北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【道東複合管内】鉄道工事殉職労務者慰霊碑(明治・大正期編)

【道東複合管内】鉄道工事殉職労務者慰霊碑(明治・大正期編)

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(2015/5/4投稿)

  北海道の鉄道の歴史は開拓使時代の明治13年1880年)における官営幌内鉄道「手宮(小樽)⇔札幌」間の開業に端を発します。

 その名から分るように、この路線は前年に開鉱された幌内炭鉱(幌内村→現・三笠市)で産出される石炭の小樽港からの積み出しを本来の目的に敷設されたものであり、明治15年には手宮⇔幌内間が全線開通しました。

 その後、明治20年代には官から幌内炭鉱と同鉄道の払下げを受けた民間資本である「北海道炭鉱鉄道」(北炭)の手によって、空知炭鉱(現・歌志内市)や夕張炭鉱など有望な新しい炭山が次々と開かれるに伴い夕張⇔室蘭間など鉄道路線も拡大していきますが、その範囲はあくまでも炭山と積み出し港間に限定され、それはまさしく「石炭のための鉄道」に他ならなかったのです。

 政府の補助金こそ受けていたものの鉄道の敷設や管理には相当な費用が投じられており、北炭側としては”実入りの少ない”産炭地以外への延線には極めて消極的でしたが、一方北海道庁明治19年設置)では内陸部の殖産目的として鉄道路線拡大の必要性を強く感じていました。

 というのも、開拓当初から既に情勢は変わり、明治20年代後半において人員や物資の移動手段の主役としてはもはや道路ではなく一度に大量の積載が可能な鉄道に期待されていたからです。

 それを北炭に望むのは困難と判断した道庁は国費を投じて路線を拡充すべく明治29年に「鉄道建設計画書」を帝国議会へ提出、国から莫大な予算を引き出すのは容易ではないと思われたものの、折しも日清戦争の戦利として清国から得た賠償金によって国家財政に多少余裕があり、そして政府としても台湾と同様、北海道の開拓にも注力すべき意向にあった事が追い風となり、この壮大な計画は議会で承認されるに至りました。

 かくして同年公布された「北海道鉄道敷設法」に基づき、道内の広範囲に渡り順次敷設工事に着手されていきました、しかし施工段階に至り様々な難題にその後直面する事となります。

 当時の北海道は、11国(地域)に区分けされていますが、その境界はおよそ山地によって隔てられており、内陸部を越境する際はいわゆる”峠越え”をする必要がありました。

 かつて道路開削時に相当の労苦と犠牲をもたらした峠付近の工事には、当然のごとく鉄道敷設でも同様の苦難が伴いましたが、さらに鉄道工事においては道路とは異なる事情がその進捗を阻害します。

 その大きな違いとは、人馬用の道路開削時には考慮する必要のなかった急勾配・急カーブに関して、列車が通行する線路の場合はその許容の程に限界があり、そのため険しい山をかわしきれない区間には隧道(トンネル)の新設が不可避であった事でした。

 国内でのトンネル掘削技術は海外のノウハウを受け当時目覚ましく発展中だったものの北海道では未だ人海戦術に頼らざるを得なく、規模や諸条件によってもちろん差異はありましたがトンネルひとつを貫通させるための工期は軒並み数年を要しました。

 加えて、人里離れた人跡未踏の未開林での工事においては、物資の補給不足や施設の不備など作業インフラ整備の未徹底、さらには現地ならではの感染症などに起因する思いもよらぬトラブルが頻発し、労働者側にとってのその環境は劣悪そのものだったのです。

 このような状況ですから、副収入目当ての入植農民など当初の募集に応じた多くの雇用労務者はその過酷さに耐えきれず職場を離脱する者が続出、とりわけ人手を多く必要とするトンネル工事を含む工区では労働力不足の問題が顕在化していきました。

 現代であれば、打開策として「労働環境の改善」や「報酬の適正化」などの対応が当然求められる事でしょう、しかし明治のこの時代ではまったく逆の手段が考慮されます。

 それが、後々昭和の終戦直後まで引き継がれていく「タコ部屋労働」と言われる悪習の確立でした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 開拓当初における北海道内の交通インフラ工事に集治館の囚徒が動員されていた歴史については『中央道路開削』のエピソードでも触れた通りです。

 しかし、明治27年(1894年)を境に囚徒の外役労働が事実上禁止となった後、それらの工事は主に民間の建設業者が担う事になりました。

 当時の建設工事の発注形態としては、発注側である官庁が直接現場を監督する「直営工事」と監督業務を含むすべての責任を受注業者に一任する「請負工事」に大別されていましたが、工期が長く僻地での作業が多い鉄道敷設工事については後者のケースが多かったと聞きます。

 官庁(道庁鉄道部のち逓信省鉄道局→内閣鉄道院)側としても、進捗において特段難しい技術を要しない工区に際して担当職員を長期間拘束されるのは非効率であると考えた上での判断でしょう、しかし逆に”我関せず”な意向とも受け取られかねないこの措置が、結果的にはその後の業者の”暴走”を許す事になるのです。

