北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【釧路市(旧・阿寒町)】雄別中学生阿寒湖遭難慰霊碑

釧路市(旧・阿寒町)】「雄別中学生阿寒湖遭難慰霊碑」

事故発生年月日:昭和22年10月11日

建立年月日:  昭和54年 9月15日

建立場所:   釧路市阿寒町阿寒湖温泉

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(2014/6/28投稿)

 最近、韓国のフェリー事故が話題になっておりましたが、かつて我が国でも児童・生徒が巻き込まれた水難事故が幾度か起こっています。

 修学旅行中の小学生ら186名が命を落とした昭和30年の「紫雲丸衝突事故」や相模湖の遊覧船「内郷丸沈没事故」(昭和29年)などが記憶に残りますが、それ以前に北海道でも痛ましい事故がありました。

 釧路市(旧・阿寒町)の山間部に「雄別」(ゆうべつ)という地区があります…いや”あった”という表現の方がむしろ適切かも知れません。

 かつて、その地には大正から昭和にかけて隆盛を誇った「雄別炭鉱」があり、おのずと周辺にはいわゆる”炭鉱街”が生まれました。

 炭山から釧路間の鉄道が早くから敷設されていた事もあり地域は繁栄、従業員住宅の他に学校や店舗を初め、病院や郵便局・映画館などの施設が次々と建てられています。

 もちろん炭鉱あってこそのこの街であり、ほぼすべての住民が何らかの形で炭鉱に関わっていたので、人々はお互いに”顔見知り”、言わば”家族ぐるみ”のつながりをもって生活を営んでいました。

 人間関係が疎遠となった現代から見ると懐かしいとともに理想的な人づきあいの形ですが、しかしその関係が仇となり悲劇を招いてしまう事も残念ながらあるのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 時は昭和22年(1947年)、長く続いた戦争も終わり、戦時中の国策により一時操業中止を余儀なくされていた雄別炭鉱も前年から採炭を再開、街は活気を取り戻しつつありました。

 またこの年の初めに施行された学校教育法に基づき、5月には新制雄別中学校が開校しています。

 まだ終戦まもなく人々の生活は決して楽なものではありませんでしたが、「せめて子供たちには楽しい思い出を…」との想いから、世間ではしばらく中断されていた修学旅行復活の向きがあり、開校したばかりの雄別中学校でも近場の阿寒湖への旅行が実施される事となりました。

 出発の日、10月10日はあいにくの雨天の中、最寄の雄別本線舌辛駅から炭鉱会社が用意したトラックに乗り換え、ずぶ濡れになりながらも楽しそうに阿寒湖へ向かう少年・少女たちを、同じ汽車に乗り合わせた地元新聞の記者が見ています。

 さて湖畔についた2年生・計105名(男子59名・女子46名)の一行、本来の行程であれば遊覧船に搭乗して阿寒湖周遊をする予定でしたが、前述の通り悪天候につき当日は取りやめ翌日へ順延という形になりました。

 明けて11日は幾分天候も回復したので予定通り午前中から湖上遊覧を実施しようとしたものの、当時遊覧船は1隻しか運航しておらず定員的に全員の乗船が不可能だったため生徒を2班に分ける事にします。

 まず第1班の生徒たちを乗せた遊覧船は1時間余りの周遊を終え、定刻通り桟橋に戻って来ました。

 ところが引き続き第2班が…と思った矢先、別の団体客が先に乗船するという思わぬアクシデントが発生したのです。

 その日は土曜日という事もあり、道内有数の温泉郷でもある阿寒湖畔には他の観光客も大勢訪れていたため、予定変更により図らずも後から割り込む形となった雄別中学校組の搭乗がもしかすると後回しにされたのかも知れません。

 結局午前中での湖上遊覧は不可との予期せぬ状況に一行はひとまず旅館へ戻り、予定から大きく狂ってしまった行程の調整をするため教師たちは別室にて打ち合わせを始めます。

 よってしばらく待機せざるを得なくなった生徒たちは時間つぶしに近辺を散策しますが、そんな彼らの目に入ったのは真新しい動力短艇(モーターボート)を湖へ運ばんとしている雄別の青年の姿でした。

 このボートは払下げにより雄別炭鉱の所有となった旧日本軍の軍用艇で、おそらく阿寒湖観光の新しいアイテムとしての利用を考えた湖畔の観光業者からの依頼に応じて改装・整備の上、貸与あるいは転売される予定だったのでしょう。

 そして整備や運搬を任されたこの青年が、湖畔業者立ち合いの下、その日阿寒湖で試運転(試乗会)を催す手はずだったのです。

 「日頃、雄別では自動車に乗せてくれたり家族同然に遊んでくれる親切な”顔見知り”の青年」を見つけた少年たちは、ボートの搬送を手伝うなどして青年とすっかり意気投合、ついには試運転に便乗させてもらう事になりました。

 青年は「”顔見知り”の少年たちにせがまれ断れなかった」と事後語っていますが、ともあれこの幅2m・長さ6mの小型艇になんと大人5名・子供27名がひしめきあう中で”試乗会”は始まったのです。

 当時の軍用艇の性能データから見ても明らかな定員超過状態のボートは、乗っていた少年によると「スタート時点から船脚はかなり深く、船首部分は水が被るほど」だったそうです。

 このような状態であったにも拘らず、初めての”湖上実演”だったためリスクをよく理解していなかったのか、あるいは子供たちの手前で気が大きくなったのか、青年が操縦するボートはかなりの速度が出ていました。

 然して、十分な減速をせず転回を試みたその瞬間、ボートはあっという間に転覆、乗っていた全員が湖面に投げ出されました。

 冷たい水の中にいきなり放り込まれた彼らはめいめい必死に泳ぎながら湖上に漂うボートの船腹に無我夢中でしがみつきましたが、不幸にも船までたどり着けず力尽きた少年14名がこのアクシデントによって命を落とす事態になってしまいます。

 九死に一生を得た前出の少年の証言から察するに、生徒たちが履いていた重い軍用靴が泳ぎの妨げとなった事も被害を大きくした要因のひとつでした。

 こうして楽しかったはずの修学旅行は、一瞬にして悲嘆や後悔に暮れる沈痛な思い出に変わってしまったのです。

 普段と同じく子供に優しく接したつもりが取り返しのつかない事故を招いてしまった当事者の26歳の青年はもちろん、結果的に教え子から目を離したと言われても仕方がない教師たちもさぞかし自責の念にかられた事でしょう。

 思えば、初日の悪天候や遊覧船搭乗時における想定外のトラブル、思いもよらぬ”顔見知り”との遭遇など、すべてが運命的な巡り合わせだったという見方も出来ますが、そんな環境下でも浮かれ気分で抑えが効かなくなった感情を自制する心、またそれを律する大人の対応といった、現代にも通じる重要な教訓を指し示した事故だったと言えます。

 だが、その教訓を得るために払った代償はあまりにも大きく、辛いものでした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 その後の雄別地区は、国のエネルギー政策転換などによる影響で昭和45年に炭鉱が閉山してから急激に寂れていきます。

 同年には雄別本線が廃線、小中学校も相次いで閉校となり、炭鉱と共に栄えた雄別はそれから数年を待たずして無住地区になりました。

 現在はわずかな遺構を残し、雄別地区は深い緑の森の中にあります。

 そして、雄別の歴史を語る数少ないモニュメントのひとつとして、この悲しい事故の慰霊碑が阿寒湖畔の寺の境内に今も静かに建っています。

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碑面(表)

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碑面(裏)