北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【上富良野町/美瑛町】十勝岳爆発災害関連慰霊碑

上富良野町美瑛町十勝岳爆発災害関連慰霊碑

事故発生年月日:大正15年 5月24日/昭和37年 6月29日

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(2015/10/19投稿)

  日本国内(北方領土含む)には「110」の活火山がありますが、その数は地球全体におけるそれらすべての内の実に1割近くにあたるらしく、なるほど我が国が世界有数の「火山大国」と言われているのも納得がいきます。

 近現代史における活動記録を基準として以前には「休火山」や「死火山」と分類されていたものについても、その研究の進展に伴い「数千年などという間隔は火山にとって”ほんのつかの間”でしかない」との視点から、現在の定義では一万年前を境にして以降火山活動の形跡がある山すべてを「活火山」と呼んでいるそうです。

 例えば、昔には休火山であると教わりそう認識していた「富士山」も前回の噴火が”たかだか”300年前(1707年)との事から今では”立派な”「活火山」として扱われている訳です。

 その後平成21年には、特に活動が活発で今後100年以内のレベルにて噴火の可能性があるため「常時監視・観測体制」が必要だとされる「47山」が学会によって選定、北海道内では「9山」がその対象になりました。

 江戸時代からの度重なる噴火によって甚大な人的被害をもたらした「(北海道)駒ヶ岳」や、20世紀だけでも4度の大規模噴火を記録している「有珠山」らと並び、その中でも火山活動度レベル「ランクA」に分類されているのが、北海道のほぼ中央に位置する十勝岳連峰の最高峰「十勝岳」(標高2,077m)です。

 記録に残る中では安政4年(1857年)に始まり、その後30~40年というほぼ等間隔で大きな噴火を繰り返してきたこの山は、今に至るも常に噴煙を上げ、見る者は自然の力がもたらすその様に圧倒されてしまいます。

 このような景観を誇る山の中腹には現在大規模な温泉施設などリゾート地が展開され、シーズン中に観光客が多く訪れ賑わう十勝岳山麓の「美瑛町」や「上富良野町」は少なからず”山の恩恵”を受けていると言えるでしょう。

 しかし、自然は人間に対していつも協力的だった訳ではありません、共存を願う人々の想いを拒むように、この”気難しい”山はこれまで度々の噴火活動によって山麓地域をその都度不安・恐怖に陥れてきました。

 中でも、開拓民が定住するようになってから初めて見せた大正最後の年の大爆発は、入植30年にしてやっと生活基盤を形成しつつあったふもと集落のすべてを奪い去った、とりわけ凄まじいものだったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 大正15年(1926年)5月、十勝岳の西側山麓に位置する上富良野村はいつもより遅い春を迎えていました。

 例年に比べて降雪量が多かったその年は雪解け時期も伴ってずれ込み、その影響で田畑を営む入植農家は農作業の出遅れを余儀なくされる事になります。

 そんな5月24日、市街地から富良野川を4~5km上流側に遡った山間の沢沿いに広がる「日新集落」では降りしきる雨の中、家族総出で作業に勤しんでいる畑作農家の姿も見られました。

 ふもとの稲作農家とは違い、地主から借り受けた土地で営農する小作人が多かったこの地区、馬鈴薯や豆類など作物の出来不出来がその年の生活レベルに大きく影響するため、遅れを取り戻すべく作業は急ピッチに進められ、そして平日ながら教師の出張によりその日は臨時休校であった日新尋常小学校の学童たちも当然のように親の手伝いに駆り出されていたのでした。

 こうして、地元農家にとっては出端から厳しいシーズンが始まりましたが、その年の異変は実はそれだけではなかったのです。

 年が変わってからの十勝岳はいつよりまして噴煙や火柱を噴き上げる状況が続き、その不穏な動きは明らかに火山活動の活発化を示していました。

 そして、その異状はもちろんふもとの上富良野村でも確認されていましたが、人間にそれを止めるすべなどある訳もなく、おそらく村民はただ成り行きを見守るしかなかった事でしょう。

