北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【根室市】5・10災害海上遭難者慰霊碑

根室市】「海上遭難者之碑」

事故発生年月日:昭和29年 5月10日

建立年月日:  昭和30年 5月10日

建立場所:   根室市琴平町1

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(2016/4/23投稿)

  昭和29年(1954年)、北海道地方は未曽有の”暴風災害”に見舞われています…と言えば、歴史に造詣の深い人なら誰しもがその年9月の「洞爺丸台風」をまず思い起こすことでしょう。

 9月26日未明に九州に上陸後、発達しながら日本列島に沿って日本海を急速に北上した台風15号はその日の内に北海道に接近、秒速40mを超える猛烈な風は、世界の海難史にその名を残す程の犠牲者(1,139名)を生んだ青函連絡船洞爺丸転覆事故」を、そして市街地の家屋の約8割を焼き尽くしたと言われる「岩内大火」を引き起こしました。

 北海道の歴史上まさに空前の人的被害を呼んだこの台風災害ですが、しかしそれから遡る事4ヶ月半、同年5月9日から10日にかけて北海道を通り抜けた低気圧によって道東地域を中心に壊滅的被害がもたらされた事実については意外とあまり知られていません。

 気圧の中心示度が「952ミリバール」と、実は台風15号(956同)よりも低かったとされるこの今で言うところの”爆弾”低気圧は北海道上陸後に急激に発達、猛り狂った風雨は進路上にあった森林や集落の家屋をことごとくなぎ倒し、最後には道東の海域において操業中の漁船に”牙”を剥いたのです…そしてその多くが突然に襲いかかった風と波から逃れる事が出来ませんでした。

 道東地区の漁業関係者にとっての「昭和29年の悲劇」とは、洞爺丸台風ではなくこのいわゆる「5・10災害」の事を指すのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 北海道内では釧路と並んでトップレベル、そして全国でも屈指の水揚量を誇る「根室港」において組織的な漁業が始まったのは漁業協同組合が設立された明治45年(1912年)だと言われています。

 対馬海流(暖流)と千島海流(寒流)が行き交う近辺の海域はいにしえより豊富な水産資源に恵まれ、沿岸で獲れるサケ・マス、ニシン、タラ等の海産物は町の経済を潤しましたが、草創期の漁獲高は所詮北海道全体のそれの1割程度に過ぎませんでした。

 まだ物流手段が発達していない時代、消費地から遠く離れる当地においてはそれも致し方ない事でしょう、しかし水産物の長期保存を可能にする「缶詰技術」が地元に導入されてから情勢は一変します。

 この革新的技術は従来の海産物に加えて、これまで”捨て置かれていた”カニの市場を発掘、またとりわけ人気が高かった”サーモン”の缶詰は海外へも輸出され、”グローバル的需要”もが高まった業界は加速度的に活況を呈する事になりました。

 それに伴って魚価も安定的に上昇、かくて”儲け頭”となったサケ・マス漁は、沿岸でその遡上を待つ従来の「定置網漁」だけでは需要を満たす事が出来ず、沖合を回遊するものを”一網打尽”にする「流し網漁」へとその漁法も変化していきます。

 そしてこの流れは必然的に漁場の拡張にもつながり、地元の漁師たちはより多くの”獲物”を求めて千島列島沿岸を北上、昭和初期にはその範囲はカムチャツカ半島付近の北千島にまで及んだのでした。

 もっとも、排水量10トンにも満たない当時の古い小型船での遠征はまさに命がけであり、その行程においてはやはり多くの不慮の事故が発生したと聞きますが、それでも”海の猛者たちの飽くなき開拓”はひるむ事なく展開されていきました。

 かくして、かつてない繁栄に沸く根室のサケ・マス漁でしたが、しかし昭和16年(1941年)から始まった太平洋戦争がその後地元に大打撃を加える事になります。

 戦争末期の昭和20年(1945年)7月14日から15日にかけて、太平洋上の空母から飛び立った百機あまりの米軍機による突然の空襲において根室町(当時)は約2,400戸を焼失、そして住民400名弱の生命が奪われるという道内最大規模の戦禍に見舞われ、当然のごとく船舶や港湾施設も手ひどく損害を被りました…この惨状を前に愕然として色を失う漁業関係者でしたがむしろ、彼らにとっての本当の悲劇が始まるのはこの後だったのです。

 『三船殉難事件』のエピソードでも少し触れていますが、その空襲の傷も癒えぬまま迎えた同年8月15日の戦争終結直後において、今度は”火事場泥棒”さながらに不法侵攻してきたソビエト連邦軍により千島列島のすべてが武力占領されてしまいます、そしてそれは今まで確保してきたサケ・マス漁場の内の実に9割を失う事を意味しました。

 この1~2ヶ月の間に立て続けに起こった思いもよらぬ敵襲によって完膚無きまでの壊滅状態に陥った根室の漁業、今後の対策にも窮する状況にまったく途方に暮れる他ありませんでしたが、生きていくためにはいつまでも意気消沈している訳にもいきません、その後彼らは新しい漁場を求めて太平洋という”新天地”へ挑んでいったのです。

 さて、そんな過去を経つつ、時は昭和29年を迎えます。

 5月9日の朝、朝鮮半島沖の日本海上に弱い低気圧が発生、確認した札幌管区気象台ではその気圧の配置状態からして北海道到達時にはせいぜい「980ミリバール」程度の発達に収まるものと当初は予想していました。

 ところが、それは北上するに連れて過去の事例からは考えられない”異常な成長”を見せ、伴い気象台からの発令も「強風注意報」から「風雨注意報」、そしてその日の深夜には「暴風雨警報」とその内容が慌ただしく変わっていきます。

 気象台の予想が追い付かないほどの”変貌”を遂げつつ道南の江差町付近から北海道へ上陸した低気圧は尚も発達しながら東北東の方向へ進路をとり、その過程において秒速35mにも達した暴風は、十勝地方に4千戸の家屋の全半壊や列車の脱線事故などの深刻な被害をもたらした後、更に東へと向かっていきました。

 その頃、根室の南東沖の太平洋上では花咲港などから出港したサケ・マス漁船200隻余りが操業していました。

 先の終戦後の苦難を経て、太平洋の沖合において新たに有望な漁場を発掘した事で活気を取り戻しつつあったサケ・マス漁は、これまで足かせだった「マッカーサーライン」(漁業制限領域)が昭和27年に撤廃された背景もあってその操業範囲を更に拡張・展開中だったと聞きます。

 豊漁が予想されたその年、いよいよシーズンを迎えた漁師たちの意気込みも相当なものだったでしょう、しかしその時目前に迫っていた嵐によってそれが悪夢に変わる瞬間を彼らは体験する事になるのです。

 しばらくして、徐々に強まる風と波に漁船は翻弄され始めます…これが更に悪化するであろう事は雲行きとその長年の勘で予想がつきました、だがここは港から遠く離れた太平洋の大海原、逃げ場もない状況で突如荒れ出した海に彼らにはなすすべがありませんでした。

 然して、暴風の影響でたちまち波高15mという大時化(しけ)となった海域は”修羅場”と化していくのです。

 それにしても、昨晩の内に暴風雨警報が気象台や海上保安部からも発令され”警鐘”が鳴らされていたにも拘らず、何故それが彼らには届かなかったのでしょうか。

 函館港などを基点とする大型の母船(指令船)と多くの中型船が緊密な連絡を取り合い大船団を形成する「北洋サケ・マス漁業」に対し、一方根室界隈では排水量10トンレベルの小型漁船が各々独自に出漁するという旧態依然の漁業形態であった上に、それら旧式船の内の実に6割以上には無線はおろかラジオすら備わっておらず、つまり出港後の彼らには警報を耳にする事も、ましてや仲間に状況を伝えたり救助を求める手段さえなかったのです。

 そしてもしかするとそれ以上に、先に記したような昭和初期からの様々な”土壇場”をくぐり抜けてきた勇猛な漁師たちにとって、少々の時化など乗り切れるという自信(あるいは慢心)があったのかも知れません…だが今回の”大嵐”はその想像を遥かに超えるものでした。

 無線装備船からもたらされた第一報により、一帯が大時化に襲われ甚大な被害が生まれている事は確実視されたものの、前述の通り漁場が拡大する中に点在し遠くは200マイル(約320km)の沖合にまで達していた船もある状況で、その各々の足取りや安否を確認するのは極めて困難でした。

 港では誤報や憶測紛いの情報が錯綜し、それは報道内容が二転三転する当時の新聞を見てもその混乱ぶりが窺えます。

 正しい情報が伝わらず家族が不安と苛立ちを募らせる中、命からがらにやっとたどり着いた”満身創痍”の漁船がやがて続々と花咲港へ帰港、その通報内容により被害規模が徐々に明らかになっていきますが、九死に一生を得たベテラン船長が「その人生において経験した中でも最大の時化」について生々しく語った新聞記事の内容からは、この嵐から生還出来た事がいかに”神がかり的”であったのかが伝わり、そしてそれは同時に消息不明船の運命がもはや絶望的状況にある厳しい現実を裏付けるものでした。

 この前例なき大規模遭難に際し、海上保安庁の巡視船や米軍機、後には横須賀基地から招聘されたフリゲート艦10隻までをも駆使しての懸命の救助活動が災害発生のあくる日から2週間にわたり休みなく行われています。

 依然大荒れの海域において自らも遭難しかねない状況下での捜索は難航を極めたそうですが、それでもこの間には、絶望視されていた船が10日間もの漂流の後、花咲沖150マイル地点にて奇跡的に発見され無事保護されたり、航行不能の状態で国後島沿岸まで流され実はソ連軍に拿捕・連行されていた3隻が2週間後に解放・帰還するといった思わぬ明るいニュースも報じられました。

 しかしその他の多くの船については吉報が届く事はなく、そして5月25日、未帰還船を多数海に残したまま無念にもその捜索が打ち切られたのです。

 ”記録破り”の低気圧がもたらしたこの海難事故による最終的な被害は、太平洋上のサケ・マス漁船だけでも沈没・消息不明合わせて38隻、死亡・行方不明者323名にのぼり、その他知床沖などで遭難したものを加えると約400名がこの時命を落としたと言われています。

 ”死と隣り合わせ”の危険な仕事と日頃から覚悟していたはずもいざ”大黒柱”を亡くした家族や、大枚を叩いてやっと手に入れた船ばかりか大切な従業員までをも失ってしまった船主が悲嘆・落胆の極みにあったのはもちろん言うまでもありません。

 この災厄が心の傷となり二度と海に戻る事のなかった漁師や、すっかり気力を失い廃業した船主もあったそうです、しかし他方「海での借りは海で返す」とばかりに再起を決意する”生まれながらの海の男”たちがいました。

 そしてその後、国からの「漁業災害復旧金」や銀行の「特別融資」、あるいは地元漁協が資金難の組合員のためには自ら保険料を立て替えてまでも加入を推進していた「労働災害保険」の還付金などを元手に、30トンレベルに大型化された漁船が次々と新造され、根室の漁業はこの悲劇を”ばね”にして一気に近代化が図られていったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 このような苦難の歴史を重ね来て、今や全国でも有数の漁業の一大拠点となった根室ですが、しかし現在思わぬ”苦境”に立たされています。

 平成27年(2015年)、ロシア政府が同国沿岸から200海里内でのサケ・マス流し網漁を翌年より無期限全面禁止する旨を突然発表、それは戦後における日ソあるいは日露政府間の交渉によって一部操業が再開されていた同海域からの日本漁船の閉め出しを意味しました。

 「海洋資源の保護」という名目ながらも、その実「ウクライナ問題に端を発した経済制裁へ対する報復」であろうこの一方的措置によって根室の経済が受けるダメージはもちろん小さくありません。

 ロシアの常套手段であるこの”揺さぶり外交”が今後の政治の動きによってどう変わるのか見極めなくてはなりませんが、当面回復の見込みが立たない以上、地元では減船措置や関連事業の大幅な縮小を余儀なくされています。

 素人が軽々しく口を挟んではいけない領域ながらも、思うに根室には「外国に依存するがために外交問題が起こるたびそれに振り回される状況」から早く脱却し、養殖技術の確立・事業拡大など将来を見据えた経済モデルへと移行していかなければならない時期が訪れているのかも知れません。

 その100年以上の歴史の中で、終戦直後の漁場喪失やこの「5・10災害」、そして昭和52年のいわゆる「200海里問題」と、幾度叩きのめされながらもその都度立ち上がってきた道東のサケ・マス漁はここに来てまた”正念場”を迎えているのです。

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碑面

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碑文

【雄武町】雄武町所在慰霊碑

雄武町雄武町所在慰霊碑

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(2016/4/13投稿)

  紋別郡雄武町(おうむ)は宗谷管内と境を接するオホーツク管内北端の町です。

 町の経済を支える産業としてはサケ・マス・ホタテを代表とする漁業・水産業を中心に、加えて林業・酪農業も盛んですが、人口は現在5千人足らずと年々減少傾向にある流れには逆らえず、やはり他の町村と同様、高齢化や伴う諸産業の後継者不足は地域が抱える悩ましい問題だそうです。

 多分に漏れず、今後の過疎化対策に課題を残すオホーツク海沿いの静かなこの町ですが、しかしかつては大勢の人々が集い「ゴールドラッシュ」で栄えたという華やかな歴史を近隣町村とともに持っています。

 時は今から遡る事約120年の明治30年頃、かねてから「金」(きん)を求めて道内の山々を渡り歩いていた”冒険者”の手によって、北に隣接する「枝幸郡枝幸村」(現・宗谷管内枝幸町)域内の複数の河川域で大量の「砂金」が発見されました。

 「金本位制」の下、重量0.75グラムの金が当時のレートで「1円」の価値があった時代、その噂は即時にあまねく拡散され、話を聞きつけた延べ数万人とも言われる”一攫千金”を夢見る人々が当地へ殺到、その”乱獲”により近辺のそれらはあっという間に採り尽くされてしまったそうです。

 ただ、砂金が採れるという事は周辺における金鉱脈の存在の可能性を裏付けており、大正初期頃からいわゆる「山師」と呼ばれる人々によって一帯の山々の地質調査が行われていますが、もちろんそうそう簡単に見つかるものでもなく、探鉱作業は難航を余儀なくされていました。

 そんな中の大正10年(1921年)5月、雄武村内陸部の山林で山火事が不意に発生、折からの強風にあおられ拡がった猛火に村民にはなすすべもなく、見る間に38平方kmもの広大な森林が焼き尽くされてしまいます。

 こうして、貴重な木材資源を多く失い大打撃を受けた雄武村でしたが、実はその災いが転じて村には新たな”福”がもたらされる事になるのです。

 この災害により一見資産価値がまったくなくなってしまった見るも無残な一帯、しかしその後山に入ったとある山師が焼け跡の山面に露出していた岩石からなんと金を発見、詳しい調査により近辺に有望な金や銀鉱床がある事が確実視されました。

 まるで”おとぎ話”のような成り行きの末、遂にその位置を”人間に突き止められてしまった”金山には潤沢な資金に飽かして採掘権を得た本州の大資本により早速鉱業プラントが置かれ、現地では昭和3年(1928年)頃から採掘作業が始まっています。

 初めこそ小規模な人員と設備にていわば”半信半疑”で着手された作業でしたが、掘り進む内に間違いなく一帯が良質な鉱脈であるとの確証を得た会社は、いよいよ大々的な設備投資展開を決定、ここ雄武村に「北隆鉱山」の金銀採掘という一大産業が誕生した瞬間でした。

 この流れは当然ながら、これまで寂れた漁村だった当地の人口を飛躍的に伸ばし、雇用の増加と伴う消費活動が経済の活性化を促す事になります。

 多い時には500人ほど居たと言われる従業員の住宅や子女のための学校などが鉱区の近くに急遽”造成”された地に次々と設けられ、当時「山中の不夜城」と呼ばれたほどに界隈は活況を見たそうです。

 さて、開鉱当初における北隆鉱山の業務内容は、坑内から採掘の後現場で破砕・粉砕処理された金や銀が含まれる粗鉱をふもとの「元稲府港」(もといねっぷ)まで運び、そこから大分県にある親会社の製錬所へ向けて船で積出しするというものでした。

 その当時北海道内に多くあったこの会社が所有する金鉱の中でも群を抜く産出量を誇ったこの鉱山とは言えども、漫画やアニメのように地中から輝く金銀が”ざくざく”と採れる訳ではありません、鉱石中にわずかに含まれる成分を特殊な工法(製練)で抽出するのですが、比較的”歩留まり”が良かったここですら、重量1トンの粗鉱から採取出来た金は平均5.7グラム(銀は26グラム)に過ぎなかったと言われています。

 つまり、その内のほんの一部を抜き取るために、ほぼすべてが不要となる”砂利や石ころ”が北海道からわざわざ九州まで搬送されているという現状であり、誰の目から見ても明らかなこの輸送コスト面での非効率性を改善するため、会社側では現地で製錬処理すべく施設の新設を計画、昭和10年には山中に新しい青化製錬所が完成しました。

 それに先立ち実施された採掘方法の改善(手堀り→削岩機使用)や専用軌道の敷設なども含め、こうして着実に機械化・自動化が推進され規模の拡大を見る鉱山設備でしたが、ここにきて「電力不足」という不安要素が生まれてきます。

 これまで近代産業とはほぼ無縁であったこの地域では都市部と比較すると当然のように電化が遅れており、一帯における発送電事業の構想が持ち上がったのは大正7年(1918年)だと言われています。

 その後、利権が絡む代議士同士の発電方法を巡る対立などがありつつ、最終的に「雄武川」水系における水力発電所の新設が決定、昭和3年(1928年)には札幌の企業などからの資本を集めた電力会社が地元に設立されました。

 奇しくも北隆鉱山の採掘開始年と一致しますが、もちろん鉱山への供給をも構想に入れていたと思われる発送電設備建設工事は2年間の工期を経て完工、やっと雄武市街に電気の灯がともったのは昭和7年(1932年)になってからの事です。

 しかし、青写真では最高容量「200キロワット」を誇るこの発電設備はいざ稼働に至って河川水の流量不足により設計通りの能力を発揮する事がほとんど出来ず、市街地の一般家庭への送電レベルならともかく近代化が進む鉱山設備に電力供給するにはまったく”期待外れ”な代物だったのです。

 一方、増えるばかりの従業員住宅への供給などを含めて、今後予想されるさらなる電力需要増に際して現行の自家発電設備だけでは心許ない事情にある鉱業所側からしても、その対策として新しく建設される発電所からの供給が当て込まれていたかも知れません。

 その思惑が外れて困った鉱山会社から何らかの要望を受けた可能性もありますが、高需要と伴う利益が見込まれる”大口得意先”を前にしながら満足に送電も出来ないという”大誤算”に見舞われた電力会社が最終的に決断した善後策は雄武川と比較して遥かに水量が多い村の北端を流れる「幌内川」水系に「ダム式発電設備」を新たに建設する事でした。

 そして完成から3年も経たない内に”見限られた”従来の発電設備は、新発電所建設資金を捻出するため、昭和10年(1935年)にはその一切合切が他の電力会社へ20万円(当時)で売却されています。

 かくて、電力需給の立場から見て双方に利益をもたらすものと期待が込められた「幌内ダム」の建設は昭和14年1月に起工され、急ピッチに工事が進められていったのです。

 さて、前置きがかなり長くなってしまいましたが、そんな歴史を持つ現在の雄武町内にはこの微妙に相関する「北隆鉱山」と「幌内ダム」にまつわる2基の慰霊碑が建立されています。

