北海道慰霊碑巡礼の旅

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【小樽市/札幌市】尼港事件慰霊碑

小樽市/札幌市】尼港事件慰霊碑

事件発生年月日:大正 9年 3月~ 5月

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(2014/11/30投稿)

  「シベリア出兵」…学校の世界史の授業で習ったはずのこの史実について、当時の私としてはその事由や目的すら理解出来ず、試験対策として”年代と語句”を覚えていた程度のものでした。

 1918年(大正7年)から4年間に渡り、日本軍がソビエト連邦(ロシア)の極東沿海州などへ侵攻・駐留したというこの出来事に関しては、当時の時代背景や関連史実を踏まえて大局的に考えないとその意義が読み解けません。

 7万人以上の兵力と当時の金額で9億円とも言われる戦費を投入しつつも、最終的には3千人を超える戦死者を出した挙句、然したる戦果もなく1922年(大正11年)に撤兵という日本にとっては”失策”と総括されている「シベリア出兵」が行われた背景には、「第一次世界大戦」(1914年~1918年)と「ロシア革命」(1917年)が大きく関わりを持ちます。

 スラブとゲルマンの民族間対立を火種とするセルビア人によるオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)が発端となり勃発した「第一次世界大戦」ですが、その序盤は両国それぞれの”後見国”であり、民族代表の「ロシア帝国」と「ドイツ帝国」の争いと言えるものでした。

 その後、ロシアの同盟国でドイツとは”犬猿の仲”の「フランス」や、ドイツの「ベルギー」への侵攻によって国防上の安全が脅かされた「イギリス」、更にはイギリスと同盟関係にあった「日本」などが次々と連合国側に加担・参戦するに伴い、戦火はヨーロッパのみならず中東や極東アジア、果てはアフリカに至るまで飛び火し民族・地域を問わず拡大していきました。

 とりわけヨーロッパを中心に、「領土の拡大・失地回復目的」や「過去の争いによる怨恨」、「国土保全のためのやむなき主従関係」など、各国の立場や思惑が入り交る”いびつな”同盟関係が乱立していたこの時代においては、有事の際には戦局がおのずといたずらに「拡大化」「複雑化」する傾向にあり、合わせて約40か国にものぼった両陣営の参戦国の中には「大義」という”縛り”により望まぬ戦いに巻き込まれた国も多々あったであろうと推察されます。

 こうして、当初すぐ終結すると思われた戦闘が長期化する中、国民が窮乏・疲弊の極限に達していたロシアでは、不満を募らす労働者や兵士の代弁者として社会改革を標榜する組織「ソビエト」(労兵協議会)の主導で戦時中の1917年に度重なる大規模暴動(総じてロシア革命)が発生、皇帝ニコライ2世の退位により約300年間続いたロマノフ朝が崩壊し帝政ロシアはその終焉を迎えました。

 革命後、実権を握った「ソビエト政府」は翌1918年には独断でドイツと単独講和条約を結び戦線から離脱するに至りますが、この”裏切り行為”によってドイツ勢からの攻撃を一身に受ける羽目となったフランス・イギリスの激怒を買う事になります。

 そこで、英仏両国はまだ誕生間もないソビエト政権の弱体化・転覆を図るべく極東の沿海州から兵力を投入しロシア国内の「反ソビエト勢力」を支援する事を画策、地理的に近い日本や既に連合国陣営として参戦していた「アメリカ」にもその中核国としての参加協力が打診されました。

 ドイツとの戦いで”手一杯”の英仏からすると、さすがにソビエトに対して正面から”事を構える”余力はないため、そこで出兵の口実として、ロシア傘下部隊となって大戦に関わった後、革命の影響で帰国もかなわずシベリアに残されながらも孤軍でソビエト政権に抗い続けていた友邦国「チェコ」の兵士たちを救出するという名分が演出されたのです。

 そして、「日英同盟」という”大義”によってその要請を全面的に拒否する事は出来ない立場にある上に、先の「日露戦争」ではロシアの侵略的南下をかろうじて食い止めるも手痛い損害を被りその脅威をあらためて思い知らされた日本政府としては、この共産主義により成り立つ新政権がいずれ敵対勢力となるものと見なし、むしろ他国より桁違いに多い数万人規模の兵力を投入しての積極介入に動きます。

