北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【浜中町】大原劇場火災殉難者慰霊碑

浜中町茶内「慰霊塔」

事故発生年月日:昭和26年 5月19日

建立年月日:  昭和26年 8月 7日

建立場所:   厚岸郡浜中町茶内

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(2014/6/7投稿)

 この碑は釧路管内厚岸郡浜中町にあるJR根室本線花咲線茶内駅前の市街地に建っています。

 住宅地の一区画を公園のように囲っており、その中央部に大きめの石碑が、そして北東の角の方にはほこらと説明文が書かれた案内板がありました。

 ここは駅へと至る通りに面する角地で割と目立つ位置にあるはずなのですが、仕事柄この前を数多く通過している私も何故か今までその存在を見落としていました。

 さて今回たまたま目に入ったその碑、「おそらく集落でよく見かける開拓記念碑の類だろう」と思い、近くで案内板を読んで思わず息を呑みました。

 なぜならそこには、今から60年以上前にこの地で幼い子供達が多数犠牲になる大惨事があったという痛ましい歴史が記されていたからです。

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 時は昭和26年(1951年)、現在碑が建つその場所には大原劇場という映画館がありました。

 今でこそ少なくなりましたが、まだテレビもない当時は映画が大衆娯楽の花形で、ちょっとした繁華街には必ずと言っていいほど映画館があった時代です。

 ただ当時の新聞が伝えるところによると、この劇場は住宅を改造した急ごしらえのものだったため、設備も不十分で映画館とは名ばかりのお粗末な造りだったそうです。

 さて、その日5月19日(土曜日)は地方巡回の教育映画が上映される日とあって、劇場には茶内小学校や中学校の生徒など児童を中心に240名ほどが集まっていました。

 この催しは白糠町の興業主によって子供向けに企画されたものであり、教育上特に問題がない内容としてその開催については事前に学校側の理解と了承を取り付けていたと聞きます。

 ある意味学校の”お墨付き”を得た上に”お目付け役”の教師も数名派遣されるとの話を聞いて、精神衛生的によろしくないものとして普段は映画鑑賞を禁じていた親もおそらく今回ばかりは安心して子供たちを送り出したと思われます、こうして仲良し同士誘い合わせた児童で満員状態の劇場では午後2時頃よりイベントが始まったのでした。

 「子供向けニュース」や「自然・科学ドキュメンタリー」そして「漫画映画」など4~5編の短編映画が用意されていたこのプログラムの中には国内では当時まだ珍しかった「天然色」(カラー)の作品も含まれており、初めて見るその色鮮やかな映像にさぞかし”釘づけ”となったであろう子供たちの姿が目に浮かびます。

 しかし、心躍らせながら”夢の世界”に想いを馳せていたそんな彼らを”現実の悪夢”が襲ったのは、3本目の映画も終わろうとする午後2時50分頃でした。

 訳もなく、上映中の映画フィルムがいきなり断ち切れたと思いきや、その瞬間映写機がたちまち激しい炎に包まれました。

 その様に場内は騒然となり、いざ逃げんと皆が慌てて席を立つも同行していた教師の「一喝」により一旦落ち着きを取り戻します、もちろん混乱を抑え冷静的な避難を促すためにそうさせたのでしょう…だが一般的には誤りとは断言出来ないこの判断が、悲しいかな今回に限っては被害を大きくする一因となってしまいます。

 前述の通り、「住宅ベース」の構造であったこの劇場内において爆発的に炎上した火焔は信じられない早さで低い天井伝いに燃え広がり、出火元の映写機に近かった出口付近はみるみるうちに猛火に包まれつつありました。

 そしてさらに悪い事に、当日一帯を見舞っていた強風が開かれた出口から室内へ吹き込み、その影響で逆巻いた炎が避難をいよいよ難しくさせていたのです。

 瞬く間におけるこの予想もつかない展開に逃げる機会を逸した人々が恐怖からパニック状態に陥った場内では、教師の誘導による懸命の脱出が図られたものの、大混乱の中もはやそれすらも目に入らない一部の児童たちはまだ炎が至っていない建物奥側の「楽屋」へと向かいました。