 ひとつは元稲府市街から西方内陸へ十数km入った鉱山跡地の山腹に、そしてもう一方は雄武町域最北端の幌内川河口地点と、まったく離れた場所にある碑ですが、同じ時代に華々しく登場し、そして実はその終焉時期も似通うこれら二つの「事業所」において起こった慰霊碑建立の由縁となる悲しい出来事を各々紹介したいと思います。


雄武町】「北隆鉱山慰霊之碑」

事故発生年月日:昭和14年 2月 7日

建立年月日:  平成 6年10月

建立場所:   紋別郡雄武町上雄武

 大正初期に発見・採鉱が始められたとされる当時北海道で随一の”大金鉱”であった「鴻之舞(こうのまい)鉱山」(紋別市)をも凌ぐ高品位の金を産出する「北隆鉱山」が雄武に誕生したいきさつについては先に触れた通りです。

 昭和3年に採鉱が開始されてから安定的に増え続けた産金量はその後の更なる設備投資を促し、軌道敷設(昭和9年)、製錬所建設(同10年)など鉱業所設備も拡充されていきました。

 また、坑内設備や掘削工具などが順次改善された採掘作業場でも災害や重大事故の発生が年々減っており、事業後半におけるその労働環境はそれほど悪くなかったとも聞きます。

 こうして、当初従業員28人で発足した北隆鉱山は昭和12年(1937年)にはその数500人と、地元の雇用安定と経済発展に大きく寄与する産業となったのでした。

 しかし一方、急激に規模が拡大された事業は鉱毒事故という弊害を生み出してもいます。

 昭和10年から始まった製錬処理の工程で使用される猛毒の「シアン化ナトリウム」(青酸ソーダ)が、処理後の残滓置場の土中から浸出し近くを流れる「音稲府川」(おといねっぷ)へ混入、川はおろか河口域のオホーツク海沿岸の魚介類までをも死滅させるという大事件が発生しました。

 深刻な被害を受けた地元漁協などからの賠償や改善要請に対して、当初鉱業所側はその因果関係を認めなかったため事態は紛糾、数年にも及んだ紛争は後に2万円余り(当時)の賠償という形で一応の解決を見ましたが、とりわけ漁業関係者との間に大きな禍根を残す事になったのでした。

 さて、この良くも悪くも発展を遂げる鉱業所に勤める従業員やその家族の生活はその頃どのようなものだったのでしょうか。

 鉱区においては急増する従業員に向けたインフラ整備のために沿線の山腹のあちらこちらが開削され、住宅や小学校(分校)、病院などの施設が短期間に用意されています。

 更には、娯楽施設や運動場などの福利厚生関係、あるいはいわゆるライフラインも比較的充実しており、日用品の調達についても会社側から手配された施設によって滞りなく各戸へ供給されていたと言います。

 この環境整備に際して相当な費用が投じられたのはもちろん言うまでもありませんが、別の目線から見ればその提供を惜しむ理由がない程に、この事業がいかに多くの利益を会社へもたらしていたかを理解する事が出来るでしょう。

 このように、当時の一般庶民よりおそらく恵まれた人々が”快適”な生活を送っていたであろう、人口2千人あまりの”山中の街”を突然の悲劇が襲ったのは昭和14年(1939年)の冬の事でした。

 その年、北海道地方は各地に渡り未曽有の大雪に見舞われ、例えば札幌市では現在に至るも観測史上最高値である最深積雪量(169cm)を2月に記録していますが、しかし中でもその影響をもっとも受けたのが雄武村が属する「網走支庁管内」だったのです。

 当時の積雪の記録によれば、網走管内各地域の最深積雪量の平均値は道内最高の206cm(2月23日に記録)に達し、これは気象庁に残る過去データと比較しても最大級のものでいかにその時の大雪が記録的だったのかを物語っています。

 そしてこの時実際、雄武村そして北隆鉱山近辺の積雪がどれ程であったのかは定かでありませんが、もともと網走管内の中では降雪量が少なくなく、ましてや山奥地である鉱山界隈が相当の豪雪の中にあったのは想像に難くありません。

 そんな状況の2月7日午前11時30分頃、鉱夫住宅エリア裏手の山面で前触れなく大規模な雪崩が発生し、8世帯集合の長屋形態の住宅1棟が巻き込まれて倒壊、この災害事故で未成年者9名を含む14名が命を落とす大惨事となってしまいました。

 憶測の域を出ませんが、前述の通り増加する従業員対策として住宅を拡充するに当たり、用地が手狭になる中で、もしかすると当初は置く予定のなかった山面の直下にまでも建てざるを得なくなっていたのかも知れません。

 その犠牲者の中には幼児が多く含まれており、父親や兄姉が職場・学校から帰って来るのを家で今か今かと心待ちにしていたであろう光景を想像すると胸が痛みます。

 かくて、業務中の事故による死亡者数が過去に1人(昭和10年10月14日)という、他の鉱区と比して労働災害面ではかなり”優秀”であった北隆鉱山は、思いもよらぬ気象災害によってその歴史に悲しい1ページを残したのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 まさに”北の大地で隆盛を誇った”北隆鉱山も昭和14年をピークに産金量が減少傾向にあり、明らかにその勢いには翳りが見えていました。

 そして、戦時体制という情況も業界に暗い影を落とします。

 軍需における重要品目であるため鉱工業に対しては既に様々な法整備、つまり”国家統制”が敷かれていましたが、昭和15年には「重要鉱物増産法」に基づく「不合理鉱区の整理促進」策が推進されていきます。

 これは要するに「全国に散在する生産効率の悪い小規模鉱山を整理して産出量の多い鉱区に労働力を集中させる」という戦時下の国策であり、それは鉱種の選定にまで波及しました。

 その内「金・銀」などの希少金属類は、序文で記したように人手を多く使う割には非常に歩留まりが悪いという非効率生産鉱物の代表格的存在である上に、国際世論の悪化により世界各国から日本への経済制裁が強まり始めたこの頃に至っては海外からの資源調達における”軍資金”としての利用価値をも失いつつある状況の中、かつてあれほどもてはやされたこれらの鉱物はもはや「不要・不急品」に成り下がってしまったのです。

 こうした流れを受け、鉱山監督局からの命令によって最終的に北隆鉱山が閉山に追い込まれたのは太平洋戦争勃発後の昭和18年(1943年)の事でしたが、その3年前において事実上”山の運命”は既に決まっていたと言えるでしょう。

 この措置により鉱山労務者は別の鉱区への転出を余儀なくされ、昭和15年の最盛期には7,723人(1,634戸)であった雄武村の人口は閉山後の昭和19年には5,344人(980戸)にまで激減しています。

 明治時代の「ゴールドラッシュ」に始まり「北隆鉱山」の終焉までの約半世紀にわたって「金」に振り回され続けた雄武村はこうしてある意味”狂騒の時代”に一区切りをつけたのでした。

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碑面

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碑文

雄武町】「辛巳遭難慰霊碑」

事故発生年月日:昭和16年 6月 7日

建立年月日:  昭和16年10月

建立場所:   紋別郡雄武町幌内

 辛巳遭難慰霊碑は雄武町の北端、幌内地区(ほろない)の神社地先にある「史蹟公園」内に建っています。

 ちなみに「辛巳」(かのとみ/しんし)とは60年に1度巡って来る干支の組み合わせのひとつであり、この場合は昭和16年(1941年)の事を指すのですが、碑にはその年の6月、この地で起きた前代未聞の災害事故によって犠牲となった多数の住民の御霊が祀られています。

 太平洋戦争開戦直前の折、新聞紙上ではあまり大きく取り上げられませんでしたが、その悲劇とは地域一帯に恩恵をもたらすために造られた「巨大建造物」が逆に地元集落を壊滅へと導く結果を招いた、いわば”天災の力を借りた人災”と言えるものだったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 遡る事9年前の昭和7年(1932年)、地元電力会社の手により雄武川流域に建設された発電設備は雄武市街に初めて本格的に電気を供給するという”快挙”を成し遂げました。

 しかし計画に反してのその余りにも”非力”な性能は、折しも村内に誕生・発展中だった「北隆鉱山」などの大口需要を満たす事が出来ず、その解決が事実上不可能だった電力会社は早々にその施設と権利を売り払い、ここ幌内に活路を見出す決断をします。

 この地には豊富な水量を誇る「幌内川」があり、その他の立地条件も整っていた事から、ここに大規模な「ダム式発電設備」を新設、先の鉱山や地元地域、さらには北に隣接する「枝幸村」の需要をも視野に入れ、広域における新規発送電事業を起ち上げるつもりだったのです。

 かくして、「幌内ダム」と名付けられた重力式コンクリートダムの建設工事は幌内川河口から4~5km遡る山間の谷に長さ約160m・高さ約13mにわたり築かれるべく昭和14年(1939年)より起工されたというくだりまで序文にて記しました。

 さて、この工事はとにかく完成を急ぐ必要に迫られていました…その大きな理由のひとつはこの電力会社が主に札幌の企業などからの出資金を募って設立された営利目的の「株式会社」だったところにあります。

 明治中期の札幌から始まったとされる北海道の電力事業の歴史ですが、その後需要は地方へ拡がり昭和初期に至ると地場における発送電あるいは配電権の独占を目論む電力会社が道内各地に乱立しました。

 もちろん、事業を起ち上げるためには発送電設備の建設などにかかる莫大な費用を初期段階で準備する必要があり、元手の少ない起業家は”外部株主”からの出資金に頼らざるを得ませんでしたが、もはや「電力の需要は急増しても減る事はない」と目されていたので、その利益配当を当て込んだ資産家や企業からの資金は割と順調に集まったとも聞きます。

 構想的には「地域住民や企業が生活水準・業務能率向上のために電気を”どんどん”買い、そして電力会社やその投資家たちが”益々増えゆく利益”を享受する」という構図が描かれていた訳ですが、ただそれもこれも需要と供給のバランスが取れていてこその話であり、ここ雄武の場合はその面で完全に失敗した事例と言えるものでした。

 設計通りの発電能力に至らないがため小口需要のみに電力供給している現状では株主配当どころか、初期投資分の回収や自社の利益確保すらままならず、「話が違う」とばかりにおそらく相当の”突き上げ”と”債務返済”に迫られていた会社はこの幌内ダム発電事業での起死回生を図っていたと思われます。

 こうした背景もあり、急ピッチに進められた工事は昭和14年1月~昭和15年12月という2年足らずの工期にて完工しました。

 この規模のダムを建設するにしては相当なスピード工事と言えますが、前述の北隆鉱山のエピソードでも触れたように昭和13年から14年にかかる冬季において界隈はかつてない記録的な大雪に見舞われており、当時の記録では網走地方の根雪が消えたのは4月末とされていますので、まさかにも大雪の中での工事が”強行”されない限り実際の建設に携わった期間はもっと短かったのではないかと推察されます。

 とにもかくにも、”外観上”立派なダム発電所がここに完成し、発送電許可を得るべく当局による現地検査実施の手配が直ちになされます…ところがこの”急ごしらえ”の設備は早くも”ほころび”を晒す事になるのです。

 検査直前のある日、試運転中だった発電施設で突然火災が発生、人的被害はなかったものの設備が損傷した事から当然検査は見送られ事業はしばらく”足留め”を余儀なくされる羽目となりました。

 その出火原因は記録に残っていませんが、再検査申請まで半年間を要している事から見ても、発電装置本体に不備・欠陥があった可能性は否定出来ません。

 急げば急ぐほど問題が巻き起こり、まさに”踏んだり蹴ったり”の状態でしたが、ダム建設のため当時の金額であらたに30万円の投資を受けていた会社は、本業での”実入り”がない以上、再開の目処がつくまでの当面の間、他に収入を求めるしかありませんでした。

 そのため幌内川上流で切り出した原木を水路にてふもとへと運ぶ「木材流送」という”畑違い”の仕事にまで携わっていたと聞きます…だが会社存続のための止むなき対応だったこの”副業”が後々の大惨事を招く”引き金”となってしまうのです。

 こうして半年が経った昭和16年5月末、不慮の事故によりダメージを受けた発電設備は懸命の修復作業の末復旧され、ようやく再開の見通しが立った事業所からは、あらためて検査願いが北海道庁へ提出されるに至ります。

 今度こそ何事も起こらないよう誰もが願った事でしょう、しかし不運を通り越してもはや”呪われた”この事業所はまたしても、そして”最後”のトラブルに見舞われる事になります…ただし今回ばかりは自らの不幸だけに留まるレベルでは済みませんでした。

 昭和16年(1941年)6月6日、折からの悪天がその日の夜半より突然豪雨となり、それは翌朝まで勢いが衰える事がありませんでした。

 当時の新聞には「北見・網走地方で河川の氾濫などにより合わせて5平方kmもの田畑が浸水被害を受けた」との記事があり、また現代から遡って当該地における過去6月の月間降水量データを見比べてもその年の数値が突出して高いところから、「治水」が行き届いていない時代であった要素を差し引いても、その時の「暴雨」がいかに凄まじいレベルであっただろう事が窺えます。

 この集中豪雨の影響で、他の河川と同様に幌内川は瞬く間に増水、その流れが河口から4~5kmという比較的下流域に設けられた幌内ダムへ至るまでには既に濁流と化していた事は言うまでもありません。

 だが、ダムを襲ったのは激流だけではありませんでした、事もあろうに前述”副業”によって上流側で切り出し留め置かれていた大量の原木が流出し一気に押し寄せてきたのです。

 まるで”巨大貯木場”となったダム湖では、この原木や山から流されてきた大小の倒木など無数の樹木によってことごとく取水口や放水路が隙間なく閉塞され、かくて放水機能を喪失したダムはとてつもない水圧を一身に受ける事になります。

 しかしやがて、湖が”満杯”となったその時…遂に持ちこたえられなかった幌内ダムは中央部分から大きく決壊、一気に解放された”湖水”はふもとへ向け”怒涛”の勢いで下っていきました。

 思うに、いくら満水状態だったとしてもコンクリートダムがこれほど簡単に決壊するなど余程の設計か施工のミスがない限り本来起こり得ない事です。

 幌内ダムは重力式、つまり自重のみで水圧を支えるという構造上、他方式と比べてもちろん堅固な造りでなければならなく、コンクリートの使用量も当然多い訳ですが、戦時体制の折、その資材調達に際し果たして設計通りの品質と量を十分に確保出来たのか甚だ疑問に残ります。

 加えて、前述の通りこの工事は完成を急ぐあまり、補強の不備やコンクリートの養生期間の不足などの要因でそもそも設計強度に足りていなかった可能性を指摘されており、「欠陥工事」と当時の新聞紙上で断じられるだけの理由がそれなりにもあったのだろうと言わざるを得ません。

 さて、濁流が向かったその先、「下幌内原野」一帯には牧場や畑地を営む30戸(113名)の集落がありました、先人たちによって森深い未開地が苦闘の末耕地にされた歴史を持つこの場所でしたが、まさに今、そのすべてを無に帰す程の危機がここに迫っている事など彼らには知る由もなかったでしょう。

 決壊から数分も経たずに到達した逆巻く奔流は一説には「高さ5メートル以上」にも達していたと言われています、その水勢のみならず一緒に率いてきた原木により”破壊力”を増した濁流に飲み込まれた集落はひとたまりもありませんでした。

 そして非情にも、逃げる間もなかった大勢の人々もろとも、流域一帯にあったすべての家屋が見る間にオホーツク海へと押し流されていったのです。

 地元新聞の第一報で「集落住民全滅」とまで報じられたこの悲劇においては60名が帰らぬ人となりました、ただ”唯一の救い”は集落の学童たちのほぼ全員が高台にあった国民学校へ登校していたためこの災禍から逃れた事でしょうか。

 その日は土曜日だったものの今とは違い当時は当たり前に午前中の授業・教練があった時代でした、それにしてもダム決壊時刻が午前9時過ぎだった事実から思えば、もしそれがもう少し早い時間帯あるいは午後から発生していたとしたら、それは形容しがたいもっと恐ろしい結果になったであろう事は容易に想像出来ます。

 しかし一方、この災害により両親や身寄りをすべて失った18名の「孤児」が生まれました…後日全員に「里親」が見つかったとの話も耳にしますが、彼らのその後の人生においても、「家や親たちが濁流にのまれ海へと消えてゆく様を高台の上から唯々見ているしかなかった」というこの辛い記憶と傷跡がもちろん消える訳もなく、先程”唯一の救い”などと軽々しく記した事を反省しなければなりません。

 かくして、幌内における発送電事業の夢は多くの人命とともにここに潰えましたが、その後被害者に何らかの補償がなされたのか、それとも”天災の結果”として扱われてしまったのか、その事故処理方法については記録がなく杳(よう)として知れません。

 そして、決壊後そのまま放置された幌内ダムは戦後改修され一時期は発送電が行われたものの、現在はその役目を終え”人目に触れない”場所でひっそりと「砂防ダム」としての余生を送っています。

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碑面

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碑文

【七飯町】ばんだい号遭難者慰霊碑

七飯町】「ばんだい号遭難者慰霊碑」

事故発生年月日:昭和46年 7月 3日

建立年月日:  昭和47年 7月

建立場所:   亀田郡七飯町東大沼(横津岳)

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(2015/11/1投稿)

 はるか道南を目指して道央自動車道を走ってきました。

 道東を発ってから約6時間、道中目にしてきた山々と比べひと際異彩を放つ駒ヶ岳の景観を左手に望みながら、現時点で南端終点の「大沼公園IC」を降りると渡島管内七飯町(ななえ)の域内に入ります。

 そして、その噴火活動によって生まれた駒ヶ岳山麓に点在する大小の湖沼を中心に成す広大な「大沼国定公園」を通り抜け、いよいよ函館を目前にして左側奥手に見えてくる山が、かつて渡島管内の最高峰であった「横津(よこつ)岳」(標高1,167m)です。

 ”かつて”というのも妙な表現ですが、実は平成18年に檜山管内熊石町が八雲町との合併ののち渡島管内へ編入された事によって、同町とせたな町の境に跨る「遊楽部(ゆうらっぷ)岳」(標高1,277m)にその座を追われてしまったのでした。

 さて”元”最高峰と言っても傾斜も比較的緩やかで全般に平坦な山であるこの横津岳、南西側斜面には頂上まで至る舗装道路が整備されており、沿線ではスキー場やゴルフ場などのレジャー施設も営まれていた事から、好況な時代にはその利用客やハイキング、あるいは函館の”裏夜景”を楽しむ人々で大変賑わっていたそうです。

 しかし時は過ぎ、経営難のためかそれらの施設は2000年代に入ってから相次いで閉鎖、件の道路も路面損壊の影響で基本通年通行止めになった現在では、人の姿を見る機会もめっきり減り、以前の活況を見る事はもうありません。

 かくて今はすっかり静寂が戻った横津岳ですが、その山腹、標高900m地点の丘の草藪を分けて行くと少し開けた場所にひとつの石碑が建っていました。

 これは今から約45年前にここであった航空機事故にまつわる慰霊碑なのですが、旅客機を対象にすれば、死亡を伴うものとしては北海道内で初めて、そして今のところ唯一であるこの墜落事故の発生原因については未だに不可解な点が多く残されています。

 昭和46年(1971年)7月3日午後6時10分頃、札幌(丘珠空港)から函館へ向かった東亜国内航空のプロペラ旅客機YS-11型「ばんだい号」が着陸直前に墜落、乗員乗客合わせて68名全員が亡くなるという大惨事が起こりました。

 「函館空港上空に達し、これから高度を下げる」との午後6時5分の交信を最後に無線連絡を絶ったばんだい号、しかし翌日無残にも粉々となったその機体が発見されたのは空港から北方へ18kmも離れた横津岳南西側の山腹だったのです。