 ただしその背景には日本独自の思惑があり、表面上は連合国に協力する一方で、国際世論上に波風を立てない方策として、混乱に乗じて沿海州一帯に”緩衝地帯となる傀儡国家”を建設する事を企図、その実現にはソビエトが不安定状態にある今が好機と考えられたのです。

 かくして、革命の旗印である赤色を冠したソビエト政府側の「赤軍」と、連合各国の”後ろ盾”を得た旧ロシア帝国軍などで構成される反革命派の「白軍」との熾烈な内戦が各地で本格化する事となりました。

 英仏両国の本来の狙いは赤軍を破ったのち白軍をロシア主力軍に再起させた上での東部戦線の維持、つまり「ドイツ挟撃体制の再構築」というところにありましたが、しかしここで戦局は思わぬ急展開を見せます。

 各国がシベリア出兵を始めてからほどなく、ドイツ国内において厭戦感情に毒された水兵たちの反乱を皮切りに、労働者層をも巻き込んでやがて革命規模に発展した暴動はロシア同様にドイツ皇帝を退位させ、1918年11月の休戦協定の調印をもって4年余りの長きに渡り続いた第一次世界大戦はここに終結を見たのです。

 この言わば”ドイツの自滅”による意外な形での終戦を迎えた欧州の連合国陣営にとっては、当面の敵がいなくなった事で、ソビエトへの軍事介入にはもはや大きな意義を持たなくなりました。

 4年もの長い間総力戦を続けた欧州各国ともに国内経済や国民生活の疲弊が極まっており、ドイツが事実上降伏した今に至っては、喫緊の危機ではないソビエトに対する干渉の継続は新たな火種を生むだけで、この際得策ではないと判断されたのです。

 この本国方針に基づき、翌1919年から欧米の部隊が続々と介入の消極化や撤退の動きを見せる中、そもそも出兵の目的に他国とは異なる理由を持つ日本軍のみがこの地に留まり”大義なき介入”を続ける事になりました。

 内戦を煽っておきながら状況が変わると一転撤退といった、他方からすると”日和見”も甚だしい連合国のこの方針転換は、もともと主義や立場が異なりながらも「反ソビエト」の一点のみで結びついていたに過ぎない白軍各勢力の戦意や結束力を大きく喪失させ、これまで押され気味であった赤軍の大攻勢を許すきっかけとなります。

 その上、駐留拠点の土地や作物を強制的に搾取するなど帝政時代と変わらぬ横暴な所業を働く一部の白軍に対しては当然ながら一般住民の不信を招く事となり、そのため逆にソビエト側への同調に動く地方の農村などでは農民や労働者で構成された赤軍パルチザン(遊撃隊)が次々に誕生、白軍勢力やそれを支援する連合国部隊に向ける敵対行動が激化していきます。

 こうして、”赤化の波”がロシア全土へと至りつつある状況の中、極東の日本軍は地の利に勝る赤軍パルチザンの奇襲に苦しめられながらも進撃を続け拠点の確保に努めていました。

 しかし、パルチザンの戦法は次第にゲリラ化し、市街地における戦闘では民間人との見分けがつかない敵兵からの攻撃で不測にも命を落とす日本兵が続出、対抗策として遂行されたパルチザンが潜伏する集落への”焼打ち作戦”においては結果的に罪なき良民までをも多数殺傷するという嘆かわしい事態まで発生しています。

 つまり例えると、後年ベトナム戦争においてアメリカ軍がベトコンのゲリラ攻撃に悩まされた同じ状況に、この時既に日本軍が陥っていたのです。

 「他国の党派争ひに干渉して人命財産を損する、馬鹿馬鹿しき限りなり」という前線兵士の当時の日記に書かれた一文がすべてを表しているように、こうして白軍に肩入れして戦えば戦うほど地元民の恨みを買い、もはや”誰のため”かも分からない不毛な戦闘の続行を強いられた日本軍将兵は士気も上がらずままに次々と徒死していきました。

