北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【倶知安町】布袋座火災遭難者慰霊碑

倶知安町】「布袋座遭難者慰霊碑」

事故発生年月日:昭和18年 3月 6日

建立年月日:  昭和41年 8月

建立場所:   虻田郡倶知安町旭(旭ヶ丘霊園)

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(2014/10/20投稿)

  後志管内の倶知安町(くっちゃん)は、日本百名山のひとつでもある「羊蹄山」(ようていざん)のふもとに位置する畑作中心の農業を産業の基幹に置く内陸部の町です。

 またスキー場などリゾート地が集まるニセコ連峰にもほど近いというその環境から、近年ここにはウインタースポーツ目当てにオーストラリアなどから訪れる外国人観光客が増えており、伴いその関連収入も町の財政運営に貢献しているそうです。

 歴史的に見ると、明治25年(1892年)に徳島県からの入植者らによって開かれたとされるこの町は当初「室蘭支庁管内」(現・胆振管内)に属していましたが、その後の管轄変更により「後志管内」へ編入、同43年には「後志支庁」が設置されました。

 所轄地域のほぼ中央部にあるという地理的条件が優先されたのか、管内随一の大都市「小樽市」を”差し置き”行政の中心地となった倶知安町には、現在に至っても「後志総合振興局」が置かれ管内におけるその位置付けは変わっていません。

 しかし、倶知安について特筆すべきは、その「豪雪」ぶりに代表される冬の気候にある事は論を俟たないところでしょう。

 周りを高峰群に囲まれた盆地だけあって、比較的過ごしやすい日が続く夏場に対し、一方冬は厳寒にしてその降雪量は北海道内でも屈指のレベルを誇り、昭和45年(1970年)には最大(最深)積雪量312cm(道内観測史上2位)、そしてシーズン中の累積降雪量は2,019cm(同1位)というとてつもない数値が記録されています。(ランクは気象庁のデータに基づく)

 ちなみに私の生まれ故郷「旭川市」も上川盆地に位置しているため道内では比較的雪が多い地域ではあるものの、データ的には積雪量・降雪量ともに倶知安の半分にも満たず、数ヶ月間で延べ”20メートル以上”の雪が降り積もる状況には同じ道民としてもまったく想像さえつきません。

 まさにそんな”記録的な大雪”といにしえより共存してきた倶知安ですが、実はここにはもうひとつ悲しい「日本記録」が残されていました。

 それは、「単独建物の火災事故における死亡者数」という決して喜ばしくないものですが、太平洋戦争中の冬に起こったこの大惨事には、切なくもこの地の”大雪”が無関係ではなかったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 昭和18年(1943年)、太平洋戦争の戦局は既に逆転し日本軍は苦しい局面に立たされていましたが、庶民がその実情を知るすべもなく、”皇軍”の勝利を信じて国家総動員体制下における厳しい労働にそれぞれ従事していました。

 しかし軍部の意を汲まざるを得なかった日本政府としては逼迫する懐事情に際して、不足する労働力を補填し、あるいは効率の良い生産性を確立するため、各産業ごとに細分化して国家統制を更に強化する法案を次々と打ち出します。

 それは農業とて例外ではなく、同年に成立した「農業団体法」に基づき、従来金融や物資の工面など農家の扶助的団体であった「産業組合」が解散、代わりに「作付統制」や「供出割当」など国家の意向を忠実に実行するための「農業会」に再編されました。

 この「国が指定する農作物以外の作付禁止」、「収量の多くに係る国への提供義務」などという強権的手段に対しては当然ながら農家の反発を招く事となり、道内各市町村の農業会ではその遂行にあたり間に入っての調整には相当難儀したであろうと想像されます。

 そのような時代背景の中、ここ倶知安町では市街地にある老舗映画館「布袋座」において産業組合主催の「映画鑑賞会」が、町内の農業従事者を招いて3月6日に開催される運びになっていました。

 先の法律によりほどなく「倶知安町農業会」へと新しく改組される事になる産業組合としては、今まで共に歩んできた農家に対する「御礼代わり」だったのか、あるいは今後様々な犠牲的負担を無理強いせざるを得なくなる事を想定しての「シーズン前における”懐柔”目的」という側面があったのかは量りかねますが、ともあれこの”慰安会”と称するイベントの「無料招待券」が町内の組合加入世帯にあまねく配布されるという”大盤振る舞い”がなされています。

 そんな主催者側の意図を知ってか知らずでか、戦時中において大っぴらに娯楽に興じる事がはばかられた庶民たちにとっては、誰にも咎められる事なく映画鑑賞が出来る機会であるこの日を心待ちにしていたと聞きます。

 この慰安会を開催するにあたっては、なるべく多くの世帯に万遍なくこの”恩恵”が行き渡るよう配慮され年齢制限が設けられたものの、それでも一千人以上の来場が想定されたため、主催者側ではイベントを二回に分け「昼の部」を遠隔地の集落住民、そして夜は比較的近郊の住民向けに実施する旨段取りされていました。