 さて、当時の鉄道建設ラッシュの状況は工事業者にとってはまさに”宝の山”であり、可能な限り受注量と伴う利益額を増やして自社の規模拡大を目論んだであろう事は想像に難くありませんが、その意に反して労働力の確保は年が経つに連れ困難な状態に陥っていました。

 というのも、前述のような劣悪な労働環境下での作業を経験した上で再雇用を希望する者は極めて少なく、彼らからの伝聞や地元新聞の記事などにより、その過酷な実態が一部明るみに出ていた事もあって、今や好き好んで鉄道工事人夫の募集に応じる”変わり者”など近隣にはいないに等しいのが現状だったのです。

 これを受け、道内での人員確保の限界を悟った工事業者は募集範囲を全国に拡大する事を企図、主にその任は彼らからの委託を受けた「斡旋業者」が当たりました。

 折しも時は明治後期の経済が不安定な時代、日清・日露戦争後の反動不況や東北地方における米の凶作などの理由で、全国ベースで見れば貧困に苦しむ人々が多数いたため、当初は予想を上回る員数が各地から応募・来道したそうです。

 しかし業者が喜んだのもつかの間、現場の改善がなされていない状況下ではやはり同じ事が繰り返され、想像よりはるかに酷い作業環境に際して職場を放棄、逃亡する者が後を絶ちませんでした。

 ただ以前のケースと違うのは、この時点で集った人々には就労雇用契約時に斡旋業者へ支払われた費用、つまり既に人件費の一部が「先行投資」されていたため、その人員を失う事はそのまま建設業者の実害となったのです。

 一面から見れば違反行為に違いないこの「契約不履行」状態を業者側がこのまま見過ごす訳もなく、対策として工事現場においてはより厳しい監視体制が敷かれ、脱走を企て捕えられた者は見せしめとして厳罰に処されました。

 とりわけ、タコ(他雇)と呼ばれる主に道外から来た斡旋労務者は、「素性の分からぬ者が多く逃亡の可能性が高い」ため例外なく監視を強化すべき対象と見なされ、当時の監獄を模して設けられた通称「タコ部屋」に収容、徹底的な管理下に置かれる事になります。

 かくて、完工までの良きパートナーとして本来接するべきであるはずの雇用労務者へ対しては、極端な性悪説のもと何かと”目の敵”にされ、いつしかまるで牛馬か奴隷のような扱いにて対処する事が当然視されるようになっていくのです。

 そしてそれと並行して、労働者を募る手段もますます巧妙・悪質化し、仕事内容を偽っての勧誘、さらには金銭に困窮している者へ対して親切を装い金を工面した後における取立て手段としての現場への拘引など、もはや犯罪とも言える行為が常態化していきました。

 こうして斡旋業者の口車に乗せられなかば騙されて契約、あるいは借金完済までの条件にてやむなく従事する事になった人々を待ち受けていたのはまさに”地獄の日々”に他なりませんでした。

 一般社会から隔離され救いなど望めるべくもない辺境の地で強要されるまるで経験した事のない重労働や、容赦ない懲罰、粗末な食事など、もはや人間扱いもされず生存権さえ保証されない毎日は、彼らにとって到底受け容れられる現実ではなかった事でしょう。

 その上、生活必需品の不当に高い価格での販売などで借金返済の目処を与えず、雇用契約上限日まで彼らを拘束するという悪辣な手法も一部では見られ、この”修羅場”から早く解放される一縷の望みすら失った哀れな”タコ労働者”の中には、病気による衰弱や非情な懲罰によって、あるいは自ら生命を絶ち、無念のまま異郷の地でその人生を終えた人も少なくないと聞きます。

 「劣悪な労働環境」「欺瞞による人員勧誘」「労働者に対する酷使・虐待」「労働者からの搾取」「傷病人への適切な処置の怠り」など、現代から見ればひとつひとつ重大問題として提起されるべきこれらの要素が見事なまでに連携しシステム化されたこの忌まわしき”管理体制”は、「開拓促進」と「経済発展」の”大義”のもとに世論や当局の無関心・不介入という事実上の”黙認”を得、そして後半は「戦時体制」という特殊な時代を背景にその後も形態を変化させ、土建工事現場全般に渡って維持・展開されていきます。

 こうして時代を超えて生き永らえてきたタコ部屋労働が最終的に摘発・根絶されたのは、昭和20年(1945年)の終戦直後に日本を占領した連合国最高司令官総司令部GHQ)からの命令がきっかけでした。

 この”外圧”を受けようやく重い腰を上げた当局によって、ひときわ悪質な建設業者や斡旋業者などが次々に検挙され送検・起訴処分となってからは、今までの事がまるで嘘のように急速に事例が減っています。