 然して、この泥沼化した軍事介入の代償は軍人に対してだけでは留まらず、ついには日本人居留民にまで災禍をもたらす事になってしまうのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 間宮海峡を隔て北樺太の対岸に位置する極東地区アムール河口域の港町「ニコラエフスク」(以下「尼港」)は19世紀半ばにロシア人の手によって開かれたとされています。

 従前ほぼ未開だったこの一帯は厳密には当時清国(中国)の領有域だったのですが、その後「アロー戦争」(1856年~1860年)の戦後賠償として正式にロシアへ割譲されたあかつきには早速この地に海軍基地が置かれシベリア艦隊の母港として繁栄しました。

 この頃、沿岸防衛の強化や本格的な海洋進出を推進していたロシアにとって、日本海オホーツク海へ両面展開出来る「尼港」が極東方面の軍事における重要拠点とされていましたが、その地形ゆえ雪氷に閉ざされる冬期間は活用に著しく制限が生じる難点があったため、後に建設される不凍港ウラジオストク」にその主要軍港としての座を奪われる事になります。

 こうして1878年に艦隊の拠点がウラジオストクへ移転されてからというもの急激に寂れてしまった尼港でしたが、1890年代に邦人業者が手掛ける水産事業の定着をきっかけに町は徐々に活気を取り戻し、20世紀初めには経済発展促進のため相応の市民権が担保された環境の下に、樺太から近いここには日本人やユダヤ人を初めとする外国人も多く居住するようになっていました。

 しかし、その後1917年に発生したロシア革命は、多民族が平穏に生業を営む人口1万5千人あまりの”極東最果ての漁業の町”にもやがて着実に影響を及ぼす事となります。

 翌1918年、既に地方にまで波及しつつあったソビエト政権によってその実権が掌握され小規模ながら「赤軍」部隊も配置された尼港では、次第に富裕層を標的とした殺人や金品略奪などの凶悪事件が横行するようになり急激に治安が悪化していきました。

 そんな状況下の同年8月、シベリア出兵参加の連合国各部隊は極東ウラジオストクに続々と上陸していましたが、各国の思惑に温度差がある中、日本軍としては多くの自国民が居留し領事館もある尼港の確保へ向け独自に展開、翌月には同地に居座っていた赤軍を駆逐し滞りなく作戦を完了させています。

 そしてこのまま当面駐留する事になった2個中隊計300名ほどの日本軍守備隊の存在は町の治安を回復させ、約400名の在留邦人はもちろん、ユダヤ人や白系ロシアの資産家などとりわけ有産階級から歓迎の意をもって受け入れられたと言います。

 日本軍により赤軍の排除に成功した尼港にはその後白軍勢力も次々と”帰還”し、相互協力体制の下に一時の安寧がもたらされましたが、しかしこの状況は長くは続きませんでした。

 序文にて記したように1919年を境にしてロシア内戦の戦局は大きく逆転、英仏軍の前線後退や主力「チェコ軍団」の離脱などにより弱体化した白軍勢力は敗走を続け、同年末には西シベリアのオムスクに置かれた本拠「臨時全ロシア政府」がついに陥落します。

 こうして主要都市の大部分を赤軍によって制圧された上に連合国の支援をも失った白軍は事実上壊滅し、極東地区に残った数少ない勢力が援助を頼るはもはや日本軍のみとなっていました。

 そして一方、日本軍に町を追われた赤軍は、ハバロフスクの司令部から派遣された幹部の手によって、占拠した近隣地域からの徴兵労働者や、ソビエトに盲従する朝鮮人あるいは中国人の革命派独立部隊を続々配下に加え大規模なパルチザン部隊を組織、尼港奪回に向けて反攻の機会を窺っていたのです。

 年が明けた1920年大正9年)1月、尼港は例年に違わず厳しい冬を迎えていました。

 アムール河口域の結氷により自軍基地への帰投がかなわずここでの”越冬”を余儀なくされる事になった中国海軍(当時中華民国)の軍艦4隻が港内に停泊していた以外は、いつもとまったく変わらない光景が見られた尼港でしたが、その頃態勢を立て直した赤軍パルチザンの軍勢が町を奪還すべく既に迫っていたのです。