 交信内容から察するに空港上空において着陸態勢に入っていたはずの機がなぜまるで方角違いの山中に墜落したのか、当時ジェット旅客機に全機装備が義務付けられていたフライトレコーダーやボイスレコーダーがプロペラ双発のYS-11型機にはまだ備わっておらず、更にここには空港監視レーダーも導入されていなかったためその状況や原因がまったく分かりませんでした…最後の交信から墜落までの5分間、ばんだい号で一体何が起こったというのでしょうか。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 7月3日の札幌丘珠空港は厚い雲に覆われ時折激しい雨が降るあいにくの天気でした。

 その日は、北海道西方の日本海上にあった低気圧から伸びる温暖前線の影響で道内の広い範囲にわたって雨に見舞われたため、ローカル便を中心に空のダイヤが混乱、航空各社は慌ただしくその対応に追われる事になります。

 そんな中、観光シーズンの到来を迎え64名の乗客で満席となった東亜国内航空63便は、到着地の天候不良が懸念されつつも定刻よりやや遅れた午後5時31分、悪天をついて函館へ向け丘珠を後にしました。

 午後5時発表の函館空港周辺の天候は風雨が強く、朝9時提供の天気図から予想される状況より明らかに悪化していたものの、否応なく欠航が強制される基準までには至っていなかったため、運航責任者と機長の判断で予定通りのスケジュールが決行されたのです。

 離陸から15分後、巡航高度に達した機は南南西の方角へ一直線の航路を進行、その30分間余りのフライト中、晴天時なら眼下の支笏湖噴火湾などの絶景が楽しめたはずのコースも、その日視界に入るものは敷き詰められた雲以外になく、期待を裏切られた観光客はさぞがっかりした事でしょう。

 こうして、平時とは様々に違う状況下での航行を余儀なくされる63便でしたが、実はもうひとつコックピット内にも普段と異なる光景が見られました。

 2名の客室乗務員を含む計4名の乗員にて運航されるこの旅客便、総飛行時間約1万5千時間のベテランパイロットが機長を務めていましたが、その隣りに座る副操縦士はこれまでのキャリアこそ長いものの日本国内における民航機の操縦経験わずか150時間余りというアメリカ人パイロットでした。

 そして、その日に限ってはこの”青い目”の副操縦士が機を操り、彼にとって初めてとなる函館へのフライトを機長が「教官」として指導・補助する役回りになっていたのです。

 航空法に抵触しないとは言え、すこぶる天候条件が悪い中でなぜわざわざ国内経験の浅い外国人パイロットに操縦を任せる事になったのか、その経緯を知るにはこの頃の時代背景と置かれた状況をまず把握しておかなければなりません。

 太平洋戦争の終戦後においてアメリカ占領軍からの命令により禁じられていた国内航空の運営も昭和25年(1950年)にやっと解禁、日本航空を初めとする民営航空会社が次々に設立され、新しい移動手段として”空の足”が認知・定着していく事になります。

 ところが、”国内航空史上最悪の年”と呼ばれた昭和41年(1966年)には、乗客全員を巻き込む規模の航空機事故が国内で4件も集中した事に起因して、2年前に開業した東海道新幹線などに客を奪われた航空各社は軒並み赤字経営を強いられ、規模の小さい会社に至っては存続の危機に立たされるまでの状況に陥ってしまいました。

 航空会社の倒産は負債額やその影響がとてつもなく大きいため、対策に乗り出した運輸省(当時)の主導により、当時10社ほどあったそれら各社の統合が推進され、紆余曲折を経て昭和45年には「日本航空」「全日本空輸」そして「東亜国内航空」の3社に集約する方向で決定されます。

 しかし世の中の流れは驚くほどに早く、国が統合政策にもたつく間に情勢は一転、経済の急成長に伴い、例えば会社業務における人員移動の更なる迅速化が求められ、はたまた所得増加により生活に余裕が出てきた人々のバカンス需要が急増するなど、これまで離れていた客足はすっかり回復し、この時既に航空業界は黒字基調に転換していたのです。

 この”ニーズの急変”に応じて、今度は国内線定期便の増発や新規路線就航などの対応を取らざるを得なくなった各社でしたが、とりわけ国内ローカル線の運用を主に担う東亜国内航空においては過密する一方の運航スケジュールをこなすだけの人員に事欠いていました。

 急務に迫られた人材確保に際し、誰でもすぐなれる訳ではない機長クラスを国内で調達するのはもはや困難と判断した会社は、そこで海外のベテランパイロットに着目、高収入条件を”好餌”に彼らの取り込みが図られます。

 かくして、その長いキャリアを生かした”即戦力”として起用された彼らでしたが、当時「世界最大の”人力”航空機」と呼ばれたほど操縦士の技量への依存度が高い国産のYS-11型機を駆って、欧米人の目からすればあり得ないレベルの”小さく貧弱”な日本の地方空港へ着陸する事に慣れるまでにはそれなりの手間と時間を要したと聞きます…だからこそ彼らには極力早く天候不順時を含む様々な状況における操縦経験を積ませ、すぐにでも機長としての任務が果たせるよう”日本特有”の航行技術を習得してもらう必要があったのです。

 そして、そのアプローチ時により高いスキルが求められる空港のひとつとして、後方に山々を”背負った”狭幅な海岸線に設けられ、夏場に発生する強風や濃霧にしばしば悩まされるこの函館空港が含まれていたのでした。

 さて、そんな厳しい立地環境にある空港へ着陸するには最悪の気象条件の中での飛行を続ける63便、この路線では初めて操縦桿を握る49歳の経験豊富なアメリカ人パイロットもおそらく多少のプレッシャーを感じていたに違いありません。

 丘珠を発ってから切れ間なく続く雲の中を行く事30分間、コックピット内で自動方向探知器(ADF)の針が大きく反応したのは午後6時3分頃、それは函館空港内無線標識(NDB)から発信された電波をキャッチ、すなわち機が空港上空に達した事を意味しました。

 これは、この日のように雲が低く垂れ込めている天候不良時には目視する事が不可能なため、誘導電波を使って空港と航空機の位置関係を確認するシステムであり、この後「機体を旋回させつつ徐々に高度を落とし、やがて視界に入ってくる空港に位置合わせしながらランディングに臨む」というのが正規の函館空港へのアプローチ方法でした。

 とても快適とは言えなかったであろうフライトもようやく終わりに近づき乗員乗客を問わず皆ひとまずほっとした事でしょう、機は函館空港の管制通信官へ無線報告をした後、規定通り大きく右旋回を始め高度を下げていきます…だがしばらくして雲の切れ間からパイロットの目に飛び込んできたのは空港ではなく目前に迫った横津岳の山面だったのです。

 一体なぜこのような状況になったのか、実は前出「ADF」と「NDB」を用いた無線システムは、受信範囲が広い反面で電界の影響を受けやすいと言われるAMラジオと同じ周波帯域を利用していたため大気中の静電気によって殊に山岳地帯の上空などでは時々異常動作を示す事が確認されており、その不安定さからもはや”時代遅れ”と言えるものでした。

 実際この日、道南地方一帯には俗に”雷雲”と呼ばれる帯電性が強い「積乱雲」が多く発生しており、おそらくその影響で誤作動を起こしたADFの反応をそのまま信用した機は位置を誤認、つまり63便は函館空港上空に至る9kmもの手前の地点から着陸態勢に入ったものと見られています。

 悪天候の中でのフライトで運航時間に予想以上の遅れが生じたのが災いとなり、本来であれば早すぎると気付いたはずであろうADF反応時刻と当初の空港上空到達予定時刻との差異が少なかったものと想像され、そしてさらに不幸な事にその旋回中には秒速12~13mとも言われる南西からの強風にあおられ大きく北へ流された機体は知らず知らずに山深い方角へ向かっていったのです。

 かくて目の前に突然現れた山を回避する間もなく、午後6時10分頃、札幌発函館行き東亜国内航空63便「ばんだい号」は横津岳南西面標高910m地点に激突、この悲劇においてはただひとりの生存者もいませんでした。

 洞爺湖・定山渓などを経てツアー最終日の函館観光を心待ちにばんだい号へ乗り込んだであろう39名の団体客や、4人の子供たちからのプレゼントで初めての空の旅を楽しむ夫婦、あるいは念願の巡査部長へ昇任し札幌での幹部研修を終えて新任地へ戻る途中だった警察官、そして婚約の報告をするために胸はずませて函館の実家へ向かう若い二人、そんな彼らの夢も希望もすべてがこの一瞬に消えていきました。

 幅40m・長さ160mにわたって樹木がなぎ倒され機体が見る影もなく四散した事故現場では、運命の時刻を指したまま止まった時計や、楽しかった想い出が詰まっていただろう旅行カバンと、もう渡す事もかなわない北海道土産の包みがはかなく散乱していたそうです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 本文における事故原因や経緯に関する記述は、昭和47年12月18日に発表された事故調査委員会による最終報告内容に沿ったものですが、この結論に至るまでに実は「二つの説」を巡って委員会内が対立・紛糾、後に委員のひとりが抗議の辞任をする事態にまでなったと言います。

 この「計器不具合による位置誤認説」は青森県航空自衛隊三沢基地のレーダーに記録されていた当該機の航跡の情報に基づいており、ボイス・フライト両レコーダーも装備されず、現場に残された原形を留めない事故機の計器類から何ひとつの手がかりも得られない中ではこのレーダー情報がとりわけ重要視されたようです。

 「不慣れなルートを初めて操縦する外国人副操縦士だけならまだしも、この路線を何度もフライトし、状況によって発生するADFの誤作動についても認識していたはずのベテラン日本人機長までもが果たして計器指示を信じて疑わなかったのか」という当然の疑問も呈されてはいたものの、捜索時における機体発見に繋がる決め手となった情報源であり、そしてマスコミ各社が報じる航空専門家らの見解も概ねこれに類推されるものであったため、事故直後の段階では”科学の目”に裏付けされたこの説にはもはや疑う余地がないようにも思われました。

 ところがその後状況は一変します。

 というのも、どうやら機が函館まで到達していなかった公算が高いとの報道を見聞きした函館市民から、「事故当日、かなりの低空で飛ぶばんだい号を市内で見た」などという目撃証言が続々寄せられ、その数は数十件にも上ったのです。

 中には、午後7時函館着の全日空機と混同しているような誤報も含まれましたが、一方看過出来ないほど非常に信憑性の高い情報が多くあった事に加え、先のレーダー情報には南北座標的に不確実な要素がある事実がその後判明したため、固まりつつあった説の根拠を失った事故調査委員会は大いに混乱します。

 これまでの流れを根底から覆しかねない重要なポイントだけに、その後事故調の担当委員らによって慎重かつ綿密に行われた目撃者への聴き取りの結果、あらたな事故機の航跡が浮かび上がりましたが、その上で立てられた仮説の内容は概ね「ばんだい号は正規ルートを幾分外れながら一度函館空港まで到達し着陸を試みるも予想以上の悪天候あるいはその他の理由により着陸復航(ゴーアラウンド)を決断、函館市内上空を低空で通過した後、再進入すべく北側へ上昇・旋回しながら一旦戻る過程において強風にあおられ山岳地帯まで至った」というものでした。

 しかしこの新しい「証言重視説」は時刻と航行位置、特に飛行高度との関係を照合すると、機長と管制塔との間で交わされた交信内容とはつじつまが合わない部分が多く、そして何よりも着陸のやり直しという”イレギュラー航行”を断行したのであれば必ず施されていなければいけないその旨の報告の事実がまったくなかった事については不自然極まりないと思われても仕方がない内容だったのです。

 結局委員会では、この証言に基づく仮説は「通常ではおよそ理解出来ない航行状況でないと起こり得ないケースであり合理性に欠ける」という判断にて却下され、当初の説をベースとした最終報告に至ったのでした。

 ばんだい号墜落事故に関して詳しく検証している柳田邦男氏の著書では、「常識では測れない状況が生まれたからこそ事故が起こる」との関係者談話を紹介しており、そしてあくまでも憶測の域を出ないとしながらも、無線交信中における機長のちょっとした不思議な会話内容から「精神状態または体調の不良」、更にはばんだい号が最後の交信後に連絡”出来なかった”理由について「機長の急死あるいはそれに近い状態」の発生の可能性に触れています。

 いずれにしても「悪天候」や「地理的条件」、「パイロットの判断ミス」などの要因が絡み合った事故であろう事には双方に大差がなく、また現行計器指示システムに脆弱さが潜んでいるのも事実である以上、この際どちらの説でも良いようにも思われますが、机上の議論における「合理性」の一言で、”実際に機を見ている”市民からの数多くの証言がまったく無視された結論付けに際し、事故原因という”真相の究明”が目的であるはずの事故調査委員会のこの姿勢には多くの疑念が寄せられたと聞きます。

 昭和42年から5ヶ年計画にて推進中だった空港整備工事はこの事故を受け、これまでの「滑走路の延長・拡幅」から「無線誘導システムやレーダー設備の更新・新設」という内容へと安全対策方針の重点がシフトしていきました。

 そして、今後のジェット旅客機受入に向け2千メートルへの滑走路延長工事の途中であった函館空港においても、電波誘導計器着陸装置(ILS)や信頼性の高い新型無線標識・距離測定設備(VOR/DME)などが予定より前倒しで導入され、奇しくもばんだい号の悲劇の舞台となった横津岳山頂には新しく航空路監視レーダー基地(ARSR)が設けられる事となったのです。

 かくして、欧米のそれより遥かに立ち遅れていると言われていた日本の航空機装備や空港設備はその改善へ向けて前進を始めたのですが、ばんだい号事故から1ヶ月も経たない内に当時国内史上最悪の犠牲者を生んだ「全日空機雫石衝突事故」が、そして翌昭和47年にも海外でながら日本航空機がインド・ニューデリーソビエト・モスクワで続けて大規模墜落事故を起こし、その行く末に暗雲が垂れ込めたのでした。

 

※参考文献「続・マッハの恐怖」(柳田邦男氏著)

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碑面(表)

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碑面(裏)

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碑文

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ばんだい号

【上富良野町/美瑛町】十勝岳爆発災害関連慰霊碑

上富良野町美瑛町十勝岳爆発災害関連慰霊碑

事故発生年月日:大正15年 5月24日/昭和37年 6月29日

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(2015/10/19投稿)

  日本国内(北方領土含む)には「110」の活火山がありますが、その数は地球全体におけるそれらすべての内の実に1割近くにあたるらしく、なるほど我が国が世界有数の「火山大国」と言われているのも納得がいきます。

 近現代史における活動記録を基準として以前には「休火山」や「死火山」と分類されていたものについても、その研究の進展に伴い「数千年などという間隔は火山にとって”ほんのつかの間”でしかない」との視点から、現在の定義では一万年前を境にして以降火山活動の形跡がある山すべてを「活火山」と呼んでいるそうです。

 例えば、昔には休火山であると教わりそう認識していた「富士山」も前回の噴火が”たかだか”300年前(1707年)との事から今では”立派な”「活火山」として扱われている訳です。

 その後平成21年には、特に活動が活発で今後100年以内のレベルにて噴火の可能性があるため「常時監視・観測体制」が必要だとされる「47山」が学会によって選定、北海道内では「9山」がその対象になりました。

 江戸時代からの度重なる噴火によって甚大な人的被害をもたらした「(北海道)駒ヶ岳」や、20世紀だけでも4度の大規模噴火を記録している「有珠山」らと並び、その中でも火山活動度レベル「ランクA」に分類されているのが、北海道のほぼ中央に位置する十勝岳連峰の最高峰「十勝岳」(標高2,077m)です。

 記録に残る中では安政4年(1857年)に始まり、その後30~40年というほぼ等間隔で大きな噴火を繰り返してきたこの山は、今に至るも常に噴煙を上げ、見る者は自然の力がもたらすその様に圧倒されてしまいます。

 このような景観を誇る山の中腹には現在大規模な温泉施設などリゾート地が展開され、シーズン中に観光客が多く訪れ賑わう十勝岳山麓の「美瑛町」や「上富良野町」は少なからず”山の恩恵”を受けていると言えるでしょう。

 しかし、自然は人間に対していつも協力的だった訳ではありません、共存を願う人々の想いを拒むように、この”気難しい”山はこれまで度々の噴火活動によって山麓地域をその都度不安・恐怖に陥れてきました。

 中でも、開拓民が定住するようになってから初めて見せた大正最後の年の大爆発は、入植30年にしてやっと生活基盤を形成しつつあったふもと集落のすべてを奪い去った、とりわけ凄まじいものだったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 大正15年(1926年)5月、十勝岳の西側山麓に位置する上富良野村はいつもより遅い春を迎えていました。

 例年に比べて降雪量が多かったその年は雪解け時期も伴ってずれ込み、その影響で田畑を営む入植農家は農作業の出遅れを余儀なくされる事になります。

 そんな5月24日、市街地から富良野川を4~5km上流側に遡った山間の沢沿いに広がる「日新集落」では降りしきる雨の中、家族総出で作業に勤しんでいる畑作農家の姿も見られました。

 ふもとの稲作農家とは違い、地主から借り受けた土地で営農する小作人が多かったこの地区、馬鈴薯や豆類など作物の出来不出来がその年の生活レベルに大きく影響するため、遅れを取り戻すべく作業は急ピッチに進められ、そして平日ながら教師の出張によりその日は臨時休校であった日新尋常小学校の学童たちも当然のように親の手伝いに駆り出されていたのでした。

 こうして、地元農家にとっては出端から厳しいシーズンが始まりましたが、その年の異変は実はそれだけではなかったのです。

 年が変わってからの十勝岳はいつよりまして噴煙や火柱を噴き上げる状況が続き、その不穏な動きは明らかに火山活動の活発化を示していました。

 そして、その異状はもちろんふもとの上富良野村でも確認されていましたが、人間にそれを止めるすべなどある訳もなく、おそらく村民はただ成り行きを見守るしかなかった事でしょう。

 その後5月に入ってからはより一層「山鳴り」や「地鳴り」が頻発するようになる中、雪解けと降雨続きにより増水気味の白濁した富良野川の流れを横にして、農作業の手を休めては不安そうに見上げる人々の目からは厚い雲にすっかり覆われた山の様子を確認する事は出来ず、ますます言い知れぬ胸騒ぎが深まるばかりだったのです。

 さて運命のその日、正午ころには突如ひと際大きな鳴動が遠く山の方から響いて来ました。

 実際その時には、十勝岳の火口付近で水蒸気爆発が起こっており、北西方向美瑛側の山腹にあった温泉宿が不幸にも泥流の直撃を受け経営者とその家族の計3名が命を落とす事態が発生しています。

 それはここ一連の噴火活動の中ではかなり大規模なものでしたが、実はそれでもこの後に発生する未曽有の大爆発のほんの”前触れ”にしか過ぎなかったのです。

 山頂付近で起こったこの惨事などもちろん知る由がなかったものの明らかに尋常ではない状況を受け、上富良野村内の各学校では授業を午前中で切り上げ遠隔集落から通う農家の生徒を中心に下校させた所もあったそうですが、それが後々子供たちの運命を大きく分ける事にもなりました。

 朝からの農作業に一区切りをつけた「日新集落」の人々が一息つき、そして学校側の計らいによって普段より早い時間に一家が揃った隣接集落の家族が団欒していたかも知れない午後4時過ぎ、遂にその時が訪れたのです。

 十勝岳の中央火口付近では、先刻のものとは比較にならないレベルの大爆発が発生、その規模はとてつもなく大きいもので、火口丘の西側半分が崩壊し、生じた岩屑なだれは例年より多かった残雪を取り込みつつ「山津波」と化して十勝岳源流の「富良野川」と「美瑛川」のそれぞれの流域へ突入していきます。