 何故楽屋だったのか…実は場内を覆っていた暗幕の一部が出火の際に取り払われた事によりそこからは”一筋の明るい光”が差し込んでおり、劇場の間取りなど知る由もない彼らにはおそらくそれが「外へとつながる道」に感じられたのでしょう、しかし無情にもその光は子供の手には到底届かない高い位置にある小窓から放たれていたものでした。

 結局、”本物”の出口から遠く離れていたこの窓の下に集まった子供たちのほとんどが助かりませんでした…そして「かんぬき」が掛けられ用をなさなかった非常口を外からこじ開け、彼らを何とか救い出そうと燃えさかる炎の中へ飛び込んでいった大人数名も戻らぬままに、やがて大原劇場は焼け落ちていったのです。

 隣接する3棟の家屋まで巻き添えにしたこの未曽有の火災においては、子供37名・大人5名の計42名が帰らぬ人となりました。

 とりわけやりきれない事に、犠牲者の内、就学前の幼児11名・小学生22名とまだ幼い児童が大半を占め、その中には一度難を逃れながらも、買ってもらって間もない大好きな「ゴム靴」を置き忘れたばかりに再び館内へ入ったまま戻る事のなかった少女など、親からすれば胸が張り裂けるような悲しいエピソードもありました。

 この余りにも非情な悲惨事を招いた火災の原因たる「フィルム引火」の誘発要因として、館内にいた子供の証言に基づき当初はこの日事故で死亡した映写技師の「喫煙」とも報じられましたが、実況見分やその他の証言から総合的に判断して「破断されたフィルム面と映写機光源との接触」に起因する可能性が高いとされています。

 たかだか光の熱によって瞬時に発火するなど現代からではとても想像がつきませんが、セルロイドセルロースナイトレート)製の当時の映画フィルムは、過去において「摩擦熱」が要因となった事例があるほど極めて引火性が高く、それを取り扱うには特別な資格を有するレベルの危険物だったのです。

 思えば、確実な記録が残る中では単独建物火災として国内史上最悪の犠牲者(208名)を生んだ後志管内倶知安町の映画館『布袋座火災事故』昭和18年3月)でもフィルムへの引火が出火原因でしたが、結果論的にはその教訓が生かされる事はありませんでした。

 この悲劇や、それから約2週間後の6月3日、会社内での映画鑑賞中に起こった火災に際し避難途中における転倒により社員から23名の圧死者を出した「近江絹糸事故」(滋賀県)、さらには7月26日の札幌発石狩行き「中央バス火災」(死亡者12名)といういずれもフィルム引火が発端となった大事故がこの年に集中した事を受け、国内では以前からの懸案事項であったフィルムの「不燃化」への取り組みが加速されたと言われています。

 もしそのような不燃性フィルムが使用されていたならばおそらく今回の事故はそもそも起こり得なかったのでしょう、しかし関わった劇場主・映写技師・教師ら7人が「業務上過失致死傷」あるいは「重過失致死傷罪」に問われ書類送検(一部起訴)されている事実からも裏付けられるように「施設の不備」や「映写機の不具合」、そして「避難誘導時の不手際」などの要素も被害拡大に影響を及ぼした事は否定出来ません。

 だが、大人がいかにそれを反省・後悔しようとも、事故直前まで見せていた子供たちのあの屈託のない笑顔はもう二度と帰って来る事はないのです。

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 この大原劇場火災のあとほどなくして、各方面から集まった義捐金や関係者の厚意により、全焼した劇場跡地に慰霊塔が建立されました。

 塔の裏面には犠牲者42名の方の氏名が刻まれています。

 かつて、その前を通る子供たちが皆”お辞儀”をした光景はさすがに近年では見られなくなりましたが、あれから60年以上経った現在でも地元の生徒らが定期的に慰霊塔や区画内の清掃・手入れをおこない、毎年5月19日には避難訓練を実施するなど、事故を風化させぬべく語り継がれているそうです。

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碑面(表)

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碑面(裏)

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案内板