 さて、当日3月6日の倶知安は、ここ連日の大雪が嘘のように止み晴天に恵まれる一方、氷点下20℃近くの寒気に一帯が包まれましたが、にも拘らず予想以上の人々が会場に訪れ大盛況のうちに昼の催しが滞りなく終了しています。

 そして、それにもまして大勢が集い、本来の収容能力をはるかに超えていたであろう700名以上の町民がひしめき合う「布袋座」では、その熱気の中で「夜の部」のイベントが始まったのでした。

 本編に先立ち流されたニュース映画が映し出す「”常勝”日本軍の勇姿」にやんやの歓声があがる会場でしたが、しかし開始から間もなく場内で容易ならぬ出来事が発生します。

 時刻は午後7時10分頃、鑑賞中の観客の頭上にいきなり火の粉が降り注いだかと思うと、振り向いた人々が目にしたものは出入口あたりですでに燃え広がりつつある炎でした。

 一体何事が起こったのか、実はその時、出入口そばの「映写室」の中には突然燃え上がった映画フィルムと格闘する映写技師の姿がありました。

 しかし、以前のエピソードでも何度か触れた通り、引火性が非常に高くなおかつ発火後は爆発的に炎上するという当時のセルロイド製フィルムはひとたび火がつくととても人の手には負えず、今まさにその状態に陥った映写室では目の前の難を逃れようとした技師の手によって燃えさかるフィルムがあろうことか室外の板張りの廊下へ放り出されてしまったのです。

 会場の布袋座は当時倶知安にある唯一の映画館でしたが、築後相当の年数が経過していたこの木造建築物は老朽化が著しく、その内装はベニヤ板に新聞紙を加工した壁紙が貼られている程度のお粗末なものでした。

 そんな、全体が可燃物の集合体と言っても良いレベルの建物にかくて”放たれた”火は瞬く間にその火勢を広げ、出口近辺に居た”幸運”な人を除く多くの観客が逃げ遅れて館内に取り残される状況となります。

 こうして、出口を猛火によって阻まれてしまった観客の足はその後、当然ながら館内に数箇所設けられていた「非常口」や「窓」へと向けられますが、そこで思いもよらぬ絶望的な状況が人々を待ち受けていました。

 その年、例年よりも増して大雪に見舞われた倶知安では3月に入ってもまだ雪が降り止まぬ日が続き、建物周囲に除雪も施されないままに放置されていた高さ3メートルもの積雪が、これらの避難ルートを完全に遮断してしまっていたのです。

 ところが、そんな事情も知らぬまま極度の恐怖のため既にパニック状態となった数百の観客たちは”開く事のない”非常口へ殺到、人波に押された前方の人の多くがこの時窒息要因により命を落としたと聞きます。

 この悲惨な状況の中、館内後部のみに設けられた2階観覧席では積雪が及んでいなかった窓からの脱出が試みられ、不幸にして雪と建物の間に転落して亡くなった数名以外の人々はなんとか命拾いをしていますが、やがて2階へ通じる階段が焼け落ちた時点でこの唯一残された脱出手段も断たれてしまいました。

 かくして布袋座は、炎や煙にまかれて斃れた者、あるいは脱出の際に転び踏みつけにされた者など多数がそのままに置かれる館内を、完全に逃げ場を失い火勢に追われる人々が尚も助けを求めて右往左往するというまさに「地獄絵図」さながらの様相を呈します。

 さてその時映画館の外では、早い段階での通報を受けていたにも拘らず、消防隊の現場到着が遅れていたため未だ消火活動は行われておりませんでした。

 と言うのも、冬場における自動車の使用が当時当たり前に断念されていたほど豪雪に埋もれるこの町では、到底消防車が通行出来る道路環境にないため、火災の際は消火ポンプなどの重い機材を都度人力で運ぶしか手段がないという有様だったのです。

 もはや消防の助けも当てに出来ない中、一刻の猶予もない現場では避難した人やただならぬ様子に駆け付けた近隣住民らの手によって、脱出を阻む障害を除去すべく建物裏手での懸命な除雪作業が開始されました。

 しかし、前述の通り厳しい冷え込みに見舞われたその晩は前日までの暖気によって一度緩んだ雪をまるで氷のように豹変させており、スコップの刃も立たない状況に作業は難航を極めたそうです。

 館内に取り残されたと思われる母親を救出するためこの除雪作業に加わった旧制中学生の少年は「今日ほどこの地の雪を恨めしく思った事はない」と当時の心境を手記に書き綴っていますが、その時居合わせた誰もがきっと同じ思いだった事でしょう。

 それでも、苦闘の末に一部の雪が除かれた後、トタン板の外壁とベニヤ板を叩き壊して作られたわずかなスペースからは、全身が煤で真っ黒となり息も絶え絶えの観客が次々と助け出されています。

 煙で充満した内部の様子は窺い知れなかったものの、耳に入るその声から中にはまだ相当数の生存者がいたと推察され、この小さな空間が生還へ向けてただひとつ残された”希望”になる…はずでした。