 おそらく、外海との連絡が断たれ陸路移動のみが街への通行手段となるこの時期を狙っての作戦決行だったのでしょう、1月中旬に尼港は総勢4千人にものぼるパルチザン部隊に包囲されました。

 赤・白両軍の睨み合いがしばらく続いた一触即発の状態は、日本軍守備隊のいる尼港郊外のチヌイラフ要塞や日本海軍無線電信所へ対するパルチザンからの攻撃に端を発してやがて日本軍をも巻き込む大規模な戦闘へと拡大、この異変は尼港から1,000km離れたハバロフスクに駐留していた守備隊所属の第27旅団を通じてさらに遠いブラゴエシチェンスクの第14師団の日本軍各司令部にも無線によって伝わりましたが、遠隔地である上に、尼港と同じくその時政変の不穏な情勢に置かれていた両地区ではとても援軍を派遣する余裕すらなく、事態の悪化を嫌った司令部としては本国に報告すると同時に尼港守備隊に対して「赤軍側との交渉に応じて平和的解決に努めるべし」との訓令を発する事しか出来ませんでした。

 この上官命令や、被害拡大を恐れる住民代表などの意向を受けた守備隊は、パルチザン側との交渉を経て「日本軍の地位の保証」や「一般住民に対する不当な逮捕・略奪の禁止」などの条件下で停戦に合意、約1ヶ月間に渡り続いた衝突はひとまずの終結に至りました。

 かくして2月29日、尼港の実権は赤軍側の手に落ちましたが、労働者階級の住民はまるで手のひらを返すようにこれを歓迎、もはやその多くを味方につけたと見るや一転パルチザン勢力は合意内容を無視し蛮行に及ぶようになります。

 そもそも、このパルチザン部隊を率いる”自称”赤軍司令官はもともとロシア帝国下士官でありながら、短期間で白軍側の「オムスク軍」や赤軍パルチザンに籍を置き換えるような無思想な人間であり、そんな”ならず者の首領”の指揮のもと寄せ集められた多国籍部隊など、それなりにも厳しい軍規が設けられた正規赤軍とは比較にもならない野蛮な”殺人集団”に過ぎませんでした。

 そのような勢力が約束事を守るはずもなく、当初「白軍関係者」に限られた逮捕者はすぐに公務員やロシア人実業家などの有産階級にまで及び、彼らは人民の敵として即決裁判により即日処刑、数日間でその数は400名にものぼったそうです。

 この”恐怖政治”の矛先はいつ誰に向けられるかも分からず、あまりにも酷い惨状に見かねた日本軍守備隊長はパルチザン側に当初の停戦合意内容の遵守を要請、しかし勢いづく相手側はこれを内政干渉として突っぱねた挙句、疎ましく思った司令官は逆に日本軍の武装解除を要求してきました。

 もはや日本人は敵と見なされ、兵士や居留民の生命の保証など望めるべくもない上に、この時敵の手によりまったくの通信手段を断たれていたため援軍・物資補給の要請や現況報告すら出来ない絶望的な状況に際して、ついに守備隊長はその数10倍ものパルチザン勢との決戦に孤軍で臨む事を覚悟します。

 その頃、本国ではもちろん座視していた訳でなく、1月末の戦闘開始時期においてシベリア派遣軍司令部からもたらされた異変の報告内容に基づき、北海道旭川の陸軍第7師団で歩兵・砲兵などから成る「派遣隊」が急遽編成され出動していますが間宮海峡の厚い氷に阻まれた隊は前進を断念、やむなく引き返さざるを得なく、実際この時点での尼港は敵の思惑通り完全に”陸の孤島”と化したため、外部からの支援は現実的に不可能だったのです。

 そして尼港では、武装解除の期限日である3月12日未明、陸軍守備隊、海軍無線電信隊及び退役軍人ら義勇隊総勢400名余りがパルチザン本部への奇襲を決行、敵幹部の殲滅により組織の指示系統の分断を図りますが、痛恨にも司令官を取り逃がした事から一転、敵の猛烈な反撃に晒されるという苦境に立たされました。