 しかしそれにしても、長年続いたこの”非人道的因習”をやっと断ち切る事が出来たのが、まさか戦時中の都市空襲や原爆投下などによって多くの一般市民を無差別に殺戮した米軍のおかげだったとは何とも皮肉な話だとしか言いようがありません。

 北海道開発の歴史のページに汚点を残したこの「タコ部屋労働」については、恥ずべき内容だけに表面化せず時代に埋もれてしまったものも多々あるでしょうが、それでも道内各地において同様の話が各々伝え遺されています。

 今回はその中で道東地域に建つ鉄道工事関連の慰霊碑に由来する4つのエピソードを時代に順を追って紹介したいと思います。


新得町】「苦闘之碑」(十勝線工事殉職者慰霊碑)

建立年月日:昭和58年 5月 1日

建立場所: 上川郡新得町新内

   北海道官設鉄道十勝線は旭川⇔帯広間、総延長約180kmの路線を指し、「北海道鉄道敷設法」の公布に基づき最重要路線(第1期線)のひとつとして明治30年(1897年)6月に着工されました。

 旭川側から起工されたこの工事、途中で美瑛⇔上富良野間の丘陵越えや金山⇔幾寅間における空知川河岸の切土工事などの難所もありましたが、約4年の歳月をかけて行程の2/3近くに当たる南富良野村落合まで到達しています。

 しかしこの先には、石狩国十勝国の境界にそびえる「日高連峰越え」という、この路線最大の難関が待ち受けていました。

 北海道のほぼ中央から太平洋に至るまで南へ約140kmの長さに渡り標高1千~2千メートル級の峻険な峰が縦貫するこの山脈を抜けるのは容易な事ではなく、敷設ルートについては計画段階で複数の路線が検討されましたが、「佐幌(サホロ)岳」(標高1,059m)越えを提言した英国人技師の案が最終的に採用されます…しかし比較的標高の低いポイントを選択したこのルートですら、トンネル建設を避けて通る事は出来ませんでした。

 こうして、十勝・石狩両地域から一文字ずつ冠して命名された「狩勝(かりかち)隧道」(延長954m)と「新内(にいない)隧道」(同124m)の掘削作業は明治34年夏から”敢行”されたものの、硬い岩盤と予想量をはるかに超える湧水によって阻まれた工事は一日あたり平均1m程度しか掘り進む事が出来なかったそうです。

 また、新内隧道そばの谷には長さ200メートル・最大高さ70数メートルにも及ぶ巨大な築堤が施され、その盛土工事のため実に14万立方メートルもの土砂が現場に運び込まれていますが、重機もない時代の事、もちろんその役目を人馬が担ったのは言うまでもありません。

 この想像を絶する難工事においては、過酷な労役に耐えきれず逃げ出したりビタミン不足による「脚気」(水腫病)を発症するといった離脱者が相次ぎ、地元の入植農民や東北地方からの被雇用者など多い時では千人ほど従事していたとされる労務者はみるみる目減りしていきました。

 とりわけ、北海道内の土建業者が請け負った新内隧道の現場状況は悲惨を極め、連日の重労働によって脚気が悪化し動けなくなった罹患者を養生させるどころか現場脇の「むしろ」の上に並べて座らせ、まるで”見せしめ”のような扱いをしていたとの証言もあります。

 その後、病死した者は”用済み”とばかりにセメント樽に詰め込まれ沢に遺棄されたというから、それが当時の法に抵触するか否かは別にしても、このあまりにも非道な行為には驚きを禁じ得ません。

 また、明治39年6月付の釧路新聞には、「国境工事場の惨状」と題して、実家のトラブルから逃げるように北海道へ渡ってきた東京出身のエリート青年(26歳)が「工事現場の”事務”仕事」との斡旋業者の甘言につられて雇用契約、ニウンナイ(新内)の現場での土工作業を拒否したがために壮絶な虐待を受けた後、命からがら脱走し警察に保護されるまでのいきさつが5回に渡り生々しく報じられており、工事後期に至っては労働力確保のため既に詐欺まがいの斡旋行為が行われていた事が記事から窺えます。

 かくして、その数不明ながら多くの犠牲者を生んだであろう十勝線の敷設工事は、日露戦争勃発による途中2年間の中断時期をはさみ明治40年(1907年)9月に完工、十勝線と並行して建設されていた釧路線(釧路⇔帯広)と連絡させる事で、同年11月には道央から道東へ至る大動脈が全面開通しました。

 それから60年の長きに渡り主要幹線として乗客や物資の移動に多大な貢献を果たしたこの路線は、昭和41年(1966年)10月には国鉄根室本線の新ルート開業に伴い一部が廃線、”国境越え”の手段も新たに建設された「新狩勝トンネル」(延長5,790m)に取って代わられる事になります。