 まず、その犠牲となったのは、火口から上富良野側へ約2kmという近距離の山腹に設けられた「硫黄鉱業所」の事務所や飯場に詰めていた人々でした。

 十勝岳は当時「硫黄山」と呼ばれ、火口付近で産まれる良質の硫黄に着目した本州資本の会社が採掘権を獲得、この場に大規模なプラントを展開していたのです。

 爆発によって発生した泥流は数分も経たずして現場へ到達、残雪深いこの時期はまだ本格的な採掘作業が行われておらず現地に滞在していた人員が少なかったのが不幸中の幸いだったものの、関連施設12棟すべてと事務員・鉱夫など25名の生命を飲み込んだ山津波は更に勢いを増してふもとの上富良野市街へ向かって流下していきました。

 一方、美瑛川を下り北西側山麓の美瑛村へ向かった泥流は沿線にて開業していた先程とは別の温泉湯治場に襲いかかり、従業員や湯治客合わせて4名の命を奪った後、収束を見たそうです、しかしその大半が流れ込んだ富良野下流域の上富良野村はかつてない惨禍に見舞われる事になります。

 その頃、日新集落では今まで耳にした事もない程の轟音と震動に肝を冷やした人々が屋外へと飛び出していました。

 おそらく山でとんでもない事態が起こっているだろう事は誰の目にも明らかでしたが、雲が垂れ込めた山の姿は麓からはまったく見えず、山頂付近において既に多くの人命を奪った山津波が今まさにこの集落へ一気に向かっているとは彼らには思いもよらなかった事でしょう。

 そして最初のそれとはまた違った恐ろしい音がますます近づいて来る様相に怯える人々が爆発から十数分後に目にしたものは、沢の幅いっぱいに膨れ上がり、もはや目前に迫った”真っ黒な山”だったのです。

 かくて、危険を喚起する怒号が飛び交う中、人々はより高い場所への避難を試みましたが、流域の樹木や岩石を巻き込みおよそ7mもの高さに及んだと言われる激流は、時速60kmという猛烈な速さで集落へ”侵入”、一帯の家屋と逃げ遅れた人をあっと言う間に飲み込み下流へさらっていきました。

 情け容赦なく日新集落の大半を消滅させた泥流はその後、沢の出口の扇状地に広がる豊かな田園地域をことごとく埋め尽くし、市街地手前の鉄道線路の築堤に乗り上げるまでその勢いを止める事はなかったのです。

 人間には抗う術すらなかったこの前代未聞の大災害においては、死亡・行方不明者144名(上富良野側137名/美瑛側7名)・重軽傷者200名以上、そして罹災家屋は400棟近くに上るという想像を絶する被害がもたらされました。

 犠牲者の名簿を見ると、幼児を含む未成年者が全体の半数以上を占め、また女性の比率が多い事から、いかに泥流の速さが凄まじく、ほんの気後れや行動の遅れが命取りになったのかが分かるような気がします。

 眼前で祖母・母親や妻、そして愛児が泥にさらわれながらも、どうする事も出来なかった村の男たちがさぞかし悲嘆や悔恨に暮れ、そして自責の念にかられたであろう事は想像に難くありません。

 翌朝、前日の悪夢がまるで嘘のように晴れ渡った空の下で残された人々が恨めしそうに目を向けた先、そこにはすっかり頂上の形が変わり、まるで別の山となった十勝岳の姿がありました。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 決して裕福ではなくもただただひたむきに働いていた入植農民たちを絶望に突き落としたこの悲劇に関しては、地元機関紙によって当事者の貴重な体験談が数々遺されています。

 下半身を失うほど激流の中で強く打ち付けられながらも最期まで我が子を負って放さなかった姿で発見された親や、一度は難を逃れたものの家族の一員であった馬を救出するために命を落とした人の話など、涙なしではとても読めないものが多いのですが、中でも日新尋常小学校の教師にまつわるエピソードには強く心を揺さぶられました。

 この災害では21名の小学生児童が犠牲になっておりますが、内半数以上の11名が日新尋常小学校の生徒だったそうです。

 前述の通り、学校は当日臨時休校だったのですが、その理由は校内でただひとりの教師が教員資格検定受験のため旭川へ赴いたからでした。

 地元で育ちここの卒業生でもあったこの教師は尋常小卒の学歴ながらも大学の講義録などで独学し代用教員として母校に勤務、そしてこの度いよいよ正教員になれる機会が訪れたのです。

 単級であったこの学校で1年生から6年生まですべての生徒の指導を独りで受け持つ彼は、集落で一番”学識の高い人格者”であり、そして”厳しく優しい親代わり”でもあった事から、とりわけ子供たちからは絶大なる尊敬と信頼を寄せられていたと言います。

 そんな氏が初めて災害の事実を知ったのは翌日、旭川での検定一日目を終えた5月25日の夕方の事でした。

 同僚から事を知らされ連絡を取るも電話は不通、慌てて飛び乗った汽車も線路が被害を受けた事から美瑛までしか通じておらず、やむなく下車した彼は線路上を夜通し走り続け郷里へ向かったそうです。

 そして翌朝、道路も壊滅状態であったため山道を伝ってようやく集落にたどり着いた彼の目に映ったものは、すべてが跡形もなく流された後の一面の泥海だったのです。

 学校も自宅も何もかもがなくなり、家で彼の帰りを待っていたはずの母親と妻や妹、そして1歳になったばかりの娘までもが泥流に飲み込まれ帰らぬ人となっていました。

 その時の嘆きと悲しみがどれほど深かったかは察するに余りあります、しかし彼は途方に暮れる間もなくその感情を心の内に押し留め、すぐさま被災者の捜索や救済活動に奔走、その様はまるで災害当日に集落や教え子、そして家族のために何ひとつ力になれなかった自分を責め償うかのようだったとも聞きます。

 彼のその姿に心打たれた集落の人々は自らの生活もままならない中、総出で学校の再建に尽力、流木などを用いて造られた仮校舎で授業が再開されたのは6月16日の事です。

 災害で命を落とした11名の他、両親ともに犠牲となったため遠い親戚に引き取られていった者や、この地での生活を断念し一家ごと他の集落へ転居した世帯もあり、46名いた生徒は半減していました。

 然して、お世辞にも校舎と呼ぶには程遠い”掘立小屋”での初授業に出席した19名の教え子の顔を見た途端、今まで気丈に振るまっていた氏も感極まってついに号泣してしまったそうです…その彼も実は人生を達観するにはまだ早い弱冠24歳の青年でした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この様々な人間ドラマを内包した大災害については、三浦綾子氏の著書「泥流地帯」(昭和51年北海道新聞連載)に詳しく描かれています。

 事前における緻密な取材を経て完成したこの作品、登場人物こそ架空であるものの、物語の背景は事実に基づいているだけにとりわけ被災時の描写には鬼気迫るものがあり、また当時の大衆の生活・文化など大変興味深い記述が多くありますので未読の方はぜひ御一読を。

 さて、未曽有の被害に見舞われた上富良野村のその後ですが、被災地の復興方法の是非を巡って穏やかならぬ問題が発生しました。

 交通インフラなど公共に属するものに関しては国からの復旧復興費によって賄われるため、比較的早く修復作業や応急措置に着手されています、しかし一方、硫黄や硫酸などの鉱毒を含んだ泥流に完全に埋もれた私有地の田畑の再生についてはかかる費用が途方もなく、個々人にそれを負わせるのは到底困難である以上、村としての莫大な額の借入金の発生が不可避な事から、被災を免れた市街地の商業人などを中心に「耕地の放棄」を強く求める声が高まったそうです。

 村内を二分し後に裁判沙汰にまで発展したこの対立ですが、最終的には”被災地を見捨てなかった”村長の英断により復旧工事が敢行され、その後歳月をかけながらも着実に上富良野の農業は復興の道を進んでいく事になったのです。

 そして、人間の無力さを無慈悲に知らしめた十勝岳は、その後昭和37年(1962年)と昭和63年(1988年)の大規模噴火を経て、現在その活動は小康状態を保っています。

 自治体側でも過去の災害被害に鑑み、富良野川流域における透過・砂防ダムの建設や泥流センサー設置による観測体制の強化、そして避難施設の整備と住民へ対する啓蒙など、多方面にわたる防災対策には準備を怠っていません。

 しかし、自然の力とは我々人間には到底計り知れないものであり、そのような事はないと願いながらも、いつの日か想定外の災害が起こり、またあらたな対策を講じなければならない時期が訪れるかも分かりません。

 そんな人間と山との”知恵と力くらべ”はこれからも果てしなく続いていくのでしょうが、それが火山と共存していかなければならない我が国、そしてその町に課せられた宿命とも言えるのです。

 

※参考文献「機関紙・郷土をさぐる」(かみふらのの郷土をさぐる会・編)


上富良野町】(十勝岳爆発)「記念碑」

建立年月日:昭和 2年 5月24日

建立場所: 空知郡上富良野町西2線北31号

 十勝岳爆発災害に関連する石碑は数々あるも、公的機関の手により建立された唯一のものがこの碑です。

 被災一周年を記念して建てられたものですが、泥流と共に運ばれて来た巨石を動かす事なくそのまま台座として使用しています。

 除幕式が執り行われたその日は雲が深く垂れ込め、遺族などの参列者が一年前の悪夢を嫌でも想起せざるを得ない雰囲気だったと言います。

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記念碑

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碑面

上富良野町】(十勝岳爆発)「遭難記念碑」

建立年月日:大正15年 9月 1日

建立場所: 空知郡上富良野町西町(明憲寺)

 災害当時、仏教関係者らから寄せられた義捐金を基に建立されました。

 台座の正面には銅の銘板が埋め込まれ、犠牲者144名の氏名が刻まれています。

 当初は罹災地である草分地区にありましたが、現地復旧に伴い昭和25年には寺境内の現在位置に移設されています。

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碑面

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銘板

上富良野町】「十勝岳爆発記念碑」

建立年月日:昭和 3年10月 7日

建立場所: 空知郡上富良野町吹上

 大爆発以降もしばらく不安定な状態が続いていた十勝岳昭和3年に入るとようやく沈静化に向かいます。

 これを機に山腹に記念碑を建立する計画が浮上、近くにあった「吹上温泉」の関係者らの手によって、被災した「硫黄鉱業所」の事務所付近の丘に記念堂と石碑が建てられました。

 冬には登山者の避難小屋としても利用された記念堂は長年の風雪に朽ち果て現在はなくなってしまいましたが、碑は「白銀荘」を起点とする登山道の途中に今も見る事が出来ます。 

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碑面

上富良野町】「十勝岳爆発惨死者碑」

建立年月日:昭和 2年 5月24日

建立場所: 空知郡上富良野町栄町(専誠寺)

 この碑は上富良野の惨状に心を痛めた和寒村の石工が製作、昭和2年上富良野村役場へ寄進されたのが事の発端ですが、現在の場所に安置されるまでのいきさつを語るには数奇な変遷を辿らなくてはなりません。

 詳細は省きますが、建立場所を二転三転した後、手違いによって役場の廃棄物扱いになっていた所を一般人に拾われたり、その後供養として人知れず川底に沈められた碑が橋梁工事の作業員に偶然発見されたりと、およそあり得ない事件がこの碑の周りでは起こっています。

 本来であればもう人目に触れる事もなかったであろう碑はその後、かつて置かれていた寺の境内へ二十数年振りに帰り、やっとその安住の地が見つかったのでした。

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碑面

上富良野町】「十勝岳爆発横死者無縁塔」

建立年月日:昭和 2年 8月13日

建立場所: 空知郡上富良野町本町(聞信寺)

 この災害における犠牲者144名の中には「無縁物故者」12名が含まれておりますが、身寄りがいないため手厚い供養もされず彼らはそのまま仮埋葬されました。

 その余りにも哀れな様に忍びなく思った地元の寺の住職が、彼らの供養のために建立したのがこの無縁塔です。

 碑の裏面には、寺から授けられたそれぞれの法名が刻まれており、住職のあたたかい心遣いが伝わってきます。

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碑面(表)

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碑面(裏)

美瑛町】「大正大爆発丸谷温泉遭難者慰霊碑」

建立年月日:昭和50年 5月24日

建立場所: 上川郡美瑛町白金(望岳台)

 この碑は美瑛側山腹にあって罹災した温泉施設跡地に建っています。

 正午頃に起こった一回目の爆発によって発生した泥流はそれほど大きな規模のものではありませんでしたが、不幸にもその流出経路上にたまたまあったこの建物が標的となってしまいました。

 十勝岳周辺において吹上温泉を初めとする数々の源泉を発見し前年に逝去した先代の遺志を引き継ぎ、その息子家族が施設の拡充に心血を注いでいた矢先でのこの災難でした。

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碑面

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碑文

美瑛町】「十勝岳爆発記念」碑

建立年月日:昭和38年 8月 8日

建立場所: 上川郡美瑛町白金(望岳台)

 他と違いこの碑のみは昭和37年(1962年)6月29日深夜に発生した十勝岳爆発によって亡くなった方を祀っています。

 山頂付近で硫黄採掘をしていた会社の作業員が爆発に際し、退避中において火山弾の直撃を受けた5名が命を落としました。

 一説には、この時の爆発の規模が大正時よりも遥かに大きかったとも言われていますが、時期的に残雪がなかったため泥流が発生せずふもとに人的被害が及ぶ事はありませんでした。

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碑面(表)

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碑面(裏)

【道東複合管内】鉄道工事殉職労務者慰霊碑(明治・大正期編)

【道東複合管内】鉄道工事殉職労務者慰霊碑(明治・大正期編)

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(2015/5/4投稿)

  北海道の鉄道の歴史は開拓使時代の明治13年1880年)における官営幌内鉄道「手宮(小樽)⇔札幌」間の開業に端を発します。

 その名から分るように、この路線は前年に開鉱された幌内炭鉱(幌内村→現・三笠市)で産出される石炭の小樽港からの積み出しを本来の目的に敷設されたものであり、明治15年には手宮⇔幌内間が全線開通しました。

 その後、明治20年代には官から幌内炭鉱と同鉄道の払下げを受けた民間資本である「北海道炭鉱鉄道」(北炭)の手によって、空知炭鉱(現・歌志内市)や夕張炭鉱など有望な新しい炭山が次々と開かれるに伴い夕張⇔室蘭間など鉄道路線も拡大していきますが、その範囲はあくまでも炭山と積み出し港間に限定され、それはまさしく「石炭のための鉄道」に他ならなかったのです。

 政府の補助金こそ受けていたものの鉄道の敷設や管理には相当な費用が投じられており、北炭側としては”実入りの少ない”産炭地以外への延線には極めて消極的でしたが、一方北海道庁明治19年設置)では内陸部の殖産目的として鉄道路線拡大の必要性を強く感じていました。

 というのも、開拓当初から既に情勢は変わり、明治20年代後半において人員や物資の移動手段の主役としてはもはや道路ではなく一度に大量の積載が可能な鉄道に期待されていたからです。

 それを北炭に望むのは困難と判断した道庁は国費を投じて路線を拡充すべく明治29年に「鉄道建設計画書」を帝国議会へ提出、国から莫大な予算を引き出すのは容易ではないと思われたものの、折しも日清戦争の戦利として清国から得た賠償金によって国家財政に多少余裕があり、そして政府としても台湾と同様、北海道の開拓にも注力すべき意向にあった事が追い風となり、この壮大な計画は議会で承認されるに至りました。

 かくして同年公布された「北海道鉄道敷設法」に基づき、道内の広範囲に渡り順次敷設工事に着手されていきました、しかし施工段階に至り様々な難題にその後直面する事となります。

 当時の北海道は、11国(地域)に区分けされていますが、その境界はおよそ山地によって隔てられており、内陸部を越境する際はいわゆる”峠越え”をする必要がありました。

 かつて道路開削時に相当の労苦と犠牲をもたらした峠付近の工事には、当然のごとく鉄道敷設でも同様の苦難が伴いましたが、さらに鉄道工事においては道路とは異なる事情がその進捗を阻害します。

 その大きな違いとは、人馬用の道路開削時には考慮する必要のなかった急勾配・急カーブに関して、列車が通行する線路の場合はその許容の程に限界があり、そのため険しい山をかわしきれない区間には隧道(トンネル)の新設が不可避であった事でした。

 国内でのトンネル掘削技術は海外のノウハウを受け当時目覚ましく発展中だったものの北海道では未だ人海戦術に頼らざるを得なく、規模や諸条件によってもちろん差異はありましたがトンネルひとつを貫通させるための工期は軒並み数年を要しました。

 加えて、人里離れた人跡未踏の未開林での工事においては、物資の補給不足や施設の不備など作業インフラ整備の未徹底、さらには現地ならではの感染症などに起因する思いもよらぬトラブルが頻発し、労働者側にとってのその環境は劣悪そのものだったのです。

 このような状況ですから、副収入目当ての入植農民など当初の募集に応じた多くの雇用労務者はその過酷さに耐えきれず職場を離脱する者が続出、とりわけ人手を多く必要とするトンネル工事を含む工区では労働力不足の問題が顕在化していきました。

 現代であれば、打開策として「労働環境の改善」や「報酬の適正化」などの対応が当然求められる事でしょう、しかし明治のこの時代ではまったく逆の手段が考慮されます。

 それが、後々昭和の終戦直後まで引き継がれていく「タコ部屋労働」と言われる悪習の確立でした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 開拓当初における北海道内の交通インフラ工事に集治館の囚徒が動員されていた歴史については『中央道路開削』のエピソードでも触れた通りです。

 しかし、明治27年(1894年)を境に囚徒の外役労働が事実上禁止となった後、それらの工事は主に民間の建設業者が担う事になりました。

 当時の建設工事の発注形態としては、発注側である官庁が直接現場を監督する「直営工事」と監督業務を含むすべての責任を受注業者に一任する「請負工事」に大別されていましたが、工期が長く僻地での作業が多い鉄道敷設工事については後者のケースが多かったと聞きます。

 官庁(道庁鉄道部のち逓信省鉄道局→内閣鉄道院)側としても、進捗において特段難しい技術を要しない工区に際して担当職員を長期間拘束されるのは非効率であると考えた上での判断でしょう、しかし逆に”我関せず”な意向とも受け取られかねないこの措置が、結果的にはその後の業者の”暴走”を許す事になるのです。

 さて、当時の鉄道建設ラッシュの状況は工事業者にとってはまさに”宝の山”であり、可能な限り受注量と伴う利益額を増やして自社の規模拡大を目論んだであろう事は想像に難くありませんが、その意に反して労働力の確保は年が経つに連れ困難な状態に陥っていました。

 というのも、前述のような劣悪な労働環境下での作業を経験した上で再雇用を希望する者は極めて少なく、彼らからの伝聞や地元新聞の記事などにより、その過酷な実態が一部明るみに出ていた事もあって、今や好き好んで鉄道工事人夫の募集に応じる”変わり者”など近隣にはいないに等しいのが現状だったのです。

 これを受け、道内での人員確保の限界を悟った工事業者は募集範囲を全国に拡大する事を企図、主にその任は彼らからの委託を受けた「斡旋業者」が当たりました。

 折しも時は明治後期の経済が不安定な時代、日清・日露戦争後の反動不況や東北地方における米の凶作などの理由で、全国ベースで見れば貧困に苦しむ人々が多数いたため、当初は予想を上回る員数が各地から応募・来道したそうです。

 しかし業者が喜んだのもつかの間、現場の改善がなされていない状況下ではやはり同じ事が繰り返され、想像よりはるかに酷い作業環境に際して職場を放棄、逃亡する者が後を絶ちませんでした。

 ただ以前のケースと違うのは、この時点で集った人々には就労雇用契約時に斡旋業者へ支払われた費用、つまり既に人件費の一部が「先行投資」されていたため、その人員を失う事はそのまま建設業者の実害となったのです。