 この遺憾極まりない決起の失敗は、その後の想像を絶する惨劇を呼ぶ事になります。

 報復措置として直後に発令された「例外なき日本人殺戮命令」により、事態を知らされていなかった無抵抗の一般邦人居留民が残忍なパルチザンの手にかかり老若男女を問わず惨殺される運命となりました。

 とりわけ、日本人を激しく憎悪する朝鮮人や中国人部隊の所業はここではとても書き記せないまでに惨く、そのあまりにも常軌を逸した残虐な手口には同類のロシア人パルチザンでさえ眉をひそめるほどだったと言います。

 さらにこの悲劇の最中には、パルチザンの襲撃から逃れ、港内に停泊していた「中国艦隊」に救助を求めるべく桟橋へ向かった一部の日本人たちが、あろうことか軍艦からの銃撃に遭い全滅するという信じられない事態が起こりました。

 当時中華民国はロシア内戦には不干渉という方針を取りながらも、日本と同じく連合国陣営にあり共同出兵にも関与していました…つまり国際立場上”敵ではない”中国正規軍からの攻撃によって彼らは命を落としたのです。

 後に中国政府はこの事件に関してあくまでも”不慮の事故”との前提にて謝罪・賠償に応じていますが、これ以外にも日本軍兵営に対する艦砲射撃やパルチザン側への「機関銃」や「艦載砲」の貸与などの”非中立”行為が行われたとの証言もあり、それが事実ならこれら一連の敵対行動の裏側には「対華21カ条要求」(1915年締結)に代表される日本の強権的政策に対する”報復感情”が働いた上での明確な意図があったとしか考えられません。

 また、尼港には商人など多くの中国人居留民もおりましたが、パルチザンも彼らには手出しをしていない事から、いずれかの段階において両者間で何らかの協議の場が設けられていたと考える方が自然で、更に言えば、赤軍側から見て本来敵にもなり得る中国軍艦がいる中で尼港奪回作戦が躊躇なく決行されている事実に鑑みると、もしかすると艦隊の停泊をも含めて、すべてが当初からの計画通りであった可能性すら感じさせます。

 この思いもよらぬ中国側の敵勢への加担により日本軍の被害は増大し、いよいよ窮地に追い込まれた守備隊でしたが、それでも残る100名余りの戦力は兵営に立てこもり決死の籠城戦を展開していました。

 こうして戦闘が一時膠着状態となった中、決起から数えて6日目の3月17日夕刻にパルチザン側の軍使からある電報の存在を知らされます。

 その内容は、在ハバロフスクの日本軍旅団長と赤軍側司令官によって両軍へ向けて連名にて発信された「双方停戦」を勧告するものでした。

 これは、ここに至って漠然とながら尼港における戦闘事実を確認するも、4千人にも増大したパルチザン勢力の手により邦人を中心とした外国人や白系ロシア人住民がいたずらに虐殺されここが修羅場と化しているとはまさかにも思わない両軍司令部が相互協議の結果発令したもので、この極めて”楽観的”な勧告が出された背景には自軍の司令部に対してさえも虚偽の報告をしていたパルチザン側の策略があった事は言うまでもありません。

 この”現況を知らずしての中途半端な仲裁”に際し、既に隊長を初め大部分の同志を失い玉砕覚悟で臨んでいた現地守備隊としては到底承服しかねる内容だったものの、ここでの長引く戦闘が他地域における日本軍の戦略に悪影響を与えかねない事に鑑み、そしてこれが「事実上の上官からの命令」である以上、断腸の思いで停戦に応じざるを得ませんでした。

 こうして、日本軍の厳しい軍規軍律や思考の傾向を逆手に取ったこの狡猾かつ卑劣な敵の計略に落ちた守備隊にはその後耐えがたい屈辱が待ち構えていました。

 翌日における”偽装”の双方武装解除の後、もとより停戦などするつもりのないパルチザン勢によってこの合意はたちまち破られ、日本兵らは拘束・投獄されるという憂き目に遭うのです。