 その後5月に入ってからはより一層「山鳴り」や「地鳴り」が頻発するようになる中、雪解けと降雨続きにより増水気味の白濁した富良野川の流れを横にして、農作業の手を休めては不安そうに見上げる人々の目からは厚い雲にすっかり覆われた山の様子を確認する事は出来ず、ますます言い知れぬ胸騒ぎが深まるばかりだったのです。

 さて運命のその日、正午ころには突如ひと際大きな鳴動が遠く山の方から響いて来ました。

 実際その時には、十勝岳の火口付近で水蒸気爆発が起こっており、北西方向美瑛側の山腹にあった温泉宿が不幸にも泥流の直撃を受け経営者とその家族の計3名が命を落とす事態が発生しています。

 それはここ一連の噴火活動の中ではかなり大規模なものでしたが、実はそれでもこの後に発生する未曽有の大爆発のほんの”前触れ”にしか過ぎなかったのです。

 山頂付近で起こったこの惨事などもちろん知る由がなかったものの明らかに尋常ではない状況を受け、上富良野村内の各学校では授業を午前中で切り上げ遠隔集落から通う農家の生徒を中心に下校させた所もあったそうですが、それが後々子供たちの運命を大きく分ける事にもなりました。

 朝からの農作業に一区切りをつけた「日新集落」の人々が一息つき、そして学校側の計らいによって普段より早い時間に一家が揃った隣接集落の家族が団欒していたかも知れない午後4時過ぎ、遂にその時が訪れたのです。

 十勝岳の中央火口付近では、先刻のものとは比較にならないレベルの大爆発が発生、その規模はとてつもなく大きいもので、火口丘の西側半分が崩壊し、生じた岩屑なだれは例年より多かった残雪を取り込みつつ「山津波」と化して十勝岳源流の「富良野川」と「美瑛川」のそれぞれの流域へ突入していきます。

 まず、その犠牲となったのは、火口から上富良野側へ約2kmという近距離の山腹に設けられた「硫黄鉱業所」の事務所や飯場に詰めていた人々でした。

 十勝岳は当時「硫黄山」と呼ばれ、火口付近で産まれる良質の硫黄に着目した本州資本の会社が採掘権を獲得、この場に大規模なプラントを展開していたのです。

 爆発によって発生した泥流は数分も経たずして現場へ到達、残雪深いこの時期はまだ本格的な採掘作業が行われておらず現地に滞在していた人員が少なかったのが不幸中の幸いだったものの、関連施設12棟すべてと事務員・鉱夫など25名の生命を飲み込んだ山津波は更に勢いを増してふもとの上富良野市街へ向かって流下していきました。

 一方、美瑛川を下り北西側山麓の美瑛村へ向かった泥流は沿線にて開業していた先程とは別の温泉湯治場に襲いかかり、従業員や湯治客合わせて4名の命を奪った後、収束を見たそうです、しかしその大半が流れ込んだ富良野下流域の上富良野村はかつてない惨禍に見舞われる事になります。

 その頃、日新集落では今まで耳にした事もない程の轟音と震動に肝を冷やした人々が屋外へと飛び出していました。

 おそらく山でとんでもない事態が起こっているだろう事は誰の目にも明らかでしたが、雲が垂れ込めた山の姿は麓からはまったく見えず、山頂付近において既に多くの人命を奪った山津波が今まさにこの集落へ一気に向かっているとは彼らには思いもよらなかった事でしょう。

 そして最初のそれとはまた違った恐ろしい音がますます近づいて来る様相に怯える人々が爆発から十数分後に目にしたものは、沢の幅いっぱいに膨れ上がり、もはや目前に迫った”真っ黒な山”だったのです。

