北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【様似町】省営バス火災事故殉難者慰霊碑

【様似町】「殉難碑」

事故発生年月日:昭和20年 3月21日

建立年月日:  昭和34年12月

建立場所:   様似郡様似町平宇

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(2014/6/10投稿)

 今回は昭和20年(1945年)に日高管内様似町で起こったバス事故の話です。

 まだ戦時中であった事もあり当時大きく報じられませんでしたが、それは30名もの乗員・乗客が死傷するという稀に見る大惨事でした。

 この時代、様似村(現・日高管内様似町)と幌泉村(現・同えりも町)間を往復する交通手段として省営バス(→国鉄バス→現JRバス)が重宝されておりました。 

 と言うのも、当時国鉄日高本線が様似までしか通じていなく、両村間を往来する人にとってはこのバス定期便が唯一の公共交通機関だったからです。

 日高本線は当初えりもを経由して最終的に帯広市まで延長される予定でしたが、断崖絶壁が続くその地形ゆえに結局計画は頓挫し、その後現在に至るまでただ一度もえりも町には鉄道が通る事はありませんでした。

 さて、この日3月21日昼時の様似では、折り返し運行する予定の幌泉発上り便の到着が遅れていたため、急遽用意された定員29名の代行バスに乗員乗客合わせて48名が乗り込み出発を待っていました。

 戦時中のガソリン不足対策として開発された木炭燃焼ガスを燃料とする「代燃車」が主力だった当時のバスは、故障がちの上その非力さゆえスピードも出ず、おそらく時刻表通りの運行が困難だったであろう事は容易に想像出来ます。

 またこの頃になると様似駅から旅立つ出征兵士を見送るために訪れる幌泉のバス利用客が増え、便数もそれほど多くなかった事から、その都度定員超過での運行が当たり前のように行われていたのでしょう。

 現代の感覚ではイメージがつかないエピソードが続きますが、更にこの路線においては乗客の他に軽量・簡易的な荷物をバスに便乗させ、代行運送する事が慣例化していました。

 鉄道がなく区間唯一の定期便であるがゆえの対応なのでしょう、その日も新聞・書籍の他、西隣りの浦河町の映画館から鉄道小荷物として様似まで運ばれた映画フィルム18巻が車内に持ち込まれています。

 かくして、満員の乗客と荷物を載せた「木炭バス」は幌泉へ向けて、”ゆっくり”と出発したのでした。

 ところが様似市街を発ってから幾分も経たない午後0時50分頃、その異変は平宇の集落を過ぎたあたりで不意に起きました。

 突然にして、運転席付近に置かれた積荷の映画フィルム入りブリキ缶が爆発し、辺りが炎に包まれたのです。

 当時の映画フィルムの危険性については『茶内慰霊塔』のエピソードでも触れた通りですが、実はこのブリキ缶、あろうことか運転士の手によって運転席脇のバッテリーの上に置かれていたため、その熱によってたちまち中のフィルムに引火したのでした。

 自分の隣で突然起こった爆発・炎上に驚いた運転士はハンドル操作を誤り、バスは対向車線と路肩を突き抜けて約1m下の浜辺に転落・横転して停まりましたが、火炎が燃え広がった満員の車内では車体が横転したがゆえに脱出もままならず、バスはさながら灼熱地獄と化しました。

 この様子はたまたま傍らで遊んでいた子供たちに目撃されており、彼らの通報によって駆け付けた近隣住民による救出活動が行われましたが、最終的には運転士を含む17名が死亡、13名が重軽傷を負うという悲惨な結果を招くに至ったのです。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 自らの不注意による積荷からの出火、運転操作ミスによる転落・横転と、もはや人災とも言える事故を起こした運転士の責任は大きいでしょう。

 ただ、映画フィルムの持ち込みもおそらくこの日が初めてではなかったと思われるので、その取り扱い方を知らなかったこの弱冠20歳の運転士はかなりの経験不足だったであろう事が想像出来ます。

 本来なら旅客自動車を運転するために必要な訓練・試験を受けないと取得出来なかった「就業免許制度」(今でいう2種免許)が戦時の人員不足対策として廃止され、当時は誰でも運転出来たという時代背景も無関係ではなかったと思います。

 歴史に”もしも”はないと言われますが、敢えて申せば、「もし幌泉発様似行きの上りバスが定刻通り到着していれば」この若い運転士が動かす代行便の出番もなかったし、あるいは「もし戦時中でなかったら」バッテリーが露出しているような粗悪な木炭バスが運行される事もなかったかも知れません。

 更に「もし幌泉まで鉄道が通っていたら」当然バス利用客も減っていたであろうし、そもそもフィルムがバスに持ち込まれる事もなかったでしょう。

 直接的なもののみならず、時代や地理的事情など様々な遠因が絡み合ったやるせない事故です。

 慰霊碑は事故が発生した地点、現在の国道336号線沿いの山側から海辺を眺めるように置かれています。

 省営バスから事業を引き継いだ国鉄様似自動車営業所によって事故から14年後の昭和34年に建立されました。

 その国鉄もとうになくなってしまいましたが、戦前の時代から続く由緒あるこのバス路線「日勝線」は現在JR北海道バスによって運用され、遂に鉄道が通じる事のなかった地域住民の「足代わり」として今も貢献しています。

 ただ、過疎化による人口減少やモータリゼーションの発達の影響で近年バスを利用する乗客数はめっきり減ってしまい、このままの流れでは将来における運行の大幅な縮小や、もしかすると存続自体すら危ぶまれる日がいつか訪れるかも知れません。

 あの時から変わらない海沿いに続く道の傍らから交通事情の変わりようをずっと見つめてきた碑は、その行く末を案じながら今日も目の前を通り過ぎるバスを見守っているのでしょうか。

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碑面(表)

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碑面(裏)