 そして、この時既に外交官を含むほぼすべての在留邦人が殺害されもはや守るべきものは何も残されていない現実を獄中で知ったであろう彼らは、敵に欺かれた挙句生きながら虜囚の身となった自らの運命をさぞかし悔やみ恨んだ事でしょうが、すべてはもう手遅れでした。

 かくて戦闘が終わったその後の尼港は、名ばかりの”革命”の旗の下にパルチザン勢力の思うまま殺戮・略奪が繰り返される「無法地帯」となり果てましたが、その中パルチザンの目を盗み脱出に成功した避難民からの証言によってこの惨劇の一部始終が徐々に明るみとなり、それが日本軍の耳に入る事になります。

 これらの情報を受け、事の重大さを察した師団司令部は赤軍との妥協を破棄、ウラジオストクハバロフスクにおいて敵を制圧した後、遅ればせながら尼港救援に向け支隊をアムール川上流側より派遣、そして本国でも一度は挫折・延期されていた「尼港派遣隊」及び増援の「北部沿海州派遣軍」を編成し、海軍の協力を得て現地へ急行させています。

 時は5月になり、一帯は解氷の季節を迎えていたものの河口域は未だ堅氷に覆われていたため外海からの接近は不可能であり、やむを得ず手前100km地点の沿海州デカストリに上陸した本国側派遣隊は陸路尼港を目指していました。

 一方、尼港のパルチザン司令官は極東各地区の赤軍が制圧・武装解除された事や目前に迫る日本軍の進撃状況を知るや、最後にして最悪の凶行に及びます。

 5月20日、まるで事前通達に呼応したかのように中国人居留民らが港内の自国軍艦に乗船して近郊の町へ避難した直後、尼港では今までにもまして凄まじい殺戮が始まりました。

 それは、尼港の放棄を決定した司令官により発せられた「絶滅作戦」に基づくものであり、支援者以外の住民、つまりこれまでの経緯に関し自らに利しない証言をする可能性があるすべての者がその対象となったのです。

 この悪辣非道な暴虐行為によって国籍を問わず無差別に命を奪われた人数は3,000名以上と言われていますが、それは先の戦闘の後囚われていた日本兵も例外ではなく、病院に収容されていた傷病兵も含めこの時一人残らず殺害されました。

 その後、虐殺から免れた住民が強制的に退避させられ無人となった尼港には火が放たれ、6月3日にやっと現地に到達した派遣隊が目にしたものは、既に徹底的に破壊し尽くされ焦土と化した街並とおびただしい数の犠牲者の姿だったのです。

 焼け跡から発見された兵士の日記や、獄中の壁に遺されたメッセージ、そしてからくも生き延びた住民からの様々な証言により全容が明らかになったこの悲惨事は、日本政府や軍部はもとより極東地区の赤軍司令部さえも驚愕させる事になりました。

 これはもはや日本軍との全面交戦へと発展してもおかしくない規模の内容であったため、慌てた赤軍司令部は事態収拾に向けソビエト政府の指示を仰ぎ、アムール川支流上流側の町に遁走したパルチザン部隊と密かに連絡の上、部隊内の反対勢力の協力を得て幹部らの拘束に乗り出します。

 万一日本側に捕らえられて赤軍ソビエト政府にとって不都合な言及をされては困る当局としては、血眼でパルチザン勢力を追う日本軍より先に幹部を処分する必要があったのでしょうが、この頃パルチザンの中にはあまりにも独裁的な手段に反発する部下も大勢いたため、あっけなく司令官以下幹部は仲間内に捕えられ、「ソビエト政府の意向を無視し独善的に人民への殺戮をおこなった事で共産主義の権威を失墜させた」という理由で簡易的な裁判を経て即刻処刑されました。

 こうして、最終的に人口の半数にも及ぶ約6,000名の尼港住民が犠牲になったとされるこの未曽有の犯罪行為を指揮した”革命家気取りの殺人鬼とその取巻き連中”は身内の手によってその悪行の報いを受けましたが、首謀者の”口封じ”を済ませた事で強気になったのか、この事件を「日本側が引き起こしたもの」、あるいは「司令官個人の所業」として片づけようとするソビエト政府の対応に態度を硬化させた日本軍のシベリア駐留が結果的には更に2年以上続く事態となります。