 現在、旧線は「遊歩道」として利用され、「狩勝」「新内」の両トンネルは意匠的に優れた構造が評価されて土木遺産に登録、そのままの姿で保存される事となりました。

 そして、観光用モニュメントとして現在も残される「旧・新内駅」そばの林の中には、この工事によって犠牲となった”功労者”を祀る碑がひっそりと建っています。

 「苦闘之碑」と名付けられたその碑は、トンネルのデザインに彩を添えたものと同じ「佐幌産の御影石」(花崗岩)で出来ていますが、この遺産に値する”美しい”トンネルを作るために一体幾人の人々が命を落とし人知れず葬り去られたのか知る者はいないのです。

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碑面

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碑文

【置戸町】「鉄道工事人夫死亡者之墓」(網走線工事殉職者慰霊碑)

建立年月日:明治43年 8月15日

建立場所: 常呂郡置戸町北光

  明治39年1906年)に帝国議会で可決された「鉄道国有化法案」に基づき、民営鉄道である「北海道炭鉱鉄道」(小樽⇔空知太⇔室蘭)と「北海道鉄道」(小樽⇔函館)の路線が国に買収され、先に取得した「釧路鉄道」を含めて道内の鉄路のすべてが国の所有(逓信省鉄道局管轄)となりました。

 時代は日露戦争直後の不況の折、多額の国外債務を抱えていた政府としては国費の無駄な歳出を極力抑えたい一方、同時期にわかに増えていた国内資本(大企業)の発展のため、北海道の豊富な天然資源を有効利用する事も優先課題となっており、その対応に頭を悩ませている状況でした。

 最終的に政府は後者を選択、私鉄へ対する外国資本の参入の阻止という目的もあり、いっそのこと鉄道を国有として一本化した上で国策で道内の交通インフラを増強させる事で原材料の開発と流通の速度を上げ、経済発展と伴う歳入増に期待する方向へと政策の舵を切ったのです。

 この流れに乗って一時頓挫しかけた北海道の鉄道建設が再び加速されていきますが、その順序やルートには大幅な変更が施される事になります…そのひとつが「網走線」でした。

 もともと、「北海道鉄道建設計画」(明治29年)の段階において、北東部の網走まで至る路線には「旭川~名寄~湧別」経由と「帯広~釧路~厚岸」経由の二通りのルートが検討されていましたが、ここにきて「池田~北見」経路案が急浮上します。

 これまで「第2期線」(優先度次点)扱いであったこの路線が見直されたのは、諸案の中で最短ルートという理由以上に、北見国一帯に広がる膨大かつ良質な木材資源に目をつけた「本州資本」とそれらに連携する地元代議士の思惑が反映されたからでした。

 沿線で伐採された木材をこの路線を使って十勝国池田(当時凋寒村)から釧路まで運び、釧路港から積み出しをするのが彼らにとってもっとも効率の良い方法だったのです。

 結局この案が採用されて網走へと至る経路が決定、かつてあまねく内陸部各地の拓殖推進を目的に図られた鉄道延線は、この時既に”大企業の発展”が最優先される時代に変わっていたのでした。

 かくて明治40年3月に凋寒側(しぼさむ)より起工された「網走線」の工事は平坦な十勝平野利別川沿いに”北進”、概ね問題もなく北見国との境に近い釧路国淕別村(現・十勝管内陸別町)小利別まで到達します。

 さて、この後は釧路⇔北見国境の「釧北峠」(現・池北峠)越えの工事が控えていましたが、標高400m弱でかつ勾配も緩やかなこの峠を突破するのにトンネル建設の必要性がなかったため、さほど難工事にはならないものと思われました。

 だがしかし、この区間の工事は先の十勝線の時とは違う諸問題が労働者を苦しめる事になるのです。

 まず、一帯は道路ひとつないまったく人跡未踏の原生林であったため、物資の補給が極めて困難な状況にありました。

 これまでの平坦地での作業では同時に敷設された仮設軌道を用いて石材・セメントなどの重量物は簡易貨車(トロ車)で運搬、前線へと支給されていましたが、それがかなわない程の傾斜地へ至っては、致し方なく必要物資の補給は急遽作られた狭い一本道を馬の背に乗せて運ぶという非常に効率の悪い方法が取られました。

 この、ともすれば食糧の満足な配給さえ滞る状況はおのずと労務者の疲労衰弱を著しくさせ作業は次第に過酷さを増していきました…が本当の”悪夢”はこの先に待っていたのです。

 ついに釧北峠を突破し北見国野付牛村置戸(現・オホーツク管内置戸町)の域内に達した工事は、最大の難関を克服したかに見えましたが、ここに至って突然高熱や激しい頭痛などに襲われ倒れる者が続出、その症状は「マラリア」の罹患を表すものでした。

 「ハマダラカ」という蚊に刺される事でもたらされるこの感染症は、今でこそ熱帯地域特有の疾病というイメージがありますが、明治時代の日本では北海道を含め国内各地でもその流行事例が報告されています。

