北海道慰霊碑巡礼の旅

~モニュメントから見る郷土史探訪~(はてな移植版)

【広尾町】地方費道帯広浦河線道路改良直営工事殉職者慰霊碑

広尾町】「殉職記念碑」

事故発生年月日:昭和 9年 3月14日

建立年月日:  昭和 9年 8月

建立場所:   広尾郡広尾町ビタタヌンケ

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 (2014/6/8投稿)

 北海道には通称「黄金道路」と呼ばれる道があります。

 それは日高管内浦河町から釧路市まで続く国道336号線の内の一部である、日高管内えりも町庶野(しょや)⇔十勝管内広尾町間の路線(総延長概ね30km)の事を指すのですが、その名の由来は当該区間道路建設に「まるで路面に黄金を敷き詰めたかのごとく」莫大な工費が投じられたところにあるそうです。

 観光スポットにもなっているこの地に訪れた事がある方はお分かりになると思いますが、一帯の地形は海岸線まで至る切り立った断崖絶壁が続いており、なるほどここに道路を通すためには相当の労苦と費用がかかったであろう事が窺えます。

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 遡れば江戸時代から始まるこの地の道路開削の歴史ですが、明治を経て大正時代になると安定した交通路の確保がいよいよ急務であるとして大規模な改修工事が計画・着手される事になりました。

 その後、工事反対派の地元漁民への説得など初動段階でつまづいたものの、やっと昭和2年(1927年)に着工されたこの工事は、割と順調に進捗したえりも側の区間に対して、開通を前にして最後かつ最大の難所を受け持つ「広尾側第6工区」で難航します。

 というのも、この工区には全17箇所のトンネルの内、半数以上の9箇所が集中しており、しかも当時の技術ではダイナマイトで硬い岩盤を爆破しながら少しずつ掘り進めるという気の遠くなるような作業を続けなければならないため工事が捗らず、結局完工は昭和9年(1934年)10月、延長7km弱のこの工区だけで3年以上工期を費やす事になりました。

 それでも悪戦苦闘の末数々の難関を突破し、開通に向けていよいよ大詰めの段階に入った工事でしたが、昭和9年3月14日、現場は予期せぬアクシデントに見舞われます。

 それまで好天だった現地では3月13日の夜半から突然降り出した雪があくる日になっても止む気配すらなく、一夜にして雪に埋もれた現場はとても工事を進める状況ではなくなってしまったのです。

 道内においてはもともと降雪量が少ないこの地域ですが、昭和9年当時の積雪の記録によると工事現場にほど近い広尾村音調津ではその年の最大(最深)積雪量が147cm(3月15日に記録)とありました。

 この数値は翌昭和10年のそれより100cm以上も多く、気象庁のデータが示すここ50年間の数値と比較してもかなり高いレベルである事から、その時いかに大量の雪が短期間に降り積もったのか容易に想像出来ます。

 さて、3月も中旬に入ってからのまさかの”豪雪”に困惑する現場でしたが、天候には勝てず、ひとまず作業員を土工部屋(工事詰所)にて待機させる事にします。

 土工部屋は建設現場近くに3棟設営されており、各棟では帯広土木事務所職員の他、作業員とその家族の合わせて60名が天候の回復を待っていました。

 中には”予定外の休憩”を心中で喜んだ者もあったかも知れません、しかしこの雪は”恩恵”ではなく”災厄”をもたらすものだったのです。

 大雪が降りしきる中、そして悲劇は午前11時40分頃に起こりました。

 頭上の山面で突然大規模な雪崩が発生、その直撃を受けた土工部屋2棟がたちまち倒壊し、逃げる間もなかった部屋内の人々が崩れた建物と圧雪の下敷きになってしまったのです。

 実は土工部屋はよりによって崖と言っても差支えない程の急斜面の直下にありました…しかし恐らく地形上そこ以外に設ける場所がなかったのでしょう。

 この状況において、恐ろしいスピードで斜面を下る雪崩にまともに飲み込まれた土工部屋などひとたまりもありませんでした。

 雪崩発生の原因としては、前述の通りここは積雪が少ない地域ゆえ山面を覆う「固い雪の下地層」が薄い状態であり、そこに湿った大量の雪が積もったため、その荷重に耐えきれなかった脆弱な下地ごと滑落したものと考えられます。

 3月に入り気温が比較的高かった事や、連日の”発破作業”による震動が下地層の剥離を知らず知らずに促進させていた可能性も否定出来ません。

 こうして思わぬ大災害に巻き込まれた現場では、唯一災禍を免れた土工部屋に居た人々によって懸命の救助活動が行われ、まだ息のあった人が埋もれた雪の中から次々と救出されています。

 2時間を過ぎると極端に生存率が低下すると言われる雪崩事故ですから、この速やかな救出劇がなかったら更に多くの人命が失われていたに違いありません。

 まさに自然の破壊力の凄まじさをまざまざと見せつけられたこの事故ですが、しかし無情にも悪夢はこれで終わりませんでした。

 一通りの救出作業に一応の目処がついた所で、人々がひとまず部屋に戻り一息ついていた時、あろうことか新たに発生した雪崩の第2波に襲われてしまったのです。

 もはやいつどこで大規模な雪崩が起こってもおかしくはない状況とはいえ、このあまりにも無慈悲な2次災害によって、つい先程まで生存者の救出に尽力した”功労者”の幾人までもが命を落とす事になり、最終的にこの一連の災害事故における犠牲者は18名(20名とも)を数えました。

 かくして、道路開削用としては道内で初めてダイナマイトを用いるなど未知の危険要素を多くはらむため”土木事務所直営”として慎重に進められたこの前例のない難工事は、最後の最後に至ってまったく想定外の天災により悲しい歴史を残す事となったのです。

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 多くの犠牲の上に完成したこの「黄金道路」、昭和9年11月3日には道路開通式と同時に慰霊祭が執り行われました。

 現在、えりも・広尾町境の国道沿いの駐車帯には、道路開削記念碑や全通記念碑とともにこの災害事故により命を落とした方々を偲ぶ慰霊碑が静かに建っています。

 完工直前の同年8月に碑を建立しているのは、開通を目前にして志半ばに無念の最期を遂げた仲間と一緒に完成を迎えたいという現場の意志の表れなのかも知れません。

 その後の「黄金道路」は幾度もの改良工事やルート変更が施され、現在では当時の面影を見る事がほとんど出来ませんが、先人達のまさに命を賭した苦闘の歴史の上に今がある事を忘れずにいたいものです。

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碑面

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碑文