北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【釧路市】共栄小学校炊事遠足事故慰霊碑

釧路市】「炊事遠足被災児童慰霊之碑」

事故発生年月日:昭和40年10月 5日

建立年月日:  昭和52年10月 5日

建立場所:   釧路市西港1

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(2014/7/19投稿)

 「炊事遠足」…私にとっては懐かしい遠足と調理実習を兼ねたこの学校行事は、聞けばなんでも北海道(及び東北の一部)以外では行われていないそうです。

 クラスを班分けした上で、遠足先においてそれぞれに決めた献立を自分たちの手で作って皆で一緒に食べるという、言うなれば楽しい中にも自主性と協調性を培う教育の一環として実施されるこの催しであるはずも、ただ実際には段取りや調理方法を巡って班内の女子と男子が揉めるのが”お決まり”だった思い出があります。

 ちなみに私が生まれ育った内陸部の旭川市では近くに川が流れる森林公園などでよく行われたものでしたが、太平洋岸の釧路市の場合はもっぱら湖のほとりや海辺の砂浜がその会場になっていたと聞きます。

 今回のエピソードの舞台となる「新富士海岸」もうってつけの場所のひとつとして、かつては釧路市内の小中学校に多く利用されておりました。

 野外における普段は経験出来ないイベントに浮かれて不注意からの小さなケガなどはあっても、およそ大事故に発展するイメージにないこの炊事遠足、だが約50年前の釧路ではその最中に考えられない悲劇が起こったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和40年(1965年)、時は高度経済成長の真っ只中で、釧路市の経済を支える漁業・炭鉱・製紙などの各産業もまだ活況を呈していました。

 「もはや戦後ではない」と言われてから既に10年ほど経ち、戦時中の暗く辛かった記憶も確かに薄れつつあった時代の話、市街地から程近い共栄小学校では6年生を対象とする秋の炊事遠足が今年も催される運びになりました。

 新富士海岸への遠足は共栄小学校としては昭和33年から続く恒例行事であり、おそらく学童たちにとってももっとも楽しみなイベントのひとつになっていた事でしょう。

 そして、いよいよ待ちに待った遠足当日の10月5日午前、学校から4kmほど歩き海岸に到着した計357名の6年生たちは班ごとに分かれ、めいめい持ち寄った食材を用いた昼食作りの準備に入ります。

 そんな中、6年1組のとある班では女子が真面目に料理の下ごしらえをしていた一方、男子たちはと言えば協調性はどこへやら海岸に沿って散策に出かけました。

 どの時代も男子の考える事は同じようなもので、私もじっと座って調理をするなんて性分ではないため、ほったらかしで友人と悪ふざけをしていてよく教師に怒られたものです。

 さて、”探検開始”からほどなくして少年の一人が波打ち際に打ち寄せられていた見慣れない物体を発見、それは直径36cm・長さ65cm位の鉄製の円筒で、ちょうど小さめのドラム缶のような形をしていました。

 その錆びた物体の側面には大きな裂け目があり、そこから中を覗き込んだ少年の目には内部に突き出た細い棒の他は何も映りませんでした。

 それが何か知る由もなかったものの「椅子におあつらえ向き」と思った好奇心旺盛の彼はその缶を回収して一度調理場所に持ち帰りますが、やがてそれにもすぐに飽きてしまいます。

 ところが、その置き去りにされた缶を他の目的で使用する事を思いついた別の少年がいました。

 10月ともなると海風も肌寒くなっており、調理用に用意された七輪では暖を取るには物足りなかったため、近くで釣り人が灯油の一斗缶を用いていたのと同様にその缶をストーブ代わりにしようと考えたのです。

 かくして、その物体の裂け目からは炭や枯れ枝、焚き付けの紙くずなどが詰め込まれ点火されましたが、その10分後には想像を絶する恐ろしい結果が待っていました。

 その得体の知れない物とは、実は太平洋戦争中に旧日本軍が敵潜水艦攻撃用として使用していたカーリット爆雷の不発弾のなれの果てだったのです。

 側面に穴が開いていたため中身はほとんど空だったものの、一部残っていた炸薬あるいは「ただの棒に見えた」信管部の起爆薬が反応したのかも知れません、熱せられた爆雷は突然大音響とともに破裂し、その破片は10m四方に飛び散りました。

 その爆発の威力たるや凄まじく、近辺にいた数十名が一瞬にして倒れ込み、たちまち辺りはうめき声と悲鳴が響く凄惨な現場と変わったのです。

 教師たちや傍らにいた釣り人によりすぐさま救助活動が開始され、負傷者は救急車で市内の病院へ緊急搬送されましたが、最終的には至近から破片の直撃を受けた児童4名が命を落とし、31名が重軽傷を負うという大惨事となってしまいました。

 時刻は午前10時30分を過ぎていました。

 朝には笑顔で子供を送り出してから数時間も経たない内に思いもよらない連絡を受けた親たちは、病室で対面した変わり果てた我が子の姿に言葉を失い呆然とする他なかったと聞きます。

 しかし、そんな20年前の忌まわしき爆発物が何故その時海岸にあったのでしょうか。

 当初はまだそれが何か判別出来ていなかったので、昭和20年7月14~15日の釧路空襲時に落とされた米軍の焼夷弾という説や、翌10月6日には現場から約1km離れた海岸で更に一回り大きな同様の物体が見つかった事から「何者かの手によってそれらが意図的に置かれたのでは?」との憶測が飛び交い、周辺地域はしばらく混乱を極めました。

 その後、地元警察や陸上自衛隊第5師団(帯広)、更には警察庁科学警察研究所の調べでこれらが旧日本軍所有の爆雷の類である事が判明しています。

 時代を遡れば、終戦直後の昭和20年11月には、釧路に進駐してきた米占領軍の命令により、接収された弾薬・爆弾など8,000トンが沖合28kmの海中に投棄されている事実がありました。

 あるいは『日連丸・白雲遭難』のエピソードでも触れているように、戦争末期にはこの海域においても駆逐艦と敵潜水艦との間で熾烈な攻防戦が繰り広げられていたので、もしかするとその時の遺物が20年の時を経てここに流れ着いたのでしょうか。

 直前に通過した台風27号の影響で高さを増したうねりが、海流や地形の関係でもともと漂着物が多かった新富士海岸にこの”招かれざるもの”を運んできた可能性も否定出来ません。

 その原因については結局明らかにされていませんが、いずれにせよこの悲惨な事故によって失ったものは戻りません。

 当時、事故報道を受けて全国から多くの義捐金や見舞金が寄せられたものの、しかし釧路市長や市議会が時の政府に求めた「国としての補償」は戦後20年の歳月が障壁となりついに実現を見る事はありませんでした。

 亡くなった方やその遺族、そして命こそ助かったものの重い障害が残った罪なき子供たちはこの悲しみや怒りを一体誰にぶつければ良いのでしょうか。

 事が起きた時には、責任を負うべき者はもう誰もいなくなっていたのです。

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 事故から4年後の昭和44年(1969年)、釧路西港の開発計画に伴い新富士海岸一帯が埋め立てられる事になりました。

 現在、周辺に工場や油槽所が建ち並ぶもう海岸ではなくなったこの事故現場には臨海公園が作られ、その一角に建立された慰霊碑が公園で遊ぶ子供たちを見守っています。

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碑面

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碑文