 まったく想定外の”疫病”に襲われた現場では、土工部屋の不衛生な環境や労務者の栄養不足状態がその治癒をなおさら妨げ、とうとう死に至る者が多数発生、対策に追われた建設業者の手により現地に急遽「病院」が設置される事態にまでなったと聞きます。

 とは言え、マラリアの特効薬として当時認知されていた「キニーネ」もまだ国内では需要を満たすほど行き渡っておらず、決して安価ではなかったであろう薬剤が主に誰のために投与されたのかはおよそ察しがつくでしょう。

 つまり医学の恩恵を受ける機会も与えられずままに、この時相当数の労務者が助からなかった状況は想像に難くありませんが、これにより生じた労働力の激減状態がその後のさらなる悲劇を招く事になりました。

 失った分の補填が不十分で、工期の遅延も許されない状況では、必然的に労務者個人の負担が増え、いわば”生き残ったがため”に一層の労苦を負わされたのです。

 この工事においては、目撃談や当時の新聞記事によって、やはり十勝線の時と同様に過度な労役強要や逃亡を企てた者などに対する過酷な懲罰がしばしばあった事実が伝えられています。

 そしてその従事者の中には、前借金返済目的や斡旋業者の甘言に騙された者など、必ずしも自ら望んでここにいる訳ではない道外からの人々、つまり「タコ労働者」が以前よりまして多かった事はもちろん言うまでもありません。

 かくして、人間のみならず”小さな虫”にまでも労働者が苦難を強いられた敷設工事は、その後も常呂川の水害や網走原野の軟弱な地盤などの問題に悩ませられながらも、大正元年(1912年)10月、池田⇔網走間(延長約190km)が完工、網走線が全面開通するに至ったのでした。

 沿線各地域を木材物流拠点として繁栄させたこの路線はその後「国鉄池北線」、そして「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」と名称や経営母体を変えながら運用されましたが、平成18年(2006年)には100年に近いその歴史に幕が閉じられました。

 多くの犠牲者を生んだ工区があった置戸町内の線路脇の小高い丘の上には、工事中の明治43年に建設業者が施主となり、殉職者を慰霊する碑が建てられています。

 今は国道242号線沿いの北光パーキングエリア内に位置するその碑へ向け、当時近くを通過する列車が哀悼の汽笛を鳴らすという”儀式”はそれから昭和40年代までずっと続けられていたそうです。

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碑面

北見市(旧・留辺蘂町)】「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」

建立年月日:昭和55年11月

建立場所: 北見市留辺蘂町金華

  このエピソードは一連の「タコ部屋労働」事例の中でももっとも悲惨なもののひとつとして知名度が高く、もはやその”代名詞”にもなっている程です。

 これまでのケースにおいても、悪質な斡旋手法やその酷使ぶり、傷病人の扱い等々重大な問題が露呈していましたが、大正初期のこの頃になると「業者の利潤追求の手段」や「労務者同士の疑心・虐め」など悪意に満ちた要素がさらに加わり、悪名高いこの「非人道的労働システム」がここに進化を遂げ完成形に近づいたといっても過言ではないでしょう。

 時は明治末期、建設中の前出「網走線」の完成を見越し、その後は湧別を経由して道北の名寄まで鉄路を延線する計画が進められていました。

 網走と湧別間の距離はオホーツク海沿いの行程で80km余りであり、本来であれば道中に険しい山地もないこのルートが選択されるはずでした、がしかし遠軽の大地主など鉄路の誘致を望む内陸部集落の名士たちの熱烈な陳情を受けた地元代議士の活躍によって直前でルートを変更させる事に成功、その距離5割以上も長い「留辺蘂生田原遠軽」経由という”山越え”コースが最終的に採用されるに至ります。

 こうして沿線地域が歓喜に沸く中の明治45年(1912年)3月、野付牛村(現・北見市)を起点に着工された「軽便鉄道湧別線」は、西方20数kmの武華(現・留辺蘂)まで至ったのち、ルートを北に変え北見国常呂郡留辺蘂側)と同紋別郡生田原側)を隔てる常紋峠(じょうもん)へと向かいます。

 奔無加(現・金華)あたりから始まる緩やかな上りが頂上に近づくに連れ急に険しくなる一帯の地形は、標高がそれほど高くないこの峠をトンネルなしで越える事を難しくしました。

 それに加え、距離が嵩んだ分の工事予算を土壇場での”割り込み”という理由により十分に確保出来なかった事も背景にあったのかも知れません、山を大きく迂回するよりはこの際トンネルひとつを掘削した方が安上がりと試算された路線は”ならば”とばかりに最短重視にて設計され、延々と続く急勾配を一気に駆け上るという、列車運行的に道内でも有数の難所がここに誕生したのでした。

 かくて分水嶺(頂上)部に設けられる事となった「常紋隧道」は延長507mととりわけ長大という訳ではありませんでしたが、他の事例と違わず、いやそれ以上に掘削工事は難航を余儀なくされます。

