

 いくら多忙とは言え毎日の仕事量が保証されない業種ゆえに荷役業者が採った雇用形態は「出来高払いの日雇い」、つまり正規の従業員としては扱わず「一日処理した荷物量に見合うだけの賃金をその日の内に支払う」という一面から見れば非常に”合理的”な方法でした。

 事業所側としても収益中の一定割合を超えない人件費に係る想定以上の支出を心配する必要がなく、また一方で時節柄少なからずいただろう”その日暮らし”の労働者にとっては働いた分だけ確実に手にできるこうした「日銭」がある意味”救い”になっていたのもおそらく事実でしょう。

 かくして、強要せずとも彼らが”夜明けから日暮れまで”休みなく働いてくれる労働環境が仕上がりました、大正13年当時北海道全体の約30%に相当する年間「233万トン」(積出分含む)もの貨物を扱う小樽港がこれらをうまく取り回せていた背景にはこのような”からくり”があったのです。

 だが、常時1,300人程従事していたと言われる港湾労務者が限られた時間内により多くの賃金を得るため”我先に”と仕事を進める状況は、”出し抜き”や”割り込み”による揉め事や、狭い運河内での艀同士の衝突、果ては乱雑に扱ったが挙句の積荷水没事故までをも引き起こし、頻発する大小のトラブルは必然的に現場の雰囲気を”殺伐”としたものへと変えていったと聞きます。

 さて、混雑が極まってまるで”殺気立つ戦場”の様相を呈していた小樽港へ一隻の貨物船が入港したのは大正13年1924年)12月25日、この船はちょうど1週間前に山口県の小野田港を後にした「正保丸」で、その主要積荷である大量の石油類の他には、合計800箱余り(約18トン)もの「ダイナマイト類」が積み込まれていました。

 そんな”物騒”な代物がどこで必要とされていたのか、これら民需用として生産された爆薬は当時道内で増加・発展中だった炭鉱などの鉱山において、坑道を進める際の「発破」作業に用いられ、その道内市場を取り仕切っていた札幌及び岩見沢の火薬商からの注文に応じて山口県厚狭町の火薬工場より海路はるばる運ばれて来たのでした。

 翌26日に本船から2隻の艀へ分載された荷物は運河より北側に設けられていた省営鉄道「手宮駅」構内にある荷揚げ専用の岸壁まで直接持ち込まれ、札幌宛の260箱については貨物列車を通じてその日の内に無事移送を完了していますが、ただもっとも”日が短い”季節の折、おそらく日暮れに”阻まれた”のだろう岩見沢向け物品の”片付け”はあくる日へと回され、残された多くの危険物は係留された艀の中でそのまま一晩を過ごす事になります。

 しかし、結果的に後の悲劇を招くきっかけがこうしてまたひとつ生まれてしまった事へ対してその時危惧を覚える者はもちろん一人もいませんでした。

 然して迎えた12月27日の朝、小樽は晴天に恵まれる一方でこの冬一番の冷え込みに見舞われました、データが残る隣りの札幌市における最低気温氷点下20.0℃という観測値からも、その日界隈がいかに著しい寒気に包まれていたかが窺えます。

 昨日から一転しての猛烈な寒さに誰もが震え上がる中、予定された午前9時からの荷揚げ再開に際し「凍える手での取扱い中に荷物の落下事故でも起こしたらそれこそ大変」と艀内部では「ストーブ」を焚くなど対策がとられたものの、当然ながら能率は一向に上がらずスローペースのまま作業は進められていました、ところがその後意図しない自然要因によって状況が一変したのです。

 早朝にはあれほど低かった気温が陽が上るにつれ”ぐんぐん”と上昇へ転じ昼頃には0℃近くへまで至ったと言います、この”ともすれば”汗ばむほどの外気の急変は荷役する側にとってはきっと有難いものだったに違いありません。

 これを機に調子を取り戻した現場ではそれまでの遅れを挽回せんと作業のピッチがおそらく上げられた事でしょう、そして午後1時25分…運命の時刻が訪れます。

 「艀の方で異音と閃光が発せられたのを確認したその刹那、目の前が真っ暗になってその後の事はまったく分からない」…これは重傷を負いながらも九死に一生を得た現場労務者が語る事故の瞬間の様子です…大正13年1924年)12月27日、小樽手宮駅構内の貨物ヤードにおいて貨車へ積み替え作業中のダイナマイト類約550箱(12トン余り)が突然爆発、これにより周囲500m圏内の倉庫や駅設備、あるいは車両・船舶が壊滅し、死者64名・行方不明者30名という人的被害を数える大惨事になってしまいました。

 さながら爆弾でも落ちたかの如く轟音は全市中に響き渡り、またその震動は札幌の測候所の地震計にもはっきり捉えられる程だったそうです。

 黒煙が消えた爆発現場には木端微塵になった木造建物やまるで飴細工のようにねじ曲がったレールと原型も留めず大破した数十両の貨車、または沖側100mほどまで放射状に吹き飛ばされた多くの艀が確認された一方で、つい今しがたあれだけ大勢が集い”あくせく”と動き回っていた人々の姿は一人も見る事が出来ませんでした。