 しかし、尼港事件と時を同じくしてソビエト政府の目論みにより極東地域に突如建国宣言された「極東共和国」なる”形式上”の民主主義独立国家の誕生は、この地に留まり続ける日本軍の対外的イメージを大きく損なわせる事となり、日本国内でも景況の悪化から撤兵を望む声が徐々に高まっていきました。

 かくて、当初企図された「極東における緩衝地域の新設」という筋書きはソビエト側によってしたたかに先手を打たれいよいよ介入の意義をなくした日本軍は、国内外の世論の向きが悪化する中、4年間に渡り巨額な戦費と多くの人員を投入しながら目的を果たせずままに撤退という苦渋の選択を取るに至ります。

 然して、尼港で失った731名の日本人の生命の代価として「北樺太」の保護占領の行使と同地での石油・石炭利権の獲得という極めて無味な”戦果”と大きな禍根を残し、1922年(大正11年)「シベリア出兵」はその終焉を見たのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この事件のあらましを初めて知った当時は赤軍パルチザンの言語を絶する無法ぶりに身震いするほど怒りを覚えた私ですが、経緯を知るにつれ日本側の政策にも疑問が生じました。

 出兵時において画策された「前線で英仏軍などが盾となって戦っている間に極東での親日政権樹立に向けた基盤を構築する」という日本側の構想は、「第一次大戦終結と伴う連合国側の方針転換」や「白軍の急激な弱体化」などの状況変化により早くもその前提が失われているのにも拘らず、今更引くに引けず深入りした事がその後の様々な悲劇を呼んだと言えます。

 現代からの目線で施策の善し悪しを語るのはフェアではありませんが、これほどまでに旧体制(白軍)側に対する一般国民の支持がなくむしろ離反している状況ではもはや安定した政権づくりなど望めるべくもなく、やはり他国が撤退を決めた時期が”引き際”だったのでしょう。

 政府と軍部の二重外交状態が生んだ日本の独自介入路線には、出兵のきっかけを作った欧米各国からさえも疑念の目が向けられる事になり、その後拡がっていくアメリカとの確執や、第二次大戦時における千島・樺太へのソ連侵攻とシベリア抑留の口実に利用された事実に鑑みると、結果論としてこれが誤った政策であったのは疑う余地がありません。

 その上、内戦不干渉という”建前上の方針”が足かせとなり、白軍を陰ながら支援しつつも赤軍が優勢と見るや今度はそちらとの妥協をも図らなければならないという場当たり的な戦略によって、前線兵士はたとえ相手が敵対勢力であっても攻撃を受けるまでは応戦も出来ないという極めて理不尽な正念場に常時立たされ、結果的には中途半端な停戦命令によって最後は戦わずして無念にも全滅した尼港守備隊の悲劇を招いたのです。

 そして尼港の邦人居留民の場合は、従前から赤化により治安が悪化していたとはいえ、おそらくこの軍事介入と衝突がなければ少なくとも全員が虐殺されるまでの事態には至らなかった可能性が高く、一面的には国の”失策”によって道連れにされた被害者とも言えるでしょう。

 ただ、事件勃発によって北樺太の保護占領という一時的ながらも”唯一の戦利品”を獲得したのは事実であり、それらの措置が極めて速やかに実行されている事から、もし仮に国として規模はさておき想定範囲内における事件発生とその帰結であればこれほど悲憤すべき話はありません。

 さて、この悲劇的事件については「派遣軍」に随行した新聞社特派員などにより克明かつ刺激的に報じられ、そのあらましがあまねく日本国民の耳に入る事になりますが、国内世論の反響は一時憤怒に沸騰するも、極めて一過性なものだったとも聞きます。

 政界では事件が政争の具として野党に利用され、議会における政府や軍部への糾弾の末陸軍大臣が辞職に追い込まれる事態になりますが、当時広く募った義捐金の集まりが芳しくなかった事からも窺えるように、一般国民にとっては事件そのものへの関心とは裏腹に、この異国で起こった前代未聞の出来事がどこか自分とは無関係な”絵空事”のようなものとして捉えられていたのかも知れません。