 現場が人家も道路もない原生林ゆえ煉瓦やセメントなど重量資材の搬入が極めて困難だったという事情もありますが、しかしここでは、もはや虐待そのものと化した労務者酷使によって反作用的にもたらされた”労働力の喪失”と”能率低下”が、必要以上に工事の進捗に悪影響を及ぼしたのです。

 さて、この湧別線敷設工事は全線を4工区に分けられ、合わせて3つの土建業者がこれらを分担して請け負う契約となっていましたが、その顔ぶれは既に”おなじみ”の面々でした。

 というのも、鉄道工事はその性質上どうしても長期に渡るケースが避けられず、この頃に至って相応の労働力を動員し、限られた工期かつ予算内で完工させる事が出来るのは、事実上「タコ労働者」を使役する業者以外なかったのです。

 そして、当時の新聞報道などによってこれまでもその一部がたびたび表面化されていたので、各工事現場で非人道的な行為がしばしば行われていた実態については周知の事実だったはずですが、労働者を保護する法整備もされておらず、タコ労働が常態化した時代においては、工事発注側や警察さえもこれに”目をつぶり”、この状況を改善させようとする積極的な動きは皆無に近かったのが現実だったのでしょう。

 こうした官憲の”黙認”を背景にして、建設業者の意のままに労務者の”奴隷化”が加速される事になります。

 現場において実際に作業の割り振りを仕切っていたのは工事請負人である「元請業者」ではなく、その元請から具体的な各仕事を一任された「下請」と呼ばれる土建業者でした。

 現代に至るも変わらぬ完全な”縦社会”である建設現場において元請の意向は絶対であり、下請業者はその要望に応え現場を手堅く管理して予定通り完工する事が出来れば元請からの絶大な信頼を得ますが、そうでなければ最悪の場合二度と仕事が回ってこないという厳しい立場にあったため、この際多少の犠牲など意に介する事なく、力ずくでも工事の進捗に尽力するしかなかったのです。

 その内、「下請」の重要な仕事のひとつに労務者の監督・管理業務がありますが、中でもとりわけ注力されたのは「タコ労働者」の脱走防止のための監視強化でした。

 この現場においても、偽られた仕事内容に騙されたり、現場の実情を認識せず安請け合いをした者、あるいは借金で首が回らなくなった者など道外からの雇用労務者が多くいましたが、そのいずれにも「斡旋料」や「前金」という”先行投資”がなされており、万が一にも逃亡を許してしまえば業者にとっては単なる”逃げられ損”となる事に他なりません。

 使用人側としても、その大半が希望雇用ではなく、これから課す労役が彼らにとって酷烈な内容となる事を自覚しているだけに、手段を選ばずかき集められたこれら”訳あり”の人々に対しては、隙あらば脱走する可能性が極めて高いであろうとの”見立て”がなされていました。

 しかも実際その中には、自分を斡旋した業者と前もって結託し、雇用契約直後に隙を見て脱走を敢行、晴れて成功したあかつきには自らの斡旋料を”山分け”する事を繰り返して生計を立てているような”常習犯”や、成功率を高める目的でわざわざ仲間をそそのかし集団脱走を企てる”不届者”が紛れていたため、それらが殊更建設業者をヒステリックにさせた一因になったのです。

 業者側は脱出不可能な「タコ部屋」の設置や担当増員による監視強化を徹底すると同時に、さらに対策の一環として、労務者内をグループ・序列化し、例えば脱走計画を事前に密告した者を厚遇、逆にグループ内の逃亡を見逃した場合は連帯責任を負わせて懲罰するなど相互監視による個々の分断を企図、この方式は労務者同士の連帯感の断絶という意味では効果覿面となり、自らの保身のための”裏切り行為”や、”にわか”に成り立った上下関係による弱者へ対する”虐め”という荒んだ環境を生み出しました。 

 こうして次第に強まる”憎悪”と”猜疑心”により、労務者各人にとっては使用人側のみに限らず仲間内を含めてすべてが敵になり、信用できる人間はこの時誰ひとりいなくなったのです。

 加えて、この頃には「労働者からの搾取」という問題点も浮き彫りになっています。

 前述の通り、タコ労働者の中には、ある意味斡旋業者の計略に嵌り発生した前借金の返済のために工事の従事を余儀なくされている者も多数いましたが、その契約期間は当然ながら完済時までとなっていました。

 借金返済を終え早くこの労苦から解放されたいがために彼らが厳しい労役に何とか耐えていただろう事は想像に難くありませんが、悲しいかなここにはそれを許さない”罠”があったのです。

 現場では、毎日の食費に加え日用品から作業用品に至るまですべての物を”自腹”で購買せざるを得なく、市価の数倍にも当たる不当な価格に設定されたこれらの品を調達するだけでもともと少ない”日銭”はみるみる消失、返済どころか借金がさらにかさむように仕組まれていました。