 かくて、危険を喚起する怒号が飛び交う中、人々はより高い場所への避難を試みましたが、流域の樹木や岩石を巻き込みおよそ7mもの高さに及んだと言われる激流は、時速60kmという猛烈な速さで集落へ”侵入”、一帯の家屋と逃げ遅れた人をあっと言う間に飲み込み下流へさらっていきました。

 情け容赦なく日新集落の大半を消滅させた泥流はその後、沢の出口の扇状地に広がる豊かな田園地域をことごとく埋め尽くし、市街地手前の鉄道線路の築堤に乗り上げるまでその勢いを止める事はなかったのです。

 人間には抗う術すらなかったこの前代未聞の大災害においては、死亡・行方不明者144名(上富良野側137名/美瑛側7名)・重軽傷者200名以上、そして罹災家屋は400棟近くに上るという想像を絶する被害がもたらされました。

 犠牲者の名簿を見ると、幼児を含む未成年者が全体の半数以上を占め、また女性の比率が多い事から、いかに泥流の速さが凄まじく、ほんの気後れや行動の遅れが命取りになったのかが分かるような気がします。

 眼前で祖母・母親や妻、そして愛児が泥にさらわれながらも、どうする事も出来なかった村の男たちがさぞかし悲嘆や悔恨に暮れ、そして自責の念にかられたであろう事は想像に難くありません。

 翌朝、前日の悪夢がまるで嘘のように晴れ渡った空の下で残された人々が恨めしそうに目を向けた先、そこにはすっかり頂上の形が変わり、まるで別の山となった十勝岳の姿がありました。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 決して裕福ではなくもただただひたむきに働いていた入植農民たちを絶望に突き落としたこの悲劇に関しては、地元機関紙によって当事者の貴重な体験談が数々遺されています。

 下半身を失うほど激流の中で強く打ち付けられながらも最期まで我が子を負って放さなかった姿で発見された親や、一度は難を逃れたものの家族の一員であった馬を救出するために命を落とした人の話など、涙なしではとても読めないものが多いのですが、中でも日新尋常小学校の教師にまつわるエピソードには強く心を揺さぶられました。

 この災害では21名の小学生児童が犠牲になっておりますが、内半数以上の11名が日新尋常小学校の生徒だったそうです。

 前述の通り、学校は当日臨時休校だったのですが、その理由は校内でただひとりの教師が教員資格検定受験のため旭川へ赴いたからでした。

 地元で育ちここの卒業生でもあったこの教師は尋常小卒の学歴ながらも大学の講義録などで独学し代用教員として母校に勤務、そしてこの度いよいよ正教員になれる機会が訪れたのです。

 単級であったこの学校で1年生から6年生まですべての生徒の指導を独りで受け持つ彼は、集落で一番”学識の高い人格者”であり、そして”厳しく優しい親代わり”でもあった事から、とりわけ子供たちからは絶大なる尊敬と信頼を寄せられていたと言います。

 そんな氏が初めて災害の事実を知ったのは翌日、旭川での検定一日目を終えた5月25日の夕方の事でした。

 同僚から事を知らされ連絡を取るも電話は不通、慌てて飛び乗った汽車も線路が被害を受けた事から美瑛までしか通じておらず、やむなく下車した彼は線路上を夜通し走り続け郷里へ向かったそうです。

 そして翌朝、道路も壊滅状態であったため山道を伝ってようやく集落にたどり着いた彼の目に映ったものは、すべてが跡形もなく流された後の一面の泥海だったのです。

 学校も自宅も何もかもがなくなり、家で彼の帰りを待っていたはずの母親と妻や妹、そして1歳になったばかりの娘までもが泥流に飲み込まれ帰らぬ人となっていました。

 その時の嘆きと悲しみがどれほど深かったかは察するに余りあります、しかし彼は途方に暮れる間もなくその感情を心の内に押し留め、すぐさま被災者の捜索や救済活動に奔走、その様はまるで災害当日に集落や教え子、そして家族のために何ひとつ力になれなかった自分を責め償うかのようだったとも聞きます。