 一面から見れば違反行為に違いないこの「契約不履行」状態を業者側がこのまま見過ごす訳もなく、対策として工事現場においてはより厳しい監視体制が敷かれ、脱走を企て捕えられた者は見せしめとして厳罰に処されました。

 とりわけ、タコ(他雇)と呼ばれる主に道外から来た斡旋労務者は、「素性の分からぬ者が多く逃亡の可能性が高い」ため例外なく監視を強化すべき対象と見なされ、当時の監獄を模して設けられた通称「タコ部屋」に収容、徹底的な管理下に置かれる事になります。

 かくて、完工までの良きパートナーとして本来接するべきであるはずの雇用労務者へ対しては、極端な性悪説のもと何かと”目の敵”にされ、いつしかまるで牛馬か奴隷のような扱いにて対処する事が当然視されるようになっていくのです。

 そしてそれと並行して、労働者を募る手段もますます巧妙・悪質化し、仕事内容を偽っての勧誘、さらには金銭に困窮している者へ対して親切を装い金を工面した後における取立て手段としての現場への拘引など、もはや犯罪とも言える行為が常態化していきました。

 こうして斡旋業者の口車に乗せられなかば騙されて契約、あるいは借金完済までの条件にてやむなく従事する事になった人々を待ち受けていたのはまさに”地獄の日々”に他なりませんでした。

 一般社会から隔離され救いなど望めるべくもない辺境の地で強要されるまるで経験した事のない重労働や、容赦ない懲罰、粗末な食事など、もはや人間扱いもされず生存権さえ保証されない毎日は、彼らにとって到底受け容れられる現実ではなかった事でしょう。

 その上、生活必需品の不当に高い価格での販売などで借金返済の目処を与えず、雇用契約上限日まで彼らを拘束するという悪辣な手法も一部では見られ、この”修羅場”から早く解放される一縷の望みすら失った哀れな”タコ労働者”の中には、病気による衰弱や非情な懲罰によって、あるいは自ら生命を絶ち、無念のまま異郷の地でその人生を終えた人も少なくないと聞きます。

 「劣悪な労働環境」「欺瞞による人員勧誘」「労働者に対する酷使・虐待」「労働者からの搾取」「傷病人への適切な処置の怠り」など、現代から見ればひとつひとつ重大問題として提起されるべきこれらの要素が見事なまでに連携しシステム化されたこの忌まわしき”管理体制”は、「開拓促進」と「経済発展」の”大義”のもとに世論や当局の無関心・不介入という事実上の”黙認”を得、そして後半は「戦時体制」という特殊な時代を背景にその後も形態を変化させ、土建工事現場全般に渡って維持・展開されていきます。

 こうして時代を超えて生き永らえてきたタコ部屋労働が最終的に摘発・根絶されたのは、昭和20年(1945年)の終戦直後に日本を占領した連合国最高司令官総司令部GHQ)からの命令がきっかけでした。

 この”外圧”を受けようやく重い腰を上げた当局によって、ひときわ悪質な建設業者や斡旋業者などが次々に検挙され送検・起訴処分となってからは、今までの事がまるで嘘のように急速に事例が減っています。

 しかしそれにしても、長年続いたこの”非人道的因習”をやっと断ち切る事が出来たのが、まさか戦時中の都市空襲や原爆投下などによって多くの一般市民を無差別に殺戮した米軍のおかげだったとは何とも皮肉な話だとしか言いようがありません。

 北海道開発の歴史のページに汚点を残したこの「タコ部屋労働」については、恥ずべき内容だけに表面化せず時代に埋もれてしまったものも多々あるでしょうが、それでも道内各地において同様の話が各々伝え遺されています。

 今回はその中で道東地域に建つ鉄道工事関連の慰霊碑に由来する4つのエピソードを時代に順を追って紹介したいと思います。


新得町】「苦闘之碑」(十勝線工事殉職者慰霊碑)

建立年月日:昭和58年 5月 1日

建立場所: 上川郡新得町新内

   北海道官設鉄道十勝線は旭川⇔帯広間、総延長約180kmの路線を指し、「北海道鉄道敷設法」の公布に基づき最重要路線(第1期線)のひとつとして明治30年(1897年)6月に着工されました。

 旭川側から起工されたこの工事、途中で美瑛⇔上富良野間の丘陵越えや金山⇔幾寅間における空知川河岸の切土工事などの難所もありましたが、約4年の歳月をかけて行程の2/3近くに当たる南富良野村落合まで到達しています。

 しかしこの先には、石狩国十勝国の境界にそびえる「日高連峰越え」という、この路線最大の難関が待ち受けていました。

 北海道のほぼ中央から太平洋に至るまで南へ約140kmの長さに渡り標高1千~2千メートル級の峻険な峰が縦貫するこの山脈を抜けるのは容易な事ではなく、敷設ルートについては計画段階で複数の路線が検討されましたが、「佐幌(サホロ)岳」(標高1,059m)越えを提言した英国人技師の案が最終的に採用されます…しかし比較的標高の低いポイントを選択したこのルートですら、トンネル建設を避けて通る事は出来ませんでした。

 こうして、十勝・石狩両地域から一文字ずつ冠して命名された「狩勝(かりかち)隧道」(延長954m)と「新内(にいない)隧道」(同124m)の掘削作業は明治34年夏から”敢行”されたものの、硬い岩盤と予想量をはるかに超える湧水によって阻まれた工事は一日あたり平均1m程度しか掘り進む事が出来なかったそうです。

 また、新内隧道そばの谷には長さ200メートル・最大高さ70数メートルにも及ぶ巨大な築堤が施され、その盛土工事のため実に14万立方メートルもの土砂が現場に運び込まれていますが、重機もない時代の事、もちろんその役目を人馬が担ったのは言うまでもありません。

 この想像を絶する難工事においては、過酷な労役に耐えきれず逃げ出したりビタミン不足による「脚気」(水腫病)を発症するといった離脱者が相次ぎ、地元の入植農民や東北地方からの被雇用者など多い時では千人ほど従事していたとされる労務者はみるみる目減りしていきました。

 とりわけ、北海道内の土建業者が請け負った新内隧道の現場状況は悲惨を極め、連日の重労働によって脚気が悪化し動けなくなった罹患者を養生させるどころか現場脇の「むしろ」の上に並べて座らせ、まるで”見せしめ”のような扱いをしていたとの証言もあります。

 その後、病死した者は”用済み”とばかりにセメント樽に詰め込まれ沢に遺棄されたというから、それが当時の法に抵触するか否かは別にしても、このあまりにも非道な行為には驚きを禁じ得ません。

 また、明治39年6月付の釧路新聞には、「国境工事場の惨状」と題して、実家のトラブルから逃げるように北海道へ渡ってきた東京出身のエリート青年(26歳)が「工事現場の”事務”仕事」との斡旋業者の甘言につられて雇用契約、ニウンナイ(新内)の現場での土工作業を拒否したがために壮絶な虐待を受けた後、命からがら脱走し警察に保護されるまでのいきさつが5回に渡り生々しく報じられており、工事後期に至っては労働力確保のため既に詐欺まがいの斡旋行為が行われていた事が記事から窺えます。

 かくして、その数不明ながら多くの犠牲者を生んだであろう十勝線の敷設工事は、日露戦争勃発による途中2年間の中断時期をはさみ明治40年(1907年)9月に完工、十勝線と並行して建設されていた釧路線(釧路⇔帯広)と連絡させる事で、同年11月には道央から道東へ至る大動脈が全面開通しました。

 それから60年の長きに渡り主要幹線として乗客や物資の移動に多大な貢献を果たしたこの路線は、昭和41年(1966年)10月には国鉄根室本線の新ルート開業に伴い一部が廃線、”国境越え”の手段も新たに建設された「新狩勝トンネル」(延長5,790m)に取って代わられる事になります。

 現在、旧線は「遊歩道」として利用され、「狩勝」「新内」の両トンネルは意匠的に優れた構造が評価されて土木遺産に登録、そのままの姿で保存される事となりました。

 そして、観光用モニュメントとして現在も残される「旧・新内駅」そばの林の中には、この工事によって犠牲となった”功労者”を祀る碑がひっそりと建っています。

 「苦闘之碑」と名付けられたその碑は、トンネルのデザインに彩を添えたものと同じ「佐幌産の御影石」(花崗岩)で出来ていますが、この遺産に値する”美しい”トンネルを作るために一体幾人の人々が命を落とし人知れず葬り去られたのか知る者はいないのです。

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碑面

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碑文

【置戸町】「鉄道工事人夫死亡者之墓」(網走線工事殉職者慰霊碑)

建立年月日:明治43年 8月15日

建立場所: 常呂郡置戸町北光

  明治39年1906年)に帝国議会で可決された「鉄道国有化法案」に基づき、民営鉄道である「北海道炭鉱鉄道」(小樽⇔空知太⇔室蘭)と「北海道鉄道」(小樽⇔函館)の路線が国に買収され、先に取得した「釧路鉄道」を含めて道内の鉄路のすべてが国の所有(逓信省鉄道局管轄)となりました。

 時代は日露戦争直後の不況の折、多額の国外債務を抱えていた政府としては国費の無駄な歳出を極力抑えたい一方、同時期にわかに増えていた国内資本(大企業)の発展のため、北海道の豊富な天然資源を有効利用する事も優先課題となっており、その対応に頭を悩ませている状況でした。

 最終的に政府は後者を選択、私鉄へ対する外国資本の参入の阻止という目的もあり、いっそのこと鉄道を国有として一本化した上で国策で道内の交通インフラを増強させる事で原材料の開発と流通の速度を上げ、経済発展と伴う歳入増に期待する方向へと政策の舵を切ったのです。

 この流れに乗って一時頓挫しかけた北海道の鉄道建設が再び加速されていきますが、その順序やルートには大幅な変更が施される事になります…そのひとつが「網走線」でした。

 もともと、「北海道鉄道建設計画」(明治29年)の段階において、北東部の網走まで至る路線には「旭川~名寄~湧別」経由と「帯広~釧路~厚岸」経由の二通りのルートが検討されていましたが、ここにきて「池田~北見」経路案が急浮上します。

 これまで「第2期線」(優先度次点)扱いであったこの路線が見直されたのは、諸案の中で最短ルートという理由以上に、北見国一帯に広がる膨大かつ良質な木材資源に目をつけた「本州資本」とそれらに連携する地元代議士の思惑が反映されたからでした。

 沿線で伐採された木材をこの路線を使って十勝国池田(当時凋寒村)から釧路まで運び、釧路港から積み出しをするのが彼らにとってもっとも効率の良い方法だったのです。

 結局この案が採用されて網走へと至る経路が決定、かつてあまねく内陸部各地の拓殖推進を目的に図られた鉄道延線は、この時既に”大企業の発展”が最優先される時代に変わっていたのでした。

 かくて明治40年3月に凋寒側(しぼさむ)より起工された「網走線」の工事は平坦な十勝平野利別川沿いに”北進”、概ね問題もなく北見国との境に近い釧路国淕別村(現・十勝管内陸別町)小利別まで到達します。

 さて、この後は釧路⇔北見国境の「釧北峠」(現・池北峠)越えの工事が控えていましたが、標高400m弱でかつ勾配も緩やかなこの峠を突破するのにトンネル建設の必要性がなかったため、さほど難工事にはならないものと思われました。

 だがしかし、この区間の工事は先の十勝線の時とは違う諸問題が労働者を苦しめる事になるのです。

 まず、一帯は道路ひとつないまったく人跡未踏の原生林であったため、物資の補給が極めて困難な状況にありました。

 これまでの平坦地での作業では同時に敷設された仮設軌道を用いて石材・セメントなどの重量物は簡易貨車(トロ車)で運搬、前線へと支給されていましたが、それがかなわない程の傾斜地へ至っては、致し方なく必要物資の補給は急遽作られた狭い一本道を馬の背に乗せて運ぶという非常に効率の悪い方法が取られました。

 この、ともすれば食糧の満足な配給さえ滞る状況はおのずと労務者の疲労衰弱を著しくさせ作業は次第に過酷さを増していきました…が本当の”悪夢”はこの先に待っていたのです。

 ついに釧北峠を突破し北見国野付牛村置戸(現・オホーツク管内置戸町)の域内に達した工事は、最大の難関を克服したかに見えましたが、ここに至って突然高熱や激しい頭痛などに襲われ倒れる者が続出、その症状は「マラリア」の罹患を表すものでした。

 「ハマダラカ」という蚊に刺される事でもたらされるこの感染症は、今でこそ熱帯地域特有の疾病というイメージがありますが、明治時代の日本では北海道を含め国内各地でもその流行事例が報告されています。

 まったく想定外の”疫病”に襲われた現場では、土工部屋の不衛生な環境や労務者の栄養不足状態がその治癒をなおさら妨げ、とうとう死に至る者が多数発生、対策に追われた建設業者の手により現地に急遽「病院」が設置される事態にまでなったと聞きます。

 とは言え、マラリアの特効薬として当時認知されていた「キニーネ」もまだ国内では需要を満たすほど行き渡っておらず、決して安価ではなかったであろう薬剤が主に誰のために投与されたのかはおよそ察しがつくでしょう。

 つまり医学の恩恵を受ける機会も与えられずままに、この時相当数の労務者が助からなかった状況は想像に難くありませんが、これにより生じた労働力の激減状態がその後のさらなる悲劇を招く事になりました。

 失った分の補填が不十分で、工期の遅延も許されない状況では、必然的に労務者個人の負担が増え、いわば”生き残ったがため”に一層の労苦を負わされたのです。

 この工事においては、目撃談や当時の新聞記事によって、やはり十勝線の時と同様に過度な労役強要や逃亡を企てた者などに対する過酷な懲罰がしばしばあった事実が伝えられています。

 そしてその従事者の中には、前借金返済目的や斡旋業者の甘言に騙された者など、必ずしも自ら望んでここにいる訳ではない道外からの人々、つまり「タコ労働者」が以前よりまして多かった事はもちろん言うまでもありません。

 かくして、人間のみならず”小さな虫”にまでも労働者が苦難を強いられた敷設工事は、その後も常呂川の水害や網走原野の軟弱な地盤などの問題に悩ませられながらも、大正元年(1912年)10月、池田⇔網走間(延長約190km)が完工、網走線が全面開通するに至ったのでした。

 沿線各地域を木材物流拠点として繁栄させたこの路線はその後「国鉄池北線」、そして「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」と名称や経営母体を変えながら運用されましたが、平成18年(2006年)には100年に近いその歴史に幕が閉じられました。

 多くの犠牲者を生んだ工区があった置戸町内の線路脇の小高い丘の上には、工事中の明治43年に建設業者が施主となり、殉職者を慰霊する碑が建てられています。

 今は国道242号線沿いの北光パーキングエリア内に位置するその碑へ向け、当時近くを通過する列車が哀悼の汽笛を鳴らすという”儀式”はそれから昭和40年代までずっと続けられていたそうです。

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碑面

北見市(旧・留辺蘂町)】「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」

建立年月日:昭和55年11月

建立場所: 北見市留辺蘂町金華

  このエピソードは一連の「タコ部屋労働」事例の中でももっとも悲惨なもののひとつとして知名度が高く、もはやその”代名詞”にもなっている程です。

 これまでのケースにおいても、悪質な斡旋手法やその酷使ぶり、傷病人の扱い等々重大な問題が露呈していましたが、大正初期のこの頃になると「業者の利潤追求の手段」や「労務者同士の疑心・虐め」など悪意に満ちた要素がさらに加わり、悪名高いこの「非人道的労働システム」がここに進化を遂げ完成形に近づいたといっても過言ではないでしょう。

 時は明治末期、建設中の前出「網走線」の完成を見越し、その後は湧別を経由して道北の名寄まで鉄路を延線する計画が進められていました。

 網走と湧別間の距離はオホーツク海沿いの行程で80km余りであり、本来であれば道中に険しい山地もないこのルートが選択されるはずでした、がしかし遠軽の大地主など鉄路の誘致を望む内陸部集落の名士たちの熱烈な陳情を受けた地元代議士の活躍によって直前でルートを変更させる事に成功、その距離5割以上も長い「留辺蘂生田原遠軽」経由という”山越え”コースが最終的に採用されるに至ります。

 こうして沿線地域が歓喜に沸く中の明治45年(1912年)3月、野付牛村(現・北見市)を起点に着工された「軽便鉄道湧別線」は、西方20数kmの武華(現・留辺蘂)まで至ったのち、ルートを北に変え北見国常呂郡留辺蘂側)と同紋別郡生田原側)を隔てる常紋峠(じょうもん)へと向かいます。

 奔無加(現・金華)あたりから始まる緩やかな上りが頂上に近づくに連れ急に険しくなる一帯の地形は、標高がそれほど高くないこの峠をトンネルなしで越える事を難しくしました。

 それに加え、距離が嵩んだ分の工事予算を土壇場での”割り込み”という理由により十分に確保出来なかった事も背景にあったのかも知れません、山を大きく迂回するよりはこの際トンネルひとつを掘削した方が安上がりと試算された路線は”ならば”とばかりに最短重視にて設計され、延々と続く急勾配を一気に駆け上るという、列車運行的に道内でも有数の難所がここに誕生したのでした。

 かくて分水嶺(頂上)部に設けられる事となった「常紋隧道」は延長507mととりわけ長大という訳ではありませんでしたが、他の事例と違わず、いやそれ以上に掘削工事は難航を余儀なくされます。

 現場が人家も道路もない原生林ゆえ煉瓦やセメントなど重量資材の搬入が極めて困難だったという事情もありますが、しかしここでは、もはや虐待そのものと化した労務者酷使によって反作用的にもたらされた”労働力の喪失”と”能率低下”が、必要以上に工事の進捗に悪影響を及ぼしたのです。

 さて、この湧別線敷設工事は全線を4工区に分けられ、合わせて3つの土建業者がこれらを分担して請け負う契約となっていましたが、その顔ぶれは既に”おなじみ”の面々でした。

 というのも、鉄道工事はその性質上どうしても長期に渡るケースが避けられず、この頃に至って相応の労働力を動員し、限られた工期かつ予算内で完工させる事が出来るのは、事実上「タコ労働者」を使役する業者以外なかったのです。

 そして、当時の新聞報道などによってこれまでもその一部がたびたび表面化されていたので、各工事現場で非人道的な行為がしばしば行われていた実態については周知の事実だったはずですが、労働者を保護する法整備もされておらず、タコ労働が常態化した時代においては、工事発注側や警察さえもこれに”目をつぶり”、この状況を改善させようとする積極的な動きは皆無に近かったのが現実だったのでしょう。

 こうした官憲の”黙認”を背景にして、建設業者の意のままに労務者の”奴隷化”が加速される事になります。

 現場において実際に作業の割り振りを仕切っていたのは工事請負人である「元請業者」ではなく、その元請から具体的な各仕事を一任された「下請」と呼ばれる土建業者でした。

 現代に至るも変わらぬ完全な”縦社会”である建設現場において元請の意向は絶対であり、下請業者はその要望に応え現場を手堅く管理して予定通り完工する事が出来れば元請からの絶大な信頼を得ますが、そうでなければ最悪の場合二度と仕事が回ってこないという厳しい立場にあったため、この際多少の犠牲など意に介する事なく、力ずくでも工事の進捗に尽力するしかなかったのです。

 その内、「下請」の重要な仕事のひとつに労務者の監督・管理業務がありますが、中でもとりわけ注力されたのは「タコ労働者」の脱走防止のための監視強化でした。

 この現場においても、偽られた仕事内容に騙されたり、現場の実情を認識せず安請け合いをした者、あるいは借金で首が回らなくなった者など道外からの雇用労務者が多くいましたが、そのいずれにも「斡旋料」や「前金」という”先行投資”がなされており、万が一にも逃亡を許してしまえば業者にとっては単なる”逃げられ損”となる事に他なりません。