 これは、タコ労働者を雇用契約満期まで足止めさせる方策だけに留まらず、建設業者の手元に入った利益を労務者の死亡あるいは逃亡によって発生が想定される損金の”補填”に充てるという一面も兼ね備えていたのです。

 また一説には、鉄路の誘致を実現させた”功労者”である地元代議士に見返りの献金をするのがこの頃における”不文律”だったため、業者はその資金を捻出する必要があったとも聞きます。

 とりわけ本現場のように工事予算が不足、つまり”儲けが少ない”状況においては、”なりふり構わず”利益を確保、あるいは支出を極力抑えるあらゆる試みが画策され、その”しわよせ”がより立場の弱い者へと向けられていったのでしょう。

 かくて、労働力の提供という”間接的”なもののみならず、”直接的利潤”の供出まで強制されたタコ労働者は、完全に”逃げ道”を失う事になりました。

 絶望の中、栄養失調によって脚気が悪化し病死する人や、それでも逃亡を図り捕えられた者が壮絶な虐待を受けている様を横目に、もはや仲間意識や同情心すらなく日に日に痩せ衰えていく人々がただ黙々と作業を続けたであろう工事後半の光景を想像すると、身の毛がよだつ思いがします。

 こうして、”この世の地獄”の様相を呈した常紋隧道の掘削工事は大正3年10月に完工、途中軌道の規格変更による改築を経て、湧別線(野付牛⇔湧別間)が全線開通したのは大正5年(1916年)11月の事でした。

 トンネル竣工当時、あまりに後味の悪い結果に気が引けたのか、あるいは僅かなりにも残っていた良心がそうさせたのか、建設会社の手で現場近くに建てられた木碑の前で工事犠牲者の供養が行われましたが、その後昭和34年、トンネルから1kmほど留辺蘂側に下った地点に「歓和地蔵尊」が、そして昭和55年には現場から4~5km離れた国道242号線脇の小高い丘の上に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が地元期成会によりあらたに建立されています。

 聞くところ、本工事により命を”奪われ”傍らに埋められたとされる百数十名の内、そのほとんどの所在が未だに分かっていない事から、このエピソードに関連しては何やらオカルトめいた伝説が今でもまことしやかに語られているそうです。

 もちろん、その真偽の程は私には知る由もありませんが、ただそれを否定する事も出来ない位、この工事が陰惨極まりなく救いのないものだったのは決して偽りの話ではないのです。

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碑面

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碑文

厚岸町】「根室線鉄道工事殉職死者弔魂碑」

建立年月日:大正 6年 9月25日

建立場所: 厚岸郡厚岸町宮園2

  明治29年公布の「北海道鉄道敷設法」によって「第1期線」(最優先路線)として建設計画されたもののひとつに「旭川根室」線が挙げられていました。

 当時海に陸に膨張政策を展開していたロシア帝国の脅威を考慮すれば、日本の領土たる千島列島防衛強化のためにも、”軍都”旭川から本土東端の根室までの延線が急務だと考えられても何ら不思議ではなく、むしろ当然であると言えるでしょう。

 予定では先に着工された「十勝線」(旭川⇔帯広)と「釧路線」(帯広⇔釧路)の完成後、直ちに「釧路⇔根室」間の工事に着手されるはずでした、しかし十勝線建設中の明治37年(1904年)に「日露戦争」が勃発、その事が後の流れを大きく狂わせてしまいます。

 工事は戦時中の中断を経て、明治40年に十勝・釧路両線が開通しましたが、にも拘らずそれ以降の延線計画は急遽一旦”白紙化”となります。

 その背景には、日露戦争の勝利により、こと海域におけるロシアの脅威が当面遠のいた事に加え、戦後の不況対策として国内経済の成長が最優先されたという事情がありました。

 先述の通り、北海道の天然資源の開発・流通は経済発展に必要不可欠である上、日露戦争後の道内には製紙や製鉄所など大資本による大規模工場が進出あるいは設立されていたため、その原料・燃料となる木材や石炭の搬入にかかる交通インフラの整備がとりわけ急がれていました、つまりその面において価値ある資源が乏しい根室沿線の工事が後回しにされたのです。

 こうして、芦別・赤平などの前途有望な空知炭田地域を通る「下富良野線」や、北見地方の木材搬出目的の前出「網走線」などに”先を越された”根室線敷設工事が地元の陳情によりようやく着手されたのは、当初計画から遅れる事7年、大正3年(1914年)になってからでした。

 総延長約135kmの本工事は8工区に分けられ、難工事が予想される3~5工区(別保⇔厚岸間)は、今や「タコ労働」に関して数ある”実績”を積んできた建設業者が請け負う事になります。

 この工区には「別保隧道」「アバプルベツ隧道」「尾幌隧道」という3つのトンネルが集中していましたが、海沿いではなく山間部を抜けるというそのルート決定の裏にも当時「別保」(べっぽ)や「上尾幌」(かみおぼろ)にあった炭鉱からの石炭積出しが想定されていたのは言うまでもありません。