 彼のその姿に心打たれた集落の人々は自らの生活もままならない中、総出で学校の再建に尽力、流木などを用いて造られた仮校舎で授業が再開されたのは6月16日の事です。

 災害で命を落とした11名の他、両親ともに犠牲となったため遠い親戚に引き取られていった者や、この地での生活を断念し一家ごと他の集落へ転居した世帯もあり、46名いた生徒は半減していました。

 然して、お世辞にも校舎と呼ぶには程遠い”掘立小屋”での初授業に出席した19名の教え子の顔を見た途端、今まで気丈に振るまっていた氏も感極まってついに号泣してしまったそうです…その彼も実は人生を達観するにはまだ早い弱冠24歳の青年でした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この様々な人間ドラマを内包した大災害については、三浦綾子氏の著書「泥流地帯」(昭和51年北海道新聞連載)に詳しく描かれています。

 事前における緻密な取材を経て完成したこの作品、登場人物こそ架空であるものの、物語の背景は事実に基づいているだけにとりわけ被災時の描写には鬼気迫るものがあり、また当時の大衆の生活・文化など大変興味深い記述が多くありますので未読の方はぜひ御一読を。

 さて、未曽有の被害に見舞われた上富良野村のその後ですが、被災地の復興方法の是非を巡って穏やかならぬ問題が発生しました。

 交通インフラなど公共に属するものに関しては国からの復旧復興費によって賄われるため、比較的早く修復作業や応急措置に着手されています、しかし一方、硫黄や硫酸などの鉱毒を含んだ泥流に完全に埋もれた私有地の田畑の再生についてはかかる費用が途方もなく、個々人にそれを負わせるのは到底困難である以上、村としての莫大な額の借入金の発生が不可避な事から、被災を免れた市街地の商業人などを中心に「耕地の放棄」を強く求める声が高まったそうです。

 村内を二分し後に裁判沙汰にまで発展したこの対立ですが、最終的には”被災地を見捨てなかった”村長の英断により復旧工事が敢行され、その後歳月をかけながらも着実に上富良野の農業は復興の道を進んでいく事になったのです。

 そして、人間の無力さを無慈悲に知らしめた十勝岳は、その後昭和37年(1962年)と昭和63年(1988年)の大規模噴火を経て、現在その活動は小康状態を保っています。

 自治体側でも過去の災害被害に鑑み、富良野川流域における透過・砂防ダムの建設や泥流センサー設置による観測体制の強化、そして避難施設の整備と住民へ対する啓蒙など、多方面にわたる防災対策には準備を怠っていません。

 しかし、自然の力とは我々人間には到底計り知れないものであり、そのような事はないと願いながらも、いつの日か想定外の災害が起こり、またあらたな対策を講じなければならない時期が訪れるかも分かりません。

 そんな人間と山との”知恵と力くらべ”はこれからも果てしなく続いていくのでしょうが、それが火山と共存していかなければならない我が国、そしてその町に課せられた宿命とも言えるのです。

 

※参考文献「機関紙・郷土をさぐる」(かみふらのの郷土をさぐる会・編)


上富良野町】(十勝岳爆発)「記念碑」

建立年月日:昭和 2年 5月24日

建立場所: 空知郡上富良野町西2線北31号

 十勝岳爆発災害に関連する石碑は数々あるも、公的機関の手により建立された唯一のものがこの碑です。

 被災一周年を記念して建てられたものですが、泥流と共に運ばれて来た巨石を動かす事なくそのまま台座として使用しています。

 除幕式が執り行われたその日は雲が深く垂れ込め、遺族などの参列者が一年前の悪夢を嫌でも想起せざるを得ない雰囲気だったと言います。

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記念碑

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碑面

上富良野町】(十勝岳爆発)「遭難記念碑」

建立年月日:大正15年 9月 1日

建立場所: 空知郡上富良野町西町(明憲寺)