 翌日から本格的に始まった被害者の捜索において彼らが発見された場所は海中を含めてかなりの広範囲に及び、各々の身元確認も困難を極めたそうですが、懸命の作業が年を跨いで続けられたにも拘らず全体の3割以上を占める30名もの行方が結局分からなかったという事実が、この爆発の威力がいかに凄まじかったのかを如実に物語っています。

 ただそれでも爆心地が広大なヤードゆえ一般の家屋が少なく、また当日が風もない穏やかな天候だったため、市内幾箇所かで発生したストーブ転倒による小火が類焼へと拡大しなかった点はせめて不幸中の幸いだったと言えるのかも知れません。

 艀内と陸揚げ分も合わせたダイナマイトの連続的な誘爆(殉爆)を呼び最終的には未曽有の大爆発へと至った本事故、ではその発端となる原因は一体何だったのでしょうか…当時の新聞紙面には可能性として「艀内のストーブ熱からの引火」もしくは「運搬中における落下による衝撃」という仮説が立てられています。

 今回荷役を請け負った業者が爆薬の取扱いについてどれほど熟知していたかは知る由もありませんが、冬季における受け入れも当然今回が初めてのケースではないはずで、また荷揚げ作業に際しては警察官による立ち合いが義務付けられていた事実に鑑みると危険へ対する一定の理解度があったと見るのが妥当である事から、いくら冷え込んでいたとしてもまさか一線を越えるほど爆薬を火気に近接させるような初歩的ミスを犯すとは考えにくく、更に言うと”うっかり”箱を落としただけでその都度爆発するようなリスクの高いものであればもはや民間人が扱えるレベルでは到底なくなり、不適切な表現ながら全国各地で似たような事故がもっと起こっていてもおかしくありません。

 但し、だからと言ってこの「火気の熱」と「衝撃」が無関係だという話ではもちろんなく、個人的にはむしろそれらと更なる別の要素が加わった「複合的」な要因があるような気がしています。

 例えば、ダイナマイトの管理においてはその基剤である「ニトログリセリン」の凝固点(8℃)と融点(14℃)に留意し、そもそも凍結させる事自体が好ましくない旨認識されていましたが、今次目にした古い文献によるとダイナマイト完成品の「凍結⇔解凍」に係る反復実験の結果、ゲル状態で内包されたニトロが条件によっては液状化し製品外皮側へ滲出するという極めて危険な現象が確認されたそうです。

 「雰囲気温度の極端な変化」はまさに今回の事故の背景における特徴的ポイントであり、そして積荷の中には当年に国産化されたばかりで”初めての冬”を迎える「硝酸アンモニウム系ダイナマイト」が少なからず含まれていた事もあるいは関わってくるかも知れません、外気温や暖房熱の影響で変動著しい環境に晒された製品の中にはごく一部であるも前述のような反応により不具合を起こした個体がもしや紛れ込んでいたのではないでしょうか。

 かくて、もはや比喩でもなく「一触即発」状態となった爆発物が、作業員の中に居たさほどリスクを認識していない一人の手によって”無造作”に扱われた結果、遂に「臨界点」に達してしまった…つまり「温度条件」と「製品の質」そして「取扱法」という、それぞれ単独であれば無事だったかも知れない要素が不幸にも重なって起こった悲劇として、確証はないながらもその経緯が想像されるのです。

 今後の火薬類の受入を冬場の寒暖差が比較的少ない室蘭港へと変えさせ、また後年「不凍ダイナマイト」が開発されるきっかけのひとつになったとも言われるこの事故によってもっとも甚大な損害を被った手宮地区、しかしその復興は実に驚くべき早さをもってなされたと聞きます。

 道内陸上輸送の基点であるがゆえ駅設備の復旧のため鉄道省の予算が速やかに注がれたのは無論の事、下賜金を初め当事者たる火薬商や地元の名士などからの多額の見舞金が直ちに寄せられ、それらはすぐ形となって現れました、これも何かと資金や物資が集約される小樽だからこそ出来得た業だったのでしょう。

 そして気が付けば、あたかも”何事もなかった”かのように忙しく人や荷が行き交う、以前と変わらぬ小樽港の姿がそこにありました。

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 自ら爆風による被害を受けながらも、事故犠牲者の一時安置や検視作業のために敷地を提供した現場近くの寺の境内には、その様のあまりの惨さに心痛めた当時の住職らの手により慰霊碑(記念碑)が建立され、一年後に開かれた追悼会に合わせて除幕式が厳かに執り行われました。

 それから100年もの長きの間手宮界隈の歴史を見届けてきた碑は現代に至りすっかり老朽化が進んでいるものの、経年によりほとんど判読不能だった碑文には2020年末から翌年へかけて「墨入れ」作業が施され、在りし日の形が今に蘇っています。

 ただ、かつて台座の上に”そびえ立っていた”碑本体の部分は、金属製だったがため昭和の戦時中に「供出」されたままで戻って来ないと聞きました…復元の話も今のところ耳にしておらず、残念ながらその本来の姿を見る事はもはや叶わない夢になりそうです。

記念碑(台座)

碑文