 こうして、シベリアの田舎町で平和に生活を営んでいた人々は、知らず知らずの内に時代の大きな波に呑まれる中、列強の勝手な思惑と対する報復感情、そして類を見ない狂気に巻き込まれて再び生きて祖国の地を踏む事はありませんでした。

 このやるせない事件を通じて、こちらの常識や道理などまったく通用しない非道と欺瞞がまかり通る外地における戦略推進の困難さを痛感させられたはずの日本ですが、しかし大陸展開の範囲は拡大の一途を辿り、その後舞台を満州中国東北部に移してからもまた同じ轍を踏む事になっていくのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 尼港事件と北海道との直接的つながりは実はそれほどありません。

 尼港の在留邦人の多くは熊本県を中心とする九州出身の方だと聞きますし、玉砕した守備隊も主に茨城県にて編成された部隊でした。

 ただ、地理的条件からシベリアとの交易は「小樽港」がその本土側窓口となっており尼港との定期航路があった事から、これら居留民の多くもここを経由して旅立っていったものと思われ、北海道内で編成された「尼港派遣隊」や「北部沿海州派遣軍」も小樽から出動しています。

 そんな所縁がある小樽市では、地元名士や有志の働きかけにより「北方で散った開発功労者」のための慰霊碑や納骨塔の建立が決定、派遣隊らの手によって現地で荼毘に付された犠牲者の遺灰がここに納められる事になりました。

 この他事件関係の碑としては、出身者が多かった熊本県天草市や守備隊編成地の茨城県水戸市を初め、尼港で事業を営んでいた方の故郷である山口県長崎県に、そして前出「派遣軍」関係者らの手による殉難碑が札幌護国神社に建立され、現地で戦死した軍人・軍属の御霊は東京靖国神社に合祀されているそうです。

 一見事件とは無関係の北海道に関連碑が建てられている背景には前述理由以上に、様々な事情によりあるいはやむなく生まれ故郷を離れ異郷の地で暮らしていた同胞へ向け、似た生い立ちを持つ道民の”他人事”では済まされない複雑な感情が作用したのかも知れません。

※本文記載内容はネット上にある複数の情報を基にしておりますが、諸説ある中の一説のみを取り上げて記している部分が含まれる事を御了承ください。


小樽市】「尼港殉難者追悼碑」/「義烈千載」碑

建立年月日:大正13年 8月/昭和11年12月

建立場所: 小樽市手宮2(手宮公園)

 事件から4年後、大正13年1924年)に道民からの寄贈金などを基にして、海を眺望出来る手宮公園に建立された納骨塔には、これまで仮安置されていた市内の寺から遺灰が移されています。

 その後、昭和11年に事件のあらましが刻まれた殉難碑(義烈千載)が、そして翌12年には現在の塔廟や付帯建造物が建て増しされ、本格的な慰霊の場として整備されました。

 この間、毎年5月24日には慰霊祭が行われてきましたが、平成元年(1989年)には都市公園法の趣旨に則り、遺灰は市営墓地内の供養塔へ遷安され、納骨塔は「尼港殉難者追悼碑」としてここに残されています。

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尼港殉難者追悼碑

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案内板

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義烈千載碑

【札幌市】「尼港殉難碑」

建立年月日:昭和 3年10月

建立場所: 札幌市中央区南15西5(札幌護国神社

 尼港派遣隊(多門支隊)の増援として編成された「北部沿海州派遣軍」の基幹部隊となったのが札幌駐屯の陸軍第7師団歩兵第25連隊でした。

 事件においてはただ一人の救出もかなわず、筆舌しがたい程の無残な光景を目の当たりにした派遣軍関係者の心中にその後も悔恨の念がくすぶり続けたであろう事は想像に難くありません。

 碑の建立者が「帝国在郷軍人会」となっている事から、退役した元派遣軍所属の方が中心となって建てられたものと推察されます。

 建立当初は札幌市内の旭ヶ丘(当時藻岩村)にあったそうですが、昭和35年に現在の札幌護国神社内彰徳苑へ移設され、毎年9月10日に慰霊祭が執り行われています。

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碑面