 災害当時、仏教関係者らから寄せられた義捐金を基に建立されました。

 台座の正面には銅の銘板が埋め込まれ、犠牲者144名の氏名が刻まれています。

 当初は罹災地である草分地区にありましたが、現地復旧に伴い昭和25年には寺境内の現在位置に移設されています。

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碑面

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銘板

上富良野町】「十勝岳爆発記念碑」

建立年月日:昭和 3年10月 7日

建立場所: 空知郡上富良野町吹上

 大爆発以降もしばらく不安定な状態が続いていた十勝岳昭和3年に入るとようやく沈静化に向かいます。

 これを機に山腹に記念碑を建立する計画が浮上、近くにあった「吹上温泉」の関係者らの手によって、被災した「硫黄鉱業所」の事務所付近の丘に記念堂と石碑が建てられました。

 冬には登山者の避難小屋としても利用された記念堂は長年の風雪に朽ち果て現在はなくなってしまいましたが、碑は「白銀荘」を起点とする登山道の途中に今も見る事が出来ます。 

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碑面

上富良野町】「十勝岳爆発惨死者碑」

建立年月日:昭和 2年 5月24日

建立場所: 空知郡上富良野町栄町(専誠寺)

 この碑は上富良野の惨状に心を痛めた和寒村の石工が製作、昭和2年上富良野村役場へ寄進されたのが事の発端ですが、現在の場所に安置されるまでのいきさつを語るには数奇な変遷を辿らなくてはなりません。

 詳細は省きますが、建立場所を二転三転した後、手違いによって役場の廃棄物扱いになっていた所を一般人に拾われたり、その後供養として人知れず川底に沈められた碑が橋梁工事の作業員に偶然発見されたりと、およそあり得ない事件がこの碑の周りでは起こっています。

 本来であればもう人目に触れる事もなかったであろう碑はその後、かつて置かれていた寺の境内へ二十数年振りに帰り、やっとその安住の地が見つかったのでした。

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碑面

上富良野町】「十勝岳爆発横死者無縁塔」

建立年月日:昭和 2年 8月13日

建立場所: 空知郡上富良野町本町(聞信寺)

 この災害における犠牲者144名の中には「無縁物故者」12名が含まれておりますが、身寄りがいないため手厚い供養もされず彼らはそのまま仮埋葬されました。

 その余りにも哀れな様に忍びなく思った地元の寺の住職が、彼らの供養のために建立したのがこの無縁塔です。

 碑の裏面には、寺から授けられたそれぞれの法名が刻まれており、住職のあたたかい心遣いが伝わってきます。

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碑面(表)

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碑面(裏)

美瑛町】「大正大爆発丸谷温泉遭難者慰霊碑」

建立年月日:昭和50年 5月24日

建立場所: 上川郡美瑛町白金(望岳台)

 この碑は美瑛側山腹にあって罹災した温泉施設跡地に建っています。

 正午頃に起こった一回目の爆発によって発生した泥流はそれほど大きな規模のものではありませんでしたが、不幸にもその流出経路上にたまたまあったこの建物が標的となってしまいました。

 十勝岳周辺において吹上温泉を初めとする数々の源泉を発見し前年に逝去した先代の遺志を引き継ぎ、その息子家族が施設の拡充に心血を注いでいた矢先でのこの災難でした。

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碑面

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碑文

美瑛町】「十勝岳爆発記念」碑

建立年月日:昭和38年 8月 8日

建立場所: 上川郡美瑛町白金(望岳台)

 他と違いこの碑のみは昭和37年(1962年)6月29日深夜に発生した十勝岳爆発によって亡くなった方を祀っています。

 山頂付近で硫黄採掘をしていた会社の作業員が爆発に際し、退避中において火山弾の直撃を受けた5名が命を落としました。

 一説には、この時の爆発の規模が大正時よりも遥かに大きかったとも言われていますが、時期的に残雪がなかったため泥流が発生せずふもとに人的被害が及ぶ事はありませんでした。

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碑面(表)

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碑面(裏)