 だがここで、この悪夢は非情な最終局面を迎える事になります。

 総床面積三百坪あまりにも及ぶ広い映画館の中を蹂躙し続けた紅蓮の炎はこの時、既に建物上部にまで達していました。

 そして、やがてそれが天井の「梁」や「棟木」へ至ったその時…高さ1メートル以上の積雪を背負っていた屋根は支えるものを失いたちまち一気に崩落してしまったのです。

 この突然の事態に建屋外の人々がたじろぐ中、先程まで聞こえていた助けを求める悲痛な叫びは以降すっかりと途絶え、それはもはやすべてが終わった事を意味していました。

 装備を整えた消防隊が応援の警防団を従え現場に到着したのはちょうどその頃…しかしここに至って彼らに出来る仕事は既に全焼し沈静化しつつある建物への消火活動とその後の亡骸の回収・確認作業しか残されていなかったのでした。

 後の検視結果によると、焼死や煙による一酸化炭素中毒死者に加え、屋根崩落によるものと思われる圧死者も多数あったとされている事から、致し方ない面が多くありながらも「救出活動がもう少し早く行われていたら」と悔やまれてなりません。

 この悲劇による208名の犠牲者の多くは、火葬場での作業が間に合わない事情を理由に身内の手により雪原にてそれぞれ荼毘に付されましたが、その内7割以上の150名が実はまだ30歳にも満たない前途ある若者だった事もあって、死してなお火に包まれるその姿を前に、残された家族にはやりきれない悲しみをこらえる事が出来なかったそうです。

 3月8日から2日間、街のあちらこちらでこの悲しい光景が見られた倶知安には、そしてまた無情の雪が降り始めていました。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 この「国内史上最悪の被害をもたらした未曽有の火災事故」は、戦時中としては異例的に新聞紙上などで大きく報じられ、主催者の上部団体や北海道庁、新聞社などによって広く募られた結果、生活が苦しい時節ながらも当時の金額で20万円以上という多額の義捐金が寄せられました。

 そして、事のあらましを耳にした昭和天皇より見舞金が下賜されている事からも、この悲惨事が当時いかに多くの人に関心を持たれていたかが窺い知れます。

 しかし一方、この惨禍を生んだ側の責任所在の確認・追及や処断など、その後の事故処理方法及び経緯・結果については、時勢がら情報が少なかった事もありまったくと言っていいほど知られていません。

 本文における参考文献の記載内容や当時館内にいた人の証言によると、フィルム引火の原因としては「映写技師(あるいは助手)の喫煙」もしくは「映写機の故障により停止したフィルム面への光源からの集中照射」が挙げられています。

 ただ理由がいずれであれ、この技師が炎上したフィルムを気の動転により館内唯一の「防火区画」であった映写室から外へ投げ捨てたという行為がその後の被害拡大に直結した事にはどうやら間違いがなく、火災発生に関してはともかく、死傷者を増大させた事実に対しては少なくともその責任から逃れる術はないでしょう。

 真偽のほどがまったく分からない未確認情報ながら、事故では真っ先に避難したと言われるこの映写技師が戦後まもなく小樽や札幌で映画館の興業主として成功を収めたとの話も聞きますが、もしそれが事実なら仮に罪に問われ罰を受けたとしても極めて軽い”お咎め”で済んだ事になり、被害者や遺族の了承を取り付けるにはほど遠い結果だと言わざるを得ません。

 しかし、残された人たちにとっては戦時中そして終戦直後といったもっとも生活に苦しい時期を乗り越えるために、この怒りや悲しみをなるべく記憶から遠ざけるよう努めて必死に生きてきたでしょうし、今更この辛い思い出に触れられたくない人も多数あろう事が一方で想像され、そのやるせなさには胸が痛みます。

 その後、戦争が終わってからは様々な法律が新しく制定され、映画館の運営に関しても「消防法」(昭和23年制定)や「建築基準法」(同25年)によって、その構造や設備内容に厳しい義務付けや制限が設けられました。

 本件より前から多発していた同様事故への対応、更に今後の需要増大も想定してのこの法整備だったのですが、しかしそれにも拘らず昭和26年(1951年)にはまたしても同じ悲劇が繰り返される事になってしまうのです。

(→『茶内慰霊塔』の項参照)

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 事故の慰霊碑は市街西側の高台にある町営墓地(旭ヶ丘霊園共同墓地)に建立されています。

 大きめの碑の裏面には犠牲者208名すべての氏名が隙間なく刻まれていますが、その名から判断するに女性が6割以上を占めていました。

 入館時の男女比率が不明なので一概には言えないものの、もし火災時のパニック状態によって我先に脱出したが為、多くのか弱き女性たちが取り残された末でのこの結果だとしたら、これもまた悲しい教訓として記憶に留め置くべきエピソードのひとつと言えるでしょう。

 現在、布袋座跡地近辺は飲食店街となり、当時からすっかり街並が様変わりした倶知安ですが、冬場の気象条件だけは時代を経ても大きく変わるものではありません。

 地元消防では毎年3月6日を「冬季消防訓練の日」と定め、この事故を教訓に豪雪時における不測の事態を想定しての実地訓練は欠かす事がないそうです。


※参考文献「雪の慟哭」(水根義雄氏著)

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碑面(表)

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碑面(裏)