 使用人側としても、その大半が希望雇用ではなく、これから課す労役が彼らにとって酷烈な内容となる事を自覚しているだけに、手段を選ばずかき集められたこれら”訳あり”の人々に対しては、隙あらば脱走する可能性が極めて高いであろうとの”見立て”がなされていました。

 しかも実際その中には、自分を斡旋した業者と前もって結託し、雇用契約直後に隙を見て脱走を敢行、晴れて成功したあかつきには自らの斡旋料を”山分け”する事を繰り返して生計を立てているような”常習犯”や、成功率を高める目的でわざわざ仲間をそそのかし集団脱走を企てる”不届者”が紛れていたため、それらが殊更建設業者をヒステリックにさせた一因になったのです。

 業者側は脱出不可能な「タコ部屋」の設置や担当増員による監視強化を徹底すると同時に、さらに対策の一環として、労務者内をグループ・序列化し、例えば脱走計画を事前に密告した者を厚遇、逆にグループ内の逃亡を見逃した場合は連帯責任を負わせて懲罰するなど相互監視による個々の分断を企図、この方式は労務者同士の連帯感の断絶という意味では効果覿面となり、自らの保身のための”裏切り行為”や、”にわか”に成り立った上下関係による弱者へ対する”虐め”という荒んだ環境を生み出しました。 

 こうして次第に強まる”憎悪”と”猜疑心”により、労務者各人にとっては使用人側のみに限らず仲間内を含めてすべてが敵になり、信用できる人間はこの時誰ひとりいなくなったのです。

 加えて、この頃には「労働者からの搾取」という問題点も浮き彫りになっています。

 前述の通り、タコ労働者の中には、ある意味斡旋業者の計略に嵌り発生した前借金の返済のために工事の従事を余儀なくされている者も多数いましたが、その契約期間は当然ながら完済時までとなっていました。

 借金返済を終え早くこの労苦から解放されたいがために彼らが厳しい労役に何とか耐えていただろう事は想像に難くありませんが、悲しいかなここにはそれを許さない”罠”があったのです。

 現場では、毎日の食費に加え日用品から作業用品に至るまですべての物を”自腹”で購買せざるを得なく、市価の数倍にも当たる不当な価格に設定されたこれらの品を調達するだけでもともと少ない”日銭”はみるみる消失、返済どころか借金がさらにかさむように仕組まれていました。

 これは、タコ労働者を雇用契約満期まで足止めさせる方策だけに留まらず、建設業者の手元に入った利益を労務者の死亡あるいは逃亡によって発生が想定される損金の”補填”に充てるという一面も兼ね備えていたのです。

 また一説には、鉄路の誘致を実現させた”功労者”である地元代議士に見返りの献金をするのがこの頃における”不文律”だったため、業者はその資金を捻出する必要があったとも聞きます。

 とりわけ本現場のように工事予算が不足、つまり”儲けが少ない”状況においては、”なりふり構わず”利益を確保、あるいは支出を極力抑えるあらゆる試みが画策され、その”しわよせ”がより立場の弱い者へと向けられていったのでしょう。

 かくて、労働力の提供という”間接的”なもののみならず、”直接的利潤”の供出まで強制されたタコ労働者は、完全に”逃げ道”を失う事になりました。

 絶望の中、栄養失調によって脚気が悪化し病死する人や、それでも逃亡を図り捕えられた者が壮絶な虐待を受けている様を横目に、もはや仲間意識や同情心すらなく日に日に痩せ衰えていく人々がただ黙々と作業を続けたであろう工事後半の光景を想像すると、身の毛がよだつ思いがします。

 こうして、”この世の地獄”の様相を呈した常紋隧道の掘削工事は大正3年10月に完工、途中軌道の規格変更による改築を経て、湧別線(野付牛⇔湧別間)が全線開通したのは大正5年(1916年)11月の事でした。

 トンネル竣工当時、あまりに後味の悪い結果に気が引けたのか、あるいは僅かなりにも残っていた良心がそうさせたのか、建設会社の手で現場近くに建てられた木碑の前で工事犠牲者の供養が行われましたが、その後昭和34年、トンネルから1kmほど留辺蘂側に下った地点に「歓和地蔵尊」が、そして昭和55年には現場から4~5km離れた国道242号線脇の小高い丘の上に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が地元期成会によりあらたに建立されています。

 聞くところ、本工事により命を”奪われ”傍らに埋められたとされる百数十名の内、そのほとんどの所在が未だに分かっていない事から、このエピソードに関連しては何やらオカルトめいた伝説が今でもまことしやかに語られているそうです。

 もちろん、その真偽の程は私には知る由もありませんが、ただそれを否定する事も出来ない位、この工事が陰惨極まりなく救いのないものだったのは決して偽りの話ではないのです。

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碑面

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碑文

厚岸町】「根室線鉄道工事殉職死者弔魂碑」

建立年月日:大正 6年 9月25日

建立場所: 厚岸郡厚岸町宮園2

  明治29年公布の「北海道鉄道敷設法」によって「第1期線」(最優先路線)として建設計画されたもののひとつに「旭川根室」線が挙げられていました。

 当時海に陸に膨張政策を展開していたロシア帝国の脅威を考慮すれば、日本の領土たる千島列島防衛強化のためにも、”軍都”旭川から本土東端の根室までの延線が急務だと考えられても何ら不思議ではなく、むしろ当然であると言えるでしょう。

 予定では先に着工された「十勝線」(旭川⇔帯広)と「釧路線」(帯広⇔釧路)の完成後、直ちに「釧路⇔根室」間の工事に着手されるはずでした、しかし十勝線建設中の明治37年(1904年)に「日露戦争」が勃発、その事が後の流れを大きく狂わせてしまいます。

 工事は戦時中の中断を経て、明治40年に十勝・釧路両線が開通しましたが、にも拘らずそれ以降の延線計画は急遽一旦”白紙化”となります。

 その背景には、日露戦争の勝利により、こと海域におけるロシアの脅威が当面遠のいた事に加え、戦後の不況対策として国内経済の成長が最優先されたという事情がありました。

 先述の通り、北海道の天然資源の開発・流通は経済発展に必要不可欠である上、日露戦争後の道内には製紙や製鉄所など大資本による大規模工場が進出あるいは設立されていたため、その原料・燃料となる木材や石炭の搬入にかかる交通インフラの整備がとりわけ急がれていました、つまりその面において価値ある資源が乏しい根室沿線の工事が後回しにされたのです。

 こうして、芦別・赤平などの前途有望な空知炭田地域を通る「下富良野線」や、北見地方の木材搬出目的の前出「網走線」などに”先を越された”根室線敷設工事が地元の陳情によりようやく着手されたのは、当初計画から遅れる事7年、大正3年(1914年)になってからでした。

 総延長約135kmの本工事は8工区に分けられ、難工事が予想される3~5工区(別保⇔厚岸間)は、今や「タコ労働」に関して数ある”実績”を積んできた建設業者が請け負う事になります。

 この工区には「別保隧道」「アバプルベツ隧道」「尾幌隧道」という3つのトンネルが集中していましたが、海沿いではなく山間部を抜けるというそのルート決定の裏にも当時「別保」(べっぽ)や「上尾幌」(かみおぼろ)にあった炭鉱からの石炭積出しが想定されていたのは言うまでもありません。

 さて、ここが”修羅場”になる事も知らず集められてきた雇用労務者には大阪など関西出身者が多かったと聞きます…おそらくこの時期になるともはや東日本では募集が捗らず、あるいは当年に発令された「労役者募集紹介雇傭取締規則」によって行動を規制された斡旋業者が官憲の取締りをかいくぐるためその活動場所を変えざるを得なかったのでしょう。

 その彼らが多分に漏れず苦難を強いられる事になるこの工事ですが、とりわけその要因となったのが当地が泥炭地ゆえの諸問題でした。

 ここの軟弱な地盤は、トンネルはもちろんの事、法面の崩落などの事故をしばしば発生させ、通常より多く必要とされる線路の路盤に敷くバラスト用の砂利さえも現地では採れないため数十km離れた大楽毛海岸(おたのしけ)や門静地区(もんしず)より都度運び入れられたと聞きます。

 しかし、それ以上に大きな問題は泥炭地を流れる飲用不適格な河川水をそのまま活用した事にありました。

 この時は無論知り得なかったものの、鉄分含有量が異常なほど多い当地の湧水の摂取過多によって引き起こされる中毒症は、ただでさえ重労働や栄養不足で衰弱した者をより重篤化させるのに十分な要因となったのです。

 当時義務化されていた現場監督から警察への状況報告の内容では、本現場における脚気罹患者は200名、その内約半数が死亡とされていますが、よく原因が分からない病死については書類上すべて「脚気」で処理されていた節もあり、実際はこの”災いの水”に起因するものも相当に含まれていたと想像されます。

 それにしても、以前からいかなる現場においても例外なく労働者を恐怖に陥れてきた「脚気」(かっけ)に関して、その発病を抑えあるいは治癒に向けた対処が何故なされなかったのでしょうか。

 脚のむくみ・腫れから始まり、著しい運動能力の低下、最後は心不全により死に至るこの恐ろしい疾病は、今でこそビタミンB1欠乏に起因し、バランス良く食事を摂るだけでその発症を防ぐ事が出来るものと認識されておりますが、当時は原因不明とされ治療方法も実はまったく解っていなかったのです。

 古くは江戸時代に認知されてから、この頃は年間1~2万人が命を落とす原因となっていたこの”奇病”について、巷では”権威ある”病理学者たちが「白米含有成分による中毒説」「風土病説」果ては「伝染病説」などを各々主張していましたが、ビタミンの定義付けすらまだなされていない時代においては、結局どの説にも決め手となる裏付けがありませんでした。

 つまり、”偉い学者先生”をもってしても解明されていないものを、辺境の工事現場で理解出来る訳がなかったのです。

 さて実際、工事現場における食糧事情として、その配給内容は極めて粗悪ながらも「白飯」だけは比較的豊富に用意されていました。

 鬼の建設業者としても、労務者の衰弱によりいたずらに労働力の低下を招く事を望んでいた訳ではなかったので、”主食”の振る舞いについては実に寛大だったと言います。

 ただ「栄養バランス」という概念など当然持ち合わせているはずもなく、「最低限白飯を与えておけば飢えをしのげるし、主食だけにおそらく滋養もつくだろう」という程度の認識だったのでしょう、しかし白米は玄米に比べてビタミンB1の含有量が極めて少ないため、主・副菜などで補わない限り、その偏食は逆に健康を損なうリスクも併せ持っていました…それが食生活の中心が玄米から白米に代わった明治時代を境に脚気患者が急増した所以なのです。

 加えて酒などのアルコール類は体内のビタミンB1を大量に消費させる作用があったので、ここでの長期に渡る重労働と極端に偏った栄養摂取+飲酒の繰り返しという生活環境は、まさに最悪の”相乗効果”を生み出し、知らず知らずに彼らの生命を蝕む結果となりました。

 かくて、脚気を発症した者は原因・治療法が分からないゆえ医者の診察・処置を受ける事もなく放置、あまつさえ、いわゆる「大飯喰らい」「大酒呑み」に罹患者が多かった事を理由に、その誤った認識のもと”怠け者の末路”として”見せしめ”にされるという憂き目に遭ったのです。

 こうした当時では想像すらつかない要因も相まって多くの犠牲者を出したこの工事は、大正10年(1921年)8月の釧路⇔根室間の全線開通をもって終わりました。

 根室線第3~5工区工事において命を落とした人々が多く埋葬されたと言われる厚岸町真龍(当時)の寺の境内に建設業者の手で慰霊碑が建立されたのは、この工区完成直前の大正6年9月の事です。

 それなりにも良心の呵責があったのかも知れませんが、このように殉職者供養のために業者側が慰霊碑を建立したケースは全体から見ると極めて少なく、今なお道内各地には、開拓のための”消耗品”としてこの異郷の地で儚い最期を遂げ、記憶からも忘れ去られた人たちの無念が現地に遺されているのです。

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碑面

【小樽市/札幌市】尼港事件慰霊碑

小樽市/札幌市】尼港事件慰霊碑

事件発生年月日:大正 9年 3月~ 5月

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(2014/11/30投稿)

  「シベリア出兵」…学校の世界史の授業で習ったはずのこの史実について、当時の私としてはその事由や目的すら理解出来ず、試験対策として”年代と語句”を覚えていた程度のものでした。

 1918年(大正7年)から4年間に渡り、日本軍がソビエト連邦(ロシア)の極東沿海州などへ侵攻・駐留したというこの出来事に関しては、当時の時代背景や関連史実を踏まえて大局的に考えないとその意義が読み解けません。

 7万人以上の兵力と当時の金額で9億円とも言われる戦費を投入しつつも、最終的には3千人を超える戦死者を出した挙句、然したる戦果もなく1922年(大正11年)に撤兵という日本にとっては”失策”と総括されている「シベリア出兵」が行われた背景には、「第一次世界大戦」(1914年~1918年)と「ロシア革命」(1917年)が大きく関わりを持ちます。

 スラブとゲルマンの民族間対立を火種とするセルビア人によるオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)が発端となり勃発した「第一次世界大戦」ですが、その序盤は両国それぞれの”後見国”であり、民族代表の「ロシア帝国」と「ドイツ帝国」の争いと言えるものでした。

 その後、ロシアの同盟国でドイツとは”犬猿の仲”の「フランス」や、ドイツの「ベルギー」への侵攻によって国防上の安全が脅かされた「イギリス」、更にはイギリスと同盟関係にあった「日本」などが次々と連合国側に加担・参戦するに伴い、戦火はヨーロッパのみならず中東や極東アジア、果てはアフリカに至るまで飛び火し民族・地域を問わず拡大していきました。

 とりわけヨーロッパを中心に、「領土の拡大・失地回復目的」や「過去の争いによる怨恨」、「国土保全のためのやむなき主従関係」など、各国の立場や思惑が入り交る”いびつな”同盟関係が乱立していたこの時代においては、有事の際には戦局がおのずといたずらに「拡大化」「複雑化」する傾向にあり、合わせて約40か国にものぼった両陣営の参戦国の中には「大義」という”縛り”により望まぬ戦いに巻き込まれた国も多々あったであろうと推察されます。

 こうして、当初すぐ終結すると思われた戦闘が長期化する中、国民が窮乏・疲弊の極限に達していたロシアでは、不満を募らす労働者や兵士の代弁者として社会改革を標榜する組織「ソビエト」(労兵協議会)の主導で戦時中の1917年に度重なる大規模暴動(総じてロシア革命)が発生、皇帝ニコライ2世の退位により約300年間続いたロマノフ朝が崩壊し帝政ロシアはその終焉を迎えました。

 革命後、実権を握った「ソビエト政府」は翌1918年には独断でドイツと単独講和条約を結び戦線から離脱するに至りますが、この”裏切り行為”によってドイツ勢からの攻撃を一身に受ける羽目となったフランス・イギリスの激怒を買う事になります。

 そこで、英仏両国はまだ誕生間もないソビエト政権の弱体化・転覆を図るべく極東の沿海州から兵力を投入しロシア国内の「反ソビエト勢力」を支援する事を画策、地理的に近い日本や既に連合国陣営として参戦していた「アメリカ」にもその中核国としての参加協力が打診されました。

 ドイツとの戦いで”手一杯”の英仏からすると、さすがにソビエトに対して正面から”事を構える”余力はないため、そこで出兵の口実として、ロシア傘下部隊となって大戦に関わった後、革命の影響で帰国もかなわずシベリアに残されながらも孤軍でソビエト政権に抗い続けていた友邦国「チェコ」の兵士たちを救出するという名分が演出されたのです。

 そして、「日英同盟」という”大義”によってその要請を全面的に拒否する事は出来ない立場にある上に、先の「日露戦争」ではロシアの侵略的南下をかろうじて食い止めるも手痛い損害を被りその脅威をあらためて思い知らされた日本政府としては、この共産主義により成り立つ新政権がいずれ敵対勢力となるものと見なし、むしろ他国より桁違いに多い数万人規模の兵力を投入しての積極介入に動きます。

 ただしその背景には日本独自の思惑があり、表面上は連合国に協力する一方で、国際世論上に波風を立てない方策として、混乱に乗じて沿海州一帯に”緩衝地帯となる傀儡国家”を建設する事を企図、その実現にはソビエトが不安定状態にある今が好機と考えられたのです。

 かくして、革命の旗印である赤色を冠したソビエト政府側の「赤軍」と、連合各国の”後ろ盾”を得た旧ロシア帝国軍などで構成される反革命派の「白軍」との熾烈な内戦が各地で本格化する事となりました。

 英仏両国の本来の狙いは赤軍を破ったのち白軍をロシア主力軍に再起させた上での東部戦線の維持、つまり「ドイツ挟撃体制の再構築」というところにありましたが、しかしここで戦局は思わぬ急展開を見せます。

 各国がシベリア出兵を始めてからほどなく、ドイツ国内において厭戦感情に毒された水兵たちの反乱を皮切りに、労働者層をも巻き込んでやがて革命規模に発展した暴動はロシア同様にドイツ皇帝を退位させ、1918年11月の休戦協定の調印をもって4年余りの長きに渡り続いた第一次世界大戦はここに終結を見たのです。

 この言わば”ドイツの自滅”による意外な形での終戦を迎えた欧州の連合国陣営にとっては、当面の敵がいなくなった事で、ソビエトへの軍事介入にはもはや大きな意義を持たなくなりました。

 4年もの長い間総力戦を続けた欧州各国ともに国内経済や国民生活の疲弊が極まっており、ドイツが事実上降伏した今に至っては、喫緊の危機ではないソビエトに対する干渉の継続は新たな火種を生むだけで、この際得策ではないと判断されたのです。

 この本国方針に基づき、翌1919年から欧米の部隊が続々と介入の消極化や撤退の動きを見せる中、そもそも出兵の目的に他国とは異なる理由を持つ日本軍のみがこの地に留まり”大義なき介入”を続ける事になりました。

 内戦を煽っておきながら状況が変わると一転撤退といった、他方からすると”日和見”も甚だしい連合国のこの方針転換は、もともと主義や立場が異なりながらも「反ソビエト」の一点のみで結びついていたに過ぎない白軍各勢力の戦意や結束力を大きく喪失させ、これまで押され気味であった赤軍の大攻勢を許すきっかけとなります。

 その上、駐留拠点の土地や作物を強制的に搾取するなど帝政時代と変わらぬ横暴な所業を働く一部の白軍に対しては当然ながら一般住民の不信・反感を招く事となり、そのため逆にソビエト側への同調に動く地方の農村などでは農民や労働者で構成された赤軍パルチザン(遊撃隊)が次々に誕生、白軍勢力やそれを支援する連合国部隊に向ける敵対行動が激化していきます。

 こうして、”赤化の波”がロシア全土へと至りつつある状況の中、極東の日本軍は地の利に勝る赤軍パルチザンの奇襲に苦しめられながらも進撃を続け拠点の確保に努めていました。

 しかし、パルチザンの戦法は次第にゲリラ化し、市街地における戦闘では民間人との見分けがつかない敵兵からの攻撃で不測にも命を落とす日本兵が続出、対抗策として遂行されたパルチザンが潜伏する集落への”焼打ち作戦”においては結果的に罪なき良民までをも多数殺傷するという嘆かわしい事態まで発生しています。