 さて、ここが”修羅場”になる事も知らず集められてきた雇用労務者には大阪など関西出身者が多かったと聞きます…おそらくこの時期になるともはや東日本では募集が捗らず、あるいは当年に発令された「労役者募集紹介雇傭取締規則」によって行動を規制された斡旋業者が官憲の取締りをかいくぐるためその活動場所を変えざるを得なかったのでしょう。

 その彼らが多分に漏れず苦難を強いられる事になるこの工事ですが、とりわけその要因となったのが当地が泥炭地ゆえの諸問題でした。

 ここの軟弱な地盤は、トンネルはもちろんの事、法面の崩落などの事故をしばしば発生させ、通常より多く必要とされる線路の路盤に敷くバラスト用の砂利さえも現地では採れないため数十km離れた大楽毛海岸(おたのしけ)や門静地区(もんしず)より都度運び入れられたと聞きます。

 しかし、それ以上に大きな問題は泥炭地を流れる飲用不適格な河川水をそのまま活用した事にありました。

 この時は無論知り得なかったものの、鉄分含有量が異常なほど多い当地の湧水の摂取過多によって引き起こされる中毒症は、ただでさえ重労働や栄養不足で衰弱した者をより重篤化させるのに十分な要因となったのです。

 当時義務化されていた現場監督から警察への状況報告の内容では、本現場における脚気罹患者は200名、その内約半数が死亡とされていますが、よく原因が分からない病死については書類上すべて「脚気」で処理されていた節もあり、実際はこの”災いの水”に起因するものも相当に含まれていたと想像されます。

 それにしても、以前からいかなる現場においても例外なく労働者を恐怖に陥れてきた「脚気」(かっけ)に関して、その発病を抑えあるいは治癒に向けた対処が何故なされなかったのでしょうか。

 脚のむくみ・腫れから始まり、著しい運動能力の低下、最後は心不全により死に至るこの恐ろしい疾病は、今でこそビタミンB1欠乏に起因し、バランス良く食事を摂るだけでその発症を防ぐ事が出来るものと認識されておりますが、当時は原因不明とされ治療方法も実はまったく解っていなかったのです。

 古くは江戸時代に認知されてから、この頃は年間1~2万人が命を落とす原因となっていたこの”奇病”について、巷では”権威ある”病理学者たちが「白米含有成分による中毒説」「風土病説」果ては「伝染病説」などを各々主張していましたが、ビタミンの定義付けすらまだなされていない時代においては、結局どの説にも決め手となる裏付けがありませんでした。

 つまり、”偉い学者先生”をもってしても解明されていないものを、辺境の工事現場で理解出来る訳がなかったのです。

 さて実際、工事現場における食糧事情として、その配給内容は極めて粗悪ながらも「白飯」だけは比較的豊富に用意されていました。

 鬼の建設業者としても、労務者の衰弱によりいたずらに労働力の低下を招く事を望んでいた訳ではなかったので、”主食”の振る舞いについては実に寛大だったと言います。

 ただ「栄養バランス」という概念など当然持ち合わせているはずもなく、「最低限白飯を与えておけば飢えをしのげるし、主食だけにおそらく滋養もつくだろう」という程度の認識だったのでしょう、しかし白米は玄米に比べてビタミンB1の含有量が極めて少ないため、主・副菜などで補わない限り、その偏食は逆に健康を損なうリスクも併せ持っていました…それが食生活の中心が玄米から白米に代わった明治時代を境に脚気患者が急増した所以なのです。

 加えて酒などのアルコール類は体内のビタミンB1を大量に消費させる作用があったので、ここでの長期に渡る重労働と極端に偏った栄養摂取+飲酒の繰り返しという生活環境は、まさに最悪の”相乗効果”を生み出し、知らず知らずに彼らの生命を蝕む結果となりました。

 かくて、脚気を発症した者は原因・治療法が分からないゆえ医者の診察・処置を受ける事もなく放置、あまつさえ、いわゆる「大飯喰らい」「大酒呑み」に罹患者が多かった事を理由に、その誤った認識のもと”怠け者の末路”として”見せしめ”にされるという憂き目に遭ったのです。

 こうした当時では想像すらつかない要因も相まって多くの犠牲者を出したこの工事は、大正10年(1921年)8月の釧路⇔根室間の全線開通をもって終わりました。

 根室線第3~5工区工事において命を落とした人々が多く埋葬されたと言われる厚岸町真龍(当時)の寺の境内に建設業者の手で慰霊碑が建立されたのは、この工区完成直前の大正6年9月の事です。

 それなりにも良心の呵責があったのかも知れませんが、このように殉職者供養のために業者側が慰霊碑を建立したケースは全体から見ると極めて少なく、今なお道内各地には、開拓のための”消耗品”としてこの異郷の地で儚い最期を遂げ、記憶からも忘れ去られた人たちの無念が現地に遺されているのです。

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碑面