 つまり例えると、後年ベトナム戦争においてアメリカ軍がベトコンのゲリラ攻撃に悩まされた同じ状況に、この時既に日本軍が陥っていたのです。

 「他国の党派争ひに干渉して人命財産を損する、馬鹿馬鹿しき限りなり」という前線兵士の当時の日記に書かれた一文がすべてを表しているように、こうして白軍に肩入れして戦えば戦うほど地元民の恨みを買い、もはや”誰のため”かも分からない不毛な戦闘の続行を強いられた日本軍将兵は士気も上がらずままに次々と徒死していきました。

 然して、この泥沼化した軍事介入の代償は軍人に対してだけでは留まらず、ついには日本人居留民にまで災禍をもたらす事になってしまうのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 間宮海峡を隔て北樺太の対岸に位置する極東地区アムール河口域の港町「ニコラエフスク」(以下「尼港」)は19世紀半ばにロシア人の手によって開かれたとされています。

 従前ほぼ未開だったこの一帯は厳密には当時清国(中国)の領有域だったのですが、その後「アロー戦争」(1856年~1860年)の戦後賠償として正式にロシアへ割譲されたあかつきには早速この地に海軍基地が置かれシベリア艦隊の母港として繁栄しました。

 この頃、沿岸防衛の強化や本格的な海洋進出を推進していたロシアにとって、日本海オホーツク海へ両面展開出来る「尼港」が極東方面の軍事における重要拠点とされていましたが、その地形ゆえ雪氷に閉ざされる冬期間は活用に著しく制限が生じる難点があったため、後に建設される不凍港ウラジオストク」にその主要軍港としての座を奪われる事になります。

 こうして1878年に艦隊の拠点がウラジオストクへ移転されてからというもの急激に寂れてしまった尼港でしたが、1890年代に邦人業者が手掛ける水産事業の定着をきっかけに町は徐々に活気を取り戻し、20世紀初めには経済発展促進のため相応の市民権が担保された環境の下に、樺太から近いここには日本人やユダヤ人を初めとする外国人も多く居住するようになっていました。

 しかし、その後1917年に発生したロシア革命は、多民族が平穏に生業を営む人口1万5千人あまりの”極東最果ての漁業の町”にもやがて着実に影響を及ぼす事となります。

 翌1918年、既に地方にまで波及しつつあったソビエト政権によってその実権が掌握され小規模ながら「赤軍」部隊も配置された尼港では、次第に富裕層を標的とした殺人や金品略奪などの凶悪事件が横行するようになり急激に治安が悪化していきました。

 そんな状況下の同年8月、シベリア出兵参加の連合国各部隊は極東ウラジオストクに続々と上陸していましたが、各国の思惑に温度差がある中、日本軍としては多くの自国民が居留し領事館もある尼港の確保へ向け独自に展開、翌月には同地に居座っていた赤軍を駆逐し滞りなく作戦を完了させています。

 そしてこのまま当面駐留する事になった2個中隊計300名ほどの日本軍守備隊の存在は町の治安を回復させ、約400名の在留邦人はもちろん、ユダヤ人や白系ロシアの資産家などとりわけ有産階級から歓迎の意をもって受け入れられたと言います。

 日本軍により赤軍の排除に成功した尼港にはその後白軍勢力も次々と”帰還”し、相互協力体制の下に一時の安寧がもたらされましたが、しかしこの状況は長くは続きませんでした。

 序文にて記したように1919年を境にしてロシア内戦の戦局は大きく逆転、英仏軍の前線後退や主力「チェコ軍団」の離脱などにより弱体化した白軍勢力は敗走を続け、同年末には西シベリアのオムスクに置かれた本拠「臨時全ロシア政府」がついに陥落します。

 こうして主要都市の大部分を赤軍によって制圧された上に連合国の支援をも失った白軍は事実上壊滅し、極東地区に残った数少ない勢力が援助を頼るはもはや日本軍のみとなっていました。

 そして一方、日本軍に町を追われた赤軍は、ハバロフスクの司令部から派遣された幹部の手によって、占拠した近隣地域からの徴兵労働者や、ソビエトに盲従する朝鮮人あるいは中国人の革命派独立部隊を続々配下に加え大規模なパルチザン部隊を組織、尼港奪回に向けて反攻の機会を窺っていたのです。

 年が明けた1920年大正9年)1月、尼港は例年に違わず厳しい冬を迎えていました。

 アムール河口域の結氷により自軍基地への帰投がかなわずここでの”越冬”を余儀なくされる事になった中国海軍(当時中華民国)の軍艦4隻が港内に停泊していた以外は、いつもとまったく変わらない光景が見られた尼港でしたが、その頃態勢を立て直した赤軍パルチザンの軍勢が町を奪還すべく既に迫っていたのです。

 おそらく、外海との連絡が断たれ陸路移動のみが街への通行手段となるこの時期を狙っての作戦決行だったのでしょう、1月中旬に尼港は総勢4千人にものぼるパルチザン部隊に包囲されました。

 赤・白両軍の睨み合いがしばらく続いた一触即発の状態は、日本軍守備隊のいる尼港郊外のチヌイラフ要塞や日本海軍無線電信所へ対するパルチザンからの攻撃に端を発してやがて日本軍をも巻き込む大規模な戦闘へと拡大、この異変は尼港から1,000km離れたハバロフスクに駐留していた守備隊所属の第27旅団を通じてさらに遠いブラゴエシチェンスクの第14師団の日本軍各司令部にも無線によって伝わりましたが、遠隔地である上に、尼港と同じくその時政変の不穏な情勢に置かれていた両地区ではとても援軍を派遣する余裕すらなく、事態の悪化を嫌った司令部としては本国に報告すると同時に尼港守備隊に対して「赤軍側との交渉に応じて平和的解決に努めるべし」との訓令を発する事しか出来ませんでした。

 この上官命令や、被害拡大を恐れる住民代表などの意向を受けた守備隊は、パルチザン側との交渉を経て「日本軍の地位の保証」や「一般住民に対する不当な逮捕・略奪の禁止」などの条件下で停戦に合意、約1ヶ月間に渡り続いた衝突はひとまずの終結に至りました。

 かくして2月29日、尼港の実権は赤軍側の手に落ちましたが、労働者階級の住民はまるで手のひらを返すようにこれを歓迎、もはやその多くを味方につけたと見るや一転パルチザン勢力は合意内容を無視し蛮行に及ぶようになります。

 そもそも、このパルチザン部隊を率いる”自称”赤軍司令官はもともとロシア帝国下士官でありながら、短期間で白軍側の「オムスク軍」や赤軍パルチザンに籍を置き換えるような無思想な人間であり、そんな”ならず者の首領”の指揮のもと寄せ集められた多国籍部隊など、それなりにも厳しい軍規が設けられた正規赤軍とは比較にもならない野蛮な”殺人集団”に過ぎませんでした。

 そのような勢力が約束事を守るはずもなく、当初「白軍関係者」に限られた逮捕者はすぐに公務員やロシア人実業家などの有産階級にまで及び、彼らは人民の敵として即決裁判により即日処刑、数日間でその数は400名にものぼったそうです。

 この”恐怖政治”の矛先はいつ誰に向けられるかも分からず、あまりにも酷い惨状に見かねた日本軍守備隊長はパルチザン側に当初の停戦合意内容の遵守を要請、しかし勢いづく相手側はこれを内政干渉として突っぱねた挙句、疎ましく思った司令官は逆に日本軍の武装解除を要求してきました。

 もはや日本人は敵と見なされ、兵士や居留民の生命の保証など望めるべくもない上に、この時敵の手によりまったくの通信手段を断たれていたため援軍・物資補給の要請や現況報告すら出来ない絶望的な状況に際して、ついに守備隊長はその数10倍ものパルチザン勢との決戦に孤軍で臨む事を覚悟します。

 その頃、本国ではもちろん座視していた訳でなく、1月末の戦闘開始時期においてシベリア派遣軍司令部からもたらされた異変の報告内容に基づき、北海道旭川の陸軍第7師団で歩兵・砲兵などから成る「派遣隊」が急遽編成され出動していますが間宮海峡の厚い氷に阻まれた隊は前進を断念、やむなく引き返さざるを得なく、実際この時点での尼港は敵の思惑通り完全に”陸の孤島”と化したため、外部からの支援は現実的に不可能だったのです。

 そして尼港では、武装解除の期限日である3月12日未明、陸軍守備隊、海軍無線電信隊及び退役軍人ら義勇隊総勢400名余りがパルチザン本部への奇襲を決行、敵幹部の殲滅により組織の指示系統の分断を図りますが、痛恨にも司令官を取り逃がした事から一転、敵の猛烈な反撃に晒されるという苦境に立たされました。

 この遺憾極まりない決起の失敗は、その後の想像を絶する惨劇を呼ぶ事になります。

 報復措置として直後に発令された「例外なき日本人殺戮命令」により、事態を知らされていなかった無抵抗の一般邦人居留民が残忍なパルチザンの手にかかり老若男女を問わず惨殺される運命となりました。

 とりわけ、日本人を激しく憎悪する朝鮮人や中国人部隊の所業はここではとても書き記せないまでに惨く、そのあまりにも常軌を逸した残虐な手口には同類のロシア人パルチザンでさえ眉をひそめるほどだったと言います。

 さらにこの悲劇の最中には、パルチザンの襲撃から逃れ、港内に停泊していた「中国艦隊」に救助を求めるべく桟橋へ向かった一部の日本人たちが、あろうことか軍艦からの銃撃に遭い全滅するという信じられない事態が起こりました。

 当時中華民国はロシア内戦には不干渉という方針を取りながらも、日本と同じく連合国陣営にあり共同出兵にも関与していました…つまり国際立場上”敵ではない”中国正規軍からの攻撃によって彼らは命を落としたのです。

 後に中国政府はこの事件に関してあくまでも”不慮の事故”との前提にて謝罪・賠償に応じていますが、これ以外にも日本軍兵営に対する艦砲射撃やパルチザン側への「機関銃」や「艦載砲」の貸与などの”非中立”行為が行われたとの証言もあり、それが事実ならこれら一連の敵対行動の裏側には「対華21カ条要求」(1915年締結)に代表される日本の強権的政策に対する”報復感情”が働いた上での明確な意図があったとしか考えられません。

 また、尼港には商人など多くの中国人居留民もおりましたが、パルチザンも彼らには手出しをしていない事から、いずれかの段階において両者間で何らかの協議の場が設けられていたと考える方が自然で、更に言えば、赤軍側から見て本来敵にもなり得る中国軍艦がいる中で尼港奪回作戦が躊躇なく決行されている事実に鑑みると、もしかすると艦隊の停泊をも含めて、すべてが当初からの計画通りであった可能性すら感じさせます。

 この思いもよらぬ中国側の敵勢への加担により日本軍の被害は増大し、いよいよ窮地に追い込まれた守備隊でしたが、それでも残る100名余りの戦力は兵営に立てこもり決死の籠城戦を展開していました。

 こうして戦闘が一時膠着状態となった中、決起から数えて6日目の3月17日夕刻にパルチザン側の軍使からある電報の存在を知らされます。

 その内容は、在ハバロフスクの日本軍旅団長と赤軍側司令官によって両軍へ向けて連名にて発信された「双方停戦」を勧告するものでした。

 これは、ここに至って漠然とながら尼港における戦闘事実を確認するも、4千人にも増大したパルチザン勢力の手により邦人を中心とした外国人や白系ロシア人住民がいたずらに虐殺されここが修羅場と化しているとはまさかにも思わない両軍司令部が相互協議の結果発令したもので、この極めて”楽観的”な勧告が出された背景には自軍の司令部に対してさえも虚偽の報告をしていたパルチザン側の策略があった事は言うまでもありません。

 この”現況を知らずしての中途半端な仲裁”に際し、既に隊長を初め大部分の同志を失い玉砕覚悟で臨んでいた現地守備隊としては到底承服しかねる内容だったものの、ここでの長引く戦闘が他地域における日本軍の戦略に悪影響を与えかねない事に鑑み、そしてこれが「事実上の上官からの命令」である以上、断腸の思いで停戦に応じざるを得ませんでした。

 こうして、日本軍の厳しい軍規軍律や思考の傾向を逆手に取ったこの狡猾かつ卑劣な敵の計略に落ちた守備隊にはその後耐えがたい屈辱が待ち構えていました。

 翌日における”偽装”の双方武装解除の後、もとより停戦などするつもりのないパルチザン勢によってこの合意はたちまち破られ、日本兵らは拘束・投獄されるという憂き目に遭うのです。

 そして、この時既に外交官を含むほぼすべての在留邦人が殺害されもはや守るべきものは何も残されていない現実を獄中で知ったであろう彼らは、敵に欺かれた挙句生きながら虜囚の身となった自らの運命をさぞかし悔やみ恨んだ事でしょうが、すべてはもう手遅れでした。

 かくて戦闘が終わったその後の尼港は、名ばかりの”革命”の旗の下にパルチザン勢力の思うまま殺戮・略奪が繰り返される「無法地帯」となり果てましたが、その中パルチザンの目を盗み脱出に成功した避難民からの証言によってこの惨劇の一部始終が徐々に明るみとなり、それが日本軍の耳に入る事になります。

 これらの情報を受け、事の重大さを察した師団司令部は赤軍との妥協を破棄、ウラジオストクハバロフスクにおいて敵を制圧した後、遅ればせながら尼港救援に向け支隊をアムール川上流側より派遣、そして本国でも一度は挫折・延期されていた「尼港派遣隊」及び増援の「北部沿海州派遣軍」を編成し、海軍の協力を得て現地へ急行させています。

 時は5月になり、一帯は解氷の季節を迎えていたものの河口域は未だ堅氷に覆われていたため外海からの接近は不可能であり、やむを得ず手前100km地点の沿海州デカストリに上陸した本国側派遣隊は陸路尼港を目指していました。

 一方、尼港のパルチザン司令官は極東各地区の赤軍が制圧・武装解除された事や目前に迫る日本軍の進撃状況を知るや、最後にして最悪の凶行に及びます。

 5月20日、まるで事前通達に呼応したかのように中国人居留民らが港内の自国軍艦に乗船して近郊の町へ避難した直後、尼港では今までにもまして凄まじい殺戮が始まりました。

 それは、尼港の放棄を決定した司令官により発せられた「絶滅作戦」に基づくものであり、支援者以外の住民、つまりこれまでの経緯に関し自らに利しない証言をする可能性があるすべての者がその対象となったのです。

 この悪辣非道な暴虐行為によって国籍を問わず無差別に命を奪われた人数は3,000名以上と言われていますが、それは先の戦闘の後囚われていた日本兵も例外ではなく、病院に収容されていた傷病兵も含めこの時一人残らず殺害されました。

 その後、虐殺から免れた住民が強制的に退避させられ無人となった尼港には火が放たれ、6月3日にやっと現地に到達した派遣隊が目にしたものは、既に徹底的に破壊し尽くされ焦土と化した街並とおびただしい数の犠牲者の姿だったのです。

 焼け跡から発見された兵士の日記や、獄中の壁に遺されたメッセージ、そしてからくも生き延びた住民からの様々な証言により全容が明らかになったこの悲惨事は、日本政府や軍部はもとより極東地区の赤軍司令部さえも驚愕させる事になりました。

 これはもはや日本軍との全面交戦へと発展してもおかしくない規模の内容であったため、慌てた赤軍司令部は事態収拾に向けソビエト政府の指示を仰ぎ、アムール川支流上流側の町に遁走したパルチザン部隊と密かに連絡の上、部隊内の反対勢力の協力を得て幹部らの拘束に乗り出します。

 万一日本側に捕らえられて赤軍ソビエト政府にとって不都合な言及をされては困る当局としては、血眼でパルチザン勢力を追う日本軍より先に幹部を処分する必要があったのでしょうが、この頃パルチザンの中にはあまりにも独裁的な手段に反発する部下も大勢いたため、あっけなく司令官以下幹部は仲間内に捕えられ、「ソビエト政府の意向を無視し独善的に人民への殺戮をおこなった事で共産主義の権威を失墜させた」という理由で簡易的な裁判を経て即刻処刑されました。

 こうして、最終的に人口の半数にも及ぶ約6,000名の尼港住民が犠牲になったとされるこの未曽有の犯罪行為を指揮した”革命家気取りの殺人鬼とその取巻き連中”は身内の手によってその悪行の報いを受けましたが、首謀者の”口封じ”を済ませた事で強気になったのか、この事件を「日本側が引き起こしたもの」、あるいは「司令官個人の所業」として片づけようとするソビエト政府の対応に態度を硬化させた日本軍のシベリア駐留が結果的には更に2年以上続く事態となります。

 しかし、尼港事件と時を同じくしてソビエト政府の目論みにより極東地域に突如建国宣言された「極東共和国」なる”形式上”の民主主義独立国家の誕生は、この地に留まり続ける日本軍の対外的イメージを大きく損なわせる事となり、日本国内でも景況の悪化から撤兵を望む声が徐々に高まっていきました。

 かくて、当初企図された「極東における緩衝地域の新設」という筋書きはソビエト側によってしたたかに先手を打たれいよいよ介入の意義をなくした日本軍は、国内外の世論の向きが悪化する中、4年間に渡り巨額な戦費と多くの人員を投入しながら目的を果たせずままに撤退という苦渋の選択を取るに至ります。

 然して、尼港で失った731名の日本人の生命の代価として「北樺太」の保護占領の行使と同地での石油・石炭利権の獲得という極めて無味な”戦果”と大きな禍根を残し、1922年(大正11年)「シベリア出兵」はその終焉を見たのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この事件のあらましを初めて知った当時は赤軍パルチザンの言語を絶する無法ぶりに身震いするほど怒りを覚えた私ですが、経緯を知るにつれ日本側の政策にも疑問が生じました。

 出兵時において画策された「前線で英仏軍などが盾となって戦っている間に極東での親日政権樹立に向けた基盤を構築する」という日本側の構想は、「第一次大戦終結と伴う連合国側の方針転換」や「白軍の急激な弱体化」などの状況変化により早くもその前提が失われているのにも拘らず、今更引くに引けず深入りした事がその後の様々な悲劇を呼んだと言えます。

 現代からの目線で施策の善し悪しを語るのはフェアではありませんが、これほどまでに旧体制(白軍)側に対する一般国民の支持がなくむしろ離反している状況ではもはや安定した政権づくりなど望めるべくもなく、やはり他国が撤退を決めた時期が”引き際”だったのでしょう。

 政府と軍部の二重外交状態が生んだとされる日本の独自介入路線には、出兵のきっかけを作った欧米各国からさえも疑念の目が向けられる事になり、その後拡がっていくアメリカとの確執や、第二次大戦時における千島・樺太へのソ連侵攻とシベリア抑留の口実に利用された事実に鑑みると、結果論としてこれが誤った政策であったのは疑う余地がありません。

 その上、内戦不干渉という”建前上の方針”が足かせとなり、白軍を陰ながら支援しつつも赤軍が優勢と見るや今度はそちらとの妥協をも図らなければならないという場当たり的な戦略によって、前線兵士はたとえ相手が敵対勢力であっても攻撃を受けるまでは応戦も出来ないという極めて理不尽な正念場に常時立たされ、結果的には中途半端な停戦命令によって最後は戦わずして無念にも全滅した尼港守備隊の悲劇を招いたのです。

 そして尼港の邦人居留民の場合は、従前から赤化により治安が悪化していたとはいえ、おそらくこの軍事介入と衝突がなければ少なくとも全員が虐殺されるまでの事態には至らなかった可能性が高く、一面的には国の”失策”によって道連れにされた被害者とも言えるでしょう。

 ただ、事件勃発によって北樺太の保護占領という一時的ながらも”唯一の戦利品”を獲得したのは事実であり、それらの措置が極めて速やかに実行されている事から、もし仮に国として規模はさておき想定範囲内における事件発生とその帰結であればこれほど悲憤すべき話はありません。

 さて、この悲劇的事件については「派遣軍」に随行した新聞社特派員などにより克明かつ刺激的に報じられ、そのあらましがあまねく日本国民の耳に入る事になりますが、国内世論の反響は一時憤怒に沸騰するも、極めて一過性なものだったとも聞きます。

 政界では事件が政争の具として野党に利用され、議会における政府や軍部への糾弾の末陸軍大臣が辞職に追い込まれる事態になりますが、当時広く募った義捐金の集まりが芳しくなかった事からも窺えるように、一般国民にとっては事件そのものへの関心とは裏腹に、この異国で起こった前代未聞の出来事がどこか自分とは無関係な”絵空事”のようなものとして捉えられていたのかも知れません。

 こうして、シベリアの田舎町で平和に生活を営んでいた人々は、知らず知らずの内に時代の大きな波に呑まれる中、列強の勝手な思惑と対する報復感情、そして類を見ない狂気に巻き込まれて再び生きて祖国の地を踏む事はありませんでした。

 このやるせない事件を通じて、こちらの常識や道理などまったく通用しない非道と欺瞞がまかり通る外地における戦略推進の困難さを痛感させられたはずの日本ですが、しかし大陸展開の範囲は拡大の一途を辿り、その後舞台を満州中国東北部に移してからもまた同じ轍を踏む事になっていくのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 尼港事件と北海道との直接的つながりは実はそれほどありません。

 尼港の在留邦人の多くは熊本県を中心とする九州出身の方だと聞きますし、玉砕した守備隊も主に茨城県にて編成された部隊でした。

 ただ、地理的条件からシベリアとの交易は「小樽港」がその本土側窓口となっており尼港との定期航路があった事から、これら居留民の多くもここを経由して旅立っていったものと思われ、北海道内で編成された「尼港派遣隊」や「北部沿海州派遣軍」も小樽から出動しています。

 そんな所縁がある小樽市では、地元名士や有志の働きかけにより「北方で散った開発功労者」のための慰霊碑や納骨塔の建立が決定、派遣隊らの手によって現地で荼毘に付された犠牲者の遺灰がここに納められる事になりました。

 この他事件関係の碑としては、出身者が多かった熊本県天草市や守備隊編成地の茨城県水戸市を初め、尼港で事業を営んでいた方の故郷である山口県長崎県に、そして前出「派遣軍」関係者らの手による殉難碑が札幌護国神社に建立され、現地で戦死した軍人・軍属の御霊は東京靖国神社に合祀されているそうです。

 一見事件とは無関係の北海道に関連碑が建てられている背景には前述理由以上に、様々な事情によりあるいはやむなく生まれ故郷を離れ異郷の地で暮らしていた同胞へ向け、似た生い立ちを持つ道民の”他人事”では済まされない複雑な感情が作用したのかも知れません。

※本文記載内容はネット上にある複数の情報を基にしておりますが、諸説ある中の一説のみを取り上げて記している部分が含まれる事を御了承ください。


小樽市】「尼港殉難者追悼碑」/「義烈千載」碑

建立年月日:大正13年 8月/昭和11年12月

建立場所: 小樽市手宮2(手宮公園)

 事件から4年後、大正13年1924年)に道民からの寄贈金などを基にして、海を眺望出来る手宮公園に建立された納骨塔には、これまで仮安置されていた市内の寺から遺灰が移されています。

 その後、昭和11年に事件のあらましが刻まれた殉難碑(義烈千載)が、そして翌12年には現在の塔廟や付帯建造物が建て増しされ、本格的な慰霊の場として整備されました。

 この間、毎年5月24日には慰霊祭が行われてきましたが、平成元年(1989年)には都市公園法の趣旨に則り、遺灰は市営墓地内の供養塔へ遷安され、納骨塔は「尼港殉難者追悼碑」としてここに残されています。

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尼港殉難者追悼碑

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案内板

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義烈千載碑

【札幌市】「尼港殉難碑」

建立年月日:昭和 3年10月

建立場所: 札幌市中央区南15西5(札幌護国神社

 尼港派遣隊(多門支隊)の増援として編成された「北部沿海州派遣軍」の基幹部隊となったのが札幌駐屯の陸軍第7師団歩兵第25連隊でした。

 事件においてはただ一人の救出もかなわず、筆舌しがたい程の無残な光景を目の当たりにした派遣軍関係者の心中にその後も悔恨の念がくすぶり続けたであろう事は想像に難くありません。

 碑の建立者が「帝国在郷軍人会」となっている事から、退役した元派遣軍所属の方が中心となって建てられたものと推察されます。

 建立当初は札幌市内の旭ヶ丘(当時藻岩村)にあったそうですが、昭和35年に現在の札幌護国神社内彰徳苑へ移設され、毎年9月10日に慰霊祭が執り行われています。

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碑面

【倶知安町】布袋座火災遭難者慰霊碑

倶知安町】「布袋座遭難者慰霊碑」

事故発生年月日:昭和18年 3月 6日

建立年月日:  昭和41年 8月

建立場所:   虻田郡倶知安町旭(旭ヶ丘霊園)

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(2014/10/20投稿)

  後志管内の倶知安町(くっちゃん)は、日本百名山のひとつでもある「羊蹄山」(ようていざん)のふもとに位置する畑作中心の農業を産業の基幹に置く内陸部の町です。

 またスキー場などリゾート地が集まるニセコ連峰にもほど近いというその環境から、近年ここにはウインタースポーツ目当てにオーストラリアなどから訪れる外国人観光客が増えており、伴いその関連収入も町の財政運営に貢献しているそうです。

 歴史的に見ると、明治25年(1892年)に徳島県からの入植者らによって開かれたとされるこの町は当初「室蘭支庁管内」(現・胆振管内)に属していましたが、その後の管轄変更により「後志管内」へ編入、同43年には「後志支庁」が設置されました。

 所轄地域のほぼ中央部にあるという地理的条件が優先されたのか、管内随一の大都市「小樽市」を”差し置き”行政の中心地となった倶知安町には、現在に至っても「後志総合振興局」が置かれ管内におけるその位置付けは変わっていません。

 しかし、倶知安について特筆すべきは、その「豪雪」ぶりに代表される冬の気候にある事は論を俟たないところでしょう。

 周りを高峰群に囲まれた盆地だけあって、比較的過ごしやすい日が続く夏場に対し、一方冬は厳寒にしてその降雪量は北海道内でも屈指のレベルを誇り、昭和45年(1970年)には最大(最深)積雪量312cm(道内観測史上2位)、そしてシーズン中の累積降雪量は2,019cm(同1位)というとてつもない数値が記録されています。(ランクは気象庁のデータに基づく)

 ちなみに私の生まれ故郷「旭川市」も上川盆地に位置しているため道内では比較的雪が多い地域ではあるものの、データ的には積雪量・降雪量ともに倶知安の半分にも満たず、数ヶ月間で延べ”20メートル以上”の雪が降り積もる状況には同じ道民としてもまったく想像さえつきません。

 まさにそんな”記録的な大雪”といにしえより共存してきた倶知安ですが、実はここにはもうひとつ悲しい「日本記録」が残されていました。

 それは、「単独建物の火災事故における死亡者数」という決して喜ばしくないものですが、太平洋戦争中の冬に起こったこの大惨事には、切なくもこの地の”大雪”が無関係ではなかったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和18年(1943年)、太平洋戦争の戦局は既に逆転し日本軍は苦しい局面に立たされていましたが、庶民がその実情を知るすべもなく、”皇軍”の勝利を信じて国家総動員体制下における厳しい労働にそれぞれ従事していました。

 しかし軍部の意を汲まざるを得なかった日本政府としては逼迫する懐事情に際して、不足する労働力を補填し、あるいは効率の良い生産性を確立するため、各産業ごとに細分化して国家統制を更に強化する法案を次々と打ち出します。

 それは農業とて例外ではなく、同年に成立した「農業団体法」に基づき、従来金融や物資の工面など農家の扶助的団体であった「産業組合」が解散、代わりに「作付統制」や「供出割当」など国家の意向を忠実に実行するための「農業会」に再編されました。

 この「国が指定する農作物以外の作付禁止」、「収量の多くに係る国への提供義務」などという強権的手段に対しては当然ながら農家の反発を招く事となり、道内各市町村の農業会ではその遂行にあたり間に入っての調整には相当難儀したであろうと想像されます。

 そのような時代背景の中、ここ倶知安町では市街地にある老舗映画館「布袋座」において産業組合主催の「映画鑑賞会」が、町内の農業従事者を招いて3月6日に開催される運びになっていました。

 先の法律によりほどなく「倶知安町農業会」へと新しく改組される事になる産業組合としては、今まで共に歩んできた農家に対する「御礼代わり」だったのか、あるいは今後様々な犠牲的負担を無理強いせざるを得なくなる事を想定しての「シーズン前における”懐柔”目的」という側面があったのかは量りかねますが、ともあれこの”慰安会”と称するイベントの「無料招待券」が町内の組合加入世帯にあまねく配布されるという”大盤振る舞い”がなされています。

 そんな主催者側の意図を知ってか知らずでか、戦時中において大っぴらに娯楽に興じる事がはばかられた庶民たちにとっては、誰にも咎められる事なく映画鑑賞が出来る機会であるこの日を心待ちにしていたと聞きます。

 この慰安会を開催するにあたっては、なるべく多くの世帯に万遍なくこの”恩恵”が行き渡るよう配慮され年齢制限が設けられたものの、それでも一千人以上の来場が想定されたため、主催者側ではイベントを二回に分け「昼の部」を遠隔地の集落住民、そして夜は比較的近郊の住民向けに実施する旨段取りされていました。

 さて、当日3月6日の倶知安は、ここ連日の大雪が嘘のように止み晴天に恵まれる一方、氷点下20℃近くの寒気に一帯が包まれましたが、にも拘らず予想以上の人々が会場に訪れ大盛況のうちに昼の催しが滞りなく終了しています。

 そして、それにもまして大勢が集い、本来の収容能力をはるかに超えていたであろう700名以上の町民がひしめき合う「布袋座」では、その熱気の中で「夜の部」のイベントが始まったのでした。

 本編に先立ち流されたニュース映画が映し出す「”常勝”日本軍の勇姿」にやんやの歓声があがる会場でしたが、しかし開始から間もなく場内で容易ならぬ出来事が発生します。

 時刻は午後7時10分頃、鑑賞中の観客の頭上にいきなり火の粉が降り注いだかと思うと、振り向いた人々が目にしたものは出入口あたりですでに燃え広がりつつある炎でした。

 一体何事が起こったのか、実はその時、出入口そばの「映写室」の中には突然燃え上がった映画フィルムと格闘する映写技師の姿がありました。

 しかし、以前のエピソードでも何度か触れた通り、引火性が非常に高くなおかつ発火後は爆発的に炎上するという当時のセルロイド製フィルムはひとたび火がつくととても人の手には負えず、今まさにその状態に陥った映写室では目の前の難を逃れようとした技師の手によって燃えさかるフィルムがあろうことか室外の板張りの廊下へ放り出されてしまったのです。

 会場の布袋座は当時倶知安にある唯一の映画館でしたが、築後相当の年数が経過していたこの木造建築物は老朽化が著しく、その内装はベニヤ板に新聞紙を加工した壁紙が貼られている程度のお粗末なものでした。

 そんな、全体が可燃物の集合体と言っても良いレベルの建物にかくて”放たれた”火は瞬く間にその火勢を広げ、出口近辺に居た”幸運”な人を除く多くの観客が逃げ遅れて館内に取り残される状況となります。

 こうして、出口を猛火によって阻まれてしまった観客の足はその後、当然ながら館内に数箇所設けられていた「非常口」や「窓」へと向けられますが、そこで思いもよらぬ絶望的な状況が人々を待ち受けていました。

 その年、例年よりも増して大雪に見舞われた倶知安では3月に入ってもまだ雪が降り止まぬ日が続き、建物周囲に除雪も施されないままに放置されていた高さ3メートルもの積雪が、これらの避難ルートを完全に遮断してしまっていたのです。

 ところが、そんな事情も知らぬまま極度の恐怖のため既にパニック状態となった数百の観客たちは”開く事のない”非常口へ殺到、人波に押された前方の人の多くがこの時窒息要因により命を落としたと聞きます。

 この悲惨な状況の中、館内後部のみに設けられた2階観覧席では積雪が及んでいなかった窓からの脱出が試みられ、不幸にして雪と建物の間に転落して亡くなった数名以外の人々はなんとか命拾いをしていますが、やがて2階へ通じる階段が焼け落ちた時点でこの唯一残された脱出手段も断たれてしまいました。

 かくして布袋座は、炎や煙にまかれて斃れた者、あるいは脱出の際に転び踏みつけにされた者など多数がそのままに置かれる館内を、完全に逃げ場を失い火勢に追われる人々が尚も助けを求めて右往左往するというまさに「地獄絵図」さながらの様相を呈します。

 さてその時映画館の外では、早い段階での通報を受けていたにも拘らず、消防隊の現場到着が遅れていたため未だ消火活動は行われておりませんでした。

 と言うのも、冬場における自動車の使用が当時当たり前に断念されていたほど豪雪に埋もれるこの町では、到底消防車が通行出来る道路環境にないため、火災の際は消火ポンプなどの重い機材を都度人力で運ぶしか手段がないという有様だったのです。

 もはや消防の助けも当てに出来ない中、一刻の猶予もない現場では避難した人やただならぬ様子に駆け付けた近隣住民らの手によって、脱出を阻む障害を除去すべく建物裏手での懸命な除雪作業が開始されました。

 しかし、前述の通り厳しい冷え込みに見舞われたその晩は前日までの暖気によって一度緩んだ雪をまるで氷のように豹変させており、スコップの刃も立たない状況に作業は難航を極めたそうです。

 館内に取り残されたと思われる母親を救出するためこの除雪作業に加わった旧制中学生の少年は「今日ほどこの地の雪を恨めしく思った事はない」と当時の心境を手記に書き綴っていますが、その時居合わせた誰もがきっと同じ思いだった事でしょう。

 それでも、苦闘の末に一部の雪が除かれた後、トタン板の外壁とベニヤ板を叩き壊して作られたわずかなスペースからは、全身が煤で真っ黒となり息も絶え絶えの観客が次々と助け出されています。

 煙で充満した内部の様子は窺い知れなかったものの、耳に入るその声から中にはまだ相当数の生存者がいたと推察され、この小さな空間が生還へ向けてただひとつ残された”希望”になる…はずでした。

 だがここで、この悪夢は非情な最終局面を迎える事になります。

 総床面積三百坪あまりにも及ぶ広い映画館の中を蹂躙し続けた紅蓮の炎はこの時、既に建物上部にまで達していました。

 そして、やがてそれが天井の「梁」や「棟木」へ至ったその時…高さ1メートル以上の積雪を背負っていた屋根は支えるものを失いたちまち一気に崩落してしまったのです。

 この突然の事態に建屋外の人々がたじろぐ中、先程まで聞こえていた助けを求める悲痛な叫びは以降すっかりと途絶え、それはもはやすべてが終わった事を意味していました。

 装備を整えた消防隊が応援の警防団を従え現場に到着したのはちょうどその頃…しかしここに至って彼らに出来る仕事は既に全焼し沈静化しつつある建物への消火活動とその後の亡骸の回収・確認作業しか残されていなかったのでした。

 後の検視結果によると、焼死や煙による一酸化炭素中毒死者に加え、屋根崩落によるものと思われる圧死者も多数あったとされている事から、致し方ない面が多くありながらも「救出活動がもう少し早く行われていたら」と悔やまれてなりません。

 この悲劇による208名の犠牲者の多くは、火葬場での作業が間に合わない事情を理由に身内の手により雪原にてそれぞれ荼毘に付されましたが、その内7割以上の150名が実はまだ30歳にも満たない前途ある若者だった事もあって、死してなお火に包まれるその姿を前に、残された家族にはやりきれない悲しみをこらえる事が出来なかったそうです。

 3月8日から2日間、街のあちらこちらでこの悲しい光景が見られた倶知安には、そしてまた無情の雪が降り始めていました。

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 この「国内史上最悪の被害をもたらした未曽有の火災事故」は、戦時中としては異例的に新聞紙上などで大きく報じられ、主催者の上部団体や北海道庁、新聞社などによって広く募られた結果、生活が苦しい時節ながらも当時の金額で20万円以上という多額の義捐金が寄せられました。

 そして、事のあらましを耳にした昭和天皇より見舞金が下賜されている事からも、この悲惨事が当時いかに多くの人に関心を持たれていたかが窺い知れます。

 しかし一方、この惨禍を生んだ側の責任所在の確認・追及や処断など、その後の事故処理方法及び経緯・結果については、時勢がら情報が少なかった事もありまったくと言っていいほど知られていません。

 本文における参考文献の記載内容や当時館内にいた人の証言によると、フィルム引火の原因としては「映写技師(あるいは助手)の喫煙」もしくは「映写機の故障により停止したフィルム面への光源からの集中照射」が挙げられています。

 ただ理由がいずれであれ、この技師が炎上したフィルムを気の動転により館内唯一の「防火区画」であった映写室から外へ投げ捨てたという行為がその後の被害拡大に直結した事にはどうやら間違いがなく、火災発生に関してはともかく、死傷者を増大させた事実に対しては少なくともその責任から逃れる術はないでしょう。

 真偽のほどがまったく分からない未確認情報ながら、事故では真っ先に避難したと言われるこの映写技師が戦後まもなく小樽や札幌で映画館の興業主として成功を収めたとの話も聞きますが、もしそれが事実なら仮に罪に問われ罰を受けたとしても極めて軽い”お咎め”で済んだ事になり、被害者や遺族の了承を取り付けるにはほど遠い結果だと言わざるを得ません。

 しかし、残された人たちにとっては戦時中そして終戦直後といったもっとも生活に苦しい時期を乗り越えるために、この怒りや悲しみをなるべく記憶から遠ざけるよう努めて必死に生きてきたでしょうし、今更この辛い思い出に触れられたくない人も多数あろう事が一方で想像され、そのやるせなさには胸が痛みます。

 その後、戦争が終わってからは様々な法律が新しく制定され、映画館の運営に関しても「消防法」(昭和23年制定)や「建築基準法」(同25年)によって、その構造や設備内容に厳しい義務付けや制限が設けられました。

 本件より前から多発していた同様事故への対応、更に今後の需要増大も想定してのこの法整備だったのですが、しかしそれにも拘らず昭和26年(1951年)にはまたしても同じ悲劇が繰り返される事になってしまうのです。

(→『茶内慰霊塔』の項参照)

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 事故の慰霊碑は市街西側の高台にある町営墓地(旭ヶ丘霊園共同墓地)に建立されています。

 大きめの碑の裏面には犠牲者208名すべての氏名が隙間なく刻まれていますが、その名から判断するに女性が6割以上を占めていました。

 入館時の男女比率が不明なので一概には言えないものの、もし火災時のパニック状態によって我先に脱出したが為、多くのか弱き女性たちが取り残された末でのこの結果だとしたら、これもまた悲しい教訓として記憶に留め置くべきエピソードのひとつと言えるでしょう。

 現在、布袋座跡地近辺は飲食店街となり、当時からすっかり街並が様変わりした倶知安ですが、冬場の気象条件だけは時代を経ても大きく変わるものではありません。

 地元消防では毎年3月6日を「冬季消防訓練の日」と定め、この事故を教訓に豪雪時における不測の事態を想定しての実地訓練は欠かす事がないそうです。


※参考文献「雪の慟哭」(水根義雄氏著)

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碑面(表)

